極楽寺ヒビキ遺跡は奈良盆地南西部,金剛山の東麓に所在する。周辺では古墳時代中期から後期にかけての工房や倉庫群,大壁建物等を含む集落が営まれていたことが発掘調査によって明らかにされている。また,北東約3kmには南葛城地域最大の前方後円墳である宮山古墳が位置しており,文献上では葛城氏と深い関わりをもつ地域として重要視されている。
県営圃場整備事業にともなう2004年度の調査で,古墳時代中期前半の濠による区画と大型掘立柱建物をはじめとする遺構を確認した。
大型掘立柱建物は区画内の西側にある。身舎部分が2×2間で,四面に5×5間の縁が付き,さらに西と南の二面に6間分の柵が巡る。身舎には板状の柱が用いられていた。この建物は,柵に平行する南北約25m,東西約50mの掘立柱塀に囲まれる。これらめ諸施設は濠によって区画されていた。濠の幅は約13mあり,深さは約2mあったと考えられる。斜面には葺石が施されていた。この区画へは堤を渡って出入りしていたと考えられ,現状で確認できる堤は幅約8m,長さ約12mで,南に向けてハの字状に広がる。
遺物は少量ながら濠内,なかでも渡り堤が取り付く部分から集中して出土した。土器は須恵器に比べ土師器が多く,供膳具である高杯が目立つ。また,濠の埋土からは須恵器が出土しているのに対し,渡り堤と調査区西側の盛土内から出土した土器は土師器の高杯が中心で,須恵器は含まれない。
この大型建物を含めた区画は,出土遺物が少ないことや土器の主体を高杯が占めることから日常生活の場とは考えにくい。また,身舎部分に板状の柱を使用している例は少なく,建物の構造や性格を考える上で重要な成果である。これらのことから,大型建物を含めた区画は一般的な住まいというより祭儀や政務をおこなった公的な性格をもつ施設と考えられる。葛城地域における有力豪族の実像に迫る上で,きわめて重要な遺跡といえる。
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