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クエリ検索: "存思"
273件中 1-20の結果を表示しています
  • 坂出 祥伸
    人体科学
    1998年 7 巻 1 号 157-164
    発行日: 1998/05/30
    公開日: 2018/03/01
    ジャーナル フリー
  • 宮澤 正順
    印度學佛教學研究
    2004年 53 巻 1 号 190-197
    発行日: 2004/12/20
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
  • *中島 弘二
    日本地理学会発表要旨集
    2024年 2024s 巻 519
    発行日: 2024年
    公開日: 2024/04/19
    会議録・要旨集 フリー

    1.はじめに

     1970年代から1980年代前半にかけて沖縄島中部東岸の金武湾を舞台として展開された金武湾闘争は石油備蓄基地(CTS)建設および金武湾総合開発計画に反対する環境運動であると同時に,辺野古や高江などで展開されている基地反対運動へとつながる沖縄社会運動の原点と位置付けられるものである.近年の研究では,金武湾闘争がCTS建設や総合開発計画を狭い意味での開発問題や環境問題にとどめることなく,地域に生きる人々の生存と,それを可能とするコモンズの存立に関わる普遍的問題として提起した点にその意義を見出している.人類学の比嘉(2022)は近年の動物論的展開をふまえてこのような金武湾闘争における生

    存思
    想をさらに発展させ,ジュゴンや貝類などの人間以外の生き物と人間の生存維持の権利要求が重なる地点において展開される「生き方」としての基地反対運動に着目している.こうした視点は近年のマルチスピーシーズ民族誌とも重なり,人間とその他の生き物やモノとのつながりに着目する存在論的視点から環境運動を理解することの必要性を示している.そこで本発表では,このような存在論的視点から金武湾闘争を再検討し、その現代的意義と可能性を明らかにするとともに,先行して展開されていた水俣での運動との接点および生
    存思
    想の共通点を明らかにすることを試みる。

    2.金武湾闘争における「生

    存思
    想」

     1970年代初め,金武湾では米国ガルフ社による平安座島の石油備蓄基地建設、その見返りとしての海中道路の建設、そして沖縄三菱開発による新たなCTS建設計画といった一連の開発計画が矢継ぎ早に進められていた。こうした動きに対し,金武湾を守る会は1974年に「埋め立て取り消し訴訟」、1977年に「CTS建設の差し止め訴訟」を提訴した。『海と大地と共同の力』と題された2回目訴訟の準備書面では,金武湾沿岸の住民・漁民の沖縄戦中・戦後体験の聞き書きが詳細に記され,集落での畑の均等な配分や海アサリ(イザリ)による海産物の調達,芋とサトウキビなどによってかろうじて命をつないでいくことができたという極限状態における「生存」の状況が述べられている.金武湾闘争の生

    存思
    想は,このように海と大地のおかげで沖縄戦の極限状況を生き抜いてこられたという具体的な体験に根ざしたものである点が特徴である.

      金武湾を守る会の平良良昭は生

    存思
    想の特徴を以下の3点にまとめている.1)自然の生命系と人間の「生存」との不可分性,2)生計維持という意味での「生活」と「生存」の区別,3)民衆の生存を可能とするものは国家ではなく「海と大地と共同の力」である.ここには,人間と人間以外のさまざまなモノとの結びつきに着目する存在論的な視点とともに,そうした視点が有する政治的可能性が示されている.そして,その点こそがその後の反基地運動に結びついていったと考えられる.

    3.水俣とのつながり

     金武湾闘争はその始まりから四日市や水俣での公害被害に学び,また運動の過程で特に水俣から大きな影響を受けていた.金武湾と水俣の間では相互交流も行われており,例えば1981年6月にパラオ(ベラウ)より婦人代表を招いて「ベラウ・沖縄・水俣祈りの旅」を実施し,パラオの女性とともに金武湾を守る会のメンバーが水俣を訪れている.同年8月には水俣乙女塚で開催された第1回犠牲者慰霊祭に金武湾を守る会世話人の安里清信が参加した.その時のことを安里は次のように記している.「終りに石牟礼さんの読経供養がしめやかにあった.貝も,エビも,魚も,いかも,藻類も,乙女も,海もみな水俣病で生命を絶った.宵宮で私はその使者と生者の初対面をした」(安里 1981).

     その翌年1982年に今度は石牟礼道子が水俣から金武湾を訪れている.米軍の実弾演習で植生が破壊されて地肌が露出した恩納岳を見て,石牟礼は安里清信に言われた言葉を回想している.「樹と沖縄とは同じ生命体で結ばれていたんです,戦前までは.戦争で一本一本伐られて….水も樹から貰っていたんですよ.(中略)水と一緒に樹の精も貰っていたんです」(石牟礼 2006:95-96).ここには,石牟礼が『苦海浄土』において示した水俣病者を含めた命あるすべてのものとのつながりを取り戻そうとする存在論的な視点と共通する眼差しを見出すことができるだろう.

    4.おわりに

     金武湾闘争においてうみだされた生

    存思
    想は,人間と人間以外のさまざまなモノとの結びつきこそが沖縄戦の極限状況を生き抜くことを可能としたこと,それは国家に依存しない生存のあり方を提起するものであった.その点が,その後の反基地運動につながっていったと考えられる.また,金武湾闘争の過程で水俣との交流を通じて,それぞれの文脈は異なるものの,一定の共通性を有した生
    存思
    想を構築していったと考えられる.

  • 超文化哲学のカギとしての身体と超越
    桑野 萌
    人体科学
    2020年 29 巻 1 号 32-42
    発行日: 2020/07/15
    公開日: 2020/07/23
    ジャーナル フリー

    湯浅にとって比較思想とはどのような意味を持っていたのだろうか。また、それを通して何を明らかにしようとしたのか。この問いについて身体論に焦点を当て、人間のいのちの次元と密接につながっている超越への問いをめぐって、湯浅がどのように接近を試みているかを探りたい。湯浅の比較哲学の特徴は、単に既成概念やある特定の価値観から一方的に思想や思想家を評価するのではなく、思想史の全体像を観察することを通して、それらが成り立ってきた背景や体験の性質に着目する点である。本稿では、湯浅の比較思想研究の特徴と課題について次の二つの視点から明らかにしたい。第一に、湯浅の身体論発展の契機となった、近代日本哲学研究である。湯浅の思索の超文化性は、彼の師である和辻哲郎や西田幾多郎に代表される近代日本の哲学者から継承された遺産であるということができる。第二に、西洋の伝統思想と東洋の伝統思想に見いだされる超越をめぐる思考法(型) の比較である。湯浅は、それぞれの伝統文化のこの体験において築かれた超越観の成り立ちに着目し、その違いと共通性を探ろうとした。湯浅の身体論と超越の問題を軸に、比較思想の方法論を明らかにすることは、超文化哲学構築のカギとなることが期待される。

  • 〈生き方〉としての基地反対運動と命の民主主義
    比嘉 理麻
    文化人類学
    2022年 87 巻 1 号 044-063
    発行日: 2022/06/30
    公開日: 2022/12/08
    ジャーナル フリー

    本論は、沖縄県名護市辺野古の基地建設の進行に伴って、熾烈化する抗議行動の最前線で、心身に傷を負い、抗議に行けなくなった人びとが、新たに勝負できる領域を模索するなかで見出した、〈生き方としての基地反対運動〉とでも呼びうる動きを積極的に掬いあげる。現在生まれつつあるのは、狭義の政治運動におさまるものではなく、むしろ、政治の限界(代表政治と直接政治の双方の限界)を踏み越えて、〈生き方〉そのものとして展開される基地反対運動である。日本政府の暴力により、従来の運動の限界に立たされた人びとは、これまでの闘い方とは異なる形で、自らの生き方を通して変革の方途を切り出していく。それは、生活を丸ごと抱き込んだ運動の全面化であり、自らの生き方の社会運動化、とでも呼びうるものである。本論では、従来の「政治運動」で傷ついた人びとが、口にするようになった「これは、政治じゃない」という言葉に耳を傾け、基地反対運動を「非政治化」し、より広い領域を巻き込みながら、自らの〈生き方〉として展開する新たな基地反対運動を理解することを目指す。さらに本論では、ここでの生き方を、人間のみに限定せず、他の動物たちの生き方をも含み込むものとして、より広く捉える。そこから、基地建設によるかつてない規模の破壊によって、改めて交差する人間と動物たちの生を捉える視座を築いていく。

  • 河上 正秀
    新キェルケゴール研究
    2022年 2022 巻 20 号 17-34
    発行日: 2022/05/05
    公開日: 2022/06/30
    ジャーナル オープンアクセス
  • 岩崎 大
    医学哲学 医学倫理
    2010年 28 巻 10-18
    発行日: 2010/09/24
    公開日: 2018/02/01
    ジャーナル フリー
    In the recent trend toward patient's rights, a patient-centered approach has replaced paternalism as a professional-patient relationship. Medical staff organize a care construction based on four moral principles, namely respect for autonomy, beneficence, non-malfeasance, and justice. In particular for terminal care, patients who face their own death exhibit philosophical and religious anxiety. In medical care, this feeling is called spiritual pain. It is an existential, holistic issue that occurs in medical care. Existential philosophers claim that death limits human life though fear and anxiety. But the act of facing death can help human's find subjective truth in their lives. Jaspers thought that to find subjective truth we need existential communication in which there is no restriction and restraint. Existential communication that has a human-human relationship can be a construct of spiritual care and an aid in leading life on an individual basis.
  • ―自発動をめぐって―
    濱野 清志
    心身医学
    2021年 61 巻 6 号 516-521
    発行日: 2021年
    公開日: 2021/09/01
    ジャーナル フリー

    本稿は,中国に古来から伝承された気功を身心医学に活用しようとするための序論と呼ぶべきものとなっている.気功は導引,吐納,静定,

    存思
    ,内丹の5つにその鍛錬領域に応じて分類できるが,現代の気功は最初の3つに焦点を絞って,誰でも活用できる健康増進の技術として紹介されている.しかし,気功の本質は
    存思
    や内丹へと進み,とりわけ内丹における自発動の活用に隠されているということができる.ここでは自発動について私見を述べ,その可能性を検討した.

  • 日本教育学会大會研究発表要項
    1967年 26 巻 120-
    発行日: 1967/08/01
    公開日: 2018/04/20
    研究報告書・技術報告書 フリー
  • 田端 健人
    教育社会学研究
    2018年 102 巻 103-124
    発行日: 2018/05/31
    公開日: 2020/03/13
    ジャーナル フリー

     本稿は,さまざまな語りに注目することで,震災後の地域と若者の諸様相を叙述することを試みる。震災と地域の関係を考えるために,まず,外国人記者によって書かれた石巻市立大川小学校津波被害に関するノンフィクションをとりあげる。同小学校では,2011年3月11日に発生した巨大津波によって,避難中の74名の児童と10名の教師の命が奪われた。教師たちはなぜ,子どもたちを裏山に避難させなかったのか。この問いに迫る関係者の複数の証言は,これまで一般にはアクセス困難であった。ところが,このノンフィクションで,著者は,独自取材にもとづく多くの証言を公表しており,児童たちを校庭に留めるよう促す積極的な働きかけが,教頭に対してなされていたことを指摘している。本書によれば,教頭は,自らの意思に反し,地域の地区長と住民たちに従ったとされる。この出来事を,本稿は,伝統的な地域の問題として解釈し,こうした地域社会の本質構造を,コミュニティ構成員の権力勾配,ならびに,平等と差異を前提条件とする自由な話し合いの乏しさとして考えたい。
     ただし,津波に襲来された他の学校に目を転じれば,対照的な事例も見られる。そこで,災害前に校長,教師,地区長が対等な立場で,異なる経験と考えを語り合い,それを実践に移していた事例を紹介する。こうした事例では,事前の話し合いと実行が,結果として,災害に対する抵抗力を高めることになった。
     話し合いと実践という観点から,本稿は,地域の若者という次のテーマに進む。震災後に目を引くようになった現象の一つとして,若者たち,ときに小学生さえもが,災害の証言者として,あるいは語り部として,自らの被災体験を公の場で語りはじめたことがある。本稿では,10代の語り部たちを紹介し,その語りに耳を傾けよう。そうすることで,若者たちがなぜ,自らの悲痛な体験を語らないではいられないのか,被災地の若者たちに何が起きているのかの理解を深めたい。若者たちの誠実で,深みをたたえた静かな語りから明らかになるのは,背負わなくてもよいはずの罪悪感である。「避難してきた住民を自分は助けられなかった。」「祖父は,私が学校から帰るのを待っていたから,海に近い自宅で津波の犠牲になった。」こうした若者たちの語りは,単に感情やストレスの発散ではなく,経験の断片的な寄せ集めでもなく,ましてや今後の減災に向けた教訓にとどまるものでもない。そうではなく,呵責ない現実に曝された若者たちの唯一無比な実存を分有しようとするアクションであり,その宛先は,いまだ災害に遭遇していない他の地域の人びと,あるいは違った境遇で危機を経験した異なる人びとへと向けられている。
     こうした語りの活動が,潜在的あるいは顕在的に希求しているのは,身体的,情緒的,知的に安心安全な場所であり,被災した地元を超え出て,お互いに安心して話ができ,自分とは異なる経験や考えに耳を傾け合う場所である。自らの被災体験を語る現地の若者たちが教えてくれているのは,こうした場所こそ「学校」と呼ばれるべきであるということかもしれない。なぜなら,「学校(school)」という語は,古代ギリシア語「スコレー(σχολή)」に由来し,それは本来,ものごとをゆっくり考え,真実を求めて語り合い吟味するための閑暇,忙しさから解放される聖日を意味するからである。

  • 中里 巧
    宗教研究
    2015年 88 巻 Suppl 号 233-234
    発行日: 2015/03/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
  • 須藤 孝也
    宗教研究
    2015年 88 巻 Suppl 号 232-233
    発行日: 2015/03/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
  • シェリング年報
    1996年 4 巻 133-
    発行日: 1996年
    公開日: 2022/12/15
    ジャーナル オープンアクセス
  • 福井 康順
    密教文化
    1960年 1960 巻 48-50 号 5-18
    発行日: 1960/11/25
    公開日: 2010/03/12
    ジャーナル フリー
  • 村山 達也
    哲学
    2009年 2009 巻 60 号 279-293_L17
    発行日: 2009年
    公開日: 2010/11/09
    ジャーナル フリー
    Le but de cet article est de dégager de l'Essai sur les données immédiates de la conscience de Bergson, non pas son ontologie et son épistémologie à l'état d'achèvement, mais sa vision plus primitive sur la réalité et la connaissance. Bien que la vision qui s'y trouve soit en quelque sorte rudimentaire, ce livre constitue néanmoins un cas privilégié en ce qu'il est le premier livre majeur de Bergson où celui-ci n'expose pas encore sa propre théorie de l'intuition, qui est présentée dans l'Introduction à la métaphysique et travaille parfois comme un écran qui nous cache le bergsonisme.
    Nous procédons par l'analyse de l'attitude bergsonienne face aux problèmes philosophiques. La position et la résolution des problèmes philosophiques révèleraient non seulement les idées que celui qui le pose et résout a de l'objet questionné, mais aussi les thèses générales qu'il se fait sur la réalité, la connaissance et leur rapport. Au début, nous extrayons de l'Avant-propos de ce livre le paradoxe de la solution du problème mal posé, analogue à celui de Ménon. Ensuite nous interprétons successivement les antinomies qu'a formulées Bergson et les contradictiones in adjecto, ou les«grossières images», qui ont engendré ces antinomies. Nous mettrons ainsi au jour les travaux à faire pour faire s'évanouir les antinomies et créer une solution unique. Nommément, la critique du postulat commun et l'invention, à travers la dialectique aristotélicienne, des images nouvelles qui sont naturellement précises.
    À la fin de cet article, nous tirerons des analyses ci-dessus plusieurs thèses sur la tendance rationaliste, la valeur de l'immédiat et le statut de la réalité dans le bergsonisme.
  • 桑野 萌
    人体科学
    2015年 24 巻 1 号 72-74
    発行日: 2015/05/30
    公開日: 2018/03/01
    ジャーナル フリー
  • 全体の展望と課題
    橋本 淳
    日本の神学
    1988年 1988 巻 27 号 9-24
    発行日: 1988/09/15
    公開日: 2009/10/23
    ジャーナル フリー
  • 長島 隆
    シェリング年報
    1996年 4 巻 120-
    発行日: 1996年
    公開日: 2022/12/15
    ジャーナル オープンアクセス
  • 松丸 啓子
    日本教育学会大會研究発表要項
    1993年 52 巻 42-
    発行日: 1993/08/24
    公開日: 2018/04/20
    研究報告書・技術報告書 フリー
  • 久保 陽一
    ヘーゲル哲学研究
    2007年 2007 巻 13 号 42-43
    発行日: 2007/12/15
    公開日: 2010/12/16
    ジャーナル フリー
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