1. 目的と方法
1996年、ネパールではネパール共産党毛沢東主義派のマオイストが、政府を相手に「人民戦争」と呼ばれる武装闘争を開始した。以来、2006年の停戦に至るまで国内では民間人を含め、13000人以上もの犠牲者が出た(小倉2007)。この問題に対し、政治学や人類学の分野では政党政治、民族運動などの観点からの研究もあるが(Hutt 2004)、長引く紛争が村落社会にどのような影響を及ぼしたのかに関しては、まだ非常に限られた報告しかない(cf.八木ほか2006, 南 2008)。
発表者は、内戦終結後の2006年と2008年、かつて調査した場所を広域に歩くことができた(cf.渡辺2007, 2009)。発表では、おもに2つの調査地を再訪した結果をもとに、山村の社会変化について素描する。対象とするのは東ネパールのサガルマータ県にあるソルクンブー郡とオカルドゥンガ郡である。マオイストの活動は西ネパールからはじまり、全国規模に展開していった。ソルクンブー郡では2001年、オカルドゥンガ郡では2002年に大規模な襲撃事件が起きている。軍隊の駐屯するのは郡役所や飛行場のある町周辺だけであり、それ以外はマオイストが巡回してくる地域だった。
2. 結果
変化の結果をまとめると、以下の通りである。1.マオイストの巡回する村落部では、マオイストから要求される献金を嫌がり、家族で都市に移住した人がみられた。これをある村人は「マオイストが追い出した」といっていた。そして留守宅にはかつては下働きをしていた別の人が家賃を支払って住んでいた。また、海外に出稼ぎにゆき、その資金を元手に荷役業をはじめる人もいた。2.軍隊の駐屯する町では、マオイストが献金に来ることは少なかったが、海外出稼ぎも増加している。また村人のなかには、首都で出稼ぎ斡旋会社を経営する人も現れた。首都への移住者も増えたが、女性や老人が村の家に残るケースも見られた。
3. 考察と結論
結局、東ネパールの調査地に関する限り、マオイスト問題は山地のグローバル化を加速させたといえる。治安の悪化により、中間層はカトマンズに、そうでない人は海外出稼ぎに出て行った。調査地域はどちらも90年代にはすでに出稼ぎや首都への移住がさかんな地域だった。このため、これらの現象はマオイスト問題によって生じたことではないが、その規模はこの10年の間に拡大し、ますます組織的に送り出すようになったといえる。
引用文献
Hutt,M.2004.Himalayan People’s War. Bloomington & Indianapolis: Indiana University Press.
小倉清子
2007.『ネパール王政解体』NHKブックス.
八木浩司・熊原康宏・長友恒人・前杢英明2006.フムラ・カルナリ紀行―切り捨てられた領域・ネパールマオイスト支配地域を行く(前後編).地理51(10):104-110, 51(11):98-105.
南真木人編2008.マオイスト運動の人類学.民博通信122:1-17.
渡辺和之2007.流動する羊飼い.地理52(3):50-58.
渡辺和之2009.『羊飼いの民族誌』明石書店.
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