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クエリ検索: "小倉清子"
8件中 1-8の結果を表示しています
  • ネパールにおけるマオイストの変貌
    小倉 清子
    地域研究
    2015年 15 巻 1 号 83-101
    発行日: 2015年
    公開日: 2021/11/30
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  • 廣畑 伸雄
    MACRO REVIEW
    2017年 29 巻 1 号 5-8
    発行日: 2017年
    公開日: 2017/09/27
    ジャーナル フリー
    ネパール大地震は、2015年4月25日に、同国の首都カトマンズ市に隣接するガンダギ県を震源地として発生し、マグニチュード7.8を記録した。その後も余震は続き、5月12日にはマグニチュード7.3の地震が発生した。カトマンズ盆地はもともと地盤が軟弱であり、レンガ積みなど耐震性の低い脆弱な建物が多いことから、歴史的建造物を含む多くの建物が崩壊するなど甚大な被害を被った。また、死者数は8,460人と報告されている。このネパール大地震から2年を経過しているが、インフラの復旧、崩壊建物の除去・再建などの作業は遅れているのが実情である。本稿においては、この災害復旧作業が遅れている要因を、特に同国の、①政治問題、②民族問題、③地理的要因と経済問題などの総合的視点から明らかにする。
  • 総特集「グローバル・アジアにみる市民社会と国家の間──危機とその克服」を読んで
    山本 信人
    地域研究
    2015年 16 巻 1 号 296-300
    発行日: 2015年
    公開日: 2021/11/30
    ジャーナル フリー
  • 二一世紀のアジア研究
    竹中 千春
    地域研究
    2015年 15 巻 1 号 8-16
    発行日: 2015年
    公開日: 2021/11/30
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  • 東ネパールにおける海外出稼ぎと都市移住者の増加
    *渡辺 和之
    日本地理学会発表要旨集
    2009年 2009s 巻 P0936
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
    会議録・要旨集 フリー
    1. 目的と方法
     1996年、ネパールではネパール共産党毛沢東主義派のマオイストが、政府を相手に「人民戦争」と呼ばれる武装闘争を開始した。以来、2006年の停戦に至るまで国内では民間人を含め、13000人以上もの犠牲者が出た(小倉2007)。この問題に対し、政治学や人類学の分野では政党政治、民族運動などの観点からの研究もあるが(Hutt 2004)、長引く紛争が村落社会にどのような影響を及ぼしたのかに関しては、まだ非常に限られた報告しかない(cf.八木ほか2006, 南 2008)。
     発表者は、内戦終結後の2006年と2008年、かつて調査した場所を広域に歩くことができた(cf.渡辺2007, 2009)。発表では、おもに2つの調査地を再訪した結果をもとに、山村の社会変化について素描する。対象とするのは東ネパールのサガルマータ県にあるソルクンブー郡とオカルドゥンガ郡である。マオイストの活動は西ネパールからはじまり、全国規模に展開していった。ソルクンブー郡では2001年、オカルドゥンガ郡では2002年に大規模な襲撃事件が起きている。軍隊の駐屯するのは郡役所や飛行場のある町周辺だけであり、それ以外はマオイストが巡回してくる地域だった。
    2. 結果
     変化の結果をまとめると、以下の通りである。1.マオイストの巡回する村落部では、マオイストから要求される献金を嫌がり、家族で都市に移住した人がみられた。これをある村人は「マオイストが追い出した」といっていた。そして留守宅にはかつては下働きをしていた別の人が家賃を支払って住んでいた。また、海外に出稼ぎにゆき、その資金を元手に荷役業をはじめる人もいた。2.軍隊の駐屯する町では、マオイストが献金に来ることは少なかったが、海外出稼ぎも増加している。また村人のなかには、首都で出稼ぎ斡旋会社を経営する人も現れた。首都への移住者も増えたが、女性や老人が村の家に残るケースも見られた。
    3. 考察と結論
    結局、東ネパールの調査地に関する限り、マオイスト問題は山地のグローバル化を加速させたといえる。治安の悪化により、中間層はカトマンズに、そうでない人は海外出稼ぎに出て行った。調査地域はどちらも90年代にはすでに出稼ぎや首都への移住がさかんな地域だった。このため、これらの現象はマオイスト問題によって生じたことではないが、その規模はこの10年の間に拡大し、ますます組織的に送り出すようになったといえる。
    引用文献
    Hutt,M.2004.Himalayan People’s War. Bloomington & Indianapolis: Indiana University Press.
    小倉清子
    2007.『ネパール王政解体』NHKブックス.
    八木浩司・熊原康宏・長友恒人・前杢英明2006.フムラ・カルナリ紀行―切り捨てられた領域・ネパールマオイスト支配地域を行く(前後編).地理51(10):104-110, 51(11):98-105.
    南真木人編2008.マオイスト運動の人類学.民博通信122:1-17.
    渡辺和之2007.流動する羊飼い.地理52(3):50-58.
    渡辺和之2009.『羊飼いの民族誌』明石書店.
  • 東ネパール、オカルドゥンガ郡におけるマオイスト運動の軌跡
    *渡辺 和之
    日本地理学会発表要旨集
    2010年 2010s 巻 P925
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/06/10
    会議録・要旨集 フリー
     1996年、ネパール共産党の毛沢東派(以下マオイスト)は、政府に対して武力闘争を開始した。以来、2006年の停戦に至るまでの10年間で民間人を含め、13000人もの犠牲者を出した(小倉2007)。
     マオイスト運動は、ネパールのなかでも中西部のロルパ郡やルクム郡に端を発し、2000年前後から全国展開した。たとえば、東ネパールでも、2001にはソルクンブー郡のサレリで郡役所長が殺され、2002年にはオカルドゥンガ郡のルムジャタールで国軍のキャプテンが殺されるなど、大規模な襲撃事件が起きている。ただし、それらの事件を伝える報道記事のほとんどは政府発表の情報をもとにしており、マオイスト側の情報は限られていたが、2006年の停戦以降、マオイストは首都や地方の郡庁所在地のある町に政党事務所を構え、公然と政治活動をするようになった。
     発表者は、2008年にオカルドゥンガ郡にあるマオイストの政党事務所を訪ね、聞き取りをすると同時に、内戦の犠牲者に関するリストを入手することができた。このリストは内戦によるマオイスト側の犠牲者に対する補償を政府から要求する目的で作られたものである。
     オカルドゥンガ郡の政党事務所はこれをもとに『オカルドゥンガの戦士たち』という犠牲者を追悼する本を出版した。本のなかには、マオイスト側の犠牲者(死者、行方不明者)1人1人に対し、1頁以上を割き、死亡年月、死亡地などのほかに、本名、民族集団、党内での通称、出身地、生年月日、学歴、入党した年、党内における役職、死亡時の状況などの情報が書き込まれており、どのような人がマオイストになり、犠牲者になっていったのかを示す資料となっている。
     この本の記述を分析したところ、次のことがわかった。犠牲者の民族集団・カーストにでは、高カーストがもっとも多く、中間カースト(チベット=ビルマ語系の民族集団)や低カーストはあまり多くなかった。これは郡内の人口構成とほぼ等しい。また、男女比でいうと、男性8割に対し、女性が4割だった。死亡時の年齢では、15歳から25歳の間に集中しており、女性の場合、15-19歳、男性の場合は、20-24歳が最も多かった。学歴では小学校から数えて7-9年がもっとも多いが、人民解放軍の将校や政治部門の活動家には10年以上や大学卒業者も含まれており、その一方で人民解放軍の兵卒には未就学の人が多くみられた。マオイストに入党した年は、2001年以降に急増している。死亡した年では、1999年まではゼロで、2000年以降急増し、政党部門では2002年、人民解放軍では2004年にピークを迎えている。
     次に、マオイストの郡事務所で活動する幹部に聞き取りをした所、2000年頃から政党に対する弾圧が厳しくなり、マオイストに転向する人が増えたこと、また政治とは全く無縁だった人が政府の治安部隊に捜査や拷問を受けたり、家族や親族を殺されてマオイストになった人がいたことがわかった。

    文献
    小倉清子
    2007『ネパール王制解体』NHKブックス
    オカルドゥンガ郡マオイスト政党事務所2008『オカルドゥンガの戦士たち』(ネパール語)
  • 近藤 則夫
    アジア経済
    2002年 43 巻 12 号 30-52
    発行日: 2002/12/15
    公開日: 2023/03/29
    ジャーナル フリー
  • 近藤 則夫
    アジア経済
    2002年 43 巻 11 号 24-64
    発行日: 2002/11/15
    公開日: 2023/03/29
    ジャーナル フリー
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