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クエリ検索: "山田才吉"
11件中 1-11の結果を表示しています
  • *林 泰正
    日本地理学会発表要旨集
    2017年 2017a 巻 301
    発行日: 2017年
    公開日: 2017/10/26
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
    本研究の目的は,川舟の貨客輸送手段としての利用の衰退に伴い,川湊の近辺がどのように変容したかを明らかにすることである.日本における近代は,新たな交通手段がわずかな期間に立て続けに登場した時代である.そのような中で河川交通は,最終的には鉄道や自動車に取って代わられる形で衰退していった.本研究では,河川交通が衰退・縮小していく時代において,むしろ発展した川湊の事例として,木曽川中流部の土田湊(岐阜県可児市大字土田字大脇の一部地域)に注目する.そして,同湊の土地所有の変遷と土地利用の変化とを,土地台帳を用いて分析する.
    土田湊は,木曽川と愛岐丘陵とが交わる地点に位置する.土田湊の北側には木曽川,南側には鳩吹山が迫っている.このような半ば外界と隔絶されたような地形を有していることに加えて,土田湊の場合は,渡船も存在しなかった.
    鉄道の整備とともに,日常の貨客を運搬する手段としての川舟は,木曽川においては観光遊覧船などへと姿を変えていった.土田湊は,名古屋市内在住の資本家である
    山田才吉
    によって,木曽川中流部の中でもいち早く観光遊覧船の拠点として整備された.

    2.土田湊における土地利用変化と土地所有変遷
    土地台帳に記載されている地価から算出した,土田湊の各地筆が有する土地生産性には,東高西低の傾向がみられた.具体的には,土田湊中央部を南北に分断する山座川より西側の地筆は,山座川より東側と比べて,課税上の土地生産性が低く査定されていた.近代を通じて,山座川より東側は主として在地地主によって安定的に畑が所有され続ける傾向がみられた.一方で山座川より西側では,非在地地主によって所有され,時に流動的な土地所有が展開された.
    山座川より西側の地筆のうち,船着場直近の地筆は,1900年頃に名古屋あるいは岐阜在住の人物によって「雑種地・製氷場」へ地目変更された.この土田湊の製氷場は,名古屋あるいは岐阜の製氷業者が自身で販売する天然氷を製氷し,木曽川を利用して運搬していたと推察される.
    1924年には山座川から西側を中心として,
    山田才吉
    による大規模な用地取得が行われた.
    山田才吉
    所有地では広場あるいは遊歩道と思われる箇所について「雑種地・遊園地」への地目変更が行われたほか,前述の急傾斜地を含めた多くの地筆で「宅地開墾」登記が行われた.「宅地開墾」登記が行われた地筆は通常の宅地造成には極めて不向きな地形であることから,なんらかの観光施設あるいは別荘地としての開発を計画していた可能性がある.
    この
    山田才吉
    所有地は1941年には近傍に立地する軍需企業K社の所有地となり,企業保養所のような利用がなされた.この東京に本社所在地を有するK社は,陸海軍機の部品などを製造していた.やがて太平洋戦争末期になると,土田湊の北向き斜面を利用した地下軍需工場の建設も計画されていた.
    山田才吉
    に関係する企業が土田湊から撤退してからは,土田湊の直近の集落に居住する人物が事業を引き継いだようである.この人物は,
    山田才吉
    所有地の所有権がK社へ移った同年に,山座川東側の一部の土地の所有権を得た.この所有権取得は,従来の船着場付近がK社の所有地となったためと考えられる.

    3.おわりに
    本研究で対象とした土田湊では,製氷場や観光開発,軍需工場計画など,それぞれの時代における新たな土地利用は,課税上の土地生産性が低い山座川西側において非在地地主によって展開された.他方,土地生産性が高い山座川東側では在地地主による農業が継続される傾向がみられ,在地地主による土地所有構造に与えた影響は限定的であった.
  • 林 泰正
    人文地理
    2019年 71 巻 1 号 29-51
    発行日: 2019年
    公開日: 2019/04/23
    ジャーナル フリー

    本研究の目的は,近代における川舟による河川利用の変化と,それに伴う地域変容を明らかにすることである。とくに,前近代的な交通網から近代的な交通網への変化に伴う資本の流入に注目した。本研究では,第一に,木曽川中流部における川舟による河川利用の形態が鉄道の導入などに伴ってどのように変化したかを明らかにした。そして第二に,木曽川中流部の川湊である土田湊を対象として,具体的な土地利用および土地所有の変化を分析した。土田湊は,近代に地方が経験したあらゆるインパクトが詰まった地域だった。川舟が実用的な交通手段として使われていた1900年代には都市で消費される天然氷を生産する製氷場が立地した。木曽川中流部の川舟は,1910年代以降,実用的な交通手段としての役割を徐々に失っていった。その一方で1920年以降,川舟は,名古屋資本の影響下で観光資源へと転用された。さらに,1940年代に土田湊は川舟とは関係の無い東京資本の軍需企業によって所有された。以上のように,本研究は,木曽川中流部における交通網の変化に伴う資本流入と土地利用変化とをより詳細に明らかにすることができた。

  • 池永 正人
    新地理
    2012年 60 巻 3 号 29-41
    発行日: 2012年
    公開日: 2023/02/15
    ジャーナル フリー
    In diesem Bericht beleuchtet der Autor, vom Standpunkt der Unzen Touristenattraktionen aus, die gegenwärtige Situation des Schutzes und die Probleme der Miyamakirishima-Pflanzenpopulationen (Kyushu-Zwergazalee bzw. Rhododendron Kiusianum) des Mt. Unzen, welche gerade im Frühling viele Touristen anziehen. Die Ergebnisse finden Sie in diesem Abstrakt zusammengefasst.  Die Blütezeit der Miyamakirishima beginnt Ende April. Sie blüht zunächst in der Umgebung der Unzen Jigoku (Unzen Hölle, eine heiße Quelle). Anfang Mai steht sie dann im Hobaru- und im Ikenohara-Park in voller Blüte. Was die Gebiete anbelangt, die weit über dem Meeresspiegel liegen, so blüht sie zunächst in der Zeit um den 20. Mai im Gebiet des Nita-Passes und bis Anfang Juni kann man die Blüte auf den Berggipfeln des Myokendake, des Kunimidake und des Fugendake bewundern. Im Jahr 1928 wurden die Miyamakirishima-Felder des Ikenohara-Parks, welcher in der Nähe von Bad Unzen liegt, zum Naturkulturdenkmal des Landes ernannt.  Bereits in der Edo Zeit, im Jahr 1693, ließ der Daimyo (Lehnsherr) von Shimabara Tadafusa Matsudaira eine Nummerierung der Berge durchführen und Schilder zum Schutz des Waldes, der heißen Quellen und der Miyamakirishima-Populationen aufstellen. Zudem verbrachte seit der Meiji-Zeit die ausländische Stadtbevölkerung aus Nagasaki und Shanghai ihre Sommer in der Unzen Region. Diese Ereignisse bilden die Grundlage des Naturschutzes im Gebiet des Mt. Unzen. Im Jahr 1911 wurde der Unzen Park der Präfektur Nagasaki und im März 1934 der Unzen Nationalpark, welcher der erste Nationalpark Japans war, errichtet. Dadurch wurde auch der gesetzliche Schutz der Miyamakirishima- Pflanzenpopulationen festgelegt. Das Umweltministerium und die Präfektur Nagasaki finanzieren die dazu notwendigen Programme gegenwärtig gemeinsam.  Die lokale Bevölkerung, welche im Jahr 1965 den „Verband der Unzen Verschönerung“ gründete, beschäftigt sich ebenfalls mit dem Schutz der Miyamakirishima-Populationen und mäht das Gras in und rund um die Felder. Da diese Pflanze im Schatten nur bedingt gut blühen kann, ist es also notwendig im Herbst rund um die Felder das Gras zu mähen, damit die Blüten im Frühling blühen können. So findet jeden Herbst in der Präfektur Nagasaki eine große Mähaktion für den Erhalt der Miyamakirishima statt. Diese Mähaktion des „Verbands der Unzen Verschönerung“ beschränkt sich allerdings auf den Ikenohara-Park.  Der Erhalt der Miyamakirishima-Populationen steht folgenden Problemen gegenüber: den Überresten der eingegangen und alten Pflanzen, der Bedrohung durch Wildschweine und schädliche Insekten, aber auch der Abnahme der lokalen Bevölkerung, welche sich an den Mähaktionen beteiligen. Der letzte Punkt ist eine Folge der Überalterung der japanischen Bevölkerung.
  • 堀田 典裕
    日本建築学会計画系論文集
    1995年 60 巻 478 号 169-177
    発行日: 1995/12/30
    公開日: 2017/01/27
    ジャーナル フリー
    This paper is an attempt to analyze the evoluting process and the spatial characteristics of Dohtoku residential quarter in Nagaoya. Rice fields reclaimed in the Edo era were developed by Nagoya-sanbashi-soko Inc. in the early Showa era as the residential quarter for the workers of the factories around Nagoya Port. Although a licensed area was included in the preliminary plan, it was changed into the waterfront amusement park by the direction of the Town Planning Committee of Aichi Prefecture. Around this big park and five small parks, the streets were arranged in a partially radiating pattern.
  • 松田 勝三, 吉田 修治
    環境問題シンポジュウム講演論文集
    1984年 12 巻 46-51
    発行日: 1984/08/23
    公開日: 2010/03/17
    ジャーナル フリー
  • 宮島 郁夫, 黒瀬 克之, 松田 鹿徳, 上本 俊平, 坂田 祐介
    園芸学会雑誌
    2001年 70 巻 1 号 108-114
    発行日: 2001/01/15
    公開日: 2008/01/31
    ジャーナル フリー
    九重, 阿蘇山系およびその周辺地域におけるミヤマキリシマの花器の形態と花弁内フラボノール構成の変異を調査した.九重山系の個体群は純粋なミヤマキリシマの形質を備えており, これらの分布には強風, 強酸性土壌および火山性ガスの噴出等が影響しているものと考えられた.由布岳および阿蘇山系のミヤマキリシマもほぼ純粋な形質を示した.この理由として, 由布岳では夏緑林で, また, 阿蘇山系では平野部によって, ミヤマキリシマと他の野生ツツジ類の分布が分断されているためと思われた.万年山の個体群は花色の変異に富み, 花弁のブロッチも明瞭な個体が多かった.また, 花弁内フラボノール構成も変異に富んでいた.このことから, これらはミヤマキリシマとヤマツツジとの自然交雑集団であると推察された.
  • 宮島 郁夫, 上本 俊平, 坂田 祐介, 有隅 健
    園芸学会雑誌
    1995年 64 巻 2 号 393-399
    発行日: 1995年
    公開日: 2008/05/15
    ジャーナル フリー
    雲仙山系のミヤマキリシマとその関連の野生ツツジ類の花器の形質ならびに花弁内フラボノール構成を調査した.
    本山系の山頂部では小輪で紫色の花色を持ち, 花弁にプロッチが認められない純粋なミヤマキリシマが多かった. これらの個体の花弁には5-メチルフラボノールが多量に含まれていた.
    一方, 山腹部のツツジは花色, 花径の変異に富み,花弁のプロッチも明瞭な個体が多かった. これらの個体では花弁内フラボノール構成も様々であり, ミヤマキリシマとヤマツツジとの自然交雑集団であることが強く示唆された. 地獄地帯は標高が低いにもかかわらずほほ純粋なミヤマキリシマが自生していたが, これは生育環境の特異性によるものと推察された. また,九千部岳と吾妻岳の集団ではヤマツツジの影響が強く認められたが, これは火山活動後の植生の遷移によるものと思われた.
  • 小林 伸雄, 半田 高, 高柳 謙治, 有隅 健一
    農業生産技術管理学会誌
    2003年 10 巻 2 号 143-147
    発行日: 2003/11/15
    公開日: 2019/04/16
    ジャーナル フリー
    常緑性ツツジ園芸品種,江戸キリシマ,クルメツツジおよびミヤマキリシマの各品種について,霧島山系野生ツツジ集団の解析で得られた葉緑体DNAのPCR-RFLPマーカーを用いて分析を行い,その結果と野生種のDNAパターンとの比較から,野生種から各園芸品種群が成立する過程と園芸品種の起源種について推察した.大半の江戸キリシマおよびクルメツツジの品種がヤマツツジ型のパターンを示し,これらの品種群の成立における純系と考えられるミヤマキリシマの関与に関しては,従来考えられていたより少ない可能性が指摘できた.また,自生地より選抜されたミヤマキリシマの園芸品種では野生集団の分析結果を反映したDNAパターンを示した.
  • 燃料協會
    燃料協会誌
    1937年 16 巻 6 号 597-619
    発行日: 1937年
    公開日: 2010/06/28
    ジャーナル フリー
  • 西村 公宏, 飯淵 康一, 永井 康雄
    日本建築学会計画系論文集
    2005年 70 巻 587 号 207-214
    発行日: 2005/01/30
    公開日: 2017/02/11
    ジャーナル フリー
    By this study, We paid our attention to an intention of the public presentation in the Marine Biological Station Aquarium attached to Tohoku Imperial University. The aquarium was the building that the arch which continued stood out. The inside consisted of it from a hall, an aquarium and a museum. We can consider that these designs were done for an exhibition. The aquarium was popular and, in addition to the spread of education, was useful for local promotion. Shinkishi HATAI and Tsuyoshi OGURA were related to the design of an aquarium. The design was influenced of an pavilion of Tokyo peace exhibition and an aquarium of Amsterdam.
  • 石山 洋, 大森 一彦
    科学史研究
    1987年 26 巻 164 号 233-288
    発行日: 1987年
    公開日: 2021/09/21
    ジャーナル フリー
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