本稿では、大正・昭和戦前期に興った様々な学問的潮流のなかのひとつである「社会学的法律学」を、現代法学に繋がる重要な潮流として捉え、そのなかの代表的人物である家族法学者穂積重遠に注目する。穂積重遠はその当時において、東京帝国大学法科大学で教鞭を執る傍ら、臨時法制審議会での民法改正作業をはじめとする立法活動や東京帝国大学セツルメントなどの社会事業にも携わった人物である。こうした多方面にわたり活躍する重遠の家族法理論を捉えるためには、従来の学説研究に見られる彼の著書や論文のみからの分析だけではその実相に迫ることが十分に出来ない。そこで、彼の法理論を支えた、彼の立法活動や社会事業活動も含めて把握することが必要不可欠であると考える。また重遠には、様々な人物との協力関係のもとで学問の成果の具現化を図る傾向も見られるため、人物交流という観点からも考察を行っていく必要があるだろう。
以上の問題認識のもと、本稿では、昭和八年制定の児童虐待防止法をめぐる重遠の活動を一例として考察することで、少年時代における更生保護の父・原胤昭との出会いが社会事業へ関心を抱くようになったきっかけとなり、その後、原が取り組んでいた事業のひとつである児童虐待防止事業をなかば引き継ぐようなかたちで、内務省社会局での「児童虐待防止法に関する法律案要綱」の制定や児童擁護協会での社会事業に携わったことを明らかにした。また、児童虐待防止法の制定において大きな障壁となった「親権」について、その制限が法律や勅令であっても出来るかについての疑義があった当時にあって、立法による親権制限が可能であることを親権理論として基礎づけることを可能にした彼の親権解釈にも注目した。
国家に親の親権行使を補完・制限する権限を与える点において、彼の学説は一見、醇風美俗を想起させる保守的傾向を有しているように思われるが、実際の諸活動を照らし合わせてみることで、そこには、当時の置かれている状況を突破しようとする彼の実践的な性質を浮き彫りにすることが可能となる。すなわち、「子の利益」の実現こそが彼の親権論の核心にあり、子供の身を守るための応急措置を可能とする解釈論を展開していることが明らかになった。このように、重遠の分析にあたっては、言説のみに注目するのではなく、彼の活動全般のなかに彼の理論を位置付ける視座が必要であろう。
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