日本統治時代の台湾
における日本の主たる関心は、生産基地としての台湾に推移していった。植民地経営当初は、台湾本島で繰り返される反乱の平定に力をそがれていた。治安の安定に一定の道筋がつき、植民地経営の方針が台湾における生活基盤整備-保健衛生、教育、鉄道、都市計画、水利-の整備に向けられるようになった。そして内地への農作物供給の場としての存在感が大きくなった。
図1は台湾における糖業会社の分布を示した地図である。台湾西部に広く分布しているのがわかる。重要な産地は、図3にある南部(台南・高雄)に集中する。それに対し、米作は図4にみるとおり、台湾北部に位置する。
台湾総督府の土木部門は一貫して埤圳(用水路とため池)の建設に取り組んだ。その結果が図2である。期間を通じて右肩上がりである。嘉南大圳をはじめ、大規模な灌漑事業を行った結果、水が十分でない台湾南部に農業用水が行き渡ることになった。その結果、南部でも経営的に有利である米や甘藷の栽培が可能となった。ここで農民と製糖会社・総督府、そして内地政府の意向や思惑がすれ違い、「米糖相克」と呼ばれる甘藷と米穀による空間的相剋が発生した。
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