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クエリ検索: "池田治政"
7件中 1-7の結果を表示しています
  • ――定信嫌いの、池田治政――
    菊池 庸介
    日本文学
    2017年 66 巻 9 号 64-67
    発行日: 2017/09/10
    公開日: 2022/10/01
    ジャーナル フリー
  • 畦 五月
    日本調理科学会誌
    2016年 49 巻 6 号 362-370
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/12/19
    ジャーナル フリー
     岡山県南部地方で食用とされているヒラ,サッパ,コノシロの食習慣に注目した。これら三種の魚は分類学上極めて類似し,白身が多く,しかも小骨が多いという特徴を示す。酢の物,すし,焼き物,煮物などの多彩な調理方法で三種は食べられるが,昭和初期から大正時代には,稲作行事や祭りの行事に合わせ使い分けがされている魚であった。その食習慣が形成されている背景を,江戸時代の岡山藩の文献より明らかにした。三種は岡山藩の産物として認定され,幕府に届け出をされた魚であった。後楽園での各種行事の饗応膳にも使用された魚であったが,藩主など身分階級の高い人の膳にはのらない魚であった。この江戸時代からの食習慣は,調理法を伝承しながら,現代も他の魚の食習慣とともに岡山県南部地域に継承され,岡山県独自の食習慣を形成している。
  • 加納 靖之
    自然災害科学
    2019年 37 巻 2 号 205-217
    発行日: 2019年
    公開日: 2019/06/20
    ジャーナル フリー
    史料にみられる液状化現象の詳細な分析により,将来の液状化の発生について評価することができる。1854年伊賀上野地震は山城(現在の京都府南部)に被害を及ぼしたが,伏見(現在の京都市伏見区)で局所的に液状化が発生しており,備前岡山藩の記録に泥や砂の噴出や蔵の倒壊が記述されている。史料や地図の詳細な検討により,この液状化の発生地点を特定した。さらに古い時代の地図や同じ敷地内での考古学的な発掘調査を検討したところ,この地点は池を埋め立てた場所であり,地下に砂層をふくむことがわかった。
  • 庄司 達也
    日本文学
    2018年 67 巻 2 号 47-77
    発行日: 2018/02/10
    公開日: 2023/03/02
    ジャーナル フリー
  • 畦 五月
    日本調理科学会誌
    2019年 52 巻 4 号 258-269
    発行日: 2019/08/05
    公開日: 2019/08/21
    ジャーナル フリー

     古来より殊の外珍重されているマダイ(Pagrus major)の岡山県での近世以降の食習慣に着目した。タイと名がつく種類は多く,200種類を超えるといわれるが,体長が大きいマダイが特に貴重で格上とされた。岡山県の中世の記録にタイの記述がみられ,地元守護への上納品,神饌,交易品として重要な産品であった。

     岡山県の江戸時代の記録である『御後園諸事留帳』においてもタイは再々登場し,上層階級の饗宴や日常の食で,あるいはもてなしで,浜焼に調理され使用されていた。また,熨斗とともに正月などの祝儀に大きさを指定した生タイが献上されていた。このタイを重要視する食習慣は昭和中期まで正月,田植え,婚礼時などの行事でタイが膳に載り継承されてきた。現在もその食習慣は,正月や,儀礼食(お七夜,百日,長寿)において伝承されているが,変容しつつある現状である。

  • 土井 章, 坂本 尚史
    粘土科学討論会講演要旨集
    1985年 29 巻
    発行日: 1985/10/28
    公開日: 2016/11/27
    会議録・要旨集 フリー
  • 松浦 茂樹
    水利科学
    2018年 62 巻 1 号 28-71
    発行日: 2018/04/01
    公開日: 2019/05/31
    ジャーナル フリー

    綾瀬川は,埼玉平野の中央部を流れ,その開発と深く関わっている。今日では備前堤直下からの流れとなっていて,その上流の元荒川と分離されているが,元々は荒川が流下していた。戦国時代になって,備前堤と一体的に慈恩寺台地が開削され,荒川は元荒川筋に転流した。 備前堤の存在を前提にし,下流部では開発が進められた。近世になると,用水源として元荒川からとともに見沼溜井から導水されたが,享保年間には見沼代用水路が整備された。 備前堤には,荒川とともに利根川の氾濫水が襲ってきた。このため備前堤で防御され,その増強を図る下流部と,湛水するためそれを阻止しようする上流部との間で厳しい軋轢が生じた。大洪水のときには上流部は堤防切崩しを行い,自らの水害を少なくしようとした。両者間で堤防の高さを決めるなど調停が図られたが,近世では解決に至らなかった。 近代になると,利根川・荒川では国直轄により改修が進められ,それを背景に埼玉県は綾瀬川改修を行おうとした。だが下流部は東京府内を流下する。下流部を改修しないと埼玉県内では進められない。府県間で対立となったが,結局は,かなりの費用を埼玉県が負担し,埼玉県で事業は進められた。

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