1.はじめに
鳥取市佐治町(旧佐治村)は,古くは平安時代の延喜式に記録の残る漆の生産地であり,1965年まで漆液の産地であった。鳥取県東部地域の漆器生産には明治時代に「久松塗」と呼ばれる漆器があり,1955年当時は中小企業庁資料に産地として認識されていたが,現在では伝統的工芸品に指定されていないことから漆器産地に数えられていない。
漆産業の後継者問題は,全国各地で課題が生じ,経済産業省(2008)は,伝統的工芸品産業の課題に後継者問題を挙げ,安嶋(2020)も課題の一つとして「若年層の製造業を敬遠する就労意識,それに伴う作り手の高齢化といった人材,後継者問題」を挙げている。
漆産業の後継者問題に関連する先行研究には,馬場(1986,1990)による産地形成と新技術導入による生産構造の変化を論じたものや,須山(1992,1993)による生産地域の拡大と工業地域の変容を捉えたものがある。漆掻きに焦点を絞ったものとして,森谷ら(2017)が二大産地の経営形態の差異を論じ,両産地の新しい動きに漆芸品製作と漆掻きを兼業する動きを今後の研究上の課題としている。小池(2021)は民俗学的視点から漆をめぐる民俗事象から民俗研究上の諸課題を考察し,産地における生産と技術,漆樹液と人々の移動といった地理学的視点から課題を提示している。
以上から本稿では,漆掻き職人(漆掻き)と漆器職人(塗師)を主な研究対象とした漆産業における継承について調査し,漆液の生産停止後と現在の漆器生産について追究し,継承の課題を分析することとした。文化継承がほぼ途絶えている消滅事例を考察した先行研究はなく,消滅地域における文化継承の実現のために必要な条件を浮き彫りにする。
漆産業には,漆液と漆器の生産があり,芸術として漆芸品の製作も深く関連する。漆液生産には,漆掻き職人のほか,前段階である育苗や植栽,後段階である精製・販売への従業がある。漆器生産及び漆芸製作には,塗師や蒔絵師に加え,木地師などとも関連があり,これらを研究対象とした。
2.研究方法
鳥取県における漆産業の歩みを文献により概観したのち,漆液と漆器生産に関わっている生産者から聞き取り調査を行った。併せて,近年鳥取漆に関する調査を進めた橋谷田(2016)の漆掻き職人の聞き取り記録を再分析し,現存する元漆掻き職人への聞き取り調査を実施した。また,岩手県及び石川県における漆掻き職人への聞き取り調査の記録を再分析することによって,他地域と比較した。
3.結果・考察
鳥取県の漆液生産は1965年を境に生産が停止した。直截的に要因を述べれば,佐治町の掻き子(漆掻き職人)の技術を継承すべき子が漆掻きを仕事に選ばなかったことが最大の要因である。現在生産を継続させている産地においては,国の技術保存の選定や,日本うるし掻き技術保存会の活動により掻き子の活動が経営としても安定化してきた。農業経営の側面としては,農地に生産していた漆樹の代わりに,葉タバコや20世紀梨を植栽し,山地においては杉や檜の増殖が行われた。他に,安価な中国産漆の大量輸入が進んだことや,プラスチックの普及に伴う漆器離れが背景にある。
漆器は,主に鳥取市内と青谷町で生産され,昭和初期には職人数が100名を超えていた。しかし,第二次世界大戦や,1943年の鳥取地震と1952年の鳥取大火により製造に大きなダメージを受け,生産が激減した。久松塗は特色ある漆芸が見出されなかったことに加え,吉田璋也の民藝運動には高級品の漆芸は馴染まず,鳥取の漆器業は途絶えたとみられる。最近の動きでは,福島県から移住した塗師が無形文化財に指定された蒔絵師の田中稲月を師事し,現在は智頭町で漆器業を営んでいる。木工芸の無形文化財である茗荷定治の流れを汲む木地師の活動もみられる。また,倉吉市では,虎尾政治の流れを汲む福田豊も無形文化財に指定されている他,京都府で活動する漆芸家が実家の倉吉市で漆樹を200本植樹し,漆液を採取する事例もみられる。
本地域における現在の漆液と漆器の生産は点在にとどまっているが,系譜を繋ぐ職人の存在がみられる。品質の高い佐治漆を植樹する活動もあり,今後は地域文化の伝承の役割や産地形成の可能性もある。消滅した産地においても地域の視点からみれば,地域に根差した資源や産業の復興や文化継承に値する活動として注目すべき地域活動と捉えられる。
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