本稿は、「大正デモクラシー」がいかに明治憲法体制に組み込まれたのか(または、組み込まれなかったのか)という視角から、昭和初期の右派
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である社会民衆党の分析を試みるものである。同党は吉野作造の指導のもとに「大正デモクラシー」を具現化しようとした政党であり、陸軍桜会のクーデタ計画である三月事件にも参加し、かつ強力な「革新」派政党である社会大衆党へ連なる政党でもあるという点できわめて注目に値するが、一九三二年の
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再編問題を「離合集散」ないし「復古」化と捉える先行研究は、同党のこうした性格に十分な関心を向けてきたとは言い難い。
そこで本稿では、社会民衆党の基幹イデオロギーである議会主義に対する思想史的分析を補助線としつつ、社会民衆党の「革新」プランとその展開過程を具体的な政局と関連づけて追跡することで、「革新」勢力が権力核へ接近する筋道を描出した。その成果は以下の通りである。
「少数賢明」の「嚮導」を共通の理想としていた社会民衆党は、田中・浜口内閣期を通じて二つの政治的潮流に分裂していった。吉野・安部磯雄を中心とする議会改革派は、有権者による議員の統制や大選挙区制・比例代表制の導入を主張して、未完の議会主義を育てる方針を堅持した。一方で、政友―民政の拮抗がくずれキャスティング・ヴォートの掌握が難しくなると、議会主義を悲観する声も強まっていった。こうした党内の対立は三月事件によって決定的となり、一九三二年には
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再編に至る。
ここで注目されるのは、クーデタによる新体制の構築を図った赤松克麿、永田鉄山を通じて非選出勢力と提携した亀井貫一郎、「大衆」と議会の接続強化を謳った漸進派、そのいずれもが議会主義の止揚を目指していたことである。議会主義をめぐる社会民衆党の変容は、満洲事変という外在的な要因による
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の「転向」ではなく、「革新」の方法面における深化であった評価できよう。
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