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クエリ検索: "田村遺跡群"
14件中 1-14の結果を表示しています
  • 松下 勝
    第四紀研究
    1989年 27 巻 4 号 273-278
    発行日: 1989/03/31
    公開日: 2009/08/21
    ジャーナル フリー
    In carrying out archaeological excavations and studies on remains of rice paddy fields, many problems cannot be solved without the help of the methods and techniques of natural science. Several such problems of considerable importance are detecting the sites, analyzing for what purpose they were used, clarifying the system for their utilization, establishing their chronology, estimating the harvest, determining the factors allowing for the existence of the rice paddy fields, their surrounding environment, and the effects of their cultivation on the natural environment.
    Observation of the soil section combined with pollen analysis has been successfully used in detecting the horizon of the site. Investigation of macro-remains of culture plants and other weeds contributed to recognition of the difference between rice paddy fields and dry agricultural fields, or to determining whether a rice field was dry or wet. Conventionally, in estimating a rice harvest, not only archaeological, but also bibliographical or agricultural methods have been applied. Analysis of plant opal, developed in recent years, reveals itself as a method superior to these conventional ones. To analyze the factors which made possible the establishment of the site, the methods mentioned above-for example, reconstruction of paleo-vegetation based on the pollen analysis-have been used. Recently, a method which could be referred to as micro-scale topographyenvironment analysis has been used successfully in investigating the relationship between rice field cultivation and topography and water supply.
    The number of branches of archaeology in which methods of natural science can be used successfully will increase also in the future. We should be aware, however, that analysis of archaeological material seldom yields any positive result unless the archaeologist, in consultation with the natural scientist, has a clear aim in utilizing such analyses. Establishing a data base to accumulate the archaeological data yielded by methods of natural science is necessary; such a data base may be useful for many disciplines in archaeological studies. More important, however, is the careful observation of sites in situ to establish the correct chronology of multi-layered archaeological sites and to estimate the time gap between succeeding layers, because the factors controlling the duration of cultivation of a rice field are multidimensional.
  • 山中三男, 石川慎吾
    植物研究雑誌
    1988年 63 巻 11 号 385-392
    発行日: 1988/11/20
    公開日: 2022/10/19
    ジャーナル フリー
  • 山中 三男, 伊藤 由美子, 石川 愼吾
    日本生態学会誌
    1992年 42 巻 1 号 21-30
    発行日: 1992/04/10
    公開日: 2017/05/24
    ジャーナル フリー
    A palynological study was made of the samples taken from the Okou mire deposits in the central part of the Kochi Plain, in southern Shikoku. Two pollen zones were established in the pollen diagrams ; (1) the Castanopsis-Cyclobalanopsis zone (-250〜-90 cm) and (2) the Pinus-Cyclobalanopsis-Alnus zone (-90〜0 cm). The first zone is characterized by the dominance of the climatic climax forest in the area studied, and the second one by the fall of the natural forest and the rise of the secondary one owing to human agencies. Rice cultivation probably began during the Late Jomon Age (about 2,800〜3,000 years ago). Buckwheat cultivation possibly began during the Early or Middle Jomon Age (about 5,000〜7,000 years ago).
  • 木村 剛朗
    第四紀研究
    1992年 31 巻 5 号 399-408
    発行日: 1992/12/30
    公開日: 2009/08/21
    ジャーナル フリー
    高知県下の後期旧石器時代の6遺跡と, 縄文時代の64遺跡のすべてを紹介し, 若干の議論をした. これらの遺跡は主に土佐湾沿岸に分布するものと, 四万十川沿いに分布するものがある.
  • 西谷 忠師, 高野 華澄, 松野 克俊, 児玉 準
    物理探査
    2007年 60 巻 6 号 477-487
    発行日: 2007年
    公開日: 2010/06/25
    ジャーナル フリー
    払田柵跡は城柵遺跡であり,この柵内に河川が存在したことを発掘調査が明らかにした。この河川跡は表面付近では30cm程度の深さを持つ最終段階の河川跡であり,地表から2m程度の部分には砂質土,その下には大規模な洪水氾濫時に形成されたと考えられる礫層がある。電気探査の手法によって,この最終段階の河川流路,および,砂質土や礫層から期待される旧河川敷を明らかにすることが本研究の目的である。発掘調査によって地下構造が明らかになった場所で,電気探査の水平探査,垂直探査を行い,比抵抗変化の特徴を把握した。この予備調査により,電気探査の垂直探査で得られる30Ωmの層が粘土層あるいは青灰色シルト層に対応していることがわかった。粘土層の上面が0.5~0.7mよりも急激に深くなっている地域を河川敷と考えた。電気探査の水平探査では電極間隔を3m~5mにすれば砂質土・粘土層の始まる位置が特定できることがわかった。全探査範囲の南北方向,東西方向で同様の検討を繰り返し行い,河川敷の範囲の推定を行なった。さらに河川敷内に位置する最終段階の河川跡は地山粘土層の上部の砂質土の上にあると予想される。予備調査の結果,最終段階の河川跡には粘土質の物質が含まれているため,地山の粘土層の比抵抗よりは高いが,周囲よりも低めの比抵抗を示すことがわかった。従って、全探査領域の測定値を検討して河川跡を推定する場合には,地表から1m前後までの範囲で比抵抗が60Ωmよりも低い部分を最終段階河川の流路とした。電極間隔を1m程度にした電気探査の水平探査も全探査領域における最終段階の河川跡推定に有効であった。推定した河川敷の南限と北限,最終段階河川の流路は発掘調査と一致した。また,この結果はハンドボーリングの結果とも良い一致を示した。
  • 中村 純, 山中 三男
    第四紀研究
    1992年 31 巻 5 号 389-397
    発行日: 1992/12/30
    公開日: 2009/08/21
    ジャーナル フリー
    土佐湾にそった平野部の花粉分析資料を中心にして, 南四国の第四紀初頭からの森林植生の変遷を概観した. 更新世全体をみると, Abies, Pinus, Picea, Cryptomeria, Tsuga などの針葉樹と, Fagus, Quercus, Betula, Carpinus, Zelkova などの落葉広葉樹が優勢で, 現在よりもかなり冷涼な気候であったと思われる. しかし更新世前期には, Keteleeria, Nyssa, Carya, Liquidambar, Taxodiaceae (Cryptomeria をのぞく) などの第三紀要素の植物が残存していた. また間氷期には, Cyclobalanopsis, Castanopsis, Myrica, Podocarpus などの暖温帯性の植物も生育していた. ただこれらの植物群が, 更新世を通してどのような盛衰をたどってきたかということは今のところよくわからない. 最終氷期の晩氷期から後氷期初頭にかけては, 冷温帯的な森林が海岸平野にまで広がっていた. 完新世中期の温暖期には, 冷温帯林は消滅し, 代わって暖温帯林 (照葉樹林) が拡大する. 完新世後期には気候の冷涼化とともに暖温帯林がやや減少し, 人間の活動が植生にあたえた影響も顕著になってくる.
  • 三宅 尚, 中村 純, 山中 三男, 三宅 三賀, 石川 愼吾
    第四紀研究
    2005年 44 巻 5 号 275-287
    発行日: 2005/10/01
    公開日: 2009/08/21
    ジャーナル フリー
    高知平野伊達野の低湿地堆積物の花粉分析から,当地域の最終氷期以降の植生史を明らかにした.少なくとも最終亜間氷期(MIS 3)には,スギ,モミ属,ツガ属が優勢な温帯針葉樹林が分布し,サルスベリ属やハマナツメといった暖温帯性落葉広葉樹も残存していた.湿地ではハンノキ林が優占していた.約30,000yrs BPのMIS 3後期にはスギ優占林はほぼ消滅した.MIS 2には,ツガ属とモミ属が優勢で,コナラ属コナラ亜属,ブナなどを伴う温帯針広混交林が成立した.湿地のハンノキ林は衰退し,その縁辺ではヨモギ属とカラマツソウ属の優勢な乾生草原が,湿潤地ではワレモコウ属,セリ科,イネ科などを主とする湿生草原が拡大した.後氷期(MIS 1)に入ると,ヤマモモ,コナラ属アカガシ亜属,シイ属が順を追って分布を拡大し,約8,000yrs BP以降,照葉樹林が低地を広く覆った.約1,700yrs BP以降には,人為の森林干渉によって照葉樹林が破壊され,マツ属やヤマモモの優勢な二次林に移行した.
  • ——長宗我部地検帳と明治期土地台帳に基づく市町比定地の再検討——
    片岡 健
    地理学評論 Series A
    2013年 86 巻 2 号 158-172
    発行日: 2013/03/01
    公開日: 2017/12/02
    ジャーナル フリー
    本研究では,土佐国の長宗我部氏の市町であった岡豊新町を復原した.従来の研究成果を踏まえ明治期地籍図の地筆を基に,天正期『長宗我部地検帳』と明治期土地台帳の記載面積を使用して比定地の地割を再検討した.さらに,同時代史料により岡豊新町周辺の河道を復原して比定地との整合性を検討した.『長宗我部地検帳』と明治期土地台帳の比較によると,『長宗我部地検帳』の測量精度は高い.そこで,地籍図に示される地割のみでなく,天正期以降に地割が再施工された可能性を考慮して,地筆ごとの面積に基づいて屋敷地レベルで比定した.本稿の手法は,発掘成果のない状況で精緻な景観復原を可能にし,さらに,文献史料を基に地割の存続した時期を検討する一つの可能性を示すものである.検討の結果,岡豊新町西部分は定説より南に存在するという新しい復原案を示すことができた.岡豊新町の東町の地割は16世紀後半の景観を反映しており,それが明治期まで残存していた.
  • ──とくに鳥取・目久美遺跡および青森・垂柳遺跡の水田遺構について──
    藤原 宏志
    東南アジア研究
    1987年 25 巻 1 号 140-150
    発行日: 1987/06/30
    公開日: 2018/02/28
    ジャーナル フリー
    The surveying of ancient paddy fields by plant opal analysis has recently found practical application in archaeological excavation.
     This paper discusses problems encountered in the remains of ancient paddy fields of the Yayoi period excavated at the Megumi site in Tottori prefecture and the Tareyanagi site in Aomori prefecture.
     1. The distribution of paddy fields surveyed by plant opal analysis agrees with the results of archaeological excavation in both sites.
     2. The mean size of ancient paddy fields is 33.7m2 at the Megumi site and 7.8m2 at the Tareyanagi site. This difference seems to have arisen from the circumstances of water supply.
     3. The lateral lengths of plant opals originating from rice plants (Oryza sativa) of the Yayoi period have larger mean values than those from the middle ages.
  • 松下 まり子
    第四紀研究
    1992年 31 巻 5 号 375-387
    発行日: 1992/12/30
    公開日: 2009/08/21
    ジャーナル フリー
    日本列島太平洋岸における完新世 (後氷期) の照葉樹林の発達史について, 各地で報告されている花粉分析結果を検討し, 主に黒潮との関連で考察した. 房総半島以南の太平洋沿岸地域では, 完新世の初期から照葉樹林が成立し, なかでもシイ林の発達が顕著にみられた. とくに伊豆半島や房総半島南端で照葉樹林の発達が良く, その成立, 拡大時期も早かった. これらの地域は早くから黒潮の影響を受け, 冬季温暖かつ湿潤であるといった海洋気候が照葉樹林の発達をより促したと考えられる. 照葉樹林は, 急激な温暖化とともに九州南端から日本列島を北上したが, 一方で黒潮の影響を受ける沿海暖地からもその分布を拡大していったことが推定された. また太平洋沿岸地域における照葉樹林は, 完新世初期に3回の拡大期をもって発達した.
  • 異体字銘帯鏡と弥生の王
    西川 寿勝
    日本考古学
    2000年 7 巻 10 号 25-39
    発行日: 2000/10/04
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    弥生時代中期,わが国に漢式鏡が舶載されはじめる。舶載鏡の大半は異体字銘帯鏡と呼ばれる前漢後期の鏡である。この鏡は北部九州の限られた甕棺墓から大量に発見されることもある。卓越した副葬鏡をもつ甕棺墓の被葬者は地域を統率した王と考えられている。しかし,その根拠となる副葬鏡の製作・流通時期や価値観については詳細に評価が定まっていない。また,大陸の前漢式鏡中に位置づけた研究も深化していない。
    著者は,これまでに中国・日本で発見された700面以上の異体字銘帯鏡を再検討し,外縁形態と書体をそれぞれ3区分し,その組み合わせで都合7型式を設定,編年を試みた。あわせて,各型式における鏡の価値観の違いを格付けし,もっとも上位に位置づけられる大型鏡は前漢帝国の王侯・太守階級の墳墓から発見される特別なものであることを確認した。
    大陸での異体字銘帯鏡の様相にもとづき,わが国発見の異体字銘帯鏡を概観した結果,今から約2000年前にあたる紀元前後(弥生時代中期末~後期初頭)に,型式と分布の画期をもとめることができた。その意義について,中期に発展した玄界灘沿岸の勢力が後期になって斜陽となり,西日本各地に新勢力が萌芽する様相がうつしだされたものと考えた。
  • 三宅 尚, 石川 愼吾
    日本花粉学会会誌
    2004年 50 巻 2 号 83-94
    発行日: 2004/12/31
    公開日: 2017/11/17
    ジャーナル フリー
    中村市具同低湿地で採取された堆積物試料の花粉分析と炭化片分析を行い, 当地域の完新世における植生と火災撹乱の変遷を調べた.主な花粉・胞子の組成と出現頻度の垂直変化に基づき, GD-1からGD-IIIまでの3つの局地花粉帯に区分した.各花粉帯に相当する時期の植生は次に示す通りである.GD-1帯(約10, 400∿9, 500yr B.P.)には, コナラ亜属, ケヤキ, クマシデ属およびカエデ属を主体とし, ブナ, トチノキの他に, マッ科針葉樹が混生する落葉広葉樹林が分布していた.GD-11帯(約9, 500∿6, 400yr B.P.)には, アカガシ亜属, シイ属, ヤマモモなどを主とする常緑広葉樹林が分布を拡大した.落葉広葉樹のうち, ブナ, トチノキなどの冷温帯性樹種とカエデ属はしだいに衰退した.エノキ属やムクノキは主に沖積低地で分布を広げた.GD-III帯(約6, 400yr B.P.∿現在)には, 落葉広葉樹とヤマモモは著しく衰退して, シイ属とアカガシ亜属を主とする常緑広葉樹林が優勢であった.炭化片分析の結果から, GD-I帯とGD-II帯の中・後期には, 具同周辺で火災が頻発したと推察される.火災の原因と植生への影響は, 現段階では不明である.ただし前者に関しては, 他地域の分析結果との比較から, 人為の関与が示唆される.後者については, 完新世初頭の落葉広葉樹林の組成や更新に, 火災がどの程度関わったのかを今後検討する必要がある.完新世初頭以降の火災の急増は日本各地で広く存在した可能性があるため, その成因や撹乱体制の時空間的解析も今後強く望まれる.
  • 池田 次郎, 中橋 孝博
    Anthropological Science (Japanese Series)
    2000年 108 巻 2 号 101-131
    発行日: 2000年
    公開日: 2008/02/26
    ジャーナル フリー
  • 人文地理
    1987年 39 巻 3 号 234-278
    発行日: 1987/06/28
    公開日: 2009/04/28
    ジャーナル フリー
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