近年、中野三敏氏が〈和本リテラシー〉の復権を提唱されている。その驥尾に付し、きわめて即物的に〈書物というモノ〉それ自体をテキストと位置付け、書物《テキスト》を扱う(読む)ために必要な知識と技術とについて考えてみたい。
日本の物語や小説の顕著な特質は〈絵入本〉として享受されてきたことである。写本から整版、そして活版へというメディアの変遷に際して、絵図の扱いは技術的に大きな問題であった。のみならず、十七世紀以降、商業資本主義の発展と流通網の整備がなされたこと、また、読者層の増大に拠り、書物が商品価値を保有したことなどと相俟って、絵が容易に入れられ、かつ保存できる版である整版が主流となった。結果的に、近世期を通じて膨大な書物(和本)が遺されることと成ったのである。
これらの書物を読むためには、まず崩し字や変体仮名に精通することが最低条件であるが、用いられている書体(楷書/行書)や仕立てなど装訂や造本法などからも、制作者(作者・画工・板元など)の意図を汲むことができる。また、文体や章立てなどの構成に、ジャンル意識が反映されていることも多いが、最大の難関は口絵・挿絵など画像資料の考証である。
本文を精読する段階では、由って来たる典拠や当代風俗などに関する注釈力も問われる。さらに、享受史の観点からは後印・改版・鈔録・戯曲化・翻刻のみならず、改作《リメイク》・外伝《スピンオフ》・図像・翻訳などにも目を配る必要がある。
しかし残念ながら、現代人にとって僅か百年以前に〈書かれ/読まれ〉てきた書物すら、まともに読めるだけの知識も技術も持っていないし、それらのスキルを修得できる唯一の場であった大学の日本文学科(国文学科)も風前の燈である。
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