国際基督教大学構内 Loc.28C は武蔵野台地の西縁,多摩川に接した立川段丘上にあり,国分寺崖線に沿って流れる野川に臨む小さな舌状台地である(Fig.1).こゝで縄文早期土器包含層下から,二枚にわたる先土器文化層が発見された.それはFig.3に示した如くA,B,C,C'の四つの
石器
群からなっている.これらの
石器
群は唯分布を異にするだけでなく各々の組成に特徴を持っている.即ち,尖頭器,台形
石器
,ナイフ形
石器
,掻器,削器,彫器など共通の
石器
を保有しながらも,各群の tool-kit 偏在が,認められる.(Fig.4~7)
C'はCの下層に包含層を持ち明らかに古い
石器
群であることが分るが,上層のA,B,C群は同じ層中にありその相互関係については二様の解釈ができる.それは(A)時代的に異る,(B)同時代のものということで(A)については(1)各群の間に剥片類の接着関係が認あられないこと(2)各群の
石器
組成にバランスがとれていて独立的であること(3)
石器
自体に現在の編年尺度をあて,時代差としてもとらえられることがあげられ,(B)については(1)素材が黒耀石で共通していること,(2)各群が重複することなく同一層位の中に順序よく台地縁辺部にならんでいること,(3)各々の,tool-kitの偏在を一単位集団の特色とみてそれを複合したより大きな集団における
石器
組成としてとらえうることが挙げられるが,現在までの操作では後者の可能性が強い.
上層だけに認められる黒耀石はフィション•トラック検査の結果,箱根より持ち込まれたものであることが分った.出土した黒耀石の総重量は370.699で容積にすると約127ccにすぎない.その供給量が非常に限られたものであったことが分る.そのため,(1)重量にすると
石器
が34%の高率を占める,(2)石核打面を調整することなく,色々な方向から剥片をとる,(3)良好な剥片類は殆んどが
石器
に転用されてしまったらしく,使用不可能なものだけが残っている,(4)
石器
に自然面を残すものが多い(Fig.9),(5)
石器
は剥片をあまり変形しないで作る,などの特徴がこの
石器
文化にあらわれている.そして(1)-(5)の条件は下層の,供給が豊富なローカルな石を使用しているC'群のものとは全く逆なものとなっている.
Fig.10のグラフは出土した
石器
について,長さ,巾,重さの関係を示したものである.
石器
の中では尖頭器がこの三者間に最も強い相関関係が認められ,ナイフ形
石器
,台形
石器
も割合によい相関を示す(ナイフ形
石器
は長さに比べ巾の制約が強いらしい).彫器及び掻器•削器は形の上で著しく相関のバランスのくずれたものがある.つまり尖頭器,ナイフ形
石器
,台形
石器
では定形化の要求が強く,その使用が全体的であるのに比べ彫器,掻器,削器では定形化があまり要求されない蔀分的な利用がその目的であつたといえる.このことは黒耀石の
石器
の自然面を残しているものの比率にもよく反映されている.
この遺跡で発見された
石器
群を周辺遺跡のそれと比べてみると上層が茂呂,月見野I•IIIA,西の台IIなどのものに,下層が市場坂,月見野II•IVA のものに類似している.ところがこれは現在一般に考えられている編年序列と逆転していることに気づく.上層のナイフ形
石器中には茂呂遺跡出土の茂呂ナイフ形型石器
と呼ばれるものに酷似しているものがある。茂呂型ナイフ形
石器
は(1)剥離が非調整石核から行われ,調整打面を持っ本格的な石刃技法より技術的に幼稚.(2)素材を変形しない
石器
の製作法も又原始的.(3)切出形
石器
を伴わないなどの理由によって,ナイフ形
石器
文化の中でも比較的古い段階に位置づけられていた.しかし(1)(2)については既に黒耀石の項で述べたように,原始的様相と言うよりはむしろ素材の供給量に起因するもので,制約された素材をより効果的に利用する進んだ技術ではないかと考えられる.(3)については台形
石器
の範型理解と相まって層位的にも古いとされる武井I,磯山にすでに存在しているので問題はない.茂呂遺跡は位置,地層,
石器
の素材,剥片の形片,ナイフ形
石器
に残る自然面など全てにわたって我々の遺跡の上層文化と近似する点が多く,その組成の問題も含あて茂呂
石器
群の編年的位置づけの再検討を指摘するものである.従来細
石器化の進んだ小形のナイフ形石器
群を比較的新しい段階のものとして把握していたが,ここにより古い段階にもその存在の位置づけが確認されたわけである.
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