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クエリ検索: "蜂屋村"
7件中 1-7の結果を表示しています
  • 安藤 万寿男, 西田 和夫
    人文地理
    1958年 10 巻 3 号 190-207,235
    発行日: 1958/08/30
    公開日: 2009/04/28
    ジャーナル フリー
    1) 上野の地はやせた第三紀の丘陵地であり,灌漑水も容易にえられないので,古来の日本的耕地としての利用対象にはならず,採草地・薪炭採取地として利用されてきた。
    2) 1924年以来,果樹園として開発されたが,その際,公有地であったため小作料ぶ著しく低く,かつ一定していたこと,地元で耕地整理をなして耕地が区画され農道が整備され開墾助成金が開拓者に入ったこと,は開拓者にとって有利であった。
    3) 耕地整理の結果,耕地が宅地の周囲に集中している有利性がある。当初土地は自由に獲得できたが自家の資本・労働を考慮にいれて最高でも3町以下になり,かくて1戸当りにすると一般の農家よりやや広い経営規模が成立した。
    4) 開発の歴史が新しいので他の土地で果樹の集団的栽培の技術的研究が達成された後に導入されているのは,市場が近くにあることと共にこの地の果樹栽培を容易にした。
    5) 各地から集った開拓者ぶ分散して居住しているので旧村落とは異った社会的構成を示し,社会的統一も旧村落に比し弱い。これは共同出荷体制が十分でないことと関連がある。開拓者はいずれも企業者的精神に富み,前職が商人・勤人であった人も多い。また,現在まで農民の移動が旧村落に比し著しく,移動の場合は園と家屋とが一括して売買される。移動の多いのは果樹園面積が少ないなど経営の不安定なものが多い。
    6) 農家の大部分は果樹専業で水田は絶無かまたは零細な経営にすぎない。水田を僅かでももつものは隣接部落からの出身者に多い。
    7) 果樹は当初は成果の早くあがる種類を多くいれたが,次第により集約的な種類(廿世紀)に移ってきた。果樹専業で水田を欠くから,市況の推移に対する適応は敏感である。経営の小さいものほど集約的な梨の割合が多い。
    8) 生産資材は階層間で差はあるが,全体に防除施設はよい。防除施設の向上は大経営の労働生産性を向上させ,特に柿に著しい。
    9) 集約的作物のために労働は多量に投入し,小経営でも臨時雇用を必要とするが,1町歩以上になると家族労力以上の雇用をいれる。果樹栽培地が孤立的に存在するため,近傍から労力が得られやすい利点がある。
    10) 集約的な梨を中心にやや粗放的な柿を加えた経営がこの地では有利であり,経営規模別では7~9反の大きさが家族経営として最高の反当収益があり,雇用の多い小資本家的経営では1町5反以上から家計収入が急増する。
    11) 隣接刺激をうけた近傍の果樹栽培は概して副業的で上野とは経営のタイプを異にする。
    12) 上野をとりまく旧来の農村では,安定作物である水稲に現金収入源である養蚕を加えた経営でできた村々であり,今日まで労力上・土地利用上また農民の経済的意識からみて果樹は導入されず,上野部落は果樹栽培における孤立的生産地域を続けてきた。
  • 門前 博之
    史学雑誌
    1990年 99 巻 5 号 734-739
    発行日: 1990/05/20
    公開日: 2017/11/29
    ジャーナル フリー
  • 利用の側面を中心に
    冨善 一敏
    アーカイブズ学研究
    2007年 7 巻 20-38
    発行日: 2007/11/15
    公開日: 2020/02/01
    ジャーナル フリー

    本論文は、日本近世(江戸時代)のアーカイブズについて、当時の人々の利用のあり方を検討したものである。第1章ではこれまでの文書管理史研究について、「アーカイブズ学的文書管理史」と、「儀礼・由緒論的文書管理史」をキーワードに整理した。

    第2章では、村方文書の保存・管理と利用について、信濃国諏訪郡乙事村の事例を扱った。当村では文化10年(1813)大規模な文書整理を行い、1 点毎の検索が可能な文書目録帳を作成し「帳蔵」に収納した。以後名主が作成した文書は任期終了時に村役人立会の下改めが行われ、1)帳蔵に収納される非現用文書、2)年々交代する名主の手元に置かれる現用文書、3)作成当時の名主が保存する年貢・村入用関係文書という、その機能と保存場所を異にする3 つの文書群に分化したことを指摘した。

    第3章ではモノとしての文書の利用について、武蔵国秩父郡大野村で行われた検地帳祭りを取り上げ、近世の村方文書が一方ではマジカルな世界の中で存在したことを指摘した。

  • 柿の話 (1)
    川上 行蔵
    食生活総合研究会誌
    1991年 2 巻 1 号 28-32
    発行日: 1991/11/15
    公開日: 2011/01/31
    ジャーナル フリー
  • 有田 洋子
    美術教育学:美術科教育学会誌
    2021年 42 巻 37-49
    発行日: 2021年
    公開日: 2023/11/01
    ジャーナル フリー
    岐阜大学の美術教育学の制度的成立過程の三段階を解明した。第一段階:岐阜師範学校から岐阜大学学芸学部へ美術教官はほぼ移行した。美術科教育関係授業は土屋常義が主に担当した。多くの大学と同様,美術科教育専門教官はいなかった。第二段階:昭和39年 2 月学科目省令発足時の同大学美術関係学科目は絵画,彫塑,構成,美術理論・美術史の四つであった。美術科教育の学科目に関しては,昭和40年 3 月に増設され,昭和45年頃に人員配置がなされた。第三段階:平成 7 年 4 月に大学院教育学研究科が設置された。翌平成 8 年 4 月に同美術教育専修が設置され,これにより岐阜大学の美術教育学の制度的基盤は成立した。
  • 松田 清, 遠藤 正治, 益満 まを
    近世京都
    2016年 2 巻 101-191
    発行日: 2016年
    公開日: 2020/12/24
    ジャーナル フリー

    This article will introduce Yamamoto Bōyō's handwritten directory of his students, correspondents and Kyoto-based hikyaku couriers, covering nearly 25 years from 1830 to around 1856. The manuscript is composed of 305 items and includes 132 students and exhibitors to the bussankai (naturalistic annual workshops) held in the Kyoto school or by related naturalist groups in Osaka, Ise and Nagasaki. The naturalistic activities of the Yamamoto School depended on the hikyaku courier system which facilitated nationwide scientifi communication and exchange of specimens with students and related scholars in 41 ancient countries from Ōshū to Satsuma. In this article, the human network of this school is analyzed and described using the directory, here transliterated, and new documents discovered in the Yamamoto family archives.

  • 青木 虹二
    社会経済史学
    1965年 30 巻 2 号 158-184
    発行日: 1965/03/10
    公開日: 2017/12/26
    ジャーナル オープンアクセス
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