真の, いま求められるべき共同性とは何かという問いとともに, 共同性は求められるべきものか, という問いが生じている.たとえば, 人は差別されてはいけないとしたら, なぜなのか.それは, みな同じ人間だからといわれる.しかし, どこが同じなのか.知ることは共感することなのか? 人を他の我, あるいは人格であると知るということは, その他者が思考し感じているその体験の仕方そのもの, その作用そのものを把握することであるというところに難しさがある.これらの問いについて, 真剣に考えようとするとき, フッサールの間主観的世界の成立への問いや, シェーラーの共感や愛についての考え方は重要な視点を与えてくれる.
ところで, 理性は, 他者の人格にどのようにかかわっているのであろうか? 理性は「真なるもの」を直知する力という意味をすでに失ってきている.
本論文で, 筆者は, 現象学的視点を取り入れながら理性の意味を再考した.そして, 生活世界のなかで, 社会的行為者たちが眼前に展開する現象や体験のなかに, それが「別様でありうる」ことを発見する力, 自明性を支える地平を明るみに出す力と定義した.
そして, シュッツの理論を意識しながら, 共同性に必要な他者理解とは鑑賞でも観察でもなく, 一つの交流であり相互行為であることを前提としつつ, 理性が寄与できる可能性と限界はどのようなものであるのかを検討した.
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