静岡県熱海温泉(以下、熱海)は現在年間約700万人が訪れる温泉観光地である。熱海の本格的な温泉観光地化は大正14(1925)年の熱海駅開業などがきっかけで、東京などの関東圏からの多くの観光客が訪れた。そして、昭和39(1964)年に東海道新幹線が開業し、関西圏からの観光客も増加した。これらを背景として、熱海は日本を代表する温泉観光地として発展を遂げていった。
観光地理学における熱海に関する研究は、明治期以降の温泉観光集落熱海の形成過程と経済的機能を明らかにした山村(1970)などの研究が蓄積されている。また、建築学では松田法子と大場修が熱海の近世から近代の温泉所有や近代の温泉旅館の建築類型を明らかにしている。だが、これらの研究は近代期の温泉観光地の形成に影響を及ぼした鉄道事業や温泉掘削の主体などに大きな関心が払われていないという課題を残している。鉄道事業は主な集客源となる都市と観光地または観光地間を結び、温泉掘削の拡大は新規の温泉源を増やし観光客の受け皿となる。この2つを分析することは近代期の温泉観光地形成の過程を明らかにするために必要不可欠なことであろう。
よって、本研究は、熱海が日本を代表する一大温泉観光地にまで発展した土台として、近代期(明治期~昭和戦前期)の温泉観光地熱海の形成を取り上げる。そして、当該期に計画された鉄道事業と当該期の温泉掘削の主体、空間的分布及びその特徴を明らかにすることを目的とする。
本研究は近代期の熱海に関する伊東鉄道や豆東鉄道などの鉄道事業の計画主体や計画目的などが確認できる国立公文書館所蔵の鉄道院(省)文書、温泉掘削の主体と空間的分布について確認できる静岡県所蔵の温泉台帳を主な資料として研究を進めていく。また、近代期の新聞記事や
雑誌
『旅』、旅行案内記なども資料として用いる。
熱海の本格的な温泉観光地化の1つのきっかけとなった大正14(1925)年の熱海駅開業前後に熱海に立地していた旅館数を見てみると、大正9(1920)年35軒から昭和11(1936)年95軒と旅館数が大きく増加している。そして、この旅館数が増加している時期に熱海―伊東間を結ぶ2つの鉄道事業が相次いで認可された。初めに認可された伊東鉄道株式会社は安立綱之(貴族院議員)など東京在住の政
財界
人が発起人となり大正2(1913)年に設立されたが、工事遅れのために大正5(1916)年に免許失効した。そして、大正9(1920)年に同じく熱海―伊東間を結ぶ豆東鉄道株式会社が京浜電力監査役渡辺勝三郎など東京在住の政
財界
人が発起人となり設立されたが、この事業も大正13(1924)に関東大震災の影響を受け、免許を失効している。東京在住の政
財界
人が中心となり熱海―伊東間の鉄道事業を計画したことは、当時の熱海が彼らから見て、大きな商機がある温泉地として見なされていたと考えられる。
温泉台帳から、明治末期から大正期の温泉掘削の主体の特徴についてみてみる。温泉掘削が認可されているのは、地元熱海を含む、東京、横浜、埼玉など関東圏の人々であり、約30人以上の複数名で温泉を所有する事例もあった。温泉掘削の目的は来客用と自家用、営業用の3つに分かれており、営業用で認可されている掘削主体のなかには熱海の温泉旅館や企業があった。以上のことから、当時の熱海は関東圏の多くの人々により温泉掘削が実施され、温泉観光地としての発展の土台が作られたといえるだろう。
抄録全体を表示