本論文は、天保期に計画された幕府の宿駅・助郷助成金政策の背景を考察したものである。そして、本論文を考察するに際しては、主に以下の二つの課題を設定した。
まず、本政策を近世中期から後期にいたる幕府の公金貸付・御用金政策の展開事例の一つとして位置付けることを第一の課題として設定した。
加えて、近世中期から後期に至るまでの幕府が挙行した大規模通行を本政策と関連付け、本政策の直接的な背景を探ることを第二の課題に設定した。その際には、特に天保二年(一八三一)に計画・実施された後の徳川幕府一三代将軍である徳川家定の正室が婚姻のために京都より下向した「有君下向」に注目して、考察を加えた。
結果として、本論文では実務を担った役人の継続性と、近世を通じた大規模通行の趨勢から天保三年の助成金賦課政策が天保二年の「有君下向」を契機としたものであったと結論付けた。さらに、信州地域の地域史料を参照していく中で、第一の課題であった幕府の公金貸付政策との関連も考察を加えた。そこでは、先行研究で言及されている、近世中期以降の幕府の公金貸付政策の展開とその行き詰まりの顕在化という縮図が、信州地域の宿駅にもあらわれ始めていたことを明らかにした。そして、このような宿駅の窮乏という状況は全国的にみられる趨勢であり、そのような状況を打破するために公金貸付の量的拡大を企図して幕領・私領を問わない貸付元金の収集政策が本政策であったと結論付けた。以上の考察から、本政策は近世中期以降の幕府の経済政策の特徴を引き継いだものであると同時に、その政策の行き詰まりの一つの帰結であると位置付けた。
本論文によって、近世中後期以降の幕府の経済政策・交通政策などが有機的な関係性を有していた点を明らかにできたものと考える。
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