クク人(Kuku)は南スーダン最南端、ウガンダとの国境地帯を故地とし、植民地化や内戦等、さまざまな要因により移住を繰り返してきた。とくにウガンダへの移住は1930年代から行われ、ウガンダ国籍を持つクク人も多い。本稿は2005年の第2次スーダン内戦終結後のウガンダからのスーダン(現南スーダン)人、とくにクク人の移住の実情を示し、彼らの移住史のなかにそれを位置づける。そして彼らにとって、第2次スーダン内戦終結後、国際機関とウガンダ政府の主導によりなされたウガンダから南スーダンへの「帰還」は、いかなる意味を持ったのかについて検討する。さらにそれをとおし、定住を前提として帰還支援を行うこと、ならびに「持続可能な帰還」を提唱することの問題を指摘する。
難民の帰還に関する研究は、本来、自発的であるべき帰還が操作されているという事実を指摘し、「難民は帰還するもの」という前提に対し、さまざまな事例を根拠として異議を唱えている。そこでは1990年代以降の難民研究のみならず、移動に関する研究において主張されてきた「人間の移動性の高さ」の実例が示され、その結果、難民の「帰還」や「故郷」が相対化された。ここで言う「人間の移動性の高さ」とは、人間と場所の関係は構築されるものであり、人間は「動き続ける(on the move)」存在であるとする主張である1[e.g. Allen 1996; Monsutti 2008]。
第2次スーダン内戦(1983~2005年)後のウガンダからの南スーダン人の帰還については、Tania KaiserとLucy Hovilが論じている[Kaiser 2010; Hovil 2010]。どちらも難民がウガンダと南スーダンとを幾度か行き来してきたことを論じ、その移動性の高さを示すことで彼らの帰還が決して一方通行ではないことを示した。こうした主張は上述の難民の帰還に関する研究の成果をふまえたもので、本稿も基本的にはこの主張に同意する。だがこれらの論文は、彼らが難民となる前に別の立場でウガンダに滞在していた可能性には言及しない。ある時ある場所、もしくは国家において、難民であった人が、以前に同じ場所で移民、あるいは国民であった可能性がある。この可能性を考慮せずに、彼らの移住を的確に分析することは不可能だろう。移住の歴史を俯瞰的にみなければならない。
本稿は2005年の包括的和平協定(Comprehensive Peace Agreement: CPA)締結後のスーダン(現南スーダン)人、とくにクク人に注目し、彼らの帰還とみなされる移住の実情を示す。そして彼らの移住史のなかにその移住を位置づけ、そこから、支援機関、研究者により模索されてきた「持続可能な帰還」を問い直す。クク人は南スーダンとウガンダの国境地帯を故地とし、両国を行き来してきた。彼らはウガンダにおいて移民であり、難民であり、さらには国民ともなりえた。以上のような経験を持つクク人に注目し、彼らの移住史を包括的に捉えることで、難民の帰還について改めて問い直すことが可能となる。
さらに本稿はウガンダ・南スーダン国境地帯の現状況の一端を示し、研究がいまだ乏しい第2次スーダン内戦後の南スーダン難民のウガンダからの帰還について評価する。なお、本稿では難民を南スーダンから何らかの理由で逃れた人、と広義に定義し、帰還とは暫定的に本特集の代表者である杉木が定義する「迫害、紛争等の理由により、国境を越え、庇護を求めて他国へ移動した難民(元難民)およびその子孫が、出身国(または自らのルーツがある国)に定住することを目的として戻ること」とする2。この定義の妥当性については、結論で事例をふまえて考察する。
次節においてクク人の概要と移住の過程について紹介し、第2節では第2次スーダン内戦後、北部ウガンダにおいて帰還支援がどのように行われたのか説明する。そして第3節では、クク人たちのライフヒストリーと、彼らの持つ、国際的なネットワークを背景として、それぞれの移住の過程について論じる。最後に事例の考察を通じ、クク人の帰還とされる移住を再検討し、「持続可能な帰還」の問い直しを提唱する。なお、本稿の元となるデータは、おもに2011~12年、および2014年より20年まで断続的に行った南スーダン、ウガンダにおける約30カ月にわたる調査による。おもな調査手法は文献調査、インタビュー、および人類学的参与観察3である。本稿において登場人物名はすべて仮名となる。
本稿で取り上げるクク人4とは、現南スーダン最南端、ウガンダとの国境地帯にある中央エクアトリア州カジョ-ケジ(Kajo-keji)郡を故地とする東ナイロート系民族である。民族語はクク語、生業は農耕牧畜である。2008年の時点で約19万6000人とされたカジョ-ケジ郡の住人は、郡境にほかの民族が住むことを除いてほとんどがクク人で占められる5。そしてウガンダ中南部カユンガ(Kayunga)県に5万人前後いるとされ、さらに南スーダンの首都ジュバにはカジョ-ケジ以外で最大数のクク人がいると言われ、その人口はおよそ30~40万人前後と推定される。
(出所)平凡社地図出版作成。
カジョ-ケジ郡は下位行政組織としてリレ(Lire)、カナポ(Kaŋapo)1、2、ニェポ(Nyepo)、リウォロ(Liworo)の5つのパヤム(payam)を持つ。このうちリレ、カナポ1、2がカジョ-ケジの「中心地」、ニェポ、リウォロの両パヤムはカジョ-ケジにおける「辺境」である。だが、そうした郡内の差異は移住先ではあまり意識されなくなる。
クク人は南スーダンにおいて近代教育への意識が高いことで有名である。実際第2次内戦終結後カジョ-ケジではすぐに学校の再建が行われ、筆者がカジョ-ケジに滞在した2012年の時点で各パヤムにひとつ以上の中等教育機関があった。2011年の時点で南スーダン全体の中等教育就学率が5.9%であった6ことを考えると、カジョ-ケジの進学率はかなり高い。得られた高い学歴を活かし、大学、国際機関等で働く者もおり、個々で差があるにせよ、クク人は南スーダンの諸民族のなかでは比較的安定した収入を得やすい民族である。
(2)ウガンダとスーダン:移住をめぐってクク人は他の南スーダン諸民族と同様に、現在の北スーダンから移動し、現在のカジョ-ケジを民族の故地としたという歴史を持つ。その移動はクランごとに成されたとされ、現在のカジョ-ケジ付近に集まったクランが「クク人」となった。だが、その後はカジョ-ケジ内での移動は行われたが、カジョ-ケジ外へ出ていく動きは少なかった。この状況が変化するのは西欧列強による植民地化以降である。カジョ-ケジは、19世紀後半以降ベルギー、英国、エジプト等の支配下に置かれた。この植民地統治の都合により、ウガンダとスーダンとのあいだの境界線は何度も引き直され、境界線は1914年に一応画定された。カジョ-ケジ領域におけるウガンダとの境界線は民族の土地の境界線に沿っていた[Leonardi 2020]。結果クク人はスーダン人となった。とはいえ、ウガンダ側との交流が途絶えたわけではない。1930年代にはウガンダ中南部への移住が開始された。現在のカユンガ県(Kayunga)には5万人ほどウガンダ国籍を持つクク人がいると言われる。クク人はカユンガ県のことをブゲレレ(Bugerere)と呼ぶ7。2008年時点でカジョ-ケジの人口が約20万人であったことを考えると、ブゲレレの5万人がクク人人口に占める割合は高い。事実筆者のインフォーマントでブゲレレに親族を持たない人はいない。
このウガンダへの移住は、1955年に起こった第1次スーダン内戦によりさらに進んだ。カジョ-ケジにおいて1960年代後半に内戦が激化したことにともない、ほとんどがカジョ-ケジを逃れた[Duku 2001, 35]。北部ウガンダで生活を送る者もいたが、ブゲレレの親族を頼り、移り住む者も少なからずいた。また、北部ウガンダとブゲレレ、あるいはほかのウガンダ中南部とのあいだを行き来する者も存在していた。1972年に第1次内戦が終結したのち、いったんカジョ-ケジに人が戻った。その一方で、移住先でそのまま生活を送る者もいた。
カジョ-ケジを再び戦火が襲うのは、第2次スーダン内戦勃発から4年経った1987年である。カジョ-ケジが戦場となったことで、その行政機能を失い、人々は北部ウガンダへと逃れた。さらに1990年代後半から北部ウガンダ、とくにアジュマニ県においては反政府組織である神の抵抗軍(Lord’s Resistance Army)による居住地への襲撃が頻発し、難民は定められた難民居住地からタウン8に逃れる場合もあった。アジュマニのタウンにはそうした難民が集まって住む一角がある[飛内2020]。居住地の外に住む難民の数は、彼らが国勢調査の対象にならないことから明らかではないが、2012年の時点で1万人を超えると言われていた9。また、居住地に住み続けた人も就業、就学の都合から居住地とウガンダ中南部やケニア等を行き来していた。ここまで述べてきた歴史から、第2次内戦以前からククの多くがウガンダでの移住経験を持ち、避難後もその経験を活かして生活を作り上げていたことがわかる。
2005年の内戦終結後、南北スーダン政府、国際機関による帰還支援プロジェクトが計画され、2012年には北部ウガンダからの帰還がほぼ完了したと言われた10。彼らはどのような過程を経て南スーダンへと移動したのだろうか。
ウガンダの北西部に位置する西ナイル地方はアルア、ユンベ、アジュマニ、モヨ、オボンギ等11の県から構成される(図2)。人口は約300万人、おもな民族は中央スーダン系のマディ人(Ma’di)、ルグバラ人(Lugbara)、東ナイロート系のカクワ人(Kakwa)などがいる。西ナイルと南スーダンの南部は、ともに長く政情不安を経験してきた土地であり、互いに難民を受け入れた経験を持つ。ウガンダにおける南スーダン難民は、多くがウガンダ北西部に位置し、南スーダンと国境を接する西ナイル地方(West Nile Region)におかれた難民居住地で避難生活を送る。西ナイルは南スーダン難民を第1次、第2次スーダン内戦、そして南スーダン内戦時に受け入れてきた。大規模な難民居住地は、アルア県(Arua)、ユンベ県(Yumbe)、モヨ県(Moyo)、オボンギ県(Obongi)11にあり、アジュマニ県には比較的小規模な居住地が点在している。第2次スーダン内戦中の1999年時点で西ナイルの難民人口は14万人ほどであり、その主流は、クク人も含む南スーダン南部のエクアトリア地方出身者であった[Wawa 2008]。
難民の管理、支援はウガンダ首相府(Office of Prime Minister: OPM)がUNHCRをはじめとした国際機関と協力して行う。ウガンダの難民政策は、多くがキャンプでの隔離政策をとるアフリカの国々のなかで、難民に一定の移動の自由を保障し、居住地での自立を促す点で特徴的である12。難民は居住地で与えられた耕作地を耕し、そこで得られた収穫を糧に生きていくことを促される。なお、西ナイルの場合、居住地はホストコミュニティがOPMとUNHCRに提供した(give)土地となる13。教育や、医療といった社会的インフラはホスト国民と共有で使用する14。つまり、南スーダン難民は、居住地で暮らす者も西ナイルである程度自立した生活を送り、かつホスト国民と何らかの交流を保ってきたことになる。
(出所)平凡社地図出版作成。
先述のとおり、CPAが締結された時点で南スーダン難民はすでにウガンダで生活の基盤を築いており、そこから南スーダンへと向かうのは帰還というより再度の移住に等しい場合もあった。その意味で「帰還」の際に生じる難民たちの負担は大きく、支援は大きな影響力を持つと予想される。北部ウガンダにおける帰還支援はどのように行われたのか。2011~12年のカジョ-ケジ郡における調査、2012年に行ったOPMアジュマニ事務所での難民担当官(Refugee Desk Officer)、南スーダン救済復興委員会(Southern Sudan Relief and Rehabilitation Committee: SSRRC)カジョ-ケジ事務所での職員へのインタビュー、およびモヨの県庁に保管されていた資料を基にその過程についてみていきたい。
SSRRCの職員によれば、帰還の波は2度あった。1度目が帰還支援が始まってすぐの2006~7年、そして2度目が住民投票、および南スーダン独立前後の2011~12年である15。クク人がマジョリティであったモヨ県のパロリニャ難民居住地の1999年時点での人口が約2万7000人であり[Wawa 2008, 57]、それが2012年の時点で1300人弱となっていたことから、大多数が「帰還」したことがわかる。
帰還支援が開始されたのは2006年である。3月にOPM、スーダン政府、UNHCR間で帰還に関する合意がなされた。支援の内容としては、まずOPM、UNHCRが希望者に交通手段を提供する16。ウガンダ国境に近い土地に向かう人は交通手段の提供を受けずに帰還し、遠い土地に向かう人は支援を利用する傾向があったという17。つまり交通手段の提供に関していえば帰還した人のすべてが利用したわけではない。カジョ-ケジに到着後は、各村の村長からの報告をもとに、SSRRCが帰還者に基本3カ月分の食料を配給する。だが、その配給はまったく安定しなかった。筆者がカジョ-ケジでSSRRCにインタビューした当時は配給食料が足りず、1カ月分に留まっていた。農耕がおもな生業となるカジョ-ケジでは、移り住んだ後、自活できるまで最短で半年かかるため1カ月分どころか3カ月分でも食料はまったく足りない。さらには、鍬や鋤といった農耕を行うために必要な道具の配布はなかった18。クク人は北部ウガンダへの避難後もカジョ-ケジとの行き来をしていたため、帰還支援の実情を知っていた。2006年時点での支援による、帰還に対する難民のインセンティブは実は相対的に少なかったと言える。しかし前述のとおり確実に一定数は南スーダンに移っている。モヨの県庁に保管されていた、南スーダン難民の帰還に関する文書をもとに、当時の状況について確認してみたい。
2008年6月2日付でOPMの事務次官(Permanent Secretary)、マーティン・オドウェド(Martin Odwedo)より、アルア、ユンベ、モヨ、アジュマニの事務所所長に「各県における難民帰還後の共同ミッション」と題された文書が送付された19。その趣旨は2006年の半ばから始まった自発的帰還執行により、多くの南スーダン難民が帰還し、2008年末には約8割の難民が帰還することが見込まれるため、難民を迎え入れたホスト県において、返却される土地の整備等に関する検討を要請するというものである。この難民帰還後のホスト県におけるリハビリテーションプロジェクトはその後も少なくとも2010年まで続いている20。ここから2008年時点で一定数の南スーダン難民が「帰還」していたこと、そしてOPM、国際機関がこの時点ですでに、南スーダン難民が帰還することを当然のこととして、帰還後について考えていることがわかる。だが現実には、ウガンダに住み続けることを選択した人はいた21。しかし文書ではウガンダに住み続ける難民はホストとともに地域社会を担う者としては認識されていない。
2011年には市民権・入国管理局長官により、難民の難民居住地の外における就業について規程が設けられた22。それによれば、ウガンダに居住する難民は、就業許可を申請し、許可証を得ている場合に限り、就業が可能となるとされ、許可証取得に際し、250ドルの登録料を支払う必要がある。この許可証は5年を最長有効期間としている。つまり、これまで基本的にはなかった就業に際する難民とホスト国民との区別が設けられたことになる。これは西ナイル地方に住む難民のみを対象としたものではないが、これまで避難先とはいえなじみ深いモヨやアジュマニで、その土地勘を生かし生計を立ててきたクク人にとって、その手段の選択肢を狭める規程であった。
そして2011年9月の文書には、「スーダン難民の自発的帰還が完了に近づいている」という文言が現れる23。さらに2012年にはOPMから「パロリニャの難民の地位について」と題された文書が出された24。この文書では残った難民をアジュマニに移転させたこと、そして希望する者についてはカジョ-ケジに帰還するための支援を行う予定であること、そして移転、帰還のどちらか未定の者については3月末には結論が出るであろうことが記されている。
そして、2012年3月末には「非市民の扱いについて」という文書がモヨ県行政長官から内務省の事務次官に出された25。ここでは、南スーダン独立に際し国境をめぐって起こったマディ人とスーダン人26との衝突と、スーダン難民の帰還を受け、県議会が特別ミーティングを開き、村議会をとおし、非市民の人数を把握しそのリストを移民省に提出すること、そしてスーダン人商人に対し、彼らがウガンダ国籍を所持していること、あるいは就業許可証を得ていることを証明しない限りはライセンスを発行してはならないことを決定したことが記された。2012年以降もクク人経営の商店は営業を続けていたため、この決定がどこまで効力を持ったのかは疑問が残る。だが、少なくとも「非市民の扱いについて」と題された文書が国境地帯において従来あいまいとなっていた難民と市民とのあいだの線引きを行ったことはわかる。そしてこの時点まで、難民の「帰還」が継続的に行われていたことも示している。
限られてはいるが、帰還支援の実態を端的に示す事例を提示した。ここからホスト側となるウガンダの行政、そして国際機関が難民が帰還することに疑いを持っていなかったこと、そして内戦やその他の理由により、国境をまたいだ行き来を日常的に行うことで生活を築いてきたクク人が帰還支援により、帰還すべき難民として再分類され、帰還以外の選択肢を大幅に狭められていったこともわかる。結果として帰還支援それ自体が難民に対する「帰還せよ」というメッセージになる[cf. 飛内2019]。筆者は現時点ではこの帰還支援が難民の帰還に対する判断に大きな影響を与えたことを証明する確実なデータを持たないが、彼らの一定数が南スーダンへの帰還を希望し、実際に移住したことと、この支援とがまったく関係がないとは言い難い。では彼らは実際いかに「帰還」したのだろうか。
2005年のCPA締結、および帰還支援プロジェクト開始以前から、クク人はカジョ-ケジへと「帰還」していた。SPLAが最終的にカジョ-ケジを奪取したのは1997年である。以降、徐々にカジョ-ケジに人が戻るようになった。当時カジョ-ケジのインフラは壊滅的であったという。カジョ-ケジの経済的中心地ウドに近い教会でのインタビューでは、1997年に教会の整備を開始したこと、そして成人男性が家族に先駆けてカジョ-ケジに「帰り」、避難先との行き来を繰り返しながらインフラ整備を行ったことが語られた。また筆者のカジョ-ケジにおける調査拠点であったJ村はウドに隣接しており、2001年ごろに人々が村に戻り始めたという。2012年時点での人口は約900人であった。だが筆者の調査時もウガンダとの行き来は続いていた。
1990年代初めにモヨに避難し、2004年に村に「帰った」Aは、ウガンダとカジョ-ケジの生活を比べ、カジョ-ケジのほうがよいと判断したため家族で村に「帰った」。CPA前に「帰っている」ため支援は受けていない。カジョ-ケジでの生活は決して楽ではなく、とくに現金収入獲得に苦労したが、聖公会の司祭であった兄が2010年にハルツームからカジョ-ケジに帰り、A一家の生活を支援していた。Aは筆者に「兄の助けがなかったら、自分はウガンダかジュバに出稼ぎに行かねばならなかった」と述べている。また、村内にはCPA締結後に帰還支援を受けて帰還したという人もいたが、彼らは「UNHCRのトラックに乗せられて、降ろされただけ」だと言う。
CPA以前にカジョ-ケジに「帰った」人々は、当然帰還支援プロジェクトの影響は受けていない。彼らは自身の判断で「帰り」、そして自力でその後の生活を作り直している。支援を得た人々が、支援が彼らの益になったと考える様子も見受けられない。彼らはカジョ-ケジに住み続けることを当たり前とはしておらず必要があれば出ていくつもりでいる。そして2017年にはウドは政府軍による焼き討ちに遭い、村人は再びウガンダに移らねばならなかった。
(2)親族と移住つぎに彼らが移住に際し親族や自身の経験をどのように使っているのかについてみていきたい。図3は、筆者の南スーダンの首都ジュバにおける居候先の関係系図である。図上のBが家長、家主となる。Bはカジョ-ケジのカナポ1・パヤム出身であり、大学進学を機にジュバに移住している。筆者の滞在当時は統計局に勤めていた。彼自身は第2次内戦時ハルツームに避難しており、ウガンダ在住経験はないが、彼の家に住む人々のなかにはウガンダから来た人がいる。たとえば、Bの姪にあたるCは2011年時点で17歳で、ウガンダのアジュマニにある難民居住地で育ち、2010年にジュバに来ている。父母と兄はこの時点でアジュマニにいた。彼女は家庭の事情により、ウガンダの中等学校を1年で退学せざるを得ず、ジュバで何らか別の道をみつけるべく、オジの家に移り住んだのである。そして彼女は2012年に奨学金を得て看護学校に通うためにウガンダに「戻った」。また、Bの弟Dは2011年時点で基本的にはカジョ-ケジ在住であった。だが、彼はモヨで長く暮らした経験を持っており、当時カンパラのカレッジに通っていた。専攻は社会科学系で、調査をモヨで行っており、カジョ-ケジを拠点にしつつも、カンパラ、モヨ、そして兄の家があるジュバのあいだで行き来を繰り返し、調査を行い、授業を受け、職を探していた。
この事例からは、人々が自身の都合をかんがみ、各地に存在する親族を利用しつつウガンダと南スーダンを行き来する状況がみえる。一見帰還のようにみえるCやDのウガンダから南スーダンへの移住は、繰り返される移住のひとつにすぎない。
(出所)著者作成。
最後に紹介するのは例外的に第2次内戦後においてはウガンダではなく、スーダンの首都ハルツームからの移住の事例となる。ここで取り上げるEはウガンダ国籍も持つため、法的には難民とはならないが、彼女が居住地の状況悪化により、そこを逃れざるを得なかったのは間違いない。そして彼女とウガンダとの関係はハルツームとのそれより深く、難民が難民となる以前に、別の立場でウガンダに住んでいた経験を示す事例となる。
Eは1960年にウガンダのブゲレレで生まれた。ブゲレレには今も彼女の父由来の土地があり、妹が住んでいる。彼女はブゲレレとカジョ-ケジで育ち、結婚してジュバに移り住んだ。そしてジュバ近郊で戦闘が展開され状況が悪化したのにともない、1997年にスーダンの首都ハルツームに家族で逃れた。ハルツームで13年過ごし、2010年にジュバに戻った。その後夫の住むカジョ-ケジに居を移したが、2017年にカジョ-ケジの治安が悪化したため、モヨに逃れ、そこから娘の住むウガンダのムコノに移り、再びモヨに戻っている。モヨでは難民居住地ではなく、タウンに家を借りて住んでいる。彼女の移住歴はごく一般的なクク人のものと言える。
先述のとおりEはウガンダと南スーダンの両国籍を持つ。2019年に筆者とともにモヨからブゲレレに向かう際、ナイル川を渡るフェリー乗り場で国籍を聞かれ、南スーダン人であり、難民であると答えていた。そしてブゲレレで親族の家を積極的に訪問していた。また「ウガンダの国籍は持っているが、南スーダンのIDカードは期限が切れている」と言っていた。南スーダンのIDカードは現在必要がなく、更新しようもないからだという。
Eの事例からみえるのは、紛争も含めたさまざまな理由により、国境をまたいで移住を繰り返し、自身の国籍を必要に応じて使い分ける姿である。少なくともこの事例からはそれぞれの国家への望郷の念はみられない27。そしてこの彼女の移住歴を俯瞰してみたとき、彼女が現在住むモヨからカジョ-ケジへの移住は、暫定的な帰還の定義に当てはまらない。
ここまでみてきた事例で共通するのは、帰還先に定住しない、あるいはできない点である。つまり、帰還とはいってもあくまでも一時的、あるいは一定期間の滞在にすぎない場合が多々ある。また、ここからは帰還支援プロジェクトがいくら「スーダン難民」を再分類し、半永久的な、そして一方通行的な移住としての帰還への道を創ろうとも、そうした形をクク人がとることは基本的になかったという事実がみえる。内戦を繰り返した南スーダンの歴史ゆえか、またはさまざまな土地を渡り歩くことが彼らの生存戦略であるため、彼らは定住しようがないとも言える。そこにあるのは厳しい状況下でただ自身の今後を見据えて行う現実的な選択と努力である。
ここまでクク人の移住の歴史を背景とし、帰還支援プロジェクトがどのように行われたのかを確認したうえで、実際、どのように移住が行われたのか、その過程を示した。
帰還支援を行う側は、難民として滞在する国から彼らの国籍国へ向かうことを帰還と考え、そして帰還先での定住を前提とする支援を行う。1990年代以降議論されてきた「人間の移動性の高さ」は、2000年代後半のウガンダにおける難民支援の現場では考慮されない。そして支援はウガンダ・南スーダン国境地帯においてあいまいとなっていた南スーダン人とウガンダ人との違いを明確化する要因のひとつとなっており、クク人の選択の幅をかえって狭めている。だが、クク人はそれにただ従って南スーダンに向かったわけではない。
支援を行う側となる国際機関、難民ホスト国政府、そして難民の出身国政府にとって帰還とみなされたクク人のウガンダから南スーダンへの移住は、基本的には繰り返されるいくつもの移住のなかのひとつにすぎない。南スーダンとウガンダを生きるクク人にとって、国籍は自身が生き延びるための道具であり、クク人であること、そして度重なる移住の歴史によって作り上げられた国境を越えた親族ネットワーク、自身の移住の経験もまた同じように道具である。さらに帰還支援もまた彼らにとって道具となりうる。彼らの持つ道具は彼らに移動を、あるいは避難先に残ることを選択させる。難民の多くは出身国、あるいは国籍国に向かうことを選択するが、それは無条件に「帰った」先での定住を意味するわけではなく、必要があれば彼らは移住を繰り返す。
帰還にかかわる先行研究は、人間の移動性の高さを示す一方で、定住を前提とする「持続可能な帰還」についても議論を重ねてきた[e.g. Crisp and Long 2016; Zetter 2021]。だが、本稿の事例からは、定住を前提とすることそれ自体に問題があることがわかる。帰ることを望む難民にとって、交通手段の提供や帰還後の支援は有効だろう。失われた国家との紐帯を取り戻すことは、国民であることが「権利を持つ権利」の絶対条件となる現代世界を生きる人にとってたいへん重要なことである。難民問題の恒久的解決策としての帰還、そして帰還支援の意義は現在も大きいと筆者は考える。だが、定住を前提とすると、その支援は一転して難民の不利益につながりかねない。つまり、定住を前提としない「持続可能な帰還」、帰還支援策を考える必要がある。そして冒頭で示した帰還の暫定的定義も再考せねばならない。
今回データの制限により帰還支援プロジェクトにクク人がどのように影響を受けたかについての具体的事例を出すことがほとんどできなかった。また、すべての事例で、こうした移動の形がみられるとは限らない。それは避難先と出身地とのあいだの物理的距離や人々の移動にまつわる歴史によって異なる[e.g. Grabska 2014; Jansen 2018; 飛内 2019]。だが、多くの国境が陸続きで、隣国に避難する場合が多いアフリカにおいては、クク人の事例と重なる場合も多いのではないか。比較検討することにより、前段の特徴が明らかになるであろう。これらについては今後の課題としたい。
本稿で取り上げた事例とデータの多くは、2011~12年、2014~17年、および2019、2020年の調査で得られたものである。2011~12年、2014~17年の調査は日本学術振興会特別研究員奨励費(23・3398、26・1493)、2019年、20年の調査は科学研究費補助金基盤研究B「アフリカにおける難民保護と持続性を有する「帰還」に関する実証的・理論的研究」(19H04364)および若手研究B「ウガンダにおける南スーダン人とキリスト教信仰覚醒運動:クク人に注目して」(17K17857)により可能となった。また、難民居住地での調査においては、ウガンダ共和国首相府より調査許可を得た。この場を借りて感謝を申し上げる。