東アジアへの視点
Online ISSN : 1348-091X
連載:変革期に挑む九州の底力−第15回− 九州の多様な集客戦略
鳥丸 聡
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2013 年 24 巻 3 号 p. 59-67

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抄録

九州の観光が栄えた歴史は古い。明治期末から大正期にかけて,長崎本線,鹿児島本線そして日豊本線が相次いで開業し,広域観光が可能となったのがきっかけである。当時の代表的な観光地は,別府や長崎,雲仙であった。大正2 年には,雲仙ゴルフ場が日本初のパブリックコースとして開業した。昭和に入ると,別府では地獄めぐりルートに日本初のバスガイドが同乗した定期遊覧バスが運行されたことから,国内一の人気温泉観光地へと成長した。そして当時人口が最も多かった長崎市は異国情緒あふれる大都市として栄え,雲仙は,東の軽井沢に匹敵するモダンな避暑地として長崎市に住む外国人の多くが訪れた。結果,昭和9年には,雲仙(と霧島)が日本初の国立公園に指定されている。そして,戦後の混乱期以降に九州は観光王国と呼ばれる時代を迎えたのである。1960年代に南九州(宮崎~霧島~指宿)が新婚旅行客で賑わい,同時期に九州を横断する別府阿蘇道路(通称「やまなみハイウェイ」)がオープンし(1964年),別府~阿蘇~熊本~天草~雲仙~長崎が九州観光のゴールデンコースとして人気を集めた。背景には,九州が本土最南端であり,南国イメージが定着していたことがあげられる。現在の九州新幹線や九州縦貫自動車道といった高速交通基盤が九州の南北を走っているのと対照的に,当時の九州の観光ルートは,主に北部九州を横断するルートと南九州を斜めに横切るルートの2 つが中心であった。 ところが,1972年の沖縄本土復帰と75年の沖縄国際海洋博覧会を契機に,沖縄がリゾート地として集客力を高めるようになるにつれて,九州の南国イメージは希薄化していった。その後,1985年のプラザ合意で円高が定着して以降は,全国的な海外旅行ブームで,九州は海外との競争を強いられるようになった。その後は1987年の総合保養地域整備法(リゾート法)施行でリゾート・テーマパークがブームとなり,宮崎シーガイアが第1 号として,また,佐世 保ハウステンボスがそれに続いたものの,僅か数年でともに破綻した。大牟田市のネイブルランド,荒尾市のアジアパークも短命に終わった。1990年に開業したスペースワールドも1997年をピークとして入場者数は減少に転じ,2005年には営業権が新日本製鐵からリゾート運営会社の加森観光に譲渡された。九州観光が停滞した理由は,ライバル観光地が国内外に続々と誕生しただけでなく,観光形態が,小規模少人数,旅行日数の短期化,客単価の低下といった具合に大きく変化したのについていけなかったことが大きい。かつての成功体験が,むしろ足かせになっていたともいえるだろう。さらに,ライバル観光地=北海道のイメージを色に喩えると「白」,スポーツならば「スキー」,食べ物ならば「カニ」とシンプルで,また沖縄のイメージは「青」「マリンスポーツ」「ゴーヤチャンプルやソーキそば」とはっきりしているのに対して,九州のイメージはぼやけてしまっており,行きたくなるイメージが希薄化してしまっているのも影響している。自然・歴史・文化・食べ物・飲み物といった観光集客資源が豊富かつ多様であることが,逆に九州観光を売り出す上で足かせとなってきた感も否めない。では,九州観光の進むべき道は,どこに見出せるのだろうか。 以下では,かつての物見遊山型の集客手段とは異なる九州の新しい集客戦略について,過去10年間で注目されるようになった「外国人旅行者受入体制」「MICE(マイス)」「フィルム・コミッション」「プロスポーツキャンプ」「世界農業遺産」そして「食品産業観光」の現状を概観し,その課題について考える。

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© 2013 公益財団法人 アジア成長研究所
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