日本建築学会計画系論文集
Online ISSN : 1881-8161
Print ISSN : 1340-4210
ISSN-L : 1340-4210
1851年-1921年のバンコク旧市街地における土地の形成過程 : チャウプラヤー・デルタにおける居住空間の環境共生型計画 その1
テーシャギットカチョン タードサク重村 力
著者情報
ジャーナル フリー

2005 年 70 巻 591 号 p. 103-109

詳細
抄録

1.はじめに チャウプラヤー・デルタにあるその他の地域と同様に、バンコクは独特な開拓手法によってつくられてきた。この開拓手法を通して、居住するのに困難であったデルタの低湿地地帯は、陸と水との調和がとれた環境共生的で豊かな生活空間へと、数百年の歳月をかけて、ゆっくりと変遷してきた。特に水文化から陸・水両立文化への転換期であるラマー4世からラマー5世の治世の間に、開拓の英知が多くみられる。ところが、ラマー5世以後、近代化と共にもたらされたモータリゼーションや近代都市計画などといった、既存風土を無視した思想に基づいた開発の影響によって、現在、その陸と水との調和状態が崩れかけている。このような開発では、陸と水との調和は無視されてきたため、市街地では、水害や都市居住環境問題など深刻な問題が絶えず頻発している。これを解決するために、既存風土に対応しながら熟考されてきた環境共生型居住空間の形成過程を再考する必要がある。バンコク旧市街地における土地形成過程をそのひとつの事例としてとりあげ、それを明らかにすることによって、現代都市計画にとって適切な題材になると考えている。バンコクの背景:アユタヤ時代の前衛都市からタイの首都に発展してきたバンコクの旧市街地はアユタヤの旧市街地と同規模でありながら、都市の基盤整備は完成に至らなかった。1922年の地図分析から、バンコクの第一期の旧市街地以外、すなわち第二と第三期の旧市街地の基盤は低湿地や果樹園地帯の輪郭などが著しく現れていることがわかる。特に、外濠と共にできあがった第三期の旧市街地には1908年まで果樹園が多く存在していた。この転換期に形成された旧市街地を研究対象とした。目的と方法:1922年に王立測量局によって作成された1/5000の地図と1908年に土地局によって作成された1/1000の地籍図を基に、水系地図と、寺院と貴族が所有していた土地を中心とした土地利用地図を作成する。次に、これらの地図を再合成し、3段階の水路網を摘出し、水路と主な土地利用の関係から、各要素が強調された地図を再作成する。最後に水路網と土地の形状などの相互関係を探ることによって旧市街地の土地形成過程を明らかにする。2.バンコク旧市街地の実態 その背景:第二期のバンコク市内において宮殿と寺院の敷地以外、その他平民の住まいの配置が禁じられていた。しかし、第三期の城壁に囲まれない市街地ができた頃には、その戒律が解禁されている。ただ、貴族と寺院の敷地の構成はそのまま受け継がれていた。貴族や僧侶の居住区域と、その使用人の居住区域の2つで構成されていた。また、公安などの理由で、それらの敷地は濠沿いに構えられていた。一方、庶民はその市内の外周に位置する郊外区域で農業を行っていた。広域教士地利用と水系の実態:土地利用は大きく二つに分類できる。一つは貴族と寺院が所有していた土地である。それは、地盤が固められた部分と果樹園のままの部分と分けられる。もう一つは、庶民も含む一般市民が所有していた果樹園である。各土地利用に応じて、水路が形成されていた。それらを大きく四つに分類できる。(1)幹線水路である河川、運河と濠、(2)幹線水路を連結する支線水路、(3)寺院の濠、(4)果樹濠である。狭域的土地と水系の形状と実態:研究対象地の上部地帯において、チャウプラヤー河沿いの土地はそれを軸として形づくられた。また、その低地地帯の土地形状も第二濠よりも、その川からひかれた支線水路を軸にして形づくられた。それに対し、下部地帯では、第二濠を軸として土地が形づくられた。また、短絡運河からその第二濠に並行してひかれた支線水路を軸に土地が形づくられた。貴族が所有していた土地は広く何枚もの果樹園から成り立ていた。それに対し、寺院の土地形状も広いが果樹園と関係なく形づくられた。その貴族と寺院が所有していた土地の周りには細かく分けられた土地が多くみられる。これらの土地形状に深く関わっているのは幹線水路に囲まれている低地地帯の果樹園を支えていた灌漑用水路である。水の供給と排水の機能をもつ灌漑用水路は大きく二つに分類できる。幹線水路からひかれた灌漑用水路とその支線水路からひかれた灌漑用水路である。その灌漑用水路がその他の水路と連結され支線水路へと変化したケースもみられる3.まとめバンコク旧市街地における広域的土地形成過程:市街化区域の土地形成過程において、先に居住区域が形成されたのは、比較的安定した地盤である幹線水路沿いの堤防だとみられる。そして、その堤防の裏手に沿って果樹園が並行に形成されたと考えられる。しかし、新たな幹線水路の着工がない限り、果樹園による土地開拓がより奥へと拡張することは不可能であろう。何故なら、その水の供給と排水が容易に行われないためである。バンコク旧市街地の場合、第三濠の着工によってそれが可能になったと考えられる。狭域的水系と土地形成過程:幹線水路に囲まれた低地地帯をも含むこの旧市街地の土地形成過程は果樹園の開拓によって進行されてきたと考えられる。これを実行するには二つの過程が必要とされる。一つは、水路の連結過程で、もう一つは果樹園の形成過程である。前者の水路の連結過程においては、幹線水路から支線の掘削から始まり、それらを骨格にまた更に水路がひかれる。それらをもう一方の新たな幹線水路からできた骨格水路と連結させるのである。後者の果樹園の形成過程は、二つのステップからなる。完成した一枚の果樹園ができるまでのステップとその後の展開のステップである。第一ステップは、灌漑用水路の発展と共に増加した果樹プロットの拡張で、初段階の土地形成過程に関わったステップである。第二ステップは、その完成した果樹園の土地を分離もしくは融合するステップである。これらのステップはいわゆる、分散している一般市民が所有していた土地、そして貴族や寺院が所有していた大きい土地の形成過程に関係するステップである。また、(1)外濠と短絡運河による大ブロックの設定、(2)第二・第三水路で成り立った水路網による小ブロックの構成、(3)最小ブロックである果樹園単位の構成、といった伝統的かつ漸進的手法の導入によって、利用不可能な後輩湿地から、灌漑・排水網、果樹園、居住地への変容過程が明らかにされた。このプロセスを通し、持続的な都市の創生過程においてデルタに適応できる都市計画へと発展していくことも考えられる。

著者関連情報
© 2005 日本建築学会
前の記事 次の記事
feedback
Top