日本建築学会計画系論文集
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南洋群島における日本植民都市の都市構造に関する研究 : (その3)台湾における日本糖業プランテーションタウンの形成過程
小野 啓子安藤 徹哉
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2007 年 72 巻 612 号 p. 177-184

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抄録

日本統治下ミクロネシア(旧南洋群島)の経済を牽引し、大量の移民とプランテーションタウンの形成を促したのは糖業であったが、その原点は日本が初めて植民地として領有した台湾にある。本論文は、ミクロネシアにおける日本型糖業プランテーションタウンの原型を台湾に求め、その成立過程や特性を文献、聞き取り調査、航空写真からの地図再現などによって解明している。強力な官民パートナーシップのもと、初めて台湾に進出した日本資本の製糖会社は台湾製糖株式会社である。その最初の製糖工場が高雄の北側・橋仔頭に設置されたのは1902年のことで、当初は治安不安定のため、工場の周辺に事務所や宿舎を集中して配置していた。1905年、山本悌二郎所長以下3名の技術者がハワイ視察に出向く。その際、現地で見たハワイ糖業の効率性や規模に感銘を受け、帰国後直ちに狭軌鉄道の導入やハワイ式工場の導入を進める。さらに二つ目の後壁林工場(1907年設立)の開設にあたっては、ハワイ視察に参加した技術者の1人で工場長となった草鹿砥祐吉(1875-1961)が農場や工場だけでなく、労働者のための宿舎区の計画もハワイを範として計画した。テニスコートのあるオープンスペースや社員クラブを中心に置き、職階に従って戸建て、二戸一、長屋建ての住宅などを周辺に配置している。こうした「社宅街」は続く屏東工場(1910年設立)ではさらに拡大された。1910年代に入ると多数の日本資本が台湾に進出し、30以上の製糖工場が建設されたが、並木のあるグリッド状街区に整然と建物が並び、購買部からレクリエーション設備まで備えた社宅街は台湾における糖業プランテーションに欠かせない象徴的な景観となった。やがて台湾における製糖業の成長の限界が認識され、新高製糖の専務であった松江春次が1920年代に南洋群島への進出を目論んだ際には、こうした台湾での経験を生かし、短期間で事業を成功に導くことができたのである。

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© 2007 日本建築学会
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