日本建築学会論文報告集
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明治 20 年前後における中等建築教育の研究
清水 慶一
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1981 年 310 巻 p. 143-151

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抄録

以上東京商業学校附属商工徒弟講習所職工科及び工手学校造家科等を中心とし, 明治20年前後の中等建築教育について分析と検討を加えた。その結果次の諸点が明らかとなった。明治20年前後は東京職工学校の当期の状況に端的にあらわれるように, 様々の中等工業教育の構想が提示された時期であった。この時期の教育構想あるいは教育方針は大別して2種類に分けることが出来る。その一つは, 従来より東京職工学校でなされた如く, フオアマン教育による中堅技術者養成の構想である。他の一は, 当時興隆しつつあったハンディクラフト教育を中心とする広汎な技能教育, 即ち手工教育の振興・発展による工業の発達をはかるという構想であった。東京商業学校附属商工徒弟講習所職工科はこの手工教育との密接な関連のもとに設立された。この手工教育における建築教育の位置は, 同校教諭であり熱心な手工教育の推進者であった上原六四郎の『手工科講義録』に示されるように, 木工技術教育の教程上に建具・指物などと並列し大工技術が置かれるという位置付けがなされていた。これは同講習所木工科のカリキュラムにも対応した。以上の如く我が国における最初期の本格的な中等建築教育は中程度の専門技術教育からでは無く, 手工教育との密接な関連のもとに発足した。一方, 私立専門教育機関においては上記の如き状況とは無関係に中等建築教育が開始された。工手学校の設立目的はきわめて明快であり, 先行して養成の完了した技師を補助する中堅技術者の養成が目論まれた。設立時の同校での建築教育は建築関連職の技術概要を教授するなど, 技能教育的側面も持っていたがこの方針は間も無く変更され工部大学校での建築教育を簡易にした専門技術教育に替えられた。中等建築教育, 即ち西欧技術の体系的教授は小規模な教育機関である工業夜学校においても行われた。特に工業夜学校の講義に基づいて編纂された『工業夜学校講義録』は最初期の建築啓蒙書として当時の大工徒弟にまで影響を及ぼしている。以上のように私立専門教育機関における中等建築教育は高級技術者の現実的必要性より生まれ, 高度な専門技術教育を簡易化した内容をとり, その意味で高等建築教育と一貫性のある教育方針が当初よりとられた。このように, 明治20年前後の中等建築教育は文部省実業教育施策上と私立専門教育機関においてかなりの相違がある。本稿の目的は明治20年前後に行われた中等建築教育の実体を解明することにある。以上の論考によりこの目的は達せられたが, 最後に本研究を通じて浮び上がった若干の問題点を付加しておきたい。我が国の本格的な中等建築教育の起点は東京商業学校での木工教育にあるとされる。この木工教育は専門的な技術教育では無く手工教育と密接に関わるものであった。手工教育は義務教育段階に及ぶ広範な技能教育を行うことにより, 工業を根底より興隆せんとするものであったが, 当時の我国の産業状態より見て木工教育を手工教育の中心に置かざるを得なかったであろうことは想像に難く無い^&lt56>)。この木工教育の教程上に大工技能が置かれていたことは前頁にて指摘した。このhandicraftの振興とは別に工業興隆の方策としてforeman養成という中等工業教育の方策があった。手工教育の開発・振興は明治25年頃を境とし, その後の中等建築教育はforemanの養成に切り変えられた。しかし, 前者が短時日で終ったとは言え, 手工教育の方向性が在来の建築職能である既成の大工職に連なりながら, その近代化を根底より押し進める可能性を含んでいたことを看過することは出来無い。本稿を作成するにあたって, 日本大学教授・山口廣氏からは草稿の段階で多くの御教示を得た。また, 大阪市立大学・福田晴虔氏, 東京大学・堀勇良氏よりは様々の助言をいただいた。記して感謝申し上げたい。なお, 本研究にあたって竹中育英会建築研究助成金を活用させていただいた。

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© 1981 一般社団法人日本建築学会
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