抄録
1 研究の目的
本研究は第2次世界大戦後に建設された戦後開拓地の中で,現在まで開拓農業協同組合の組織を維持しながらも,地域的に農業集落が崩壊したり,発展したりしている地区がみられる富士・朝霧高原の富士開拓農業協同組合を取りあげる。同地区を研究対象として,アクターネットワーク論の分析視点を取り入れながら,集落の発展もしくは崩壊の要因とそのメカニズムを明らかにすることを目的とする。
2 富士・朝霧高原における戦後開拓地の形成
静岡県富士・朝霧高原に位置する富士開拓農業協同組合は,標高500_から_900m付近の自然条件の厳しい地域に建設された戦後開拓地である。第2次世界大戦後,満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所の元教官であった植松義忠を初代組合長として開拓が進められた。入植地は標高500m付近と標高700m以上の地区に分かれ,それぞれに帰農組合を母体とする入植者の集団が地区を形成していた。標高500m付近は地元の二・三男らが中心となり,既存集落に隣接した土地で開墾を開始した。一方,標高700m以上の高冷地に立地した集落は長野県からの集団入植者らが中心となり,厳しい自然条件でありながらも,広大な土地を得て開墾を開始した。初代組合長の植松と,長野県からの開拓団を指揮し,2代目組合長を務めた伊藤義実は地域スケールにおけるグレートアクターとして,様々なスケールでのアクターとネットワークを形成しながら,営農基盤の整備を行った。
3 高度経済成長期以降の営農組織の変容
1954年に国家的スケールで行われた集約酪農地域の指定以降,富士開拓農業協同組合地区は国家的スケール,地方スケールの補助事業を取り入れながら,酪農を営農の柱にし,農業地域を発展させてきた。
1980年代以降,各農家では入植2代目に経営の主体が移行したが,高冷地域に位置する標高700m以上の地区では,酪農に専門化して経営規模を拡大させていった。その一方で,標高700m以下の地区は地方中心都市である富士宮市や富士市街に通勤が可能であったため,通勤兼業もしくは離農して通勤する者が多かった。このように,標高700mを境界として営農に大きな差異が生じてきた背景には,入植者の経歴が異なっていたことや,厳しい自然条件への適応能力の差異,さらには補助事業の導入を契機とした内的・外的なネットワークの重層性の有無などがあった。すなわち,標高700m以上の地区は入植者の経歴が同一であり,しかも酪農以外に営農の選択肢がほとんどなかったため,補助事業を積極的に導入しながら,酪農に関するトラクターやコンバインの機械共同利用組合やヘルパー組合などの様々な機能集団の外的なネットワークを形成した。一方の標高500m付近の集落では,それまでの集落維持を目的とした内的なネットワークが存続するのみで,外的なネットワークの形成はほとんどみられなかったため,離農化が進行した。
4 まとめ
富士開拓農業協同組合は,入植地の立地条件や自然条件,さらには入植者の経歴などの違いによって,酪農を中心に営農を発展させた地区と,離農化が進行し農業集落としての機能を崩壊させた地区とに二分した。両地区を分ける境界は,上記の条件などが明確に分かれる標高700mの線であった。
以上のことから,同一の開拓農協組織内においても,内的・外的なネットワーク形成の有無によって,農業集落が発展したり,崩壊したりすることが明らかになった。すなわち,アクターネットワーク論は農業集落の維持発展や崩壊の過程をより明確に分析し,把握することに有用である。