日本地理学会発表要旨集
2004年度日本地理学会秋季学術大会
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まち並み保存運動と空き家
*山本 真希
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p. 105

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抄録
1. 鞆の浦のまち並み保存運動 鞆の浦は,広島県福山市の中心部から南へ約12kmの場所に位置している。潮待ちの港として古くから栄えてきた鞆の浦は,交通の要所としてだけではなく,歴史の舞台として,また「日東第一形勝」と呼ばれた美しい景観を持つ場所としてもその名を馳せていた。現在でも江戸時代のまち並みと港湾施設が多く残っており,福山市の観光地として重要な場所となっている。 福山市による鞆の浦のまち並み保存事業が始まったのは,1977年,文化財保護法が改正されて伝統的建造物群が保護対象になった2年後のことであった。しかし,取り掛かりの早さとは裏腹に,事業自体は補助金でまち並みの調査をしただけという主体性のないものであった。 一方,車社会への移行とともに鞆の浦の産業を支えてきた鉄鋼業の衰退に危機感を持った住民らは鞆の浦のまちおこしを目指して動き始めた。その矢先に出てきたのが鞆港埋め立て架橋計画であった。 鞆港埋め立て架橋計画は,福山市の南部バイパス道路として位置づけられた計画であった。当初は漁協との補償問題の争いにより中断されたが,1992年の鞆地区道路港湾計画検討委員会の発足により再開されたのであった。 まち並み保存を願う住民らはいくつかの反対グループを発足させ、署名活動や要望書の提出など,反対するための直接的な運動とともに,もっと自分たちがまちのことを知らなければならないということでまち歩きやシンポジウムなどの勉強会を重ねてきた。反対する住民らは鞆の浦のまち並みと港の景観はセットで守らなければならないと主張した。一方で,同じセットであっても福山市側はまち並み保存事業と埋め立て架橋計画をセットとした。こうした福山市の考え方は,埋め立て架橋計画を正当化するために1950年からすでに都市計画決定されていたまち並み保存予定地区内の関江の浦線を,現在の約4mから7mへ拡幅するという計画の代替案として後付されたことから出てきたものであった。 結局,埋め立ての申請に必要な排水権の同意が得られないということもあり,2003年9月に埋め立て架橋計画は事実上の中止ということになった。と同時に,セットとされたままであるまち並み保存事業においても,伝統的建造物群保存地区(以下、伝建地区)への指定へ向けて,あとは都市計画決定をするだけという状態で市の予算が凍結されたのである。2.まち並み保存からまちづくりへ埋め立て架橋計画に反対の者も賛成の者も,まち並み保存については対立をしなかった。ただ両者の考える保存の範囲に違いが生じたため,お互いの歩み寄りがないまま時を過ごすこととなった。その間,まち並み自体は高齢化や少子化,人口流出といった社会一般的な傾向から空き家が増加していった。空き家の増加は全国的にみられ,都市部から離れている場所に多い伝建地区ではよりはっきりとその傾向がみられる。しかし,その現場においては行政のさまざまな対策にも関わらず空き家減少の成果が見られなかったり,またそもそも空き家の増加を問題として捉えられていなかったりする現実がある。まち並み保存に関する研究においても空き家の増加は問題点として触れられている程度である。しかし,空き家は空き地や駐車場になる可能性を含んでおり,特に維持管理が大変な日本家屋が残るまち並みでは,放置しておけばまち並みとしての意味をなさなくなる可能性がある。そうした中、「鞆の浦海の子」というグループは反対運動の時から培ってきた知識をまちづくりという実践の場で生かそうということで「NPO鞆まちづくり工房」を2003年に設立した。彼らがまず重点的に取り組んだのは空き家の利活用であった。空き家の利活用は,まち並みを保存する方法のひとつとしてだけではなく,住民がまちづくりに関わるきっかけともなる。空き家の増加を社会的な傾向であるとして後回しにするのではなく,減らしていくために空き家の持つ利用可能性をどう活かしていくかを考えていかなければならない。それはまち並み保存に関わらず,より広い範囲のまちづくりに対応できるものと考えられる。NPOの取り組みがその先行的な事例として掲げることができるかどうかが今後期待される部分であろう。
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© 2004 公益社団法人 日本地理学会
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