日本地理学会発表要旨集
2004年度日本地理学会秋季学術大会
選択された号の論文の189件中1~50を表示しています
  • 荒木 一視
    p. 1
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.  はじめに グローバリゼーションの下で,かたや「世界の工場」,かたや「世界のバックオフィス」とたとえられる両国は,いずれも良質な労働力と先進国との賃金格差を背景に経済成長を遂げている。同時に,この現象が両国の国内において大きな経済格差をもたらしていることも事実である。本報告では農産物を例にとり,国内の流通体系の変化を明らかにするとともに,「商品連鎖」を鍵概念として,地域間の経済格差とそれに基づく商品の移動という面から検討を行う。具体的にはインド,中国国内における成長を続ける大都市に牽引された農産物,特に生鮮野菜流通の広域化とその背景に焦点を当てるが,それはグローバリゼーションと無関係ではないと考える。グローバリゼーションの下での成長をとげた都市・地域が,国内の野菜流通の広域化の原動力になっているからということだけではなく,国内の産地と消費地の関係に,インド,中国の相対的に安い賃金とそれにより作り出された製品が世界を席巻するというグローバルスケールで認められたのと同じ構図を読みとることができるからでもある。2.インドと中国の農産物流通の広域化 1990年代を通じて農産物流通,特に生鮮野菜類の広域流通が大きく進展した。その背景として野菜生産の伸び,卸売市場の拡充をはじめとした流通機構の整備,グローバリゼーションを背景にした都市部における消費水準の向上などを指摘することができる。 たとえばインドでは90年代を通じて,野菜の生産量は大幅に増加した。また,「Green Revolution」「White Revolution」など一連の食糧政策をうけて,目下「Golden Revolution」が掲げられている。「Golden Revolution」とは野菜や果樹,養蜂などを含む園芸農業の振興を目指すものである。農家に現金収入の増加をもたらすとともに,ウッタルプラデーシュ州のエンドウ豆,マハーラーシュトラ州のタマネギ,西ベンガル州のカリフラワーなど大きなシェアを握る突出した産地が出現している。流通段階ではインド全土の農産物卸売市場を結ぶネットワークの構築を目指したプロジェクト(AGMARKNET project)が進められている。このプロジェクトでは顧客に全国の農産物市況を瞬時に伝えることを目指した作業が進められ,第一期プロジェクトでは全国670の卸売市場が対象となった。ネットワークの構築による情報の開示は公正な市場取引を保証する上で重要な役割を果たし,従来型のメディアによる市況情報の制約を大きく覆しつつある。最後に都市における消費水準の向上,中間層の出現は多くの指摘するところであり,その旺盛な消費が需要を支えているものと考えられる。たとえばデリーの野菜市場の動向からはカリフラワーの入荷における端境期が消滅しつつあることが読みとれた。3.2つの商品連鎖 このような状況をどのように捉えるのかという問題が残る。インドや中国で生み出される商品やサービスが,先進国の市場に流れ込むことは,現実問題として両国に相当の経済成長をもたらしたことは事実であろう。同様に,インドや中国の相対的に経済水準の低い農村部から,成長を謳歌する都市部への農産物の出荷は農村部に現金収入をもたらし,国内の農産物流通の拡充は富の分配装置として機能するといえるかもしれない。その一方で,先進国経済への依存を高めることに対する警戒感も存在する。また,これらの国で生産される商品の多くが買い手主導の連鎖(Buyer driven commodity chain)に位置づけられ,商品やサービスの生産者・供給者の置かれる立場は脆弱である。買い手主導という商品連鎖の特徴は,国内の農産物流通においても同じで,生産者の立場の脆弱性も同様であると考えられ,こうした側面に対する充分な検討もなされるべきである。その際,グローバルな商品連鎖の研究においてなされた議論は,こうした国内スケールあるいはさらに小規模な地域的スケールにおいても,有効な枠組みを提供するものと考える。
  • 山田 和芳, 高安 克己
    p. 2
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
    会議録・要旨集 フリー
    はじめに出雲平野南西部に位置する神西湖の湖心で採取したボーリングコア試料の記載および年代測定をおこない詳細な層序を明らかにして,帯磁率,CNS分析,鉱物組成,主要化学組成および全有機炭素含有量の分析結果に基づいて完新世後期における湖内の水質や周辺地域の環境変遷について検討をおこなった. 神西湖堆積物コアの層序と年代全長24.3mのコアの最下部にあたる深度24.3_から__から_22.0mは,暗灰色砂_から_シルト層である.その暗灰色シルト層を覆うように灰色シルト_から_細砂層が深度22.0_から_16.4mに堆積している.深度17.1m付近には鬼界_-_アカホヤ火山灰(K-Ah:町田・新井,1978)と同定された灰白色細砂薄層が挟在する.深度16.4_から_14.5mでは,平行葉理が顕著に認められる黒灰色泥層である.深度14.5_から_1.1mには,生物擾乱が認められる主に無層理の灰_から_灰褐色シルト_から_泥層が認められる.同層準では,深度14.4m付近に,層厚10cm程度の礫層を,深度10.9,5.3m付近に細砂薄層を,それ以外にもところどころ粒径の粗い粒子を含む薄層が挟在する.これら多くの薄層は,下位の層準を削り込むように挟在している.コアの最上位にあたる深度1.1m以浅では,下部に有機質粘土層を含む主に灰から暗灰色泥層で構成されている.また,コアの年代測定を11層準で行なった結果から,コアは過去9,500年間の連続堆積物であり,過去の湖内および周辺陸域の環境変動を精緻に記録している可能性が高いことが明らかになった. 結果と考察 各種分析結果のうち,黄鉄鉱・白鉄鉱_-_菱鉄鉱の鉄鉱物組成の変化や,TS含有量変動であらわされる過去の神西湖の水質変動結果から,完新世における神西湖の堆積環境は以下の6つのステージに分けられる:9,500_から_7,300年前:内湾_から_汽水環境,7,300_から_4,000年前:汽水環境,4,000_から_1,900年前:淡水環境,1,900_から_1,100年前:汽水環境,1,100_から_400年前:淡水環境, 400年前以降:汽水環境.[4,000年前の環境激変の記録] 約4,000年前に神西湖の環境は,汽水環境から淡水環境に一変する. 4,000年前よりも前のステージでは,黄鉄鉱が多く含まれる主に平行葉理を呈する泥層が堆積して,堆積速度も小さく一定であることから,汽水環境下の比較的安定した堆積場であった.一方,それよりも後のステージでは,生物擾乱が顕著なシルト_-_泥層が堆積して,洪水性堆積物も混入しはじめる淡水環境下のステージに変化する.そして,その境界にあたる層準では,火山噴出物を含む洪水性堆積物が挟在している.この環境激変の原因のひとつは,三瓶太平山の火山活動が挙げられる.この火山活動が,当時の出雲平野の自然環境に大きな変化(ダメージ)をもたらしたことは容易に想像できる.しかしながら,一方で,約4,000年前は,急激な寒冷・乾燥化が世界的に認められており,大きな完新世における気候寒冷イベントが存在している.[歴史時代における堆積環境変遷史]歴史時代における神西湖および周辺地域の環境は,紀元0年から平安時代中期までが汽水環境であり,これは出雲風土記で編纂されている「神門水海」であらわされる大きな潟湖を示すものと考えられ,海水が再び流入しだしたものと予想される.また,紀元0年頃から,アルミ濃度が増加し出すとともに,洪水イベントが頻発している.これは,人為的に土地改変が進み,突発的な集中豪雨などによって,簡単に表層土壌が洗い流されやすくなったことを示唆するものであり,紀元0年頃からの人間活動による土地改変が進行していたことを暗示する.事実.出雲王国の前身にあたる出雲西部で発した「原イツモ国」に関する遺跡が弥生時代中期から後期に集中しており(門脇,2003),神西湖の湖底堆積物に記録される人間活動の影響が出始める時期と一致している.一方,「神門水海」を形づくる潟湖は,外洋とつながる砂嘴が出雲平野北方から埋積しだして徐々に淡水化する(徳岡ほか.1990).神西湖では平安時代中期より淡水環境になり,その後,淡水環境が,江戸時代初期まで続いている.また,このステージでは,いくつかの洪水性堆積物も挟在している.古文書には, 14世紀付近の出雲平野南部の水はけの悪さや,洪水による災害の頻発について記載されている.今回明らかになった堆積環境は,これら古文書記録を忠実に反映しているものと考えられる.そして,最後の江戸時代初期以降では再び汽水環境に変わる.この水質変化の原因は,1687年に差海川が人工的に開削され,外洋とつながり,その川を海水が遡上することで汽水環境になったものと考えられる.
  • 朝水 宗彦
    p. 3
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
    会議録・要旨集 フリー
    オーストラリアが日本人にとって代表的な観光地になって久しいが、同国の観光産業が発展するためには様々な障害があった。「距離の暴虐」を克服するためのインフラ整備は1980年代にある程度進んだが、白豪主義のイメージを払拭するための対外的なアピールは多文化政策が導入された70年代から現在に至るまで続けられている。しかし、シドニーオリンピックが「緑」と「諸民族の共生」という良いイメージを対外的にアピールしたのにもかかわらず、近年の日本人観光客数は伸び悩んでいる。
  • 設樂 律司
    p. 4
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
    近年、中心商店街では停滞、衰退化が問題となり、様々な活性化策が講じられている。従来の中心商店街の活性化では、ハードが重視される傾向があったが、次第にソフトが重視されるようになり、地域イベントなどが広く行われるようになった。本研究は商店街の活性化を目的とする地域イベントを多面的な視点から評価し、また、地域イベントが効果を挙げるプロセスを明らかにする。
    本研究は江戸期以来、西多摩地域の中心都市として栄えたが、現在は中心地機能が衰退している東京都青梅市のJR青梅駅周辺の商店街を対象とし、そこで行われている地域イベントを主とした商店街の活性化策を取り上げた。既存の統計や文献資料、現地調査結果を用いて商店街の特徴を把握した後、地域イベントの運営主体と商店会および市役所への聞き取り調査および現地での地域イベントと景観の観察の結果から、地域イベントとその主体および地域がどのように関わるのかを時間的に把握し、それら3者の関係の中から内発的な地域イベントによる商店街の活性化の構造を明らかにした。

    2.青梅宿アートフェスティバルによる街おこし
    商店街が衰退する中、青梅駅周辺の商店街では、各商店会が単独で、あるいは共同で独自の地域イベントなどの活性化策を講じてきたが、効果は上がらなかった。そのような中、商店街の経済的な活性化を目的として1991年に始められた青梅宿アートフェスティバルは商店街を観光地化させる大きな契機を生み出した。青梅宿アートフェスティバルは青梅宿アートフェスティバル実行委員会と各商店会によって運営され、毎年設定されるテーマに沿って市民参加的なアートが街全体を舞台にして行われている。テーマは1993年から大正・昭和をコンセプトとし、1998年頃からノスタルジィーをキーワードとするようになった。青梅宿アートフェスティバルが継続されていく中で、様々な地域資源が掘り起こされ、新たな地域資源が生み出されるなかで、街おこしが始まっていった。街おこしが始まっていくとマスコミによって青梅にいくつかの地域イメージが与えられた。それらの地域イメージに合わせて、掘り起こされた地域資源を活用した街づくりが展開された。それらの結果、青梅は映画の街、怪傑黒頭巾生誕の地、猫の街、雪女縁の地、昭和レトロな街として街づくりがされた。

    3.青梅宿アートフェスティバルの効果
    青梅宿アートフェスティバルの経済効果は当日も期間外もあまりない。しかし、青梅宿アートフェスティバルを通して形成された人的ネットワークが多様な効果をもたらした。青梅宿アートフェスティバル以前は、各商店街で閉じていたネットワークが、青梅宿アートフェスティバルの継続とともに、青梅宿アートフェスティバル実行委員会のネットワークと接続し、開かれた2段階のネットワークを形成するようになった。この結果、青梅宿アートフェスティバル実行委員会内のコミュニティが強化された。このネットワークは青梅駅周辺の商店街に共同の意識を持たせ、各商店会単独ではできないような事を実現した。開かれたネットワークは街おこしのきっかけとなった地域資源の掘り起こしを可能にした。開かれたネットワークはさらなる街おこしを可能にした。また、開かれたネットワークを通して、地域外交流が生まれた。ネットワークがさらに広がったところでは、マスコミによって地域イメージが創成された。
  • 小橋 寿美子, 藤井 紀行, 堀  信行
    p. 5
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
    会議録・要旨集 フリー
    レッドウッ(Sequoiasempervirens、スギ科)は、樹齢2000年を超え樹高100メートル以上になる世界で最も高くなる針葉樹で、北米西部の海岸線にそって帯状に分布する世界でこの地域にしかない固有種である。氾濫原では純林を形成し、そしてその背後の尾根へと異なる環境下でも生育可能だ。分布がこの地域に限定される理由として、夏季に発生するこの地域特有の霧の存在や土壌のタイプの違いによって説明されてきた。しかしレッドウッドの分布と霧の分布が一致しなかったり、分布域にはさまざまな土壌のタイプが存在することから、レッドウッドの分布が何によって規定されているのかわかっていない。北カリフォルニア海岸地域は沖合いにあるプレートの沈み込み帯の存在のために隆起・沈降、地震など地殻変動が激しい特徴をもち、南東_-_北西方向に走行する断層に並行した河川が複数存在し、流路変動の過去を持つものが多くある。湿潤を好むレッドウッドにとって河川の存在は重要で谷底は好環境であり、洪水によって供給される無機質土壌とそのたまり場としての氾濫原はレッドウッドの更新に必要なものである。これまで河川とレッドウッドの更新方法(更新は攪乱と密接な関係があること)の関係と北カリフォルニアの地学的特徴に注目して帯状分布を考察すると、この地域の激しい更新世の地殻変動による隆起とそれに伴う河道の動態に密接に関連していることが推測された。そして「レッドウッドの帯状分布は,旧流路の氾濫原をあらわす。」という仮説を提示し、よって現在の帯状分布は、河川堆積物で構成される表層地質の分布と重なることが予想された。本研究では、レッドウッドの分布成立についての新たな仮説を検証することを目的として、1)レッドウッドの分布と表層堆積物が河川堆積物と一致するかを確認するために、分布域全域のレッドウッド林の地表面の観察と、地形図(10万分の1)から段丘地形と思われる平坦面を抜き出し、地形分類図を作成し分布域の地形学的特徴との関係を検討し、2)AFLP法*を用いた遺伝子解析により、集団内・集団間の遺伝的特徴をもとめ、遺伝的構造が旧流域ごとにまとまるかを検証した。主座標分析をもちいて個体間の類似度を、PAUP*4.0(Swofford, 2000)をもちいてNJ法によるデンドログラムを作成し個体間の近縁関係を、AMOVA(Arlequin, Ver. 2.000)を用いて集団内、集団間そして流域間での変異量の割合を求めた(11集団129個体、プライマーセット:EcoRI+AAG/MseI+CCCAG)。レッドウッドの分布域中・北部にかけては、分布域で山腹・谷壁斜面で礫層が確認でき河川堆積物と分布域の相関を見出すことができたが、分布域南部では河川起源の堆積物は一箇所でしか確認できなかった。分布域の地形学的な特徴は、標高約150メートルから600メートルの間にレッドウッドが分布していることと、尾根部は平坦面が広く谷壁斜面上にはいくつかの段丘と判断される平坦面が確認された。また分布境界線は断層と一致することが多かった。一方分布しない地域は、尾根部や斜面上の平坦面を欠き標高も高くなる傾向が見られた。AFLP解析の結果、一組のプライマーセットから335本のフラグメントが検出された。AMOVA解析により集団内の遺伝的変異の割合が94パーセントと高く、集団間や流域間に占める遺伝的な変異(集団分化)は小さく、NJ法によるデンドログラムからは、流域ごとの遺伝的構造は見られなかった。主座標分析ではサンフランシスコ南部の集団が遺伝的にまとまる傾向を示した。集団間でサンプル数に偏りがあるものの、各集団の多型的なフラグメントの割合を比較すると、斜面や尾根に成立する集団よりも氾濫原上の集団の方が高い傾向がみられた。谷壁斜面上の礫層の存在および地形分類図の作成により、レッドウッドの分布域中・北部を流れる河川では、かつては現在よりも河川勾配が緩やかで河道が広く、広域に河川堆積物が存在し、現在の中流域は土砂の堆積場である氾濫原であったことが推測された。サンフランシスコ南部で河川堆積物が確認されなかったことは、地殻変動に起因するマスムーブメントによる地表面の攪乱が分布域中・北部よりも活発で、段丘地形に対応する段丘堆積物が維持されにくいことが考えられる。AFLP解析においては、旧流域でまとまるような傾向は見られず、遺伝子解析からは先に提示した仮説を支持する結果とならなかった。しかしAFLP法の感度が非常に高く流域間の違いが集団内の違いに埋もれてしまった可能性がある。また広範囲からの花粉の飛来や6倍体ということも関係しているかもしれない。今後はAFLP法よりも感度が低いオルガネラDNAを用いた解析を行い、地理的な構造が見られるかどうか検討する必要がある。
  • 二通 里江子
    p. 6
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.背景1972年、第17回ユネスコ総会で採択された世界の文化及び自然遺産の保護に関する条約(以下、世界遺産条約)の目的は、過去の文明の実相を解明する手掛かりとなる遺跡や貴重な自然等の保護を通じて、多様な文化を相互に尊重することである。この精神に基づく活動の一環として、地域における文化的な多様性が反映された世界遺産の登録があげられる。しかし、世界遺産の登録制度には根源的な矛盾がある。世界遺産条約は、世界遺産としてふさわしい物件を「世界遺産リスト」に記載し、世界中の国や民族が誇る「現代を生きる世界のすべての人々が共有し、未来の世代に引き継ぐべき人類共通の宝物」として保護することをうたっている。しかし、「世界遺産としてふさわしい」という価値は、あらゆる文化に共通しているとはいえない。評価による価値はある文化的な価値である。また、多様な文化の水平化を目的としつつ、その評価による差別化が前提であるといった根源的な矛盾を含んでいる。したがって、文化の多様性が反映された世界遺産リストとは、存在不可能であることが指摘できる。このことから、世界遺産の「価値」が問題となる。2.研究の目的・意義本研究の目的は、風景論の視点を取り入れ、世界遺産を「再発見」型と「追認」型の2つに分けて議論を展開し、漠然としていた世界遺産の「価値」を明らかにすることである。風景の価値が創造され、それが地域の中心と位置づけられるとき、その風景は物質的・表象的に変化する。ある文化における風景がある評価基準に組み込まれた場合、その風景は何度も変化する可能性が高い。しかし、世界遺産に登録されることで風景がどのように変化するかという点から、世界遺産の持つ価値とその位置づけを明確に論じている研究はほとんどみられない。また、世界遺産の価値を明らかにすることは、何を遺産として継承していくかを明確にすることにつながる。このことから、本研究の意義は高いといえる。3.風景論から見た世界遺産の「価値」風景は、文化、時間及び各個人によって異なるものであるため、常に変化し続ける。風景の観点から見ると、ある評価基準である世界遺産という「ラベル」によって、遺産の「絶対的」価値はその風景とともに変化し、その価値の変化をもたらす。その変化が、観光資源としての価値を創出する。したがって、遺産の価値は、次の3つに分けることができる。遺産の持つ「絶対的」価値、希少価値、それを観光資源として捉えた場合の利用価値である。世界遺産という「絶対的」価値は存在しない。仮に「絶対的」価値が存在するとすれば、それは遺産に内在している価値である。この点に着目すると、世界遺産に登録されることで創造される価値は、希少価値であると考えられる。また、遺産が世界遺産として登録された場合、それを観光資源として利用する価値が生じる。それは、遺産の「絶対的」価値を前提としているが、「ラベル」による差別化がもたらす希少価値によって高められる。それによって高められた利用価値は、遺産の「絶対的」価値を維持管理する費用となる可能性がある。以上の関係を踏まえ、世界遺産の登録を「再発見」と「追認」の2つ型に分けた。ある文化における評価では日常化していて、偶然的な継続が評価された場合に「再発見」、ある文化において継続的に価値が維持されていたものを登録した場合「追認」と区別することで議論が明確化した。
  • 中川 清隆, 長坂 裕一
    p. 7
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
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    GPS気象学において静水圧遅延量を求める際には、GPSサイト上空の大気重心高度に於ける重力加速度の値が必須である。ラジオゾンデデータにより大気全層の空気塊の持つ位置エネルギーの積算値と大気全層の総質量を求め、両者の比の値を標準重力加速度で除して大気の重心高度を求めた。大気重心高度の変動範囲は6.0km_から_7.5kmで、盛夏(7月_から_8月)に最大となる年変化を示すとともに、短期間に激しく振動している。この振動は、地上気温の振動と対応している。大気重心高度の変動と地上気温の変動の対応関係は、寒気移流の場では下層に比較的重い空気塊が存在するため大気の重心が降下し、暖気寒気移流の場では下層に比較的軽い空気塊が存在するため大気の重心が上昇する結果もたらされると考えられる。 ゾンデデータによる大気重心高度Hc(km)の実験式が得られた。決定係数は0.991、標準誤差は±47mである。ゾンデデータから求められる大気重心高度は大気上端部データ欠損により過小評価されているので、この式において大気上端部データ欠損無しとして求めた値は真の大気重心高度に近いと看做せる。この方法により求めた真の大気重心高度は7.2km_から_7.7kmの範囲を変動する。
  • 平井 幸弘
    p. 8
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
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    1. 干潟の保全・再生と大規模干拓事業 近年、身近な動植物の絶滅や生物多様性の喪失などの危機感を背景に、干潟の保全・再生に向けて新たな動きが見られる。例えば、名古屋港奥の藤前干潟では、84年の名古屋市によるゴミ埋め立て計画に対し「藤前干潟を守る会」等による幅広い運動の結果、99年1月に計画は撤回され02年には国内13番目のラムサール条約登録湿地となった。また、93年に埋め立て計画が出された東京湾奥の三番瀬でも、市民による反対運動と堂本知事の誕生によって01年11月に計画中止となり、04年1月には住民主導で作成された「三番瀬再生計画」がまとめられた。しかし一方で、諫早湾と韓国西南海岸セマングム地区では、それぞれ国内最大規模の干潟を対象とした大規模な干拓事業が、今まさに進んでいる。2. 諫早湾干拓問題における「科学的データ」 諫早湾干拓事業では、00年度のノリ大不作を契機として、「ノリ第三者委員会」が設けられ、潮受け堤防の中・長期開門調査が提言された。しかし国は委員会解散直後に立ち上げた「検討委員会」の否定的な見解を受け、04年4月に調査は実施しないと表明した。その理由は、コンピュータシュミレーションによる検討の結果、開門によって調整池内のガタ土が流出し漁業被害が発生するとし、またノリ不作の要因は、地球温暖化による影響や河川からの供給土砂の減少など複合的であるとした。しかし、漁業被害を予測したシミュレーションについて、その仮定や手続き、信頼性などについては触れず、要因が複合的という説明も具体的な根拠は示されていない。一方「有明海漁民・市民ネットワーク」と日本自然保護協会は、有明海全域77個所の表層水・底層水の溶存酸素の簡易測定を行い、諫早湾の底層の酸素濃度が低いこと、底層の貧酸素化と赤潮の発生が密接に関連していることなどを明らかにし、第三者委員会もこの貧酸素水塊に注目した。3. セマングム干拓事業における「科学的データ」 セマングム干拓事業は91年に着工されたが、社会的に注目されたのは、先に進んでいた始華干拓事業で、内部調整池の深刻な水質汚染が96年夏にマスコミ報道されたことが契機となった。その後の論争過程では、内部水面の水質予測や失われる干潟の評価について、海洋水産部・海洋研究院や環境部・国立環境院などが独自の調査を行い、事業主体の農林部に対し、独立した立場から科学的データを提出し節目で農林部とは異なる意見を表明していることが注目される。諫早の場合、農林水産省に対する国土交通省や環境省による独自の調査や見解は聞かれない。4. 「科学的データ」と研究者、市民・住民 日韓の大規模干拓事業をめぐる議論において、その評価に関する「科学的データ」と研究者および市民・住民の関わりについて、以下の点を考えたい。(1)「科学的データ」は専門家や公的機関が収集・分析したものが絶対優位ではなく、むしろ現場で生業を営む住民が、適切な手続きに従って得られたものも重要な「科学的データ」となる。研究者はそのような地域に根ざしたデータを作り活用すべきである。(2)「科学的データ」は、空間的、時間的に限定される傾向があるが、対象事項の深く多面的な理解のためには、例えば諫早湾干拓では、有明海にとどまらず韓国や中国を含めた東シナ海の干潟と言うより広い視点、また時間的にも近世の干拓以前から海面上昇の影響も考慮すると、今後100年後くらいまでの視野で問題を捉える必要がある。(3)「科学的データ」として議論されるのは、一般に自然科学分野のデータに依存しがちであるが、研究者は個々の専門領域を越えて、広く社会科学的視点からの議論も含めて、総合的また大局的に評価することが必要である。(4)「科学的データ」の公開では、第三者が追試可能な生のデータも含むべきで、特定の立場からの解釈、分析、整理された資料ではない。その意味で真の情報公開を求め、得られた生データを公平にわかりやすく市民に伝えるのは、研究者の役目である。
  • 小原 規宏
    p. 9
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
    会議録・要旨集 フリー
    _I_ 研究の目的現在,EUでは,アジェンダ2000において明記されたルーラリティをキーワードに,地域の主体性を重視した農村開発が行われている.ルーラリティは,最近,農村地理学の分野においても重要で新しいテーマとなっている.ルーラリティは,曖昧な概念であるが,それは,社会文化的な現象として定義される.ルーラリティの意味は,しばしば,農村地域の性格と関連付けられ,その農村地域の性格の中では,農村のコミュニティが生じている.これらの地域では,環境的,経済的な側面が,農業生産と関連した性格とコミュニティの状態を表している.農業生産は多くの先進国において,衰退しているので,一般的には,ルーラリティは都市化の進展とともに低下している.しかしながら,ルーラリティは,農村地域のいくらかの基本的な要素を再編することで維持され,新たに生み出されている.それゆえ,ルーラリティは,農業生産,土地利用,農地、農家,そしてそのコミュニティから成る.これらの要素の相互関係は,ルーラリティの発展のために重要な働きをしている(Halfacree 1995;Liepins 2000).ルーラリティという言葉は,学術的な研究においては,曖昧なものであるが,多くの研究者の間で共通しているルーラリティを説明することができる3つの主な特徴が存在している(Lane 1994).そこで,本研究では,地域が主体となった農村開発が多く行われているドイツを対象として,それらの指標を用いて,ルーラリティが維持されている地域を選び出し,ルーラリティが持続することによっていかなる農村の再編が起こっているのかを明らかにする._II_ 研究対象地域上記の指標を用いて対象地域を選定してみると,ドイツ・バイエルン州南部ヒンデラングにおいてルーラリティが持続している村が多く,特にウンターヨッホでその傾向が強いことが明らかになった.ウンターヨッホは,バイエルン州南西部に位置するゲマインデ・ヒンデラングに属する村の1つである.アルゴイアルプスの1支谷に位置し、標高は1013mである.2000年現在,総世帯数28戸のうち19戸が農業と観光業などを組み合わせた多就業経営を行っている._III_ ウンターヨッホにおけるルーラリティによる社会的持続性 ウンターヨッホでは,1980年代になると観光を中心とした農村の再編が行われた.ウンターヨッホでは,古くから農業の複合経営の伝統に基づく農業と農外就業を組み合わせた多就業経営が行われてきたが,1980年代に入ると,EUの共通農業政策,及び1980年代の観光業を中心とした再編に伴い,農業を集約化させる農家や観光業を重視する農家がみられるようになった.これによって,多就業経営の組み合わせが多様化していったものの,農業と観光業を中心とした多就業経営は維持され,ルーラリティを構成する農地や森林は維持された.1990年代入ると,アクショングループと呼ばれる地域住民と第三者的な機関を主体としたボトムアップ型の再編が行われるようになり,ウンターヨッホでも1990年代後半から再編が進められた.この際,ウンターヨッホの住民が選択したのが有機農業を中心とした再編であり,有機の認証団体を農村の再編に参加させた.これは,1990年に発生したBSE問題,およびEUの通貨統合に伴い物価が上昇することが懸念され,都市部の小売店が差別化を図るために有機農産物を取り扱うようになったことによる影響からであった.ウンターヨッホでは,有機の認証を受けるために,生産規模を適正化させなければならなくなり,放棄されていたアルムが再利用されるようになった.アルムの再利用に伴って経営耕地面積が拡大したことで,慣行農法を行なう経営体も農業経営の規模拡大が可能となり,生産規模の適正化,労働集約的な農業経営を行なうことが可能となった.また,有機農産物は,都市への出荷を主としたもので,認証団体が都市とウンターヨッホをつなぐ役割を果たしており,観光業を重視する経営体にとっても利益をもたらしている.このように,ウンターヨッホでは,その組み合わせは多様化しているものの,各経営体が多就業という形態によって,ルーラリティを構成する要素に何らかの関係を持つことで,再編に際しての合意形成がスムーズに行われ,ルーラリティが維持されてきた.また,逆に,ルーラリティが維持されることで,村民と都市住民や行政とのネットワークが形成され,コミュニティが維持されている.そして,本研究では,ルーラリティが維持されることによって,農村コミュニティも維持されるとともに,農村の再編によってコミュニティの性格も変化していることが明らかになった.
  • 淺野 敏久
    p. 10
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
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    1.はじめに 本発表では諫早湾干拓事業をめぐってどのような出来事が起きてきたのかを概観するとともに,干拓推進・反対の運動さらに現在の有明海の異変と事業の関連を問う運動の流れを紹介し,この問題を「場所の意味をめぐる問題」として捉えることの有効性を述べる。2.諫早湾干拓事業をめぐる問題の流れ 「有明の子宮」とよばれた諫早湾では,第二次大戦後,早い段階から大規模干拓が構想・計画されており,情勢の変化や沿岸漁民等の反対により,それらはつぶれたり復活したりしてきた。それでも1983年からのプランは規模縮小と事業目的に治水を掲げたことで実際に動き出し,90年代半ばの潮受け堤防の締め切りが全国的な反対運動を招いたことで,大きな社会問題になった。堤防閉鎖後,有明海のノリ養殖などに悪影響が及んだため,有明海沿岸漁民や一般市民を巻き込んだ新たな環境運動が生まれている。3.場所の意味をめぐる問題としての諫干 この一連の動きをどのような問題ととらえるのかは,問題の解決のためにも必要な作業である。特に,現状ではさまざまな文脈からの主張が出されており,それらがかみ合っていないことに問題の一端があるようにも思われる。このさまざまな立場からなされる主張の文脈のズレを,「場所の意味をめぐる問題」として捉えようというのが本報告の趣旨である。
  • 洪 性泰
    p. 11
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
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    1.地域破壊の観点近代国家はいわば「開発国家(Developmental State)」といえる。近代国家とは、確立した法制度と国家機構を利用し、持続的な経済成長を追求する国家である。近代化の過程で、開発とはもっぱら工業化を意味するものであった。しかし、工業化とは単なる工業という新しい産業の登場を意味するものではない。それはある社会の空間的な変化とも密接に関連するものである。 開発国家は、工業化を推進しながら、国土開発というなの下に空間の変化をも強力に推し進める。工業化が産業開発とすれば、国土開発は空間開発である。産業開発と国土開発は近代化の二本柱である。 国土開発の実態は地域開発である。地域開発は自然と地域社会を大きく変貌させる。したがって、地域開発をめぐる熾烈な対立と葛藤がしばしば起こる。こうした事態を防ぐため、近代国家は強力なイデオロギーを作り、言いふらした。「開発はすなわち発展」という開発主義がそれである。 しかし、我々は地域開発が行われた全てのところから、開発主義の虚構性は確認することができる。地域開発は長い年月をかけて形成されてきた自然と地域社会に取り返しのつかない傷を残している。このような「傷」を癒すため、我々は、地域開発を「地域破壊」という観点から見直す必要がある(洪、2000)。それは自然と地域社会の人為的な破壊であり、そういった意味で地域破壊は生態的かつ文化的な二重の破壊である。 セマングム干拓事業は世界でも類をみない地域破壊の事例である。それは世界的にもまれな河口干潟であるセマングム干潟を全てなくす自然の破壊事業であり、セマングム干潟を生活基盤として長い年月にかけて築き上げてきた集落やそこでの営みをなくしてしまう地域社会の破壊事業である。2.セマングム干拓事業の経過 セマングム干潟は韓国全羅北道の群山市、金堤市、扶安郡一帯の巨大な干潟である。その規模は韓国最大であるのみならず、世界的にも大規模な干潟である。セマングム干拓事業の開発面積は40,100haであるが、従来韓国で行われた干拓事業の平均面積の約1000倍であり、独立後に行われた干拓面積の約65%にのぼる。当初、事業期間は1991年_から_2004年とされていたが、全国的な反対運動により工事期間は大幅に延びている。事業費も当初は2兆51億ウォンと計上されたが、工事が進むにつれ大幅に膨らみ、2003年度にはすでに6兆4475億ウォンを超えている。なお、防波堤完成後の土地造成にかかる費用を含めると、総事業費はさらに膨らむ。3.セマングム保存運動の展開 セマングム干拓事業による地域破壊に対する指摘は防波堤工事が始まった直後からなされていたが、本格的なセマングム保存運動が始まったのは1996年の始華湖の汚染問題が全国的な関心事として登場してからである。セマングム干拓事業においても始華湖と同様に淡水湖を造成する計画があるため、始華湖の汚染はセマングムの将来を示すものと考えられた。 セマングム保存運動が本格化するにつれ、問題的も広く知らされるようになった。第一に、経済的な問題である。莫大な税金を消耗する事業であるが、経済的な妥当性が全くないことが判明された。第二に、生態的な問題である。セマングム干拓事業は世界的にもまれな河口干潟を完全になくし、この地域に深刻な生態的な被害をもたらすことことが危惧される。第三に、文化的な問題である。干潟がなくなれば、干潟に依存して営んできた人々の生活もなくなる。要するに、セマングム干拓事業は総体的な地域破壊事業である。 セマングム保存運動の特徴の一つに研究者の大々的な参加がある。環境運動や社会運動において研究者の参加そのものは特に珍しいことではない。しかし、「セマングム生命学会」のような学際的な組織を作り、国際的な調査活動をはじめとする様々な活動を展開することはセマングム保存運動が始めてである。報告者も環境社会学者としてこの学会に参加しており、「参与連帯」の政策委員長としてセマングムの保存に励んである。 世界的にみて、セマングム干拓事業はきわめて後進的で時代遅れの事業であり、世界的な恥と言える。セマングム干潟は世界的な自然資産である。我々にはこの資産を次世代に残す責任がある。
  • 伊藤 達也
    p. 12
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.環境問題をめぐる研究者の立場_-_個人的経験_-_ 環境問題を見据えた研究を行おうとした場合、どの立場で考え、議論に参加するかが絶えず問われてくる。 筆者は今年5月、木曽川水系フルプランの改訂作業を進める国土審議会水資源開発分科会木曽川部会へ、徳山ダムの問題点に焦点を当てた意見書を、徳山ダムをやめさせる会のメンバーとともに提出した。徳山ダムをやめさせる会は昨年8月に結成された市民グループで、これまで関係行政機関への要請行動、要望書の提出、総選挙における徳山ダム問題の焦点化活動、監査請求、そして今回の意見書提出等を行ってきた。メンバーには大学教員、弁護士らのいわゆる専門家と問題に関心を持つ市民が参加している。 このように見れば、筆者は徳山ダム建設反対という非常にはっきりとした立場で自らの議論を作り、発言し、活動していることになる。一方、意見書の提出先である木曽川部会には、河川工学、農業土木学等の研究者が名を連ね、政府施策を肯定的に捉えた改訂作業を行い、徳山ダム事業に最終的なゴーサインを提出した。しかし、筆者に限らず、木曽川部会メンバーもいわゆる「科学性」を放棄した上で、こうした発言、活動をしているわけではないはずである。ここに環境問題をはじめとする社会問題に関わる研究者の立場問題が存在する。2.研究の現状 上述したように、筆者らと木曽川部会メンバーとの間で、徳山ダム建設をめぐる判断は180度異なっていた。その理由はどこにあるのだろうか。一つは問題自体の科学的検証が不十分で、研究成果から明らかにできることが必ずしも十分でないことである。特に環境に関わる問題については、科学的予測・検証テクニックそのものがまだ十分に熟しているとは言えないところがある。これは徳山ダム問題に限らず、韓国のセマングム問題や日本の諫早問題でも同様である。一方、水資源開発・管理等、かなり成熟した領域と思われている分野でさえ、科学的知見から最終的な政策判断に至るまでには相当の距離がある。これは研究がどのような前提で行われ、どのような目的に利用されるかによって、幾通りもの答えを描くことができることによる。3.研究の可能性と限界 環境研究の熟度が十分でない等の問題は、今後、研究成果が蓄積されていく中で一定の解決をみる部分はあるだろう。しかし、対象とする現象や問題が複雑化するほど、特定の見地から分析を試みる研究の成果はより大きな限界を抱えていかざるを得ない。それでも、科学的知見が深まっていけば、政策選択の幅を狭める可能性を有していることは間違いなく、徳山ダム問題でも、政府計画の前提は市民グループ側の主張を大幅に取り入れたものにならざるを得なかった。もちろん、それによって計画がストップするわけではなく、別の論理を立てて計画は続行されている。ここに研究の可能性と限界が存在する。4.研究の前提と市民・行政 研究者が問題化する対象をテーマにした場合、こうした可能性と限界を念頭に置いて研究を進めていくことになる。科学的知見が蓄積されることによって研究の前提に一定の幅のプラットホームが用意されていくのではあろうが、その幅は相当広く、研究者間の研究前提がタイトに一致する場面を想定することは相当困難である。 そうした状況において、研究者の研究前提はどのように設定されていくのであろうか。筆者の見解は、研究前提はそれを取り巻く社会のどの部分と接点を持つかにかかっていると考えている。研究を取り巻く社会を自らの属するアカデミーと考えるのか、アカデミーを取り巻く社会とするのか、また、社会の中でも行政(開発指向型)との整合性を重視するのか、市民グループ(環境重視型)の主張に耳を傾けるのかによって、研究の前提、分析プロセスは自ずと異なったものとなり、研究結果も大きく変わってくる。 今回のシンポジウムテーマである環境問題論争の日韓比較を通じて、この問題をより具体的に検証してみたい。
  • 淺野 敏久, 金 哲
    p. 13
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
    会議録・要旨集 フリー
     東アジアの干潟保護問題として注目される諫早湾干拓と韓国のセマングム干拓。それぞれが現在,どのような状況になっているのかについて関係者からの報告を交えて確認するとともに,このような環境問題論争において科学的なデータがどのような意味をもち,使われ方をしているのかについて議論を深めたい。日韓の環境運動の比較,環境問題研究における自然科学的視点と人文・社会科学的視点の比較などに焦点をあてることになるのではないかと考えている。ただし,人文・自然相互の違いを強調することを意図しているわけではなく,むしろ,具体的な現場の問題において研究者はいかにそれに向き合うのか,関わるのかという,研究者の立場の問題を論じたい。 本シンポジウムに関する問題提起は次の伊藤報告,平井報告においてなされる。
  • 上野 和彦
    p. 14
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
    会議録・要旨集 フリー
     中国の工業化は,いくつかの段階に分けられる.1980年代の工業化は郷鎮企業の成長にみられる農村工業化である。これは改革開放政策あるいは内発的工業化を象徴するものとして注目され,中国の工業発展を先導した役割は極めて大きい.とくに上海周辺および以南の東部沿海地域-江蘇省,広東省,浙江省-における郷鎮企業の発展は顕著であり,特徴ある"発展モデル"となった.そして,これら市場経済化の"実験"がその後の中国経済の方向を規定づけたと言ってもよい. 1990年代以降,郷鎮企業の中には中国大手家電メーカーとして成長したものもいるが,市場競争産権処理に向かう企業もあり.停滞時期を迎える.一方,企業制度改革進展と国内市場の拡大によって,工業発展の先導役は次第に郷鎮企業から個人経営企業や華僑系,日韓・欧米系などの外資系企業に移行していく.そして国有企業もこれまで計画経済時代からの負の遺産処理を続けてきたが,1990年代半ば以降ようやく企業改革による株式会社化,外資系との合弁などによってようやく成長軌道に乗りはじめ,中国の工業化は新たな段階に入っている.既に家電,自動車産業分野において,旧国有企業系企業の著しい成長と競争がみられ,中には国内市場のみならず海外生産拠点を持つグローバル企業として成長した企業もある. 中国の工業化と成長をめぐる議論として,中国の工業成長が基本的な枠組みとして改革開放政策に規定されながらも,何が郷鎮企業や都市の国有企業の成長をもたらした要因であるのか.そして中国の工業成長が経済のグローバル化にいかなる影響をもたらしているかなどがある. 前者は労働力の低コストによる輸出市場の拡大,先進諸国からの資本投資が指摘されているが,それ以上に汎用技術-近年は先端技術-の導入と学習システム,それを通した素早い製品化技術の獲得と生産システムの形成が重要である.中国企業にとって,外資導入という資金調達よりは合弁・合資および提携を通した"技術"の獲得が成長のカギを握っている.中国大手家電メーカーの美的や海尓の成長はその典型である.後者は先進諸国市場における「中国脅威論」であり,中国市場をめぐる外資系企業進出問題である.
  • 目黒 潮
    p. 15
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
    会議録・要旨集 フリー
    1. 問題提起
     1980年代以降,グローバル化に伴う資本と労働力の国際的な移動によって,日本でもエスニック集団が増加しつづけている.外国人との協働を円滑に行うため,外国人犯罪を抑制するため,社会的にも政治的にもエスニック集団についての報告は焦眉の急として求められている.しかし,地理学からもエスニック研究は蓄積されているが,既存の研究視角では,現在の実情に適応させるのは困難であることも明らかになりつつある. その理由の一因として,これまで地理学で主流を占めていたシカゴ学派の研究手法であるセグリゲーション研究が,在日エスニックに適応させにくいということが上げられる.政府が今後の労働力として着目している「研修生・技能実習生」「日系人」などの在留資格を持つエスニックは,雇用主が厳格に住居を定めており,彼らは原則的に住居移動ができない.このため,すべてのエスニック集団がセグリゲーションによって集住区をつくれるわけではないのである.ここで新たな概念として「繋留点」を提起する.繋留点の原義は,エスニック集団が自国民のネットワークに参加するための「たまり場」を示すものだが,本研究ではこの繋留点が持つであろう性質として以下の仮説を提起し,実証調査によってこれを検証した.1) 繋留点と集住区は,点的と面的という相違があるが,同様の形成要因によって作られる.2) 繋留点は在日エスニック集団が作るネットワークがどのように展開しているかを明らかにする.3) 繋留点は,集住ができないエスニック集団にも利用することができる.4)繋留点の場所性を分析することでエスニック集団の実態を明らかにし,今後の日本社会に対する影響を予察するとともに,都市構造と繋留点の関連性を見出すことができる.2. 目的、調査対象国籍本研究の目的は, 2003年に関東圏で行った在日インドネシア人が形成した繋留点に対して行った調査をもとに,仮説を検証することにある.在日インドネシア人は東京都新宿区に若干の集住傾向を持つが,「研修生・技能実習生」や「日系人」などが半数以上を占める.彼らは住居移動が困難であり,仮説の検証を行う上での対象として妥当である.3. 結果および考察在日インドネシア人の繋留点として機能している事例としては,バライ・インドネシア(東京都目黒区),大洗ベツレヘム教会(茨城県大洗街),上野恩賜公園(東京都台東区),などがあげられる.各繋留点に在日インドネシア人が集まるのは,いずれも強い同郷意識が原因であり,同時に日本における言語や文化の差異から生まれる分断化が原因であるとの回答を得られた.これは仮説の1)を説明する.長期の滞在者にはバライ・インドネシアに集まる者が多く,ミナハサ地方の出身者は大洗町に特徴的に多く,大洗ベツレヘム教会に集まる.また,労働環境が過酷で,日本に短期間しか滞在できない研修生・技能実習生は上野公園に多い.このように,階層に応じて繋留点に集まる者は異なり,仮説の2)を説明する.特に,上野公園は,日本国内での居住移動が認められない研修生・技能実習生が特徴的に多く,中部地方や甲信越地方からも集まって来る.これは仮説の3)を説明する.また,上野公園はインドネシア人が自発的に集まった繋留点であり,本国の品物の売買や,イスラームの布教活動が行われている.この現象は換言すれば,在日エスニック集団が日本の入国政策に対して柔軟な対処を行った結果,繋留点が顕在化し,しかももっぱら故地を再生産する役割を担ったといえる.また,住居移動を規制した結果,その繋留点は大都市内部にのみ形成され得たともいえる.これは仮説の4)を説明するものである.このような結果から,近年の入国政策の影響を受けた在日エスニック集団が,日本社会との共生から遠ざかる兆しを持つことがが示された.住居移動が困難な在日エスニック集団に対しては,このような繋留店の場所の性質に対する研究視角を持つことによって,地理学の立場から実態を明らかにすることができるといえる.さらにそこで得られた結果は,現在着目されている,在日エスニック集団に対する妥当な政策や社会的な対応を考慮する上で,地理学から提供できる新たな素材となりうるのである.
  • 戸所 泰子
    p. 16
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
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    1. 研究の視点と目的 個々の地域が長年培ってきた景観を国民共通の財産と認識し、良好な景観形成を目指す動きが活発化している。地方の主体的な街づくりを目指す「景観法」が2004年度中に施行されるのもこの流れにある。地域固有の景観を創るには、建築物の更新に際し、歴史的な町並みと新規建築物との調和が必要となる。その際、地域の伝統的建築物の存在意義は大きく、その活用保存が不可欠である。 景観の視覚的把握には、建築物それぞれの形態・規模・色彩が大きく影響し、その検討が必要となる。発表者は景観に現れる色彩の中で、伝統的建築物などに多用される「当該地域の自然・文化・社会を反映し、地理的・歴史的に育まれた色」を「地域の色」と定義して研究を進めている。 本研究では、特に伝統的建築物(以下、町家)とその意匠を継承した中高層建築物(以下、町家風建築物)の外観構成要素の色彩に着目し、「地域の色」からみた戦後の都市景観の変遷と、「地域の色」継承・創造の動きを考察する。2. 研究対象地域 「地域の色」の研究には、それを色濃く残す伝統的建築物が集積し、過去の関連資料が豊富な地域が適する。また、伝統的建築物の意匠を継承した建築物が一定数存在し、「地域の色」を現代に活かしている地域が良い。 本研究では、それに適合する京都市を取り上げ、北は御池通、南は四条通、東は寺町通、西は烏丸通に囲まれた京都都心部を研究対象地域とした。また、当該地域の中で町家や町家風建築物が多く確認され、街路再生の動きが顕在化している堺町通を、より詳細に検討する事例地域に選定した。3. 研究方法 都市景観の変遷は、戦後の町家の減少過程を空中写真から把握した。次に、都心部の全建築物の立地状況と町家風建築物の空間利用を現地踏査で把握した。堺町通については、建築物の外観構成要素の材質と使用色彩を調べた。測色はマンセル値記載の色票に基づく視感測色法を用いた。4. 結果 _丸1_町家の減少は都心部で著しく、1960年代以降の高度経済成長期とバブル経済期に著しい。現在の町家数は50年前の4分の1近くまで減少している。 _丸2_町家風建築物は、小売・卸売業を営む事業併用住宅に多く採用されており、職住一体型という町家の性格を強く継承している。また京都の伝統的建築物の景観をある程度保ちつつ、中高層化によって空間・機能の両面から都心の高度利用を可能にしている。 _丸3_改修町家には人工素材の新建材が用いられ、街路景観の連続性喪失の一因をなす。他方、町家を想起させる町家風建築物の外観構成要素には伝統的建材が踏襲されている。 _丸4_改修町家や中高層建築物の増加に伴う色の増加が、地域性喪失の一因をなす。しかし、町家風建築物の外観構成要素の色彩は、町家の伝統的色彩を用いており、町家の減少により失われた伝統的街路景観の連続性を補完している。5. 結論 戦後における都市景観の変遷は、建築基準法などの法的規制と、建築素材や建築技法などの「地域の色」継承システムの有無に規定される。都市景観の変遷を地域の色からみると、時系列的に次の3期に分類できる。・第1期は、1950年の建築基準法制定までである。この時期は建築技術や生活様式の変化が緩やかで、伝統的建築物の維持システムも広く存在した。そのため、特段の努力なしで景観保持が可能な、「地域の色」再生産期といえる。・第2期は、1950年から高度経済成長期・バブル経済期である。全国一律の法制と建築技術や生活様式の急激な変化で、伝統的建築技法などの景観維持システムが失われた。従って歴史景観保持が困難となった「地域の色」喪失期といえる。・第3期は、バブル経済崩壊後から景観法施行後を含む時期である。伝統的建築物の活用保存などにより、歴史景観を維持発展させるシステムを創造し、個性豊かな地域性を再構築するための「地域の色」継承・創造期といえる。
  • 深見 聡
    p. 17
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
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    _I_.はじめに 近年、まちづくりの新たな手法として、地域住民みずからが主体となって行政等と協働のもと「地域資源」を再発見し、それを発信しようというエコミュージアム活動が各地でみられる。まちづくりを進める上で不可欠な交流人口(観光客)の拡大につながるものとして、現代の多様化した観光形態に応えうるものとの期待も高い。 エコミュージアムと従来の博物館との相違は_丸1_主体としての住民の存在、_丸2_対象となる資料の分散範囲をテリトリーとする、_丸3_官民が対等の位置づけにあり、まちづくりに取り組むという3点に集約できる(新井,1995)。国内における動向もほぼこれに沿った形での運営がなされている。その先駆けは1989年の山形県朝日町における研究会発足にあり、2000年にはNPO法人朝日町エコミュージアム協会が誕生している。また、鹿児島県隼人町では地元の志學館と町生涯学習課などと住民が協働して築100年の駅舎を中心とした、決して数年前まで地域資源として一般には注目さえ集めなかった地域が、農産物の販売や散策マップの配布で地域資源が見直された。2004年にはJRの観光特急列車が停車するまでになっている。いずれも成功地といわれる地域に共通するのは、度合いの濃淡はあるにせよ上掲3つの要件を備えていることにある。しかし、これらのほとんどの事例は、農村地域(周辺地域)で展開されている(井原,2003)。エコミュージアムの定義からすれば、都市部での取り組みが少ないのは意外ともいえる。本研究では、都市のなかの過疎地域と言うべき旧中心市街地における活性化の手法としてエコミュージアムに注目し、地域住民の取り組みの模様や意識の実際を、参与観察法にもとづいて把握しその効果と課題を明らかにしていく。_II_.対象地域の概要 鹿児島市南部に位置する谷山地区は、1967年に鹿児島市と合併するまでは谷山市として国鉄谷山駅や市電谷山電停から南側にのびる国道225号沿いおよび周辺は商店街を形成するなど谷山市としての拠点性を持っていた。しかし、合併以後現在まで人口は約4倍の増加をみたが、それは郊外の新市街地の誕生の結果であり、旧市街地の停滞化は著しい。2002年に谷山TMO構想が策定されたものの、まちづくり手法として有効性を発揮するには至っていない。_III_.谷山エコミュージアムの確立に向けた動き エコミュージアムの対象地からみた旧市街地は、周辺地域にはない「地域資源」が存在する。たとえば、谷山地区には鹿児島市内唯一の19世紀建造の石橋が旧街道の河川に架かり、近世から近代にかけて塩田が広がっていたことを伝える塩釜神社がある。また、商店街には樹齢100年を超える保存樹がある。ところが、これらを一体のものと位置づけた固有の資源として、地域住民(とりわけここでは専門的な関心を抱く者を除いて地域住民という)が主体となり積極的に発信、すなわち活用してこなかった。以下、参与観察による成果を示す。住民みずからが「地域資源」を探すワークショップの開催 このような経緯を踏まえて、地元のNPO法人「かごしま探検の会」が常設の組織機能を担い、『たにやまエコマップ』作りをとおしたエコミュージアムの確立を図った。 ワークショップは2003年9月から毎月第2土曜日に計5回開催した。参加者は延べ62名で、その多くは高齢者と小中学生、旧市街地外の谷山地区に居住する者であった。毎回、ファシリテータとなるNPOのスタッフがおよそのルートを提示して、地域資源と感じたものに理由を添えて写真やスケッチに収め、散策後は各自がそれらをブレインストーミングしながら白地図1枚に集結させていった。とくに、子どもの視線がおとなだけでは見つけにくい、何ら変哲のないような空地や河川に棲む生き物に関心を向けさせ、遊び空間を実体験に基づいて記録していたことは特筆すべきであろう。
  • 金 木斗 哲
    p. 18
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
    会議録・要旨集 フリー
    セマンゴム干拓事業をめぐる賛否両論は、従来の‘開発か環境か’という対立の地域的な展開を越えて、直接的な利害関係をもたない人々をも巻き込んで全国的な展開を見せている。これを空間スケールでみると、‘干拓事業の直接的な利害関係住民=生活基盤をなくすことなので反対だが,補償との関係で消極的;補償対象外の地元住民=地域振興への期待と環境悪化への不安;広域の地元(全羅北道)=地域振興への期待で賛成;全国=環境面への配慮からおおむね反対’という構図といえよう。実際に、広域の地元(全羅北道)のマスコミの論調は事業の早期完工を促すものばかりで,テレビの討論番組で反対を表明した地元大学の教員(とその所属大学)は地元住民の抗議電話で職務が中止されるほどであった。また、知事選挙を含む地方選挙では常に「複合産業団地」への用途変更を視野に入れた公約が表明されており,推進派、反対派を問わずセマングム干拓事業によって造成される土地が農地として利用されると考えている人はほとんどいない。(無論、このような図式は、理解のために単純化したものである。)このようにセマングム干拓事業をめぐる論争が全国的に拡大した背景には、セマングム干拓事業そのもののが従来の干拓事業とは桁外れに大規模であること以外にも、‘地域感情’称される負の遺産を残している韓国の国土開発の展開と1980年代の民主化運動の過程で培養された市民の政治的交渉能力の向上が大きくかかわっている。したがって、セマングム干拓事業をめぐる対立構図を理解するためには、韓国における国土開発や1980年代の民主化運動に関する理解が不可欠となる。ここでは、セマングム干拓事業との関連のもとに韓国の国土開発の特徴と1980年代の民主化運動の経験を紹介し、それらがセマングム干拓事業をめぐる論争(または運動)とどのようにかかわっているかについて報告者の見解を述べたい。1.国土開発政策の展開とセマングム問題1962年に始まった第1次経済開発5ケ年計画(1962_から_1966)を契機に韓国は高度経済成長期に入り、1980年代まで華々しい経済成長と国土全体にわたる地域変動が続いた。第6次経済開発5ケ年計画(1987_から_1991)に至る過去30年間、その国土開発戦略は拠点開発(1960・70年代)、広域開発(1980年代)、地方分散型開発(1990年代)、均衡開発(2000年以降)と、地域間格差を縮小する方向へ変わりつつあると言われているが、1960年代から始まった国土空間の両極集中(ソウルを中心とする首都圏と釜山を中心とする東南臨海地域)は依然として解決に向かわず、国土面積の約25%に過ぎないソウル_から_釜山軸上に総人口の70%以上が住んでいる。このような過程で開発の恩恵から最も遠ざかっていたのが湖南地方と呼ばれる全羅南道と全羅北道であり、この地域における開発からの疎外感は、当地域出身の政治家である金大中氏への迫害への憤慨とも相まって,「抵抗的地域主義」を生み出した。セマングム干拓事業に対する地元(全羅北道)の執着には、このような国土開発からの疎外に対する補償心理も大いに働いており,複合産業団地のような地域経済への波及効果の大きい産業部門への用途変更がその前提となっている。2.1980年代の民主化運動の経験とセマングムセマングム問題の社会的な表様態が諫早のそれとと大きく異なる原因の一つは、1980年代の民主化運動の経験から蓄積された市民運動団体の組織力と高い政治的交渉能力から求められよう。韓国の民主化運動に参加した個人や組織は、リベラルな市場主義から社会主義までの多様な理念的なスペクトラムをもっていたが,「反独裁民主化」という共通の目標(戦術的であれ戦略的であれ)のもとで戦った。1990年代に文民政府(金永三政権)が誕生して以来、反独裁民主化戦線はほぼ消滅し,運動はそれぞれの専門領域ごとに細分化していった。こうした中で本格化したセマングム保存運動では、1980年代の民主化運動の過程で蓄積された連帯、連携、戦線の経験が存分に発揮され、環境運動団体のみならず宗教界、労働界など市民運動団体のほとんどが参加する国民的な運動へ発展しつつあり、「生命」という哲学的な概念で結ばれている。その結果,セマングム干拓事業をめぐる論争は、初期の「科学的なデータ」の解釈をめぐる部分的なものから、哲学的かつ全国的なものへと拡大しつつある。
  • 浅田 晴久, 松本 淳
    p. 19
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
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    1.はじめに
     アジアの主要な稲の生産国はアジアモンスーン域に位置しており、その生産はモンスーンに伴う降雨による影響を強く受ける(吉野 1999)。しかし、インドにおける穀物生産量が夏のモンスーン降水量と高い正の相関関係があるのに対し(Parthasarathy 1992)、隣国バングラデシュでは、ガンジス川・ブラマプトラ川という大河川の河口部に位置し、洪水が頻発するという特異な水文・地形環境にあるため、稲の生産量には洪水の影響も大きい。特に近年は、大規模な洪水が多発しており、農業への影響が懸念されている。本研究では、バングラデシュにおける前世紀後半の稲の生産量の変動を作期別に詳しく解析し、特に大洪水が発生した年に注目して、バングラデシュの稲作生産の変容と洪水との関係を解明する。
    2.バングラデシュの稲作体系
     バングラデシュでは、モンスーンに伴う季節に対応して、Aus, Aman, Boroという3つの作期がある。Ausはプレモンスーン期(4-5月)に雨が降り始めるとともに作付けされ、モンスーン降雨と洪水がピークに達する前(7月)に収穫される。洪水が引き始めるのに合わせて、8月にはAmanが作付けされ、11月に収穫される。Boroは唯一、乾季(12月から4-5月まで)に栽培される品種で、その栽培には水の供給が不可欠で、一般に灌漑が必要である。
    3.結果と考察
     図1に示すように、バングラデシュにおける稲の総生産量は、この50年間に3倍以上増加した。特にBoroの伸びが著しく、これが生産量全体の伸びの主要因となっている。大洪水が発生した年(1955, 1974, 1987, 1988, 1998)の被害面積は、時代とともに増加している一方、洪水年1年あたりの稲生産量のへ被害はむしろ小さくなってきている。これは洪水年には、Amanの生産量が減少するのに対して、その減少量以上に洪水後の乾季に作付されるBoroの生産量が増加するまめである。
     生産量の変動を、作付面積と単収とに分離して考察すると、作付面積の変動が、生産量変動の主要因であった。すなわち、洪水年には耕地が水没するためAmanの作付面積が減少し、Boroの作付面積が増加する。Boroの栽培には灌漑が必要だが、洪水年には灌漑面積以上に作付面積が拡大しており、洪水時の余剰な地表水の利用によりBoroの作付が促進された可能性を示唆している。
     単収に関しては、洪水年にはそれほどの変化は見られず、むしろ洪水後数年にわたり、単収の上昇が見られる。これは洪水によって土壌が更新されるとともに、大洪水を契機にして在来種(Local)から改良品種(HYV)へと作付体系の変化が加速するためである。
    4.まとめと課題
     本研究では、バングラデシュの稲の生産変動と洪水との関係を、長期間にわたる統計資料によって解析した。バングラデシュの稲作は近年、洪水のリスクの少ない乾季作Boroへシフトしており、特に大洪水年を契機に大きな変化が生じた。今後は、河川上流にあたるインド領内との比較を進めていきたい。
  • 飯塚 隆藤
    p. 20
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
    会議録・要旨集 フリー
    研究の目的河岸とは,物資の積み降ろしを行う船着場に加え,河岸問屋などの運輸機構,またその機能を持つ集落のことであり,河川舟運にともない形成された.しかし,河川舟運は明治中葉から昭和初期にかけて鉄道の開通や陸上交通の発達,河川改修の影響を受けたため,船の航行が困難になり,河岸が衰退していった.荒川の舟運が鉄道の開通にともない衰退していく過程について,老川(1983・1988)や丹治(1984), 小野塚(1988),加藤(1988)の研究がある. 老川(1983・1988)や丹治(1984)は,荒川の河岸の衰退時期には地域差があることに着目し,特に上流の河岸の方が下流の河岸よりも衰退時期が早いと論じている.一方, 小野塚(1988)や加藤(1988)の荒川本流河岸場変遷一覧表によれば,上流の天水河岸や平方河岸は昭和20年頃まで続いており,下流の河岸よりも衰退が遅い.このように河岸の衰退時期は異なるが,衰退時期の地域差について,十分な検討がなされていない.そこで本研究では,老川(1983・1988)や丹治(1984),小野塚(1988),加藤(1988)の研究を踏まえ,荒川における河岸の衰退時期の地域差について河岸の機能との関係をみるだけでなく,荒川の舟運を流域全体として捉えながら検討した.研究方法調査対象地域は,河岸場復原図の存在する小野塚(1988)の平方河岸と加藤(1988)の12河岸を合わせた13河岸とした.小野塚(1988)や加藤(1988)の荒川本流河岸場一覧表があるが,その内容は河岸の時期と機能との関係を検討する史料として格好の材料である.そこで本研究ではこの荒川本流河岸場一覧表を分析材料とし,不明確な点を文献調査,旧版地形図の比較,現地での聞き取り調査,フィールドワークをおこない,13河岸の機能と衰退時期との関連について検討した.結果荒川における河岸の衰退過程を4つの時代に区分して,図1と表1に表した._I_.舟運最盛期荒川は江戸後期から明治初期にかけて舟運の最盛期を迎え,河岸が周辺地域と大都市東京(江戸)間の結節点となっていた._II_.日本鉄道の開通と河岸の衰退明治中期から明治末期にかけて日本鉄道の開通にともない,物流のなくなった河岸や問屋の廃業した河岸は衰退していった.しかし,鉄道開通後も物資の輸送が増大した河岸も存在した._III_.河川改修と河岸の衰退1920年(大正9)から1935年(昭和10)頃にかけて治水を目的とした河川改修がおこなわれ,河岸と河道が切り離されたり,築堤工事によって係留や通航が困難になったりした結果,その影響を受けた河岸は衰退していった._IV_.河岸の最終期1945年(昭和20)頃まで続いた平方河岸・天水河岸は船で砂利や砂,玉石を採取し,トロッコ列車や馬車で鉄道駅まで運搬していた.河岸内の集落が砂利や砂,玉石の採取に従事していた.まとめ 荒川における河岸の衰退時期は明治末期から昭和初期と地域差がある.これまで衰退時期の地域差に関する研究は,各河岸を面的に捉えたものはなく,点として検討されてきた.しかしながら,河岸の衰退時期には地域差があり,各河岸の機能によって衰退時期が異なることが推量される.
  • 中條 曉仁
    p. 21
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに 現代の山村では高齢社会化が急速に進展し,高齢者を地域社会の中心的な担い手として位置づけざるを得ない状況が出現している。山村における高齢者の主な社会的役割として,地域農業をめぐる生産活動や地域コミュニティの運営が指摘できる。このうち農業をめぐる生産活動は,高齢者自身の日常生活に加え地域生活をも成り立たせてきた。それは地域社会関係の基軸をなしてきたものであり,社会生活と一体化した状態が保たれている。高齢者の生活における農業の占めるウエイトはきわめて大きいと考えられる。 本報告では,高齢者による生産活動を,山村という日常生活にさまざまな制約や条件を付与する居住環境での生活維持を目標とした行動ととらえる。これは,高齢者が生活実現を図るために展開する主体的行為として位置づけられ,「生活戦略」として把握される。分析では生活戦略を編成する「資源」が創出されるしくみ,特に高齢者が生活戦略の資源となる生産活動に従事し続けられるメカニズムに注目する。対象地域は高齢化の著しい四国山地にあって,高齢者による農業生産や農産加工といった生産活動が展開されている高知県吾北地域である。2.家族農業経営における高齢者の役割 吾北地域には県内屈指の茶業地域が形成されているが,茶業農家のうち個人の製茶工場を経営する自園自製農家の高齢者に注目する。自園自製農家は,生産労働や家事労働などが高齢者を含む家族労働力の分担によって展開されている。いずれの農家も若年層が農外就業に就いており,高齢者が経営主体となっている。ここでは,高齢者がこれまでに蓄積した知識が役立てられている。特にマニュアル化しきれない部分,例えば防除における病虫害発生の予測や最適散布頻度の決定,製茶における製茶機械の微調整などでの役割がある。しかし,加齢に伴う高齢者の身体的変化は,高齢期以前から創出されてきた生活戦略を予期せぬタイミングで予期せぬ形で崩壊させてしまうという危険性を内包している。特に,後継者のいない農家では経営の存続や経営内容の縮小を迫られているが,これらの対応は高齢者による適応の所産としてとらえることができる。3.女性高齢者による生産活動グループの形成 対象地域では,女性高齢者を中心とした農家女性が集落を母体とするグループを形成し,農産加工活動や対外的な販売活動に従事している。ここでは,経済的充足に加え空洞化しがちな地域社会関係を充足するという意義が見出せる。こうした女性起業が可能になる背景として,女性の行動と世帯や集落との間で生じる緊張関係が調整され,解消されていることが指摘される。世帯との緊張関係は夫や子どもなど家族員との間で生じるが,女性が自分に課せられた義務(家事など)を果たすことや,家族員の役割構造を変化させて協力関係を構築することによって,特に夫とのコンフリクトを回避している。また集落との緊張関係は,男性優位の集落社会にあって集落組織に女性グループを組み込ませてムラの承認を得ていることや,公的機関(農業改良普及所や行政)による支援や補助金の導入を背景としながら調整されている。さらに,これまで「個人の財布」を持たなかった女性が自分名義の通帳を持つようになったことや,高齢化によって男性のみでは集落運営が難しくなり女性の役割が必要になってきたことも女性起業の背景として重要である。4.まとめ 山村における高齢者は,生産活動に従事することによって資源を創出し,生活戦略を形成しているといえる。そして,その生活戦略に基づいて高齢者は山村での生活を維持している。従来の地理学において高齢者は地域の周辺的な存在として等閑視されてきたが,高齢者の地理学ではそのような視点を修正することが可能である。日本では中山間地域を中心に高齢社会地域が出現している。今後は,高齢者を地域の主体とする視点からの検討が求められる。
  • 志村 喬
    p. 22
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
    会議録・要旨集 フリー
     英国初の全国統一初等・中等学校向け地理科カリキュラム「ナショナル・カリキュラム地理」は,1991年に制定されたものの,さまざまな批判を受け(志村 1998),1995年版,2000年版へと改訂され現在にいたっている。これらカリキュラムの内容は,1991年版の枠組みを用いれば,「技能」「場所」「テーマ」の3領域に大別される。 本発表は,2回の改訂における地誌的内容(「場所」)と技能的内容(「技能」)の変化の検討(志村2003,2004)に続き,系統地理的内容の変化を明らかにし,それをカリキュラム開発の点から考察することを目的とする。 研究の結果,環境・資源・開発をめぐる課題が,改訂で重視されていったことが明らかになった。また,そこではそれら諸課題をコンフリクトを内包すると捉えながら,様々な視点から学習する姿勢が強くみられた。 地理教育と地理学との関係からすれば,このような変化は,地理学における社会応用的内容を地理教育が教育的判断のもと積極的に導入した結果と考えられる。地理学との地理教育の乖離,とりわけ最先端の地理学研究の成果を地理教育に導入することの難しさは,英国でしばしば言われてきたが,両者の接点の1つは「環境・資源・開発をめぐる課題」に見出す事ができよう。 
  • 村中 亮夫, 中谷 友樹, 吉岡 達生
    p. 23
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
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    I はじめに
     疾病のあり方は様々な環境因子によって規定されるため,死亡率・有病率の地理的な変動を通して,疾病を生み出す地理的な背景が明らかにされることも多い.本研究は,アレルギー性鼻炎の地理的変動を検討し,この地理的変動を規定する仕組みを検討するものである.
     アレルギー性鼻炎の症状は,ハウスダストやダニ,花粉などのアレルゲンにより引き起こされる.そして,症状の度合いは,アレルゲンへの暴露に加えて,個人の体質や居住環境,生活習慣によって左右される.このような個人の体質や居住環境・生活習慣が地理的に異なることより,有病率の差が地理的に変動する可能性が指摘できる.このようなアレルギー症の多発は,食生活や大気汚染を含む生活空間の変化を背景としている点もしばしば指摘され,生活のあり方や生活空間の変貌にみられる地理的な違いも考慮せねばならない.
     これまで,アンケート調査を用いたアレルギー性鼻炎に関する疫学研究から,アレルギー性鼻炎有病率の有意な都市-農村格差が明らかにされてきた.そして,アレルギー性鼻炎の有病率が,(1)住居環境・大気汚染などの外的因子,(2)遺伝・食生活などの内的因子によって規定されていることが示唆されてきた.
     しかし,アンケート調査による有病率は,より信頼性の高い視診による結果と比較して高くなり,評価精度に関する問題が指摘されている.また,これまでの研究では居住地を基準とした有病率格差のみが検討されてきたが,発達した交通環境に基づいた生活環境の広がりを考慮すると,このような地理的位置の参照方法の再考も必要であろう.
     そこで本研究では,(1)学校の耳鼻科検診を利用し,視診による精度の高い重症度の評価データを得るばかりでなく,(2)生活行動の広がりを考慮して,居住地ならびに通学先を基準とした有病率の地理的な格差およびその背景を検討することにした.
    II 研究対象地域の概観と調査の概要
     調査対象は,市部に立地する高等学校1校と郡部に立地する高等学校2校各校の,2002年度第1・3学年在籍生徒である.本研究では問診および視診を,調査日時点に各高校に在学する生徒に対して行った.検診時に問診表を回収できた生徒480名分のデータを分析の対象とした.なお,鼻アレルギーの重症度の判定は,ライフサイエンス・メディカ編(1993)『アレルギー疾患治療ガイドライン』中,「鼻アレルギー(含 花粉症)の診断と治療」に基づいた.
     調査は2002年5月17_から_18・30日に実施された.2002年の岩国地域におけるスギ花粉の飛散時期は1月上旬から4月上旬,ヒノキ科花粉の飛散時期はおおむね3月中旬から4月中旬であり,データ収集日はおおむねスギ花粉およびヒノキ科花粉の飛散期間と重なっておらず,花粉飛散が重症度へ与える影響は無視しえるものと考えられる.

    III 結果・考察
     鼻アレルギー重症度の診察の結果,市部校の生徒298名中,無症状は113名,軽症90名,中等症48名,重症47名,郡部校の生徒182名中,無症状は96名,軽症36名,中等症27名,重症23名であった.そして,Mann-Whitney検定によると,市部校での生徒は郡部校の生徒に比較して,重症度が高いことがわかった(モンテカルロp値≒0.01).この結果は,これまでにも報告されてきた有病率の都市-農村格差と対応しているようにみえる.
     他方,居住地を基準として,都市-農村格差を検討すべく,(1)居住地が市部か郡部か,(2)居住地がDID地区か否か,という区分でアレルギー性鼻炎の重症度を比較したが,有意な差は認められなかった.すなわち,本研究からは,アレルギー性鼻炎の重症度について,高等学校の生徒の居住地では,都市-農村格差を見出すことは出来ず,むしろ1日の大半を過ごす学校の所在地に基づく差が見出された.
     ただし,以上の結果は,問診によって得られる個人・世帯の属性の違いをコントロールした結果ではないそのため、喫煙やペットの有無など生活習慣や居住環境にみられる地域差によって、有病率の地域差が規定されているか否かは明らかでない.現在,個人・世帯の条件と居住地・通学先の違いを同時に考慮した分析作業を進め,アレルギー性鼻炎の地理的変動の背景を,生活空間のあり方を含めて検討している.
  • 瀬戸 真之
    p. 24
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
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    1.はじめに これまで岩温の観測には多くの例があり,凍結・融解サイクルを指標とした物理的風化作用が議論されてきた.日本における岩温の観測例には,Matsuoka(1990,1991, 1994),岩船(1992,1996)などがあるものの,周氷河帯よりも低い高度帯の露岩での観測例は少なく,十分にデータが蓄積されているとは言い難い.森林限界以下の斜面は,植被で日射が遮られることや,標高が低いことなどから,森林限界以高の斜面とは露岩の温度環境が異なると考えられる. そこで本研究では,足尾山地北部古峰ヶ原高原の森林に覆われた岩塊地で,表面岩温を通年観測し,現在露岩の表面に働いている凍結・融解サイクルの頻度および露岩表面の温度低下量を明らかにした.2. 観測方法 本研究では,次の2地点で観測を行った.P1は北向きの谷壁斜面上部のトア(高さ約5m,幅約8m,奥行き約3m)である.測定面の向きはN50°Eで傾斜は86°である.尾根上の平坦部からは,約100m離れている.P2は,北向きの斜面上部に位置する岩塊(高さ,幅,奥行きは,各約1.5m)である.測定面の向きはN24°Eで傾斜88°である.尾根上の平坦部からは約10m離れている.岩温の観測には,(株)T&D製 RTR-52を使用した.センサは径2mmのサーミスタで,-20℃_から_+80℃の範囲では平均で±0.3℃の精度を持つ.サーミスタは,対象の岩石に2cm深の穴をあけ,岩粉混じりのシリコンを充填して固定した.測定間隔は30分とした.本発表で使用するデータの観測期間は,2002.11.30_から_2004.5.4である.3. 結果と考察 P1の平均値は5.3℃で最高値は20℃(2003/8/24),最低値は_-_7.4℃(2003/1/16)であった.P2の平均値は4.9℃で最高値は24.4℃(2004/4/22),最低値は_-_11.3℃であった.両観測地点ともに2002年,2003年とも12月末_から_3月前半の期間にかけて表面岩温が全体として0℃より低い期間が続いた.岩温の振幅はP 2の方が大きい.観測期間中の凍結融解サイクル(FTC)は,2002_から_2003年にかけての冬はP1で33回,P2で30回であった.また,2003_から_2004年にかけての冬はP1で34回,P2で28回認められた.FTCが最多の時期は,3月後半で全サイクル数の半分以上が集中する.凍結破砕が最も効果的に起こるのは,_-_2℃_から_2℃を前後するときであり,このサイクルはEFTCと呼ばれている(Matsuoka,1990;Shiraiwa,1992).EFTCは,2002_から_2003年の冬はP1で6回,P2で2回認められた.また,2003_から_2004年にかけての冬はP1では認められず,P2で5回認められた.いずれの冬もEFTCは3月後半に集中して認められる.凍結指数は,2002_から_2003年にかけての冬はP1で271.4℃・days,P2で438.7℃・daysであった.また,2003_から_2004年にかけての冬はP1で227.1℃・days,P2で377.4℃・daysであった. 露岩表面では,年周期及び日周期の凍結・融解サイクルが出現する.まず,年周期サイクルについては,凍結指数を比較するとPoint 1とPoint 2では150_から_165℃・daysの差があり,表面岩温の低下量はP2の方が大きい.このことからP2の方が深くまで凍結したと考えられる. 次に2地点での日周期サイクルについて比較すると,Point 2の方が日較差が大きく,最大値では,Point 1の8.4℃に対してPoint 2は13.6℃と約5℃の差がある.P1とP2では,測定対象としたトアと岩塊の大きさに数mの差があり,質量が異なる.このため,より質量の小さいP2の方が外部の熱変化によって表面岩温が敏感に変化したと考えられる.この他に日較差の大きさには,測定面上空を覆う植生,観測地点の地形的位置が影響したと考えられる. FTCの頻度を,観測地点の緯度に大きな違いのないMatsuoka(1990, 1991)の結果と比較した.観測結果を比較するためには岩質や測定面の向きなどを考慮する必要があるが,森林限界を超える斜面の方がFTC, EFTCともに頻度が高く,FTCで21_から_93回,EFTCで30_から_86回もの差がある.このように日周期の凍結・融解サイクル数に大きな差が生じるのは,森林限界を超える斜面では日射を遮る植生がないために表面岩温の日較差が大きいことが最大の原因であろう.
  • 友澤 和夫
    p. 25
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
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    1.インドの工業化 インドでは,1990年代前半における自由化政策導入以降,工業各部門の成長が著しく経済発展の原動力となっている.こうした工業化の進展においては,外国資本(外資)が重要な役割を演じていることが多くの研究によって指摘されてきた.本発表でも外資に着目し,それが指向する市場との関係から,一つの論点を提示したい.図1は,各工業部門を主要企業の所有状況(外資/国内資本)の軸と,指向する市場(国内市場/国外市場)の軸によって大まかにマッピングしたものである.これによれば同国の工業を3つのタイプに分類できる. 第1のタイプは外国資本・国内市場型で,乗用車や家電が該当する.第2は国内資本・国内市場型で,商用車や鉄鋼などが代表的である.第3は国内資本・国外市場型で繊維やソフトウェアが当てはまる.ところで,図1に示されるように,インドでは外国資本・国外市場型となる工業部門が存在しない.このタイプは,発展途上国の工業化において重要な役割を果たしたが,これを欠いている点をインド工業化の特徴として指摘できる.この理由は,インドの産業構造と政策および同国の地理的位置にあると考えるが,その詳細は発表当日に提示する. 続いて,外資の立地に論を移す.インドでは1970年代末までは国産化政策が採られてきたため,いずれの工業部門においても国営企業や財閥系企業が存在しており,機械系工業であるならば,当該企業と関連企業群からなる産業集積が形成されてきた.外国資本が進出する際には,そうした既存の産業集積にどのように影響を受けるのか,また,それをどのように変え得るのかという点が地理学として論ずべき課題であろう.本発表では,自動車産業を事例にこの点に言及する.2.インドの自動車産業 2003年におけるインドの自動車生産は100万台を超え,アジアでは日本,韓国,中国に続いてミリオンクラブの一員となった.自動二輪車でも,中国に次ぐ世界第2位の約500万台を生産する大国である.インドの自動車産業の発展過程は,3つの時期に区分できる.第1期は独立後から1970年代までであり,生産車種や投資が政府によって統制されていた時期である.第2期は1980年代である.この時期には部分的自由化導入による市場の成長がみられたことと,日系企業の進出に特徴がある.第3期は1990年代以降であり,本格的自由化によって世界の主要メーカーが相次いで参入した点に特徴がある.また,生産の急増と市場競争の激化が生じた時期でもある. 空間的にみると,第1期には国内メーカーの拠点が置かれたカルカッタ(コルカタ),ボンベイ(ムンバイ),デリー,マドラス(チェンナイ),プネーの5都市に自動車産業の集積地が形成された.第2期には外資の参入が部分的に認められるようになったが,その立地先については政府による誘導が強く働いた.その結果,先の既存集積地から離れた場所が外資および国内メーカー新規事業の進出先となった.第3期になると,そうした政府の誘導は無くなり,企業は進出先の決定を自由に行えるようになった.これは,自動車メーカーや部品企業の立地選定に大きな影響を与えた.既存集積地の中では,投資条件に優れたデリーやチェンナイ郊外に新規立地が集中し,とくにデリー都市圏南部のグルガオン_から_ファリダバード_から_ノイダにはオート・ベルトと呼ぶべき自動車産業の集積地が出現している.一方,コルカタやムンバイでは新規立地は低調であり相対的な地位を低下させている.また,第2期に進出した地域よりも,より優れた立地条件を求めて立地先を変更しているものもある.こうした動向の詳細は当日述べる.
  • 楮原 京子, 今泉 俊文, 八木 浩司, 佐藤 比呂志
    p. 26
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
    会議録・要旨集 フリー
    はじめに

     新庄—山形活断層帯の中に位置する尾花沢盆地は,新庄から尾花沢に至る,主として東傾斜の断層帯(東側から,経壇原断層・舟形断層・沖の原断層・長者原断層)が,山形盆地西縁に続く西傾斜の断層帯に入れ替わる位置にあたる(池田ほか,2002).その地質構造は,波長の短い褶曲構造が繰り返すなど,変化に富んだ大変複雑な場所である(佐藤,1986).くわえて,盆地内には低位段丘(扇状地面)が広く発達しており,地質構造を調べるには必ずしも露頭条件はよくない.
     最近,空中写真の詳細な判読によって,断片的ではあるがこれらの低位扇状地面上に,南北方向や北北東−南南西方向に延びる高まり,逆向き低断層崖などの変位地形があることが指摘されていた(澤ほか,2001,中田・今泉,2002).本露頭は,これらの高まりの一つを横切る壁面の隅に,この高まり(東翼)が断層変位によるものであることを示す構造を見いだしたので報告する.

    断層露頭

     露頭の位置は,国道13号線(バイパス),萩袋交差点から300m程西の工場裏地である.ここでは,低位面から比高5m程度高い面の端を,この高まりの延びる方向と斜交する,東西(N60°E)・南北(N30°W)方向に,それぞれ長さ200m程鍵型に削り取って壁面がつくられている.
     断層と考えられる構造は,東西方向の壁面の東端(低い崖)に見られる.高まりを構成する礫層とフラッドローム(シルト・粘土層)およびそれらを被覆する火山灰層と黒土が,いずれも東側に撓み下がる様子が明瞭である. 一方,礫層の上面は,西に向かって緩く下がり,礫層を覆おうシルト・粘土層は厚さを増す.この厚いフラッドローム層中から,この付近の中位面の指標火山灰(鳴子—柳沢火山灰など,早田,1989,Soda,1996)を探したが,検出できなかった.しかし,堆積物の風化程度や礫径などから判断して,また,低位面との比高から判断しても,この礫層から構成されるこの高まりは,低位面よりはやや古い地形面と考えられる.
     礫層の礫種は,主に凝灰岩,泥岩,安山岩である.礫は,数cm_-_10cm程度大きさの亜円礫(マトリックスは粗砂)で,やや風化に富む.東端ではこの礫層が撓み下がるのに伴って(礫層上部に砂層が挟まれるので,その砂層とその上の礫層の境界からもわかる),個々の礫が再配列して直立する.これを覆うフラッドローム層も礫層の変形にあわせるように撓み,斜面途中から下方に厚さを増す.そして,この部分のシルト・粘土層にはクラックが目立つ.また,このシルト・粘土層の上部には,腐植が混在する.このシルト・粘土層を覆って(境界は明瞭で,一部ではシルト・粘土層を削り込む)堆積する火山灰層は,下部に岩片を伴う軽石層で,この地域に広く分布する肘折尾花沢テフラ(Hj-Ob)である(八木・早田,2000).肘折尾花沢テフラも,斜面に沿って曲がり,下方に厚さを増すが,シルト・粘土層との境界は足元で見えなくなる.
     断層の活動時期などについては特定できないが,もしこの地形面を中位面相当とするならば,第四紀後期に,このような高まり(しかも非対称)を作る逆断層性の運動が継続していることは確かである.肘折尾花沢テフラ(Hj-Ob)層の変形については不確か(撓曲崖を被覆すると見ることもできる)なので,完新世に活動したかどうかはわからない.しかし,この断層の南西延長上の丹生川沿いのL3面(低位面の扇状地を下刻した面)にも下流側がわずかに高まる崖が続くので,今後検討を要する.
  • 高柳 長直
    p. 27
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
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    _I_ はじめに フードシステムのグローバル化が多国籍企業主導で進められてきたが,対抗軸としてのローカル化が再認識されている。その一つとして,地域農産物を地域市場さらに全国市場で有利に販売するためのブランド化が着目されている。一方,消費者が食の安全・安心志向を強める中で,原産地表示の問題がクローズアップされている。そこで,本報告では農産物や食品に関するブランドの呼称の問題に焦点を当て,ローカル性を強調したブランドを形成していく際,呼称に関してどのような課題があるかを考察する。_II_ 地名の価値と地理的表示 農産物や食品は,ブランドの呼称として,地名が用いられることが他の製品と比べて圧倒的に多い。地名はブランドを表示するための限られたスペースの中で,地名は多くのメッセージを消費者に伝達することが可能であるからである。ブランドを形成する地名は,高級感,高品質,本物性,顕著性など農産物や食品と関係する場所の持つイメージを商品に付与し,消費者の購買意欲を喚起させる記号といえる。De Wit(1993)は,アメリカ合衆国においても,食料品のラベルに表示されている地名が偏っていることを明らかにした。 一方,ヨーロッパにおいては,古くからローカルブランドに価値を置き,伝統を持ち特色ある産地の製品が市場の中で公正な評価を獲得できるよう地理的表示を保護をしてきた。EUにおいてPDO(原産地呼称保護)とPGI(地理的表示保護)が1993年から施行されている。地理的表示に関する指定状況を国別にみると,ラテン系ヨーロッパ地域に集中している。 ただし,この地理的表示の保護については,EU内においても必ずしも共通した理解が得られているわけではではない。イギリスのIlbery and Kneafsey(1999)は,PDO/PGIに対して,批判的に地理的表示制度の歴史的伝統性の観点からの不平等性や多様なアクターの存在を考慮する必要性を指摘している。_III_ 地理的名称を付した食品に関する法制度と原産地表示 JAS法に関しては,原産地表示制度が1996年から開始され,2000年にはすべての生鮮食品で,小売販売業者は原産地を表示することが義務づけられた。加工食品についても,消費者にとって安全性や商品選択の観点から,順次対象品目が拡大されている。しかしながら,必ずしもローカルブランドの形成という観点からは十分に機能しているとは言い難い。 景表法に基づいた公正競争規約は,ユニークな制度として着目される。これは,公正な競争を行っていくために公正取引委員会の認定を受けて,事業者どうしが自主的に表示のガイドラインを協定する制度である。しかしながら,公正競争規約は業界の自主的な取り決めであるので,地名や地理的表示に関して,規定している品目は,飲用乳,生麺類,コーヒーの3品目にとどまり,参加していない企業に拘束力はなく,基本的に運営は民間部門に任されているので,業界の秩序保持という役割にとどまっている。_IV_ 商標登録による産地ブランド保護の限界 地名を含む商標は,商標法第3条第1項第3号で規定されているとおり登録のためのハードルが高い。そのような状況の中で,JA夕張市の「夕張メロン」は,農産物の産地の名称と産物の普通名称登録され,著名・周知商標とされている唯一のものでああるが,他の産地が「夕張メロン」と同様に商標登録できるとは限らない。 第一に,地名が商標として登録されるためには,使用による特別顕著性を獲得しなければならないが,そのためには,時間とコストがきわめてかかる。第二に,農産物の場合は生産・流通に関わるアクターが多様で,商標使用の私的独占を与えるという制度が馴染みにくい。 したがって,流通チャネルが多様化し,商品サイクルが早まっている現代日本において,産地ブランドの保護を商標登録で行なうことには限界があり,EUにおけるPDO/PGIのような新たな制度の導入が望まれる。
  • 由井 義通
    p. 28
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
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    1.インドにおける大都市の急成長インドではデリー,ムンバイ,チェンナイ,バンガロールなどの大都市がますます大都市化している。この原因として,1990年代以降の経済開放政策により,大都市圏に外国資本の投資が集中することがあげられているが,なかでも首都デリーには外国資本による投資が集中し,それによって雇用機会が増加し,都市人口の急増を引き起こしている。デリーは近年,製造業やサービス業,さらにオフィスなどが増加することによって,政治都市から経済都市・工業都市へと変貌しつつある。本発表の目的は,デリー大都市圏の都市化と都市計画を紹介し,インドの大都市開発の実態を報告することである。2.デリー大都市圏の都市計画_丸1_DDA(デリー開発公社)デリー市やインド政府はデリーの過大化防止策,デリー市内からの機能分散を目的として,1950年代の早い段階から法的根拠を持ったマスタープランの作成に着手した。それにより1957年にデリー開発法が制定され,デリー開発公社(DDA)が設立された。DDAは1962年にデリー・マスタープランを策定し,デリー大都市圏の都市計画に着手した。_丸2_NCRPB(首都地域計画局)デリー大都市圏のあまりにも急激な成長により,デリー大都市圏の整備をDDAにより行うことは困難となった。そこで,法令による首都地域計画局(National Capital Region Planning Board)が1985年に設立され,地域間のバランスがとれた開発をめざすこととなった。これは,デリーの拡大が近隣の三つの州にも及んでいるために,隣接州をも含めた首都圏地域の整備をはかるとともに,国家的計画として首都の都市計画と首都周辺地域の開発を図るものであった。3.デリー大都市圏における都市開発デリーの機能分散のために,近郊にノイダやグルガオンなどのDMAタウンを核として人口と産業の分散化が図られた。_丸1_ノイダデリーの東側に隣接するUP州ノイダは,NOIDA(New Okhla Development Authority)により1980年代から急速に開発が進んだ郊外ニュータウンである。マスタープランではデリーの旧市街地の中小工場と人口の郊外移転先として計画が立てられたが,外国資本との合弁による大規模工場が多数進出し,デリーから転入してきた郊外指向の中間層の受け皿となっているなど,自立的な都市開発とは異なった様相を呈している。_丸2_グルガオンハリヤナ州に属するグルガオンはデリーの南側に隣接し,デリー中心部からグルガオンへはNH8号線により結ばれ,その途中には国際空港があり,外国資本の立地には好条件となっている。グルガオンの開発はHUDA (Haryana Urban Development Authority) が主体となって行われている。HUDAは都市開発を目的として設立されたが,近年, HUDAがライセンスを与えた民間ディベロッパーに開発を委ねることによって,エージェンシー的な役割に変化している。一方,多数の村々が開発地域内には残されており,村は都市インフラ整備などから取り残されたものの,商業やサービス業などが発達し,アーバン・ビレッジへと変化している。4.大都市開発の問題点グルガオンとノイダの事例を通して,デリー大都市圏における都市開発はアーバンマネージャーとしての開発主体によって都市発展の様相の違いが大きいことが明らかとなった。公団が主体となって開発が進められているノイダは,資金不足から都市開発が遅れがちになり,インフラの維持管理が問題となっている。グルガオンでは,民間ディベロッパーの開発をコントロールすることができず,乱開発の一面もあることや個々の民間ディベロッパーが個別にインフラ整備を行うため,非効率であるなどの問題点もある。また,ノイダとグルガオンのいずれにも共通するが,経済のグローバリゼーションの影響を受けて経済格差が拡大し,開発地域内の居住者はデリーへの通勤者である富裕層や中間層に特化していることである。さらに,開発地域内に形成されたアーバン・ビレッジの整備が課題となっている。
  • 大和田 春樹
    p. 29
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
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    1.はじめに黄土高原(東経100_から_115°,北緯34_から_40°)は,乾燥地域と半乾燥地域の境界領域に位置し,その大半は7_から_9月にもたらされる夏雨地域である.黄土高原は中国でも有数の小麦生産地域であるが,小麦は最高気温の出現する7月末に収穫され,作物の生育期にあたる3_から_6月の降雨量が少ないため,前年の夏(8_から_9月)に降った雨を土壌中に浸透・保持させて翌年の発芽・生育をはかっている(Ohmori et al.,1995).したがって,夏季の降水の要因を把握することは,農業的見地からも重要な課題である.ところで,初夏の東アジアの循環場は,太平洋寒帯前線に属する梅雨前線帯に特徴づけられる.梅雨前線帯は,7月中旬から8月中旬にかけて華北地方へと北上するが(Matsumoto,1985),この梅雨前線帯の北上と黄土高原における降水量の増加の時期は,ほぼ一致する.また,半乾燥地域に降水をもたらす為には水蒸気の外部からの供給が不可欠であるが,黄土高原の水蒸気収支は,7月にはタクラマカン砂漠に似ているが,流入・流出が共にタクラマカン砂漠よりも強く,且つ水蒸気の多くは南から流入して,収束が1年の中で最も大きくなる(Yatagai,2003).黄土高原に水蒸気をもたらす気流系は,降雨季の前半と後半で大きく異なり,6・7月にはベンガル湾からの南西風の一部,8月には北太平洋高気圧の西縁部の南東風によってもたらされる(大和田ほか,2004).また,黄土高原付近は5_から_9月を通じて傾圧帯に位置しているが,そこに供給される水蒸気量の増大によって,7月から8月を中心とする降雨季が現れる(大和田ほか,2004).したがって,黄土高原は,降水量の年々変動が激しい特徴を持つが,その要因も大規模場の気流系の変化に伴う黄土高原への水蒸気の流入の増大と関係することが示唆される.しかしながら,黄土高原の降水は半乾燥地域特有の短時間の集中豪雨でもたらされることから,年々変動の要因を明らかにする為には月平均のみらなず日単位での議論が必要である.そこで,本研究は,黄土高原の多雨時における降水の地域的特徴やその要因を,水蒸気を輸送する気流系のとの関係から明らかにすることを目的とする.2.解析手法黄土高原における降水の年々変動を,中国気象局による降水量観測地点180地点のうち黄土高原付近に属する22地点の平均値を用いた降雨季(5-9月)の総降水量を用いて,1979から1992年の14年間について明らかにする.さらに,降水の日別変化,および地域的特徴に着目する.また,降水の地域的特徴と降水の要因を考察する為に,NCEP/NCARの日別再解析データを用いて,水蒸気輸送場,および高度別ベクトル平均風向を示した.3.黄土高原の多雨年の降水の特徴 黄土高原における降水の経年変化の特徴は,対象期間14年間で多雨年7年,少雨年7年と同数であるが,多雨年においては比較的降水量が多い年が複数年存在した.最も降水量が多い1984年は,8月を除いてすべての月で平均を上回り,降水のピーク(7・8月)前の6月とピーク後の9月に特に多くの降水がもたらされていた.また,1983・1985年では,降雨季の開始の5月と終了の9月に平均を30mm以上上回る降水がもたらされていた.一方,1988年は,5・7・8月に平均を上回っており,特に降水のピーク時の7・8月で平均を30mm以上上回る降水がみられた.したがって,黄土高原の多雨年には,降水のピーク時以外に降水量が平年を大きく上回る場合と,降水のピーク時の降水量が平年を大きく上回る場合の2パターンが現れた.また,多雨年の降水の地域的特徴は,5・9月に降水量が多い年は黄土高原の中央部から東部,6・9月に降水量が多い年は南部,7・8月に降水量が多い年は中央部から北東部で降水量が多い特徴がみられた.4.降水日における気流系の特徴降水日における水蒸気輸送は,降水日前後よりも黄土高原への水蒸気の供給量が大きく,且つ水蒸気の輸送方向と黄土高原の降水の地域的特徴に関係が現れた.また,黄土高原の上層の気流系は,偏西風が卓越して黄土高原が傾圧帯に位置すると同時に,黄土高原の西側にトラフの形成がみられた.以上のことから,黄土高原の雨は,傾圧帯に位置し,且つ水蒸気の流入の増大によってもたらされ,水蒸気輸送の方向が降水域を決定することが明らかとなった.
  • 篠原 重則
    p. 30
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
    会議録・要旨集 フリー
  • 大西 文秀
    p. 31
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
    会議録・要旨集 フリー
     近年、集水域や森林資源の学際研究に期待が高まり、研究成果の社会への還元が急務となりつつある。本研究では、ヒトの生活の場であり、エコシステムとしての集水域におけるヒトと自然の定量的な関係の解明を進め、新たなライフスタイルや計画手法の実現に向けた環境情報とシステムの創造を目標とした。 具体的には、ヒトの活動の集積と自然がもつ抱擁力の定量的な関係をはかる指標として、集水域を系とした環境容量の概念を設定することにより、数理モデルと地理情報システム(GIS)を用い、生活空間としての首都圏、近畿圏、中部圏の3大都市圏における集水域の環境容量を試算した。また、環境要素が持つ環境性と資源性の関連や環境容量の変動構造の解明を進め、学際的な流域管理モデルを試行した。 環境容量は、土地利用、森林、降水や人口などの自然環境量の関数と、CO2の固定構造や森林資源の成長構造、降水の地中への浸透構造、食糧の生産構造などの科学的な関数、また、ライフスタイルや環境関連技術などの技術水準による一人当り負荷量の関数などの3関数により構成した。環境容量の試算モデルは、CO2固定容量、クーリング容量、生活容量、水資源容量、木材資源容量の5指標を設定し、環境情報と科学知識の活用と統合により構築した。 本研究により、生活の場としての地域生態環境の一つ一つの特性や容量の定量的把握が進められ、集水域の上流と下流域など地域間の相互依存の関係や河川の連続性による影響圏の予測、また、地域環境の改善により期待される効果について、さらに、環境に直接影響を与える環境計画などの諸活動やライフスタイルの新しいあり方について、ヒトと自然の関係という視点から学際的な認識と検討が可能になると考えられる。これらの成果により、エコロジカルプランニングを目指す環境計画において、情報管理、環境評価、ミチゲーション、また合意形成等のためのシステム構築の一助になるものと考えられる。
  • 澤 宗則
    p. 32
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
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    _I_ グローバルとローカルに関する研究の枠組み インドの経済自由化政策は外資の導入による急激な経済成長をもたらしたが、これは同時に先進工業国を頂点としたグローバル化経済圏の中に組み込まれることとなった。これはインド農村にどのような影響を及ぼしたのであろうか。本発表では、経済自由化以降のインド農村の変化を、経済のグローバル化による空間の再編成の一環ととらえる。一般に、グローバル化とは、空間と時間の圧縮からもたらされる現象を指す。輸送機関の高速化と近年のIT技術などによるコミュニケーション技術の発達により時間と空間の圧縮が加速度的に進む。その結果、ローカルな事象が遠隔地の事象と結びつくことにより、ローカルな文脈から切り離される「脱領域化」が進む。これはローカルな存在を「同一化」、等質化、標準化させる原動力となる。しかしながら「脱領域化」や「同一化」に対して、「再領域化」や「差異化」が生じる。例えば、ナショナリズムの先鋭化や流動資本に対して政府がトービン税を課して捕捉しようとする試みなどがナショナルな「再領域化」として挙げられる。グローバル化はこのような「脱領域化」と「再領域化」、また「同一化」と「差異化」のせめぎ合いでもある。このようなせめぎ合いは、ナショナルのみではなく、リージョナルやローカルの空間スケールにおいて生じる。本発表では、特に、ローカルな存在の農村空間が近代化されることにより「脱領域化」かつ「再領域化」される過程を分析する。Giddens (1990)によれば、近代化は、必然的にグローバル化を推し進める。また、グローバル化とは、「ある場所で生じる事象が、はるか遠く離れたところで生じた事件によって方向づけられたり、逆に、ある場所で生じた事件がはるか遠く離れた場所で生ずる事象を方向づけていくというかたちで、遠く隔たった地域を相互に結びつけていく、そうした世界規模の社会関係が強まっていくこと」とされている。この近代化のダイナニズムの源泉には以下の3つがある。_丸1_時間と空間の分離=時空間が無限に拡大する。_丸2_社会システムの「脱埋め込み」が生じる。これは社会関係を相互行為のローカルな脈絡から「引き離し」、時空間の無限の拡がりのなかに再構築する。_丸2_は_丸1_を前提とすると同時に_丸1_を促進する。_丸3_知識の再帰的専有=社会生活を伝統の不変固定性から徐々に解放する。特に_丸2_がローカルな存在である開発途上国の農村空間の変化を考える際には不可欠の要素となる。つまり、「脱埋め込み」:ローカルな脈絡に結びつけられていた時間と空間を切り離し、それを無限の広がりのなかに再構築するのである。しかし、これは同時に、再埋め込み「脱埋め込みを達成した社会関係が、(いかにローカルな、あるいは一時的なかたちのものであっても)時間的、空間的に限定された状況のなかで、再度充当利用されたり、作り直されていくこと」のである。これらの過程の中で、ローカルな農村空間が「脱領域化」かつ「再領域化」される。_II_ 調査農村西ベンガル州(1992年)・カルナータカ州(1993年・2001年・2002年)・マディヤ・プラデーシュ州(1996年)・ウッタル・プラデーシュ州(1997年)・ハリヤーナー州(2003年)で合計8農村の経済活動・カーストシステムや認知空間に関する調査を行った。_III_ インド農村における「脱領域化」と「再領域化」1)パルダ(女性を家族以外の男性の目から遮断する社会慣習)の伝統は都市では新中間層を始め徐々に解放されているが、農村では伝統的知識の保持者である地主層により再生産されている。2)カースト(ジャーティ)制度は生産手段としての農地の大小(有無)としての意味から、教育水準の高低に意味づけを変えながら、社会階層の再生産の装置として確かに機能している。3)「コミュニティ」はインド農村では、「地域社会」という意味ではなく、「ジャーティ集団」(および彼らの生活空間)として再生産されている。一方都市では住宅地の囲い込みなど、建造環境の集合的消費を通して局地階級同盟が生じ、地域社会が成立する可能性がある。 グローバル化は、インド農村の様々な「場所」の意味(インド農村文化に埋め込まれたもの)を剥ぎ取り新たな意味を付与していく(脱埋め込み・脱領域化)が、同時にその変化のプロセス自体もインド農村文化に再び埋め込まれ、インド農村は同時に再領域化している。
  • 堤 浩之
    p. 33
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに 長大な活断層系が時空間的にどのようなパターンで破壊するのかという「断層セグメンテーション」の問題は,活断層研究および地震学における重要な研究課題のひとつである.この課題にアプローチするため,ルソン島のフィリピン断層系を対象とした地形・古地震調査を行っている.本発表では,断層の分岐形態や上下変位パターンに着目したセグメンテーションモデルを提示し,各セグメントにおけるトレンチ掘削調査の予察的な結果を紹介する.2.断層の幾何学的形態とセグメンテーションモデル フィリピン断層系はフィリピン諸島を北北西_---_南南東方向に縦断する延長1200km以上の左横ずれ断層である.中央構造線やスマトラ断層などと同様に,海洋プレートの斜め沈み込みに起因する島弧中央横ずれ断層であると考えられている(Fitch, 1972).ルソン島におけるフィリピン断層系は,左雁行配列する4条の活断層から構成される(図1,Nakata et al., 1977;平野ほか,1986).1990年のルソン地震(MW7.7)ではDigdig断層のほぼ全域が破壊し,長さ約120kmにおよぶ地表地震断層が現れた(中田ほか,1990).Digdig断層の南部とその東に位置するGabaldon断層の北部は約35kmにわたって並走し,しかも両断層間の距離は最小で500m,最大でも2.5kmである.しかしながら,1990年の地震ではDigdig断層の破壊はこの小規模なステップオーバーに阻まれGabaldon断層へはのり移らなかった.同様に,Rizal付近でDigdig断層に対して左ステップするSan Jose断層も未破壊のまま残された.中田ほか(1990)は,Gabaldon断層が1645年の地震で,San Manuel断層が1796年の地震で破壊した可能性を指摘した.このようにルソン島におけるフィリピン断層系は,最新の地震サイクルに限ってみれば,個々の活断層が独立した起震断層である可能性が高く,断層の幾何学的形態と破壊の開始・終息の関係を検討できる絶好のフィールドである. 中田ほか(1998)が提示した起震断層モデルを適用すると,ルソン島のフィリピン断層系を3つのセグメントに分割することができる(図1).Gabaldon断層は北端部では北に向かって分岐する形状が,またGabaldon以南では南に向かって分岐する形状が認められ,単独の起震断層であると考えられる.San Manuel断層とSan Jose断層の間には,約10kmにわたり断層の分布が不明瞭な沖積低地が存在し,従来両者は独立した起震断層であると考えられてきた.しかし最近の空中写真判読で,この区間に新たに低断層崖が発見され,San Manuel断層がSan Jose断層と連続することが明らかとなった.San Manuel断層は,San Quintin付近でSan Jose断層が北に向かって分岐する西側のトレースにあたり,両者は一括して活動する起震断層であると考えられる.またSan Joseの南にも新たに低断層崖が確認され,San Jose断層の南端はRizal西方までのびていることが明らかとなった.1990年地震の破壊開始点は3つのセグメントが会合する位置にあたり,地震発生メカニズムを考える上で興味深い.3.トレンチ掘削調査 上記のセグメント区分を検証するためには,各セグメント(断層)の活動履歴の解明が必要であり,そのためにトレンチ掘削調査を行っている.これまでにDigdig断層とSan Jose断層の掘削調査を行った.それぞれの調査地点で明瞭な断層が現れ,過去3_から_4回の断層活動の痕跡を認めることができた.採取された年代試料は現在測定中であり,今後個々のセグメントの最新活動時期・活動間隔等について検討する予定である.
  • 山下 亜紀郎
    p. 34
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
    会議録・要旨集 フリー
     本発表の目的は、茨城県水戸市の水道用水供給体系とその形成過程を明らかにし、流域的視点からその地域的条件について検討することである。
     水戸市は茨城県の県庁所在地であり、県内の市町村で最大の人口を有する。2002年3月現在、水戸市の上水道普及率は99.5%を誇り、県平均の87.7%を大きく上回る。上水道の水源別取水量をみると、県西部や南部の市町村が地下水と広域水道に依存している一方、北茨城市、高萩市、日立市、ひたちなか市など県北部の都市は表流水を主水源とし、水戸市も同様に水源の9割以上が那珂川からの表流水である。
     水道普及率は第二次世界大戦後まもなくの1947年には60.0%であった。その後数度にわたる拡張事業によって1974年には90%を越え、さらに1986年には99%に達し、ほぼ全ての市域内人口に対する安定的な給水が実現されている。
     水源別取水量の推移をみると、水戸市では用水需要の増大に対して、表流水の取水量を増加させており、地下水や近年の広域水道は一貫して補助的な役割しか果たしていない。これは五期にわたる拡張事業に伴い、那珂川から取水する水利権を増強することができたからである。
     給水区域の空間的拡大に関しては、1966年までは市の中心部とその周辺地域に限られていた。しかし第三期拡張事業以降、給水区域は飛躍的に拡大し、現在では市全域に及んでいる。
     現在の水道用水供給体系について述べると、那珂川の枝内地先に設けられた2か所の取水口から取り入れられた河川水は、原水導水管によってそれぞれ楮川ダムと開江浄水場に送られる。楮川浄水場の主な給水区域は、水戸市の中心市街地を含む市中央部から北西部にかけての一帯である。開江浄水場からは、下市地区と国道50号バイパス沿いの市西部から南部にかけて、さらには旧常澄村も含む区域へ給水されている。これら2系統と広域水道を受水する常澄浄水場とによって、全市へ量的に安定した水道用水が供給されている。
     水戸市は那珂川流域の最下流域に位置し、人口規模は流域内の市町村の中で最大である。水戸市では水道用水需要の増大に対して、那珂川からの取水量を増加させ、それを満たしてきた。一般に河川水利においては、下流の都市用水は不利だといわれているが、水戸市は例外である。その地域的条件を、流域に着目しGISを援用して分析・考察した。
     第一に地形条件をみると、那珂川流域は下流域にのみ低くて平らな地形が分布する。中・上流域は山地・丘陵地が卓越し、そのため主な支流域もその上流域に山がちな地形を有し、水資源開発も行われている。
     第二に土地利用分布をみると、那珂川流域は広範囲で森林が支配的な土地利用である。水田は上流域で森林に囲まれるように分布し、その他は水戸市、ひたちなか市周辺の下流域で卓越するのみである。畑地や都市的土地利用も同様に分布が顕著なのは下流域の限られた地域である。つまり用水需要の発生する土地利用が流域全体に及んでおらず、限定的である。
     第三に人口分布をみると、都市的土地利用の分布と強い相関があり、最下流域の水戸市、ひたちなか市に人口が集中している。上流域の黒磯市や西那須野町がそれに次ぐが、その他の広い地域で人口は少ない。
     最後に水利権についてみると、山下(2004)が明らかにしたように、那珂川流域全体の既得農業水利権の取水量は相対的に少なく、本流への依存度も低い。これには先にみた3つの条件が大きく関わっており、最下流域の都市用水需要が自流域内の河川水で満たされるための重要な条件である。
     ある都市における水道用水供給体系は、その都市内の絶対的な水需要量だけでなく、流域規模での地域的条件に基づく水需給の定量的、空間的バランスによって規定される。水戸市は人口規模、都市用水需要ともに大きいが、流域条件に恵まれているために十分な用水供給を実現している。
  • 近藤 久雄, 粟田 泰夫, Emre Omer, Dogan Ahmet, Ozalp Selim, Yildirim Cengiz, Oz ...
    p. 35
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
    会議録・要旨集 フリー
    1. はじめに トルコ・北アナトリア断層は,長さ約1200kmに及ぶ横ずれ型プレート境界断層で,20世紀を含む歴史時代に連鎖的な地震発生のサイクルを繰り返してきたことが知られている.そのため,長大な活断層のセグメント区分やセグメントの相互作用,複数の地震サイクルにわたる断層活動の繰り返し様式を明らかにする上で,重要な活断層の1つである.特に,1944年にMs7.3の大地震を発生させたBolu-Gerede地震断層(以下,1944年地震断層)では, 西暦1668年大地震の震源断層の一部として活動し,また10-11世紀には1944地震断層の別々の区間が活動したという歴史記録が存在する(例えば,Ambraseys,1970).したがって,1944年地震断層は,複数の地震サイクルで連動するセグメントの組み合わせが変化する際の断層活動様式を検討するために,最適な研究対象である.以下では,活断層研究センター・トルコ鉱物資源調査開発総局が1944年地震断層を対象として実施してきた地形・地質学,古地震学的調査のうち,Geredeセグメントにおける断層変位の繰り返しを中心に述べる.2. 1944地震断層のセグメント区分と累積変位量 1944年地震断層は,北アナトリア断層の中西部区間に位置し,長さ約180km,走向N70-80Eで直線的に延びる(近藤ほか,2003).詳細な空中写真判読,野外での変位地形の確認と計測,地震断層に関する地元住民への聞き取りの結果,地震断層は,1944年地震の変位量分布,断層線の不連続,歴史記録といった複数の指標を基準に,5つの活動セグメント(McCalpin,1996)に区分することができる. 1944 年地震断層の中央に位置し,最大規模の変位量5-6mを記録したGeredeセグメントにおいて,累積的な横ずれ変位地形の計測をおこなった.その結果,8地点で6-24mの変位量が計測でき,いずれも近傍で計測された1944年変位量の2倍から4倍を示すことが明らかとなった.これは,計測地点数が少ないものの,最近4回の地震サイクルを通じて同程度の変位量が断層活動毎に繰り返された(固有変位量の存在)可能性を示している.3. Geredeセグメント・Demir Tepe地点のトレンチ調査 さらに,上記の可能性を検討するため,断層活動時期と単位変位量を同時に復元する3Dトレンチ調査を実施した.調査地では,扇状地性段丘面を切る低断層崖,断層線の右ステップに伴う引張性の凹地が形成されている.調査地西部の並木列と凹地を横断する2本のガリーを基準として,それぞれ4.0-5.0mと9.2±1.3m,9.7±1.2mの右横ずれ変位量が計測できる.断層活動時期を明らかにするため,凹地を跨ぎ断層に直交するトレンチを3本,変位量を復元するため,断層に平行する8本のトレンチを掘削した. この結果,4つの地震イベント層準を認定でき,それぞれに対応する断層変位量が復元できた.各イベントの発生年代は,年代測定結果と約2km東方のトレンチ調査結果(奥村ほか,2003)および歴史記録を総合して,新しいものから,西暦1944年,1668年,13-15世紀,1050年の地震に対応すると考えられる.各イベントに伴う横ずれ変位量は,イベント層準と変位基準の関係に基づき,4.0-5.0m(並木列),4.8±1.5m(ガリー),5.3±2.3m(埋没チャネル),4.7±0.9m(埋没チャネル)と推定された.4. まとめ このように,Geredeセグメントでは,最近4回の断層活動イベント毎に同程度の右横ずれ変位が繰り返されている可能性が高い. 同セグメントは,1944年地震では180kmの地震断層の一部として活動し, 1668年地震では長さ約600kmの長大な地震断層の一部として(例えば,Ambraseys and Finkel, 1988),また1035年地震では長さ数十kmの短い区間として活動した(Ambraseys,1970)可能性が高い.したがって,一回の地震に伴って連動破壊したセグメントの総延長(地震断層長)が数倍の範囲で大きく変動したにも関わらず,少なくともGeredeセグメントでは固有変位量が繰り返されてきたと考えられる.
  • 今井 英文
    p. 36
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
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    1.はじめに 航空交通の地理学的研究が進展するのにともなって、空港の後背地に着目した研究が増加している。しかし、空港の後背地に関する先行研究は国内線を対象としたものがほとんどで、国際線の後背地について考察したものは少ない。さらに、国際線の後背地の競合について考察した研究は、管見の限りでは存在しない。 このような問題意識をもとに、報告者は中国・四国地方の4空港を事例にして、ソウル便利用客の分布や競合の実態について研究を進めている。本報告では、その一環として、高松空港および松山空港からソウル便で出発する旅客(ソウル便利用客とする)の分布について報告する。2.研究対象地域と研究方法 1)研究対象地域 本研究では、研究対象地域として、中国・四国地方249市郡を選定した。その理由は、中国・四国地方にはソウル便が就航している空港が多いこと、本四架橋や高速道路の開通によって中国・四国地方ではソウル便利用客の分布が広域化したと考えられることの2点による。 2)研究方法 ソウル便利用客の分布に関するデータを入手するため、2004年3月から4月にかけて高松空港と松山空港で聞き取り調査を実施した。調査対象は、両空港からソウル便で出国した旅客である。調査の結果、高松空港では214人(83.3%)、松山空港では242人(71.4%)から有効回答を得た。この調査結果をもとに、ソウル便利用客の分布と競合について説明する。3.ソウル便利用客の分布 1)高松空港 高松空港の特徴として、ソウル便利用客が高松市に最も多く分布していること、ソウル便利用客は徳島市・高知市やその近郊にも多く存在すること、中国地方からソウル便を利用した旅客は非常に少ないことの3点を指摘できる。 2)松山空港 松山空港の特徴として、ソウル便利用客が松山市と今治市に圧倒的に多く分布していること、ソウル便利用客はほぼ愛媛県内で完結していることの2点が明らかになった。4.ソウル便利用客の競合 ソウル便利用客が競合している地域について検討した。その結果、愛媛県四国中央市・新居浜市、香川県高松市・三豊郡では、ソウル便利用客をめぐって、高松空港と松山空港とのあいだで競合関係が生じていることが判明した。  
  • 隈元 崇, 中田 高
    p. 37
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
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    1. 活断層データを用いた地震危険度評価 内陸活断層を震源断層とする直下型地震の危険度評価については,これまでの活断層の認定や地震発生の規則性の検討など理学的な研究だけでなく,その成果を生かした地震危険度の確率論的ハザードマップの作成にまで研究が進んでいる.また最近では,「強震動予測のレシピ」に代表される活断層から発生する大地震の強震動波形を事前に予測することを目的としたモデルの構築や実際の計算,結果の精度の検証なども議論され始めた.特に強震動予測については,その計算過程の中で震源や地震波伝播,地盤増幅効果を含んだ地下構造などさまざまなパラメータが必要となる.この中で,活断層研究の成果は,将来の大地震が発生する場所を活断層分布図から特定することにとどまらず,強震動予測の最も重要なパラメータのひとつである地震の規模予測や,波形予測に大きな影響をもつ破壊開始地点と破壊伝播方向の推定,地震時の断層の変位量が他よりも大きいところという意味でのアスペリティの位置の推定に利用可能(活断層データ以外に利用可能なものはない)であると考える.2. 活断層詳細データベースと「形態単位モデル」 強震動予測に有用な活断層のパラメータを取得するためには,高精度の活断層判読結果と,強震動予測で必要となる活断層データを整備した上で相互に議論できるモデルの構築が必要である.前者については,これまでの利用されることの多かった「新編日本の活断層」(縮尺20万分の1)よりも大縮尺の「活断層詳細デジタルマップ」(縮尺2.5万分の1)が刊行され,活断層の位置や地表形態がこれまでにない精度で議論可能となっている. この高精度活断層データベースに,活断層の地表での分岐形態に着目した「活断層分岐モデル」や断層終端部の「縦ずれ変位パターンモデル」を包括的に検討し,活断層の幾何形態を震源断層を特定するための第一の条件とする「形態単位モデル」を適用することで,強震動予測に必要な断層破壊過程パラメータの中で,特に断層破壊開始地点と破壊伝播方向の推定が行える可能性が高い.「活断層分岐モデル」は,地震時のエネルギーの効率的な散逸過程を地表の活断層の分岐形態と関連付けて,活断層の地表でのV字やY字といった分岐形態から逆に破壊開始地点や破壊伝播方向を推定するものである.このモデルを実際の大地震に適用してみると,モデル提唱以前の日本の大地震だけでなく,その後に世界で起こった地表変位を伴う大地震でも有効であることが確認された.さらに,横ずれ断層末端の隆起・沈降の変位パターンと歴史地震で観測された変位や地形が良く適合することもあわせて,地形学に基づく活断層データを今後さらに強震動予測に組み込むことが重要である.3. ロジックツリーに組み込める地震発生モデルの必要性 活断層研究の成果を地震危険度に生かすための課題として,「活断層のグループ化・セグメント化」の議論は避けてとおることができない.従来行われてきた,地図上に示された活断層線分を1つの地震を起こす単位に「グループ化」した起震断層帯に断層長とマグニチュードの経験式をあてはめた地震規模の予測は,固有地震といいながらもむしろその起震断層帯から将来起こりうる地震の中で最大の規模を推定したことを意味する.しかし,最近の活断層の掘削調査によると,起震断層帯の活断層はいつも同じ最大規模の地震だけを起こしているわけではなく「セグメント化」していて,地震の大きさと頻度はトレードオフの関係にあり単純ではないということも分かってきた. 活断層のグループ化・セグメント化のためにトレンチ調査結果など古地震調査に基づくBehavioralな観点での議論・区分もなされているが,年代推定の誤差が大きいことを考えると決定的な設定案を提示できているとはいいがたい.先に挙げたような活断層のGeometryに関するデータやモデル,さらにCoulomb Failure Functionに代表されるような活断層の相互作用も合わせて考えて,活断層から発生する地震モデルとして,ロジックツリーの中で確率的に取り扱いが可能な複数のモデルを提示した方が,確率論的ハザードマップにも強震動予測レシピにも応用が利きやすい.
  • 小野寺 淳
    p. 38
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
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    低廉な生産コストと広大な消費市場の魅力により、グローバルに展開する企業の生産機能が中国の沿海部に集積してきたが、上海のような大都市の内部には、より高次の機能、例えば経営管理や研究開発といった機能が集積しはじめている。また、それらの機能に従事する人材のための居住環境も整備されつつある。本発表では、こうした高次機能の集積にともなった都市空間再編の動向を検討する。1.外国資本の流入と都市開発上海の本格的な都市開発は、華南の諸都市などよりも遅れて開始された。浦西地区の再開発は1980年代中盤に着手されたが、浦東地区の大規模開発は1990年代に入ってからであり、大量の外国資本が上海へ急激に流入し始めたことと時期を一にしている。この時期、上海でも土地制度改革が進められて、土地使用権の有償譲渡が行われるようになった。当初その譲渡先はもっぱら外国資本であり(表1)、譲渡金を利用した都市開発の原動力が外資にあったと言えるだろう。ただし、近年は国内資本向けの譲渡が増加している。2.都市機能の高度化かつて租界時代に東アジアの金融・貿易の中心地となったのは黄浦江に面した外灘であったが、今では対岸の陸家嘴金融貿易区の高層ビル群に内外の大企業が生産・販売に関わる経営管理機能を集中させている。外高橋保税区や金橋輸出加工区には外資系企業の生産拠点が数多く立地している一方で、張江ハイテク園区や漕河?ニューテク開発区などにおける研究開発機能の集積が注目される。住宅以外の建物について建築面積の変化を見ると(表2)、1990年代のオフィスの急増ぶりが目を引く。3.居住環境の向上経営管理機能や研究開発機能に従事する一般に高学歴で高所得の人材が、新たな社会階層を形成していると見られる。1990年から2001年のデータでは都市住民一人当たりの年間可処分所得が2,182元から12,883元になったと同時に、所得分布の上下の幅が拡大して階層間の所得格差が顕著になった。この間に企業や機関の従業員を対象とした住宅が大量に建設され(表2)、一人当たりの居住面積が6.6_m2_から12.5_m2_に向上しているが、それと同時に、庭付き一戸建てや高級マンションを含む高級住宅地の開発が活発に行われ、高所得階層の需要を満たしている。4.グローバルな都市間競争 長江デルタ地域そして中国全体を後背地とする上海が、市場経済システムへ回帰する中で、計画経済システムの下では失いかけていた都市としての諸機能を再び強化するにいたった。そして、今や上海はグローバルな都市間競争に加わることになり、より高次の機能を集積させそれらに従事する階層を形成し定着させるべく、自らの空間を再編しつつあると考えられる。
  • 高阪 宏行
    p. 39
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
    会議録・要旨集 フリー
    1 本研究の目的と方法 5年ごとに行われるわが国の国勢調査は、日本の人口と世帯の状況を把握することを目的としている。1995(平成7)年度の国勢調査からは、ほぼ「町丁・字」レベルに相当する調査区単位の統計(小地域統計)も発表され、居住地区の詳細な統計が得られるようになった。また、小地域の境界ファイルも提供され始め、国勢調査の小地域統計をGIS上で表示し分析できるようになった。そこで本稿では、2000(平成12)年度国勢調査の小地域統計を用いて、人口、社会、就業特性に基づき居住地区分類を試みた。この分類の目的は、国勢調査の大量な情報に基づき居住地域のクラスター(タイプ)を抽出するとともに、それらの特性と空間分布を考察することである。また、データの形式の変更や前処理方法の選択が分類結果にどのような影響を及ぼすかを考察することによって、居住地区分類に適したデータ形式と前処理方法を確立することである。研究地域は、さいたま市、戸田市、川口市、蕨市、鳩ヶ谷市で構成される埼玉県南部地域である(図1省略)。この地域を研究地域として選んだ理由は、業務地域、工業地域、農業地域など多様な産業地域を含み、さまざまなタイプの居住地区で構成されていると考えたからである。2 構成比による居住地区の分類と居住地区特性の抽出 2000年度国勢調査小地域統計の51変数(表1省略)を利用し、構成比のデータを用いて分類し、51の主成分を抽出した。表2(省略)は上位10成分の分散の割合を示し、それらで総変動量の約94%を説明した。第1主成分は36%を説明し、関連する変数は図2(省略)から単極構造で、「一戸建て住宅の世帯%」、「自宅保有(持ち家)世帯%」、「居住期間10年以上」、「核家族世帯」、「延べ面積100m2以上の世帯」、「就業時間35H以上就業者%」を表わしている。この成分は、持ち家・一戸建て・核家族世帯とこの地域の典型的な居住形態の一つを表わしている。第2主成分は31%を説明し、両極構造を持ち、プラスが、「共同住宅の世帯%」、「賃金・給与が主な世帯の%」、「第3次産業就業者%」、「就業時間35H以上就業者%」、「民営借家世帯%」を表わし、マイナスが「一戸建て住宅の世帯%」と関連している。これは明らかに第3次産業従事者の住む「アパート・マンション」対「一戸建て」の住宅関係の次元を表しいる。第3成分は9%を説明し、両極構造を持ち、マイナスが「給与住宅世帯%」、「民営借家世帯%」、「居住期間10年以上人口%」を表わし、プラスが住宅が「中規模」、「核家族世帯%」、「自宅保有(持ち家)世帯%」と関連する。この次元は、この地域の「借家」対「持ち家」の側面を表わしている。 次に51主成分すべての主成分得点を用いて居住地区に対し凝集型階層クラスター分析を行い、20クラスターの段階で分類を止めた。図3(省略)は、20段階での分類結果を示している。888の地区の内、2%(18)以下の地区で構成されているクラスターは、少数なものとみなし分類の解釈と名称付けから除外した。また、一つのクラスターはほとんどの変数で値がゼロなので、そのクラスターもはずした。その結果、表3(省略)に示されるように16のクラスターが識別された。分類結果をまとめると、住宅が小規模なタイプは1aから1eの五つが見られ、図3(省略)では青系と橙色で示されている。タイプ1aは29地区から成り、住宅は「民営借家」が多く、「小規模」住宅が目立つ。世帯の特徴は、「75歳以上」の「高齢単身者」が顕著であり「65_-_74歳」の「高齢夫婦」も目立つ。就業先は「第3次産業」が顕著であり、労働力状態は「主に仕事」で「恩給・年金が主な世帯」も多く見られる。 参考文献Rees, P., Martin, D., and Williamson, P.(eds) The Census Data System. Wiley, Chichester, 149-170.
  • 鍬塚 賢太郎
    p. 40
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
    会議録・要旨集 フリー
    I.はじめに インドのIT 産業は,アメリカ向けITサービス輸出を主軸として成長してきた。こうしたインドのIT産業について,本報告では次の点に着目しながら検討したい。第1は,1990年代後半以降のインドの貿易構造の変化と,そこにIT産業の果たす役割についてである。第2は,ITサービス輸出がインド大都市に与えるインパクトとその意義についてである。 都市を拠点とするサービス貿易については,もっぱら先進国間のそれに関心が注がれることが多かった。しかしながら,情報通信技術の発達により,これまでの想定とは異なるサービス輸出が拡大している。経済のグローバル化と都市への産業立地との関係についてさらに議論を深めていくためにも,インド大都市に着目する意義は小さくない。II.世界におけるインドのサービス輸出の特徴 2002年におけるモノとサービスの全世界輸出額は約8兆ドルであり,モノの貿易額がサービスのそれを圧倒する。とはいえ,サービス貿易の割合は年々拡大しており,2002年において全世界輸出額の約20%を占める(WTOによる)。 サービス貿易は「輸送サービス」,「旅行サービス」,「その他サービス」に大きく区分される。近年,「その他サービス」の成長が著しく2002 年には世界のサービス輸出の47%を占めるまで拡大している。ソフトウェア・サービスや,情報通信技術を活用したコールセンター業務などの業務受託サービスといったITサービスもここに含まれる。インドのサービス貿易は,「その他サービス」輸出の拡大によって特徴づけられる。インドの当該サービス輸出額は世界の2.4%(約180億ドル)を占めるに過ぎない。しかしながら,輸出額上位15位中,香港(第9位),シンガポール(第15位)の他は先進国で占められているなか,インドは世界第13位の輸出国となっている。加えて,インドの当該サービス輸出は1990年代後半,年平均41%の成長率を示しており,他の国や地域を圧倒する。インドが,当該サービス輸出の世界的な成長センターとなっていることを確認できる。III.インドのサービス輸出とIT産業の成長 インドの貿易構造を考える上で,サービス輸出の重要性を無視することはできない。というのも,インドのモノとサービスの全輸出額に占めるサービスの割合をみると,1996年は18%でしかなかった。それが2002年には32%にまで拡大する。また,モノの貿易収支が継続的に赤字であるのに対し,サービス収支は2000年より黒字に転換する(IMFによる)。 インドからのサービス輸出の拡大を促しているのがアメリカを主要な需要先として成長してきたIT産業である。当初インドのITサービス輸出は,国境を越えた技術者の移動を伴うものであった。しかし,インドへの多国籍企業によるソフトウェア開発拠点の設立を契機として,情報通信技術を活用した越境的な取引によるサービス輸出が活発化する。また,インド企業も当該産業に多数参入し成長を遂げていく。さらに,こうした輸出形態は業務受託サービスの分野にも拡張される。インドのIT産業は,人の移動を伴わない越境的な取引によるサービス輸出へと輸出形態をシフトさせながら成長を遂げている。IV.IT産業の大都市立地 インドにおいてITサービス輸出の拠点となっているのが,デリー首都圏やバンガロール,ムンバイなどの大都市である。輸出されるITサービスの内容には違いがあるものの,多国籍企業だけでなく海外に複数の事業所を配置するインド企業も,インド大都市にソフトウェア開発センターやコールセンターといった拠点を配置する。また,郊外部には当該産業の立地を見込んだオフィスパークの整備が進展している。さらに,IT産業の成長はソフトウェア技術者やオペレータに対する強い需要とともに,これまでにない就業形態をインド大都市に生みだしている。 輸出指向型サービス産業として大都市を拠点としながら成長を遂げるインドのIT産業は,これまでにないインパクトをインド大都市に及ぼしている。そのプロセスは,長らく閉鎖的な経済体制のもとに置かれていたインド大都市が,サービス輸出という新たな回路を通じて経済のグローバル化の過程と深く結びつくプロセスとも考えることができる。
  • 大竹 伸郎
    p. 41
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
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    はじめに 環境保全への関心が高まりつつある近年、新潟県佐渡島では、「トキを軸にした島作り」計画を策定し、特別天然記念物であるトキの野生復帰を進めている。この計画は、トキの野生復帰を実現することで、近年減少傾向にある観光客の増加をはかり、佐渡島の産業を活性化することを目的にしている。 現在、トキの野生復帰をすすめる取り組みとしては、観光業や環境教育や農業などが中心となっている。観光業では、トキが放鳥される際の餌場を確保するため、県内外の市民が参加し、耕作放棄された棚田をビオトープとして再生するエコツーリズムが行われている。環境教育では島内の小中学校で「生き物調べ」、「トキと環境」など総合学習なかで取り扱われている。農業ではトキの放鳥予定地である佐渡島の旧新穂村を中心に、米の「減農薬減化学肥料栽培」や「無農薬有機栽培」といった環境保全型稲作が行われている。新穂における環境保全型稲作は、緒についたばかりであり、以前から独自に無農薬栽培に取り組み、栽培技術を確立している数軒の農家を除けば、経営水田に占める環境保全型稲作の割合が小さい農家が多い。 しかし、食の安全性に対する関心も高まっている現在、これらの取り組みを定着させることは、生産調整や米価の低迷等によって、近年、存続が困難に成りつつある日本の水田稲作を存続させるための一つの方策となり得るものである。さらに、2004年度から施行された「改正食糧法」により、米の販売実績に応じて、生産量が都道府県に割り当てられるようになったことを考えれば、今後付加価値の高い「有機栽培米」や「特別栽培米」の生産が増加していくことが予想される。研究の目的 本研究では、佐渡島の環境保全型稲作の中核地域である新穂村を事例に、環境保全型稲作の現状や展開過程、さらに定着のための課題を明らかにすることを目的としている。実際の調査にあたっては、新穂村で環境保全型稲作を行っている16戸の水田稲作農家と、7戸で形成されている農業法人、および15戸で構成されている農業生産組合に対して聞き取り調査を行った。 環境保全型稲作を定着させるための課題新穂村での調査の結果、環境保全型農業の定着を困難にしている要因として次の4点が明らかになった。_丸1_環境保全型稲作を行いたいと考えても、水田の場所が、慣行栽培による空散地域であるため新規の参入が困難であること。また労働力が不足するなかで、除草作業への労働力配分が大きいことも定着・拡大に大きな障害となっている。_丸2_離島である佐渡島では、輸送にフェリー代金が必要である。そのためJAでは、トラック1台分以上の生産量を確保出来ない場合は、農家から米を購入しないため、農家は独自の販売網を確保しなければならない。_丸3_栽培農家の多くは、個別の販売網を確保するためにNPOと提携しているが、これらのNPOでは独自の栽培方法をとっているため、販売を希望する農家は、これらの技術指導を受ける必要がある。しかし、この技術指導料金が高額であり栽培農家の大きな負担となっている。_丸4_トキの野生復帰プログラムと島作りや経済・産業の将来方針のプログラムとの整合性が必ずしもとれていない。そのために環境保全型稲作の展開がトキの野生復帰プログラムの中に明確に位置づけられていない。
  • 池田 安隆
    p. 42
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
    会議録・要旨集 フリー
    鮮新世_から_第四紀における地表変形の速度は日本列島の内部で一様ではない.東北日本弧では内帯,その中でも特に,羽越褶曲帯から北部フォッサマグナに至る地帯に変形が集中する. ここには,異常に厚い(最大_から_10 km)堆積層で充填されたトラフ(羽越堆積盆)が存在する.このトラフは,日本海拡大時のリフティングに伴って,地殻の上部数km _から_10 kmが欠損することにより形成されたと推定される.このような地質構造の大枠は,中新世前期_から_中期に起った日本海の拡大に伴って生じたものであり,現在のテクトニクスはこれらの構造に強く支配されているらしい(佐藤・池田,1999).鮮新世以降,東北日本は圧縮場に転じ,日本海拡大時に形成された正断層は,逆断層となって再活動をはじめた(第1図).鮮新世から現在までの総短縮量は高々 20 km 程である.羽越褶曲帯の(地質学的時間スケールでの)水平短縮速度は,4-8 mm/yr程度でる.これ以外の活断層による水平短縮の寄与を見込んでも,東北日本弧全体の水平短縮速度は高々10 mm/yr程度であり,測地学的に観測される水平短縮速度の1/5_から_1/10の値である.
     東北日本弧では,上記のような活断層に直接起因する波長数10km以下の短波長の地表変形とは別に,島弧全体をかさ上げするような広域隆起が存在する.Tajikara (2004, Dr. Thesis, Univ. Tokyo)は,河成段丘の比高から東北日本内陸部の隆起速度分布を求めた.その結果,東北日本弧が全体として0.22_から_0.36 mm/yrの速度で広域的に隆起していることを明らかにした.この隆起の主たる原因は地殻水平短縮に伴う地殻厚化によって生じるisostaticな隆起である可能性が高い.Tajikara (2004)は,東北日本弧が全体としてisostaticに釣り合っていると仮定し,広域隆起速度から水平短縮速度を推定した.その際撹乱要因として,削剥によるunloading,火山噴出物の堆積によるloading,マグマ底付け作用による地殻厚化の寄与を見積もった.その結果,水平短縮速度は東北日本弧全体で6_から_8 mm/yr以下であることが分かった.この値は,活断層のすべり速度から求めた値と調和的である.
     以上の結果から,東北日本弧ではプレート収束速度のおおよそ10_%_が永久歪みとして蓄積していると考えられる.
    図1.高田沖から松之山,十日町市水沢を経て六日町盆地南部に至る地質断面と推定深部地下構造.天然ガス工業界(1969)による地質断面図に推定される断層位置(太実線および太破線)を加筆してある.基盤岩(Pz/Gr)中に想定される水平なデタッチメント断層は,中新世初期にリフトベースンを形成した正断層が逆断層として再活動したものと考える.魚沼丘陵の地下にある楔状の基盤岩は,デタッチメント断層の上盤先端部に形成された roll-over 背斜を起源とする.テクトニックインバージョンを起こしたデタッチメント断層は,リフトベースンを埋積した新第三系の基底部(七谷層中)に沿って前方へ伝播していったと考えられる.信濃川付近を軸とする魚沼層(Un)の深い堆積盆の形成と,松之山周辺の構造的高まりの形成は,七谷層(Nt)中に落差 2 km 程度の ramp が存在すると仮定することで合理的に説明できる.この部分でのデタッチメント断層の総すべり量は,約 12 km である.六日町断層は,基盤岩上盤側の roll-over 背斜上に堆積した新第三系の基底部に,層面すべり断層として発生した back thrust である.この断層の発生時期は新しく,魚沼層堆積後である.六日町断層の総すべり量は 3-6 km に達する.(池田ほか,2002,「第四紀逆断層アトラス」,東京大学出版会).
  • 松浦 旅人, 沢田 順弘, 三瓶 良和, 宮本 毅, 谷口 宏充
    p. 43
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
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     1. はじめに 十和田aテフラ(To-a)は,約1,000年前に生じた十和田火山の最新の爆発的噴出物であり,十和田火山周辺に高温の火砕流が流下したほか,噴出後も火山泥流が米代川沿岸の人家を埋没して大惨事をもたらした.本報告では,1. To-aの層相・構成物の特徴から,To-a噴出過程を把握し,次に,2. 炭化木片のH/C原子比温度計(Sawada et al. 2000)を用いた火砕流定置温度を見積もった. 2. 堆積ユニットの対比   Loc.1では,下位からOyu-1,Oyu-2,Oyu-3,毛馬内火砕流が,Loc.2では,Oyu-1,火砕サージ,毛馬内火砕流が観察される.Oyu-1,Oyu-3は降下軽石層,Oyu-2は降下火山灰層(毛馬内火砕流のコイグニンブライト)と考えられている(Hayakawa 1985).各堆積物(マトリクス)の火山ガラスは,発泡形態(吉川 1976)を指標にした構成比率に特徴がみられる.毛馬内火砕流中の火山ガラスはH型を30%以上含むことから,発泡が良い.一方,火砕サージ中の火山ガラスは,H型が30%未満で火砕流中のものよりも発泡が悪く,かつT型を特徴的に含む.Oyu-1と毛馬内火砕流の間にみられる,Loc.1のOyu-2,3,およびLoc.2の火砕サージは,層位および火山ガラスの発泡程度から判断して,同じ噴火ステージの堆積物と考えられる.また,Loc.1のOyu-2は層相から判断して,火砕サージの可能性が高い. 3. To-aの噴出過程   まず,噴煙柱が立ち上がり,降下軽石(Oyu-1)が堆積する.次に,火砕サージ(ベースサージ?)が発生し,Oyu-2が堆積する.その後,再度噴煙柱が立ち上がり,十和田火山遠方では降下軽石(Oyu-3)が堆積する.一方,火山近傍では火砕サージの堆積が継続するが,この時期の火砕サージは,噴煙柱からのFall backによるものも含むかもしれない.最後に噴煙柱が倒れ,毛馬内火砕流が発生した.同時にこの火砕流のco-ignimbriteは降下テフラとして東北日本を広く覆った. 4. 火砕流定置温度の見積もり   十和田湖岸から約1.2kmのLoc.2では,火砕サージ中に炭化木片が発見された.木片が火砕サージに取り込まれた後に炭化したことを確認した上で,木片2個8試料を採取し,前処理を施した後,H/C原子比を測定した(測定方法はSawada et al. (2000)に従う).同じ木片から採取した各試料のH/C比はよくそろう.火砕サージが定置後速やかに冷却したと仮定し,Sawada et al. (2000)のGroup-1の式を用いると,火砕サージの定置温度は,中部が323-369℃,上部が451-459℃と見積もられる. 本研究の一部は,国土地理協会の学術研究助成金を使用した.
  • 呉羽 正昭
    p. 44
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
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     日本人の海外旅行者数は,1964年の海外旅行自由化とともに急激な増加を示してきた。現在では,毎年1500万人以上が海外旅行に出かけている。一方,訪日観光客数はその3分の1にすぎない。 日本人の全海外旅行のうちヨーロッパを目的地とするものはわずか13_%_である(2000年)。さらにアルプス諸国への旅行は,その10分の1程度にすぎない。しかしながら,観光客に関する統計資料が整備されているアルプス諸国では,目的地の地域的分布や宿泊施設の利用などに関して,他国からの観光客との比較が可能である。そこで本研究では,アルプス諸国,とくにスイスとオーストリアを対象とし,日本人観光客の滞在パターンを明らかにする。とくに日本人観光客の目的地や宿泊施設の利用といった特徴を,他国の観光客との特徴を比較しつつ分析を進める。またこうした分析から,日本人旅行者による海外観光地への影響を考えていく。 日本人によるスイスへの旅行は1960年代より一貫して増加を示し,1990年代半ばには宿泊数が100万弱に達した。日本人の旅行の場合,その目的地が特定の観光地に集中する傾向が強い。2000年,日本人によるスイスでの宿泊総数(ホテルのみ)は97万であったが,ツェルマットで最も多く約16_%_を占めた。これに続くのは,インターラーケン(15_%_),ジュネーブ(12_%_),グリンデルヴァルト(11_%_)であった。この4か所で日本人による総宿泊数の54_%_に達している。ジュネーブを除くと,いずれも山岳観光地である。なかでも,インターラーケンとグリンデルヴァルトでは,日本人による宿泊数が当該地域における全宿泊数の25_%_以上に達している。対照的に,スイスの全宿泊数(ほとんどがヨーロッパ人)でこの4か所が占める割合は13_%_にすぎない。 オーストリアの場合もスイスと同様に,日本人による宿泊数は増加を続け,1990年代半ばには宿泊数が50万を超えた。しかし,その後はやや減少している。オーストリアにおいても日本人観光客の目的地は特定の観光地に集中するが,その傾向はスイスよりも強い。2002年,日本人のオーストリアでの宿泊総数は48万であったが,ウィーンで最も多く約62_%_を占め,これにザルツブルク(14_%_)が続いた。この2か所で日本人による総宿泊数の76_%_に達している。ただし,2都市の総宿泊数に対する日本人の割合は4_%_前後にすぎない。オーストリアにおける日本人観光客の行動は都市観光地での滞在で特徴づけられ,他の都市も含めた都市観光地での宿泊数比率は83_%_に達する。一方,オーストリアにおける全宿泊数に占める都市観光地での割合はわずか11_%_でしかない。 利用宿泊施設に注目すると,他国の観光客に比べ,日本人観光客は高級な施設を多く利用する傾向が強い。スイス,オーストリア両国で日本人の95_%_以上がホテルに宿泊している。それに対してスイスの全宿泊客ではその割合は約50_%_,オーストリアでは約60_%_である。 両国における日本人の滞在は,平均で2泊前後と短いことも大きな特徴である。こうした周遊型旅行の卓越に対して,ヨーロッパ人の旅行形態は一般に滞在型である。 日本人観光客にみられる目的地や利用宿泊施設の特徴は,ひとつには団体旅行が多いため生じていると考えられる。またアルプスという空間スケールで考えると,オーストリアでは日本人観光客のほとんどがアルプス縁辺部にある都市に滞在し,オーストリア・アルプスでの宿泊客は非常に少ない。その一方で,アルプスを目的地とした日本人のほとんどはスイスを訪問している。さらに高級な施設の頻繁な利用や,旅行の大きな目的の1つである買い物の存在は,日本人観光客の消費額を大きくしている。そのため,スイスやオーストリアの一部の観光地にとって日本人観光客は重要な宿泊客と位置づけられている。また一部の観光地における日本人観光客の集中は,日本人向けの土産物店の立地を促進し,複数の日本人従業員をかかえる商店も存在する。
  • 前杢 英明, 三浦 英樹, 岩崎 正吾
    p. 45
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
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    東南極,リュツォ・ホルム湾には隆起海浜地形が数多く分布する。日本の南極観測が開始された当初からこの隆起海浜堆積物には貝化石が含まれることが知られ,その14C年代が測定された(例えば,Meguro et al., 1964)。その後,貝化石の試料数が増大するにつれ,この地域の貝化石の年代値が1万年前より新しいものと2万年前より古いものに大きく2つに分かれることが明らかになった。Yoshida(1983)は,これら古い貝化石や隆起海浜地形が壊されずに保存されている事実から,少なくともこれが見出される地域は,最終氷期最盛期(LGM)に南極氷床に覆われることはなかったと考えた。しかし,古い年代を示す貝化石は14C年代の測定限界を超えたもので信頼性に乏しいとの指摘もあった(Adamson & Pickard,1986)。その後,加速器質量分析計(AMS)による貝化石の14C年代測定が行われ,2万年前より古い年代について新しい成果が得られた(Hayashi & Yoshida, 1994;Igarashi et al., 1995a,b;平川・澤柿,1998)が,採取した貝化石が原地性のものかあるいは拡大した氷床によって再堆積したものかは明らかにされていなかった。第37次南極地域観測隊(JARE-37)の調査では,この問題を解決し,より確実な議論を行うために,リュツォ・ホルム湾周辺の隆起海浜堆積物を掘削することで貝化石の産出状態を確認し,それらを採取してAMS14C年代を測定した。その結果,3_から_4万年前を示す海成層が完新世海成層に不整合に覆われていることが明確に示され,東南極ではLGMより少なくとも数万年前に氷床の最大拡大期があったという仮説があらためて提示された.これらをふまえて,JARE-45では,年代学的・地質学的手法で東南極での氷床最大拡大期の年代・範囲を直接知るため,宇宙線照射年代試料の採取を広域に行い,また3_から_4万年前の海成層と氷河堆積物の層序関係を露頭で確認する調査を主要項目とした.海成層と氷河堆積物の調査に関しては,リュツォ・ホルム湾,ラングホブデにおいて,1995_から_6年の調査時に表層約1mを掘削して二層の時代を異にする海成層が分布することを確認した地点付近で,電動・エンジン削岩機を用いてさらに深さ約4mまで調査坑を掘削し、海成層の基底の状況を確認する調査を行った.その結果,深さ4m内に層相の異なる9層の地層が認められ、さらにその下位に海成層に充填された巨礫層が認められた。この巨礫層は周辺の状況から氷河性堆積物と判断するのが妥当と考えられる.海成層からはin situ の貝化石(Laternula elliptica)を採取した。これらの貝化石の年代測定および海成層のOSL年代測定によって、氷床がこの地域を覆った時代をより明確にすることができる。氷河性堆積物を直接覆う貝化石を含む海成層は,第四紀後期の3_から_4万年前の年代を示す海成層よりさらに下の層準にあたり,少なくともこの年代より古いことは確実である.14C年代の測定限界に近い値であり,OSL年代との比較検討が必要であろう.しかし,いずれにしても3_から_4万年前よりさらに古い時代に,この地域では最後の氷床拡大期があり,北半球で認められているような2万年前前後の氷床最大拡大期は少なくとも東南極ではなかったことはほぼ確実となった.スカルブスネス・きざはし浜でも,氷河性堆積物と海成層との層位関係を明らかにするための隆起海浜の掘削を行った。その結果、両者は漸移的な関係で氷成粘土層から完新世の海成層に移り変わっていることが明らかになった。このことから、スカルブスネス以南では完新世の海成層の下位には更新世の海成層が存在しないことが明らかになった。さらに岩盤が最終的に氷床に覆われた年代を直接求めるため,宇宙線照射年代のための試料採取を行った.試料はリュツォ・ホルム湾の主要な露岩地域(オングル諸島,ラングホブデ,スカルブスネス,スカーレン)の35地点から45試料を採取した.採取地点は、氷食作用を受けたと推定される鯨背岩・羊背岩的な地形や平坦面を,空中写真判読や地形図の読図から選び出し,さらにその中でなるべく天空率が高い地点をGISソフトなどを使って絞り込んだ.また,露出年代の最大値と最小値を見積もるため,なるべく地表基盤岩と近傍にある迷子石上部の両方から試料を採取した.特にラングホブデ北部の海成層掘削調査地点付近で採取した試料の年代は,海成層直下の氷成堆積物の年代のプロキシーとして使える可能性が高く,3_から_4万年より古い年代が得られることが期待される.
  • 佐藤 大祐, 斎藤 功
    p. 46
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
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    _I_はじめに 熱帯における避暑慣習はイギリス統治時代のヒマラヤ山麓シムラで始まり,インドネシアやマレーシア,ベトナムなど東南アジアの欧米植民地にも伝播して,各地に高原避暑地が形成された。このような高原避暑地の形成過程は日本にも当てはめて考えることが可能である。すなわち,避暑慣習は欧米人によって東南アジアから日本に伝播し,横浜などの外国人居留地からほど近い高原に避暑地が形成されたと考えられる。このことから,日本における高原避暑地の研究では,欧米人の日本社会への進出とその時代背景,および横浜などの外国人居留地との位置関係の中で,高原避暑地を捉える必要性ある。 発表者はこれまで,高原避暑地の形成に関する事例研究を公表してきた。本報告は,外国人が明治期の日本に避暑慣習をもたらし,横浜居留地を中心にそれが伝播することで,高原避暑地が各地に形成された過程を明らかにする。_II_欧米人の日本社会への進出と避暑 1859年の開国とともに,長崎や横浜などの開港場に外国人居留地が設けられた。そして1868年の明治維新以降,西洋文化が積極的に導入され始めると,貿易を担う外国人居留地は大きく成長した。当時の外国人の行動範囲は,外交官を除いて居留地から10里以内に制限されていた。しかし,日本在住の外国人にとって,熱帯に匹敵する高温多湿の夏は耐え難いものであった。そのため,彼らは熱帯の植民地でもそうしていたように,高原避暑地を求めたのである。外国人の国内旅行は1874年にようやく条件付きで許可され,1879年には御雇い外国人の国内旅行が大幅に緩和された。_III_高原避暑地の形成 1.宮ノ下と箱根宿 箱根山腹の宮ノ下には9軒の湯治宿が存在し,横浜の外交官が1870年頃から騎馬や駕籠で避暑に訪れた。1878年には洋式の富士屋ホテルが開業した。1881年においても「横浜や東京の大多数の居留者とその家族は,景色がよくて健康的な土地柄に惹かれて,夏と秋には宮ノ下を」訪れた(英王立地理学会員クロウ)。一方,芦ノ湖畔に位置する東海道の宿場町・箱根宿では,1868年にイギリス公使パークス一行が夏の2ヶ月ほどを柏屋に滞在した。これは,インド総督がシムラに夏の政庁を移したことに影響されたものと言える。 2.日光と中禅寺湖 イギリス公使パークスは1870年に本坊に日光を訪れ,杉並木の景観や東照宮や輪王寺の社寺観光を楽しんだ。標高600mの日光は避暑地としても注目され,1873年には金谷カッテージ・インが開業した。1875年には”A Guide Book to Nikko”が刊行され,1885年に上野_-_宇都宮間の鉄道が開通すると,外国人避暑客が増大した。一方,標高1,200mの中禅寺湖では1890年代半ばから,避暑客で混雑した日光を避けた外交官らによって別荘地が形成された。 3.軽井沢 軽井沢においては,宣教師ショウが1886年に別荘を建てたのが最初である。1893年の鉄道開通後,1890年代には東京や横浜,大阪など主要都市の宣教師が,1900年代には地方都市の宣教師が別荘を建てた。宣教師は日本国内だけでなく東アジアや東南アジアからも避暑に訪れ,布教会議や音楽会,スポーツなどを通して交流した。 明治期に形成された高原避暑地には,次のような共通点がある。1)自由に旅行できる外交官などによって気候や景観,娯楽などの点から選好されたこと,2)湯治場や社寺などの観光資源があったこと,3)鉄道開通後の避暑客増加を避けて芦ノ湖畔や中禅寺湖畔に衛星避暑地が形成されたこと,4)かつての宿場や山岳修験道の宿泊施設があったことなどである。これらを基礎条件に,鉄道延伸などの社会背景によって避暑地の形成時期や客層などに差異が生じたものと考えられる。
  • 小島 泰雄
    p. 47
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
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    改革開放政策の起点を1978年とすると、すでに四半世紀にわたって、社会主義的な国家建設から市場経済へと、中国の進路が転換されてきたことになる。この間、急速な変化をとげる中国にあって、農村もまた例外ではなかった。その変化を継起する3つの段階に整理し、それぞれの局面における諸関係の中に、共通テーマであるグローバリゼーションの影響とその機制を考えてゆくことが、本報告の目的である。あわせて、これらの変化に内在する多様性について、地域の視点から考えてゆきたい。 中国におけるこの四半世紀の農村変化をその空間性に着目して再度、眺めてみよう。近代国家を社会主義建設により創りだそうとしてきた中国にあって、いまもなお農村変化に国家の枠組みが強力に影響していることは、制度やその施行状況から明らかであろう。1980年代には一旦、農業生産と郷鎮企業の発展を通して地方が立ち上がってきたかに見えた。しかし、1990年代に入ると世界を指向した市場経済化が加速され、出稼ぎに象徴される移動を伴う変化が上書きされた。農村の変化は明らかに均一な歩みから多様な駆け足へと変わり、それは国家的要素の後退と、それと連動する地方と世界の空間性の強まりとして理解されよう。しかし、この変化の方向性は一定でなく、地域的多様性を有し、かつ可塑的でもある。その中で農村そのものの衰退が着実に進行していると言えよう。
  • フンク カロリン
    p. 48
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
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     近年、訪日外国人旅行者数は増加し、また、日本政府も2003年から積極的に外国人観光客の誘致を進め始めた。国内の目的地に関するデータが少ないが、国際観光振興会の報告によると、来訪外客の目的地は東京が56.5%、大阪25.2%、京都15.8%、神奈川15.6%などで、首都圏、関西、名古屋の都市圏に集中している。その結果、在日外国人も含め、外国人旅行者は全国にみかけるものの、国際観光に積極的に対応するほどその数が多い地方の観光地は限られている。この発表では、「世界遺産」という国際ブランドを持っている広島県宮島町を事例に、地方における国際観光への対応を検討する。
  • 田力 正好
    p. 49
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
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    1. はじめに 日本列島の海岸部には酸素同位体ステージ(MIS)5eの海成段丘が広く発達し,その高度から隆起量分布が明らかにされている.一方,内陸部においては,第四紀地殻変動研究グループ(1969)によって広域的な隆起量分布図が作成されている.この内陸部の隆起量は,侵蝕小起伏面の高度から求められているが,小起伏面の形成機構や年代が不明なため,信頼性の高いデータではない.その後,河成段丘を用いて内陸部の隆起量を推定する方法が提案され(吉山・柳田,1995など),いくつかの地域で隆起量が求められている.この方法は,同様の気候条件下では相似形の河床縦断形が形成されるという仮定をおき,それらの縦断形の比高を隆起量としている.本講演では,河成段丘を用いて内陸部の隆起量を推定した近年の研究例を紹介し,この方法に関わる問題点と今後の課題について述べる.2. 近年の研究成果 近年,河成段丘を用いて,ある程度広域的に内陸部の隆起量を求めた研究が北海道(幡谷ほか,2002),東北地方(田中ほか,1997;田力・池田,2004),関東地方(Tajikara,2000)などで行なわれている.これらの研究では,主として吉山・柳田(1995)のTT法(MIS 6と2の河成段丘の比高を用いる方法)が用いられている.これは,東北日本では氷期の堆積段丘が良く発達し,TT法が広範囲に適用可能であることを示している.田力・池田(2004)は,東北地方中部において,河成段丘を用いて隆起量(TT値)を求め,海成段丘のデータと第四紀層基底深度分布とを合わせて,過去10数万年間の隆起・沈降量とその分布を推定している.その結果から,東北地方中部の島弧と平行な地形配列は主に断層活動によって形成されてきたこと,島弧の水平短縮(+火山活動)によって地殻が厚化することにより東北日本弧全体が隆起してきたこと,等の可能性を示した.河成段丘を用いた隆起量の推定法は,不確定要素を多く含み誤差が大きいと考えられるので,高精度なデータを得ることは難しいが,ある程度広域的な地殻変動を概観するためには有効な方法と考えられる.3. 問題点と今後の課題(1)段丘面の対比 河成段丘を用いた隆起量推定法の第1の問題点は,段丘面,特にMIS 6段丘の対比の不確実性である.東北日本において研究例が増えてはいるが,確実にMIS 6に対比される段丘はそれほど多くはない.また,指標テフラを用いて段丘の年代を決定する際に,段丘堆積物とその被覆層中に欠落部があると,実際よりも若く段丘離水年代を見積もってしまう可能性がある(幡谷,2004).このような問題点に対しては,OSL法や表面照射法などの新しい年代測定法を用いること,テフラのみではなく段丘面の形態・段丘の分布状況・段丘堆積物の風化度や赤色化などから総合的に段丘の離水年代を判断すること,等が必要であろう.また,OSL法などの年代測定を用いる場合には,段丘堆積物とその被覆層の堆積過程を明らかにし,試料採取箇所の層位学的な位置づけを明確にする必要もあろう.(2)上流部の隆起量 河川の上流部では流量が減少するために,短期間では下刻速度<隆起速度となることが多いと予想される.このため,上流部では隆起量が過小評価されてしまう可能性が高いが,実際に隆起量が上流側へ減少している可能性もある.従来の方法では,これらの状態を区別することは出来ない.この問題点に対しては,どの程度上流側まで信頼できる隆起量が得られるのか?あるいは,どのような場合に河川が平衡状態(隆起と下刻が釣り合った定常状態)にあると言えるのか?といった点を明らかにする必要があると思われる.(3)西南日本では隆起量 これまでの研究例は中部地方以北の東北日本に偏っており,西南日本での研究例はほとんど無い.TT法は,“段丘の形成要因は地殻変動だけではなく,気候変動の寄与が大きい”という,主に東北日本で得られた観察結果に基づいている.しかし,西南日本では気候変動に起因する河床変動は小さいと予想され,東北日本のように氷期の堆積段丘が明瞭に形成されていない可能性がある.このような場合,海面変動の影響が及ばない中・上流域では,段丘形成の要因は主に地殻変動と考えることが出来る.従って,段丘の高度と年代から隆起量(速度)を求めることが可能になると思われる.
  • 元木 靖
    p. 50
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/01
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    中国では、近年、急速な経済成長を背景に都市と農村の間での所得格差の拡大という矛盾に加えて、WTO加盟(2000年12月)の影響が、今後どのように及んでくるかという点に大きな関心が向けられている。市場開放に最も敏感な農業部門は食糧作物である。ここでは「構造調整」の視点から、農村における土地利用変化とくに食糧生産の動向を展望すると共に、これからの課題について概観する。1.需給調整から生産構造調整へ  (前文略)1995年、レスター・R・ブラウン著『だれが中国を養うのか?』が出版され、世界の注目を浴びた。ところが、そうした関心とは逆に、その後の中国における食糧生産は増加を続け、とくに96_から_99年には4年連続で5億トン前後の増産を記録した。穀物の在庫量が増え、食糧管理の省長責任制もその役割を大きく後退させることとなった。それ以上に、食生活の構造変化が進む中で食糧生産の過剰問題が新たな政策課題となり、1999年にははじめて農業生産構造調整が提起された。過剰の実態についてははっきりしないが、現在農作物の97.3%は需要を満たしているか過剰基調にあり、そのうち供給過剰の商品は56.76%に達しているとの報告もある。     かくして農業生産の構造調整期に入ってから中国では、限界地における耕地の林地への転換が進められる一方、穀物を中心とした過剰な食糧作物から成長作物(油、肉、鶏、魚、卵、乳、果実、野菜)への調整が急展開しつつある。このことは、すでにアジアの各地でも経験されてきた食糧の「増産」(自給化)から「多様化」と「市場重視」、さらに「グローバリゼーション」という新しい課題に向けた対応が開始されたことを意味する。2002年に体系化された農業の地域構造の改革方針(全国を9つの特化地域に区分している)はその具体的な現れであるが、そこでは食糧作物以外の戦略作物が重視されている。2.果たして食糧生産問題は解消されたのか?  構造調整が進む中で、中国における食糧生産の行方はどうなるのであろうか。これからの政策如何によっては食糧不足問題が顕在化する可能性を否定できない、と言えるかもしれない。唯一食糧作物の特化地域とされている東北地区を対象として、米とトウモロコシの生産地の動向に注目してみた筆者の印象であるが、以下のような基本的問題点が横たわっている。 第1に、構造調整が進められる中で食糧作物の発展地域でも、近年その播種面積は減少傾向が認められる。これに対して経営的には個別経営(請負)の拡大によって、生産費を軽減し、合理化する動きが進展しているかというと、その傾向はきわめて少ないようである。その背景には中国独特の社会主義的(零細)土地所有構造に加えて、農村における多くの滞留(余剰)人口という制約がある。一方、農村では土地基盤の整備が後れ、機械化も制約される中で労働生産性は低く、国際的な価格競争という面から見て基盤は脆弱である。 第2に、東北地区では、気候的な条件などから作物栽培の多様化は大きく制限されている。こうした中で単作化という方向はある程度避けられない性格を有している。従来の延長線上での化学肥料の多投による単収追求が求められるかもしれない。その場合「新東北現象」として指摘されはじめた在庫問題が大きく懸念されよう。これに対して、かつては食糧の備蓄が強調されたが、構造調整期には食糧生産能力の備蓄が課題といわれるが、そのことはうまく展開し得るであろうか。こうした状況下において米やトウモロコシの品質面での多様化と加工による付加価値をつけた打開策が講じられているが、功を奏するかどうかは未知数である。
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