抄録
研究の背景と目的 朝鮮半島においては,日本統治時代(1910から45年)に入り「土地調査事業」(1912年以降)と,それに続く「林野調査事業」(1916年以降)などが進められる中で,山林の所有や地目に関する把握を徹底することが求められた.そこで本報告では,これら「事業」の進行の過程などにおいて朝鮮半島における山林がどのように制度的に把握されていったのかについての,一試論を提示することとした.資料としては,「事業」に関する各種報告書の記述と,実際に各事例地域において,当時の山林の状況を記載した地籍資料(林野台帳・林野図等)とを用いた.そして,これらの過程を経た山林については現地調査を行い,その後現在に至るまでいかなる変化を経験したのかについても検討を加えた.
各種報告書の記述と各地の実態 各種報告書において注目される3つの観点について,報告書の記述と各地の実態とをまとめると,以下のような状況が指摘される(図).
○集落空間としての山林 「土地調査事業」当初は課税対象とはならず調査対象から外されたとされる山林ではあったが,実際には同事業の時点においても,「亭子」(図)といった氏族集団による建築物が存在するなどして,集落の続きとして調査対象となった山林が各地で散見される.こうした山林は地籍資料上,氏族集団の代表者による,あるいは同者を含めた連名での所有とされた.ただし,非常に小規模の建築物しか存在しない場合,後の「林野調査事業」において,追加的にその所有などが把握されていくこととなる.なお,一連の「事業」時に「林野」あるいは「田(畑作地に相当)」に区分され地籍資料に記載された山林は,後に幾度かの実態調査を経て,とくに解放(1945年)以降の一時期にその多くが再び「林野」としての記載に改められていく,といった過程をみた.
○墓地としての山林 朝鮮半島においては,稜線上に氏族集団などの墳墓が設けられることが多く(図),各種報告書においても「陵墓」としてその存在に留意することが特記されていた.そして,「林野調査事業」等を通じて整備が進められた地籍資料においては,これら墳墓が含まれる稜線の全体が,比較的明確に,氏族集団の代表者による,あるいは同者を含めた連名での所有と記載されていった.ただし,山林全体に占める墓地自体の面積比率が低く,またその領域も明瞭でない大部分の墓地は,地籍資料上では一括して「林野」と記載されていることが多い.一方で,墓地のほとんどみられない山林は,事業を通じていったん「国有」扱いとなってしまったものがしばしばみられる.こうした,いったん「国有」扱いとなった山林が,後に一部で,民間への払い下げ等を経験することとなる.
○境界としての山林 面・里(日本の村や字に相当)の境界を明確にすることも目的とされていた一連の「事業」では,当初,稜線上を境としてそれらの境界を確定するよう想定していたことが各種報告書の記述にみられる.しかしながら先述したように,稜線上には墓地が設けられ,かつ稜線全体が氏族集団などの所有となっていることが多いという実態をふまえてか,実際に地籍資料でも,いったんは稜線に沿って面界・里界を求めながら,後に稜線を避けるように境界線を移動した事例が確認される.
以上の結果から 以上見てきたように,朝鮮半島における山林は,「事業」が開始された当初はその所有者の確認などがさほど重視されていなかったものの,後に一連の「事業」を通じて,集落空間および墓地としても重要な場所となっていることが制度的に把握されていったことが指摘される.とりわけ,氏族集団が関わっている山林は,関係者が隣接して居住しているか否かを問わず,早い時期にその所有が確認されていった可能性が高い.逆に,そうした条件を持たない山林の制度的な把握はしばしばあいまいなものとなっていき,解放後の土地改革などを待つこととなる.
その中で,稜線上の墳墓を軸とした稜線全体が氏族集団などの所有となりやすいという実態は,山林の制度的な把握において,墳墓の存在を根拠として所有者の特定を容易にするといった形で寄与した可能性がある.しかし一方で,それらの実態が後に,地筆の再確定や境界の再編を求める結果となっていった点も強調したい.
