抄録
はじめに
リアス式海岸として知られる大分県南東部の豊後水道域は,古くから津波の被害を受けてきた。宇佐美(1996),渡辺(1985)によると,この地域では,1707(宝永4)年,1854(安政元〈嘉永7〉)年,1946(昭和21)年の南海地震津波,1970(昭和45)年の日向灘地震津波などが顕著な被害を伴う津波として記載されている。東京大学地震研究所(1983,1987)によると,これらのうち江戸時代に発生した地震による津波については,佐伯藩の毛利家文書である『元禄宝永正徳享保日記』や『温故知新録』に,佐伯城下での津波の被害は記述されている。しかし,それ以外の地域の具体的な様子については知られていない。
大分県南海部郡米水津村では,「米水津の歴史を知る会」が,史料を発掘し,米水津村域での歴史被害津波について,その被害範囲,波高などを明らかにしてきた(米水津の歴史を知る会,2003MS)。ここでは,それらをもとに宝永四年十月四日南海地震津波,安政元年十一月五日南海地震津波の米水津村における実態について報告する。
宝永地震津波の概要
宝永4年10月4日(1707年10月28日)昼の八ツ時(午後2時頃)に,南の方が大いに鳴り,大地震が発生した。震源地は南海道沖で,マグニチュード8.4と考えられている(宇佐美,1996)。午後3時ころに,米水津村に大津波が襲来した。
その時に色利浦での津波波高は,海抜高度およそ10mである。これによる死者は2人であった。この津波は色利川に沿って,7丁(およそ700m)程度遡上したとされている。
また,海岸部では液状化が発生している。浦代浦は一面湖のように見え,「養福寺の石段2段を残す」まで津波が浸入した。この高さは,海抜高度11.5mである。これは米水津村における最大波高の記録である。また,死者は米水津村内で最大の18人に達した。宮野浦では「迎接庵の石段の下から3段目」まで津波が浸入したと地区で言い伝えられており,その高さは,海抜5.7mである。
安政地震津波の概要
安政元年南海地震による津波は,宝永四年のそれより規模が小さく,色利浦で平常の満潮より2.7m高い波高であった。米水津の大潮の満潮の高さが1.1m程度であるので,3 4mの波高を持つ津波と考えることができる。この時には色利川に沿って河口から400_から_500mくらい津波が遡上した。また,海岸付近では液状化が起こったようである。
浦代浦では,津波の波高は7_から_8尺(2.5m)以上であり,老婦が1人死亡している。
小浦では最初の津波が当時の村上のはずれまで浸入したと書かれており,また地区の言い伝えでは,村はずれの墓地にある楠木に藻が引っ掛かったとされている。この墓地は海岸から200m程度の距離で,海抜高度では7m前後となり,色利浦より高い津波であったと考えられる。小浦での波高から考えると,宝永津波時に最大波高を示した浦代浦では,津波はかなり高かった可能性がある。
文 献
東京大学地震研究所(1983):「新収日本地震史料」,第3巻別巻,590p.
東京大学地震研究所(1987):「新収日本地震史料」,第5巻別巻5-2,2528p.
宇佐美龍夫(1996):「新編日本被害地震総覧[増補改訂版]」,東京大学出版会,493p.
渡辺偉夫(1985):「日本被害津波総覧」,東京大学出版会,206p.
米水津の歴史を知る会(2003MS):「村の大地震・大津波」,121p.