抄録
本発表は日本における現在の国際的な観光政策を導いた観光関連の政策変遷を示すものである。日本における観光政策は頻繁に変わり、それぞれの政策間の一貫性に乏しい。観光政策は社会の状況によって変わるだけでなく、縦割り行政が継続した政策の弊害になっている。むろん社会の変化に対応した政策変更は望ましいことであるが、国民を十分考慮に入れない政治的なパワーゲームは観光客や観光産業にとって時に悪影響を及ぼしている。
日本人の渡航自由化にとって1964年の東京オリンピックは大きな転機であった。オリンピックに先駆け、1963年に観光基本法が制定された。第二次世界大戦直後、日本のアウトバウンド渡航は規制が強く、外貨持ち出しが制限され、許可される渡航目的も貿易や留学など日本経済に利益があるものであった。しかしながら、高度経済成長と先進国としての政府の面子が日本人の渡航自由化への規制緩和をもたらした。
オリンピック後の渡航自由化はアウトバウンド観光のみを意図していたわけではない。自由化はインバウンドとアウトバウンドの平等な扱いを目指していた。しかしながら、円高は経済的に日本人をアウトバウンド観光に引きつけた。さらに、国内の観光産業に対する政府の規制や競争原理の少ない国内交通が日本の国内観光を割高なものにした。
日本には、高度経済成長期のうち、特に1960年代から70年代にかけて、国内観光大国化を進める、あるいは観光客の国際相互交流を行える機会があった。旧国鉄はオリンピックや1970年の大阪万博のために効果的な交通システムを整備していた。万博終了直後に旧国鉄はディスカバー・ジャパン・キャンペーンを行い、国内観光客の増加をもたらすうえで大きな成功を収めていた。国内観光のための新たなチャンスはバブル経済期の1980年代後半から1990年代初めに訪れた。1987年のリゾート法は日本各地に高価なリゾート施設をもたらしたが、官民共同の第3セクター方式で作られた高価な施設は国際競争力に欠けており、なおかつ不安定なバブル経済に支えられていた。
日本人の海外渡航はさらに1987年のテンミリオン計画によって促された。同計画は観光客による外貨の消費によって日米貿易摩擦の緩和を試みていた。しかしながら、バブル経済の崩壊は状況を大きく変えた。日本企業によって設立された国内および国際的な高級リゾートの多くは経営破綻に陥った。インバウンド観光客の誘致のため、1996年にウェルカムプラン21が外貨獲得と市民の相互理解を目的として導入された。さらにインバウンド観光客の誘致を促進するために、2003年にはビジット・ジャパン・キャンペーンが導入されたのである。