日本地理学会発表要旨集
2005年度日本地理学会秋季学術大会
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富士山南西麓における戦後開拓地の変容
*北崎 幸之助
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p. 75

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抄録

1 研究の目的
 本研究は戦後開拓地建設の開始から60年が経過した現在でも開拓組織を維持している富士山南西麓の富士開拓農業協同組合地区をとりあげる。農協内に存在する農業集落として維持・発展してきた地区と崩壊した地区とを比較しながら,アクターネットワーク論を用いて戦後開拓地における農業集落の変容過程を明らかにすることを目的とする。
2 富士山南西麓の戦後開拓地
 静岡県富士山南西麓に位置する富士開拓農業協同組合地区は標高500_から_900m付近に位置し,気候条件・土壌条件とも農業経営には厳しい地域に建設された。初代組合長を務めたのは植松義忠で,彼は第2次世界大戦前,満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所で農業指導者の加藤完治から直接的な指導を受けた経験を持っていた。入植地は約400mの標高差があり,700m以上の高冷地にはのちに2代目組合長を務める伊藤義実が率いた長野県からの分村移民者(長野開拓団)が入植した。それ以下の地区には地元の次・三男や旧軍人らが入植した。ともに厳しい自然条件であったが,植松と伊藤の2人が地域スケールにおけるグレートアクターとなって,市や県,開拓の全国組織など様々なアクターとの連携をはかりながら,開拓地をまとめていった。
3 富士開拓農業協同組合地区における営農形態の分化とアクターネットワークの形成
 1954年に国家的スケールで行われた集約酪農地域の指定以降,富士開拓農業協同組合地区は国家的スケール,地方スケールの補助事業を取り入れながら,酪農を営農の柱にし,農業地域を発展させてきた。
 標高700m以上の地区は,自然条件・土壌条件は悪かったものの,入植者は広大な土地を入手することができた。この指定を機に酪農地帯へと転換し,入植者らはそれまでの自給的農業からの脱却をはかった。そして,地区ごとに農業機械の共同所有・共同利用,農業技術の習得等を目的としたネットワークが重層的に形成された。さらに「長野開拓団」という集落内部の結束をはかるネットワークも形成され,入植者の離脱防止に有効的だった。
 一方,標高700m以下の地区では地元出身者や旧軍人が入植の中心であったため,戦後の混乱期を乗り切ることが主要課題だった。しかも農業経験者はほとんどいなかったため,農業集落を維持していこうとする意思決定に乏しかった。たとえば,標高500m付近に立地した東地区では1940年代に入植した33名のうち,前述の集約酪農地域指定にともなうジャージー牛の導入は全体の3分の1程度の農家に限られた。その他の農家は作物栽培を自給的にとどめ,富士宮市内や隣接した富士市内の事業所に従事した。結果的に作物栽培に関するネットワークは形成されなかった。1968年,標高800m付近の地帯でボーイスカウトの世界大会である「世界ジャンボリー」開催が決定した。それにともない,東地区を縦断する形でアクセス道路の建設構想が浮上した。すでに,その時点で地区全体での営農意欲は衰退していたため,土地の売却に応じ,多くの入植者が売却益を得た。
 4 まとめ
 以上のように,富士開拓農業協同組合地区は,酪農を中心に営農を行ってきた地区と,通勤兼業が主体で,農業集落としては崩壊してしまった地区とに分かれた。集落を維持・発展させてきた地区は,内的・外的なアクターネットワークが重層的に形成されたのに対し,崩壊した地区では形成されなかった。そして,両地区を二分させたのは入植者の属性や自然条件などであり,結果として標高700mが境界となった。

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