抄録
1. はじめに利根川中流域の埼玉県羽生市本川俣を取水口とする葛西用水は、埼玉県東部及び東京低地の主幹用水路として、江戸時代から現在に至るまで重要な役割を担ってきた。400年余に及ぶ葛西用水の歴史は、成立から今日に至るまで用水沿線の環境変化とともに複雑で多様な変遷をとげている。葛西用水の研究史については近代以降の水利事業にかかわるものとして、葛西用水路普通水利組合による『葛西用水路沿革史』(1924)、『葛西用水略史』(1932)、葛西用水路土地改良区による『葛西用水史(通史編・資料上・資料下)』(1993)がある。また農業水利・土木史からの観点からの論考が多い。流域の自治体史は、地域内における葛西用水の理解と史料の掘り起こしという点で大きな成果をあげているが、部分的考察に留まっている。従って利根川からの取水が開始された1719年以前の考察や、流域全体に及ぶ考察はなく、事実関係の誤認も多い。本発表は葛西用水の成立過程を、段階的に整備されてきた用水に影響を及ぼした河川環境の変動から段階手に解明することを目的とした。なお、これは2001年夏(埼玉県4館・東京都1館)が合同で開催した「合同葛西用水展」の成果である。2. 研究地域と手法考察地域は埼玉県から東京都に至る約80kmに及ぶ。1719(享保14)年以降、利根川本川俣が取水口となった葛西用水は、用水組合10か領・300か村・11万石の地域を灌漑する用水となった。1719年以前の各地域の用水の解明には、「葛西用水絵図」を分析した。葛西用水絵図は現在約20点が確認されている。絵図はいくつかのタイプがある。特に19世紀に描かれた絵図には、かつての水路跡や旧河道が詳細に描かれている。この解読により、1719年以前の葛西井堀、中島用水、幸手用水の成立過程と周辺河川環境を解明した。3. 考察と結果用水は南部から、葛西井堀(初期葛西用水)、中島用水、幸手用水があり、成立時期を異としている。これら用水の成立背景には関連する河川の開削・改修が大きく関わっていた。第1段階 3つの用水は単独で機能した。_丸1_葛西井堀:初期の葛西用水。1623年元荒川の瓦曽根曽根溜井から取水。葛西領へ送水。_丸2_中島用水:はじめ庄内古川、1641年江戸川開削により江戸川から取水。_丸3_幸手用水:1660年利根川本川俣から取水。幸手領の用水。第2段階 _丸1_と_丸2_が結合_丸2_中島用水は、古利根川を通じて松伏溜井から人工水路である鷺後用水で瓦曽根溜井に送られ、_丸1_葛西井堀と結んで葛西用水として機能した。1704年利根川洪水により中島用水の取水口が閉鎖し、深刻な用水不足となった。第3段階 _丸1_と_丸3_が結合。_丸2_が分離。中島用水からの送水が不能になった葛西用水は、_丸3_幸手用水に取水源を求めた。この結果、1719年利根川に新たな取水口を設け、中島用水の古利根川口以南を結合して、現在知られている葛西用水体系が成立した。はじめそれぞれの地域で完結していた3つの用水は、利根川諸河川の河道変遷と隣接地域の用・排水の問題が複雑にからみ、小地域から大地域の結合に拡大・統合していったことが判明した。
