抄録
離島は,その空間的な隔絶性の高さから,人的・物的な流動が活発に行われることは少なく,地域内で形成されてきた文化が現在にまで残存している。自然と共生し,コミュニティ内の結束力を強化させていく過程で生まれ,培われてきた文化は,人間の生活行動の原点であり,それを知り,理解することは現代生活においても重要な意義を持つと考えられる。反面,空間的な隔絶性は,経済発達には大きな支障となり,島外への人口流出や高齢化といった問題を引き起こしている。
多くの離島では,地理的な特徴を活かしつつ,これらの問題に対処していくために,観光産業の育成に力を入れてきた。しかし,現在では,観光スタイルの変化や後継者不足のため,従来の形態を維持していくことが難しくなってきている。他の産業とは異なり,観光産業による地域振興は,当該地域に対する外的な評価に左右されやすい。訪問者による外的な評価は,当該地域が打ち出す地域イメージに彼らの抱くイメージが合致することが前提になるものの,彼らは予想を裏切る「発見」を現地で期待する。観光戦略は,訪問者に「発見」させる事物とタイミングを用意することであり,それを行政側は観光政策によってアシストする。離島が,訪問者に「発見」してほしい事物は,まさに島の文化そのものである。また,労働力も資本も乏しい離島においては,できるだけ省力的な方策が望ましい。そのため,体験型の観光を主体にする観光戦略の再編は離島の今後を決定する大きな動きであると考える。
新潟県の粟島では,2006年より半農半漁の島内生活を体験するグリーンツーリズムの導入が検討されている。本研究では,同島を事例にして,グリーンツーリズム導入までの経緯と問題点を明らかにし,観光産業を中心にした離島振興の今後の方向性を検討する。
現在,粟島と本土とを結ぶ公共交通機関は,粟島汽船が経営する定期連絡船のみである。粟島汽船から提供された資料によれば,定期連絡船の年間利用者総数は,1974年から1992年まで上昇傾向にあったが,その後は減少に転じ,2006年の利用者総数は1992年時点のおよそ半数となっている(62,435人)。島内の宿泊施設は,1986年に最大となり,内浦集落で47件(うち旅館1件),釜谷集落で22件に達した。しかし,1990年代に入りバブルが崩壊すると,国内観光の低迷と観光スタイルの変化が粟島の観光客数の伸びにも影響を及ぼすようになった。加えて,継続的な人口減少による後継者不足が表面化し,2007年時点で宿泊業を営む世帯は,内浦集落で28世帯,釜谷集落で18世帯にまで減少した。
バブル崩壊後,島内の宿泊施設数は減少しているが,営業を続ける宿泊施設は,集落内に残存する血縁的コミュニティの中で分業体制を確立し,相互扶助的な関係を築いている。また,一島一村の行政姿勢を保持する同島では,島内にある役場が重要な観光センターになっている。役場は,貸自転車の貸し出しやキャンプ場の管理を行っているほか,島開き等の行事ではボランティア的な労働力も供出している。
従来から,粟島は,著名なエッセイストや写真家の作品の中で紹介されたり,島内の名物料理である「わっぱ煮」がグルメ番組や雑誌等で採り挙げられるなど,その面積的な小ささにも関わらず,ある程度の知名度がある。最近では,粟島をロケ地にした自主映画も製作された。血縁的コミュニティの中で存続する宿泊施設や島内観光を補助する行政の姿勢は,観光産業に対する全島の前向きな意思を物語る。体験型観光も,既に,内浦集落の宿泊施設28軒中5軒,釜谷集落の宿泊施設18軒中8軒で導入されている。
導入予定のグリーンツーリズムは,これらの要素を連携させパッケージ化しようとするものである。また,計画されているモデルコースには,島の自然環境や島内での暮らしを視覚的に理解できるような工夫が凝らされており,粟島観光を大きく変える動きとして着目される。