抄録
はじめに
ベトナム南部に広がるメコンデルタの形成過程に関しては、メコン川本流付近の堆積作用が卓越する地域でその概略が明らかにされているものの(Nguyen et al. 2000, Ta et al. 2002)、土砂供給量が相対的に少ない周辺地域の地形発達に関しては不明な点が多い。一方、ベトナム南部で現在大面積のマングローブ林がみられるのは、南端のカマウ岬とホーチミン市南東部のカンザー地区のみである。マングローブ林は土砂供給量が少ない立地ではマングローブ泥炭を自ら生産・蓄積することでその立地を形成・維持することが知られている(藤本 2003)。そのため、熱帯地域におけるデルタの形成過程を論じる場合には、土砂供給に伴う地形発達と共に、マングローブ林を始めとする低湿地林の立地変動を明らかにする必要がある。また、マングローブ林は中等潮位付近から最高高潮位の間にのみ成立するため、マングローブ泥炭の存在は、当時の海水準を復元する直接的な指標となり得る。
そこで本研究では、これまで詳細な地形発達情報が得られていないメコンデルタ北部とその北東側に隣接するドンナイ川下流低地を対象地域とし、特にマングローブ泥炭層の分布に着目して、後氷期海進以降の地形発達を海水準変動およびマングローブ林の立地変動と共に明らかにすることを目的とする。
地域概観
研究対象地域は、メコンデルタ北部のロンアン(Long An)省およびホーチミン市を中心とする地域である。本地域はメコン本流から離れているため供給土砂量は比較的少ない。そのためロンアン省の一部には、表層付近までマングローブ堆積物が露出し、硫酸酸性塩土壌が形成され、ほとんど土地利用がなされていない低湿地がみられる。一方、ドンナイ川は、ホーチミン市南東部カンザー地区に小規模デルタを形成しており、現在は4万haに上るマングローブ林が広がる。このマングローブ林はベトナム戦争時に米軍による枯葉剤攻撃でほぼ壊滅状態となったが、その後ベトナム人自身による積極的な植林活動によりほぼ全域で緑が回復し、現在ではユネスコによる生態系保全地域に指定され、世界的にも有名なマングローブ地帯となっている。
研究方法
メコンデルタ北部で25地点、ドンナイ川デルタ(支流のサイゴン川低地を含む)で17地点の計44地点でハンドボーリングを行い表層地質を明らかにすると共に、14C年代測定試料を採取した。年代試料はボーリングコア中から採取された木片および植物遺体で、計28点の年代値を得た。
調査地点の標高は、カシミール3Dを用いてダウンロードしたランドサット地形データ(SRTM)を用いて推定した。但し、本地域のSRTMデータは約90mメッシュのもので、また森林地帯ではその範囲の平均樹高が計測されるため、標高の推定は農耕地等の周辺が開けた地点のみで行った。
結果
調査地域内における沖積低地の地盤高は、河道沿いを除き+1m前後と極めて低い。マングローブ泥炭の分布が確認されたのは、現海岸線から50~80km内陸側で、メコン川とその北側のバンコータイ(Vam Co Tay)川、およびバンコードン(Vam Co Dong)川の後背湿地である。マングローブ泥炭層の形成時期は7000~6000 cal BPで、いずれの地点も層厚1m前後のシルト~粘土層に覆われる。これらの事実から、7000~6000 cal BPには上記地域にRhizophoraを主体とするマングローブ林が広がっており、当時の海水準は現海水準をやや下回っていたものと推定される。その後はデルタの前進とそれに伴う土砂供給で徐々に地盤高を増し、他のマングローブ種の優占林分へと遷移した後、淡水環境へと変化したと考えられる。6000 cal BP以降、メコンデルタ北部ではRhizophoraが優占するマングローブ林はほとんど形成されなかった。一方、カンザー地区では層厚0.5~1.2mの粘土層に覆われて、マングローブ泥炭層が比較的広範囲に分布する。その形成年代は1300~400 cal BPを示し、そのほとんどは600 cal BP以降に形成された比較的新しいものであることが明らかになった。