日本地理学会発表要旨集
2007年度日本地理学会春季学術大会
選択された号の論文の232件中1~50を表示しています
  • 小林 岳人
    セッションID: 101
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1.はじめに
     GISの地理教育へ導入に関しては数多くの議論がなされており、地理教育へ大きな効果をもたらすとされている(村山 2003;伊藤2004)。これにともない地理教育へのGISの導入に関する研究の蓄積も進んでいる(伊藤 2006)。しかし、実際にGISが導入された地理の学習における評価に関する研究はほとんどなされていない。筆者は1997年から高等学校の地理の学習においてGISを積極的に取り入れてきた(小林 2003)。そこで、GISを地理学習へ導入した際の評価に関する研究について報告を行う。
    2.分析の対象となる授業
     分析の対象は2000年4月~2001年3月に千葉県立小金高等学校第一学年生徒158名について行った地理Bの授業である。地理Bは4単位が標準であるが、小金高校では3単位に減単位されている。年間の授業は表1のように展開した。殆どの生徒が大学進学を目指しているため、授業では地理Bの内容を出来る限り網羅するようなものとし、定期考査(年間5回)の問題は大学入試センター試験を念頭においた形式・内容になるようにした。表中の太字は筆者が開発した表計算ソフトウエアによるGIS的学習教材を利用したもの、斜字は地図作成以外に表計算ソフトを利用したものでありいずれもコンピュータ教室にて実施した。年間授業時間のおよそ30%をコンピュータ教室にて実施したことになる。
    3.GIS的学習教材の作成状況と定期考査の得点との関係
     図1は受講生徒158名のGIS的学習教材の作成状況(表1の太字の学習における課題達成状況を数値化)と定期考査の得点(年間5回500点満点)との関係を表す。これらの変数間の相関係数は0.324となりこれを標準誤差で割った値を検定すると1%水準で有為であるので正の相関が認められる。このことからGIS的教材の作成状況は定期考査の得点に影響すると考えることができる。
     定期考査の平均得点(306.32点)とGIS的教材の作成状況の平均得点(36.09点)にて図1の座標平面を第 I 象限~第 IV 象限に分割する。ここで注目すべきは第 IV 象限の部分である。この部分における学習者はGIS的教材に対してよい反応をしているが定期考査の得点は平均以下である。彼らの能力をいかに評価するがが地理教育へのGISの導入において重要である。年間の授業の終わり行ったアンケートから学習者の授業に対する印象についての回答を得た。図1の○はこの授業全体に対して好印象を持っている学習者(上位25%)である。これに対して、×はあまり良い印象を持っていない学習者(下位25%)である。第 IV 象限の学習者には好印象を持っている者がほとんどなく、良い印象を持っていない学習者が目立つ。逆に第 II 象限の学習者のようにGIS的教材に対してあまり反応を示していなくても定期考査の得点がよければ授業全体に良い印象を持つ。
    4.おわりに
     GISが地理教育の中でより一層広まるためには第 IV 象限の学習者を少しでも多く第 I 象限へ送り込めるような方策が重要である。その一つの方策として、GIS的教材に対しての高い能力を示していることを評価できるように定期考査のようなペーパーテストの問題の工夫が考えられる。第 IV 象限の学習者は従来はなかなか地理では評価されない者であった。定期考査にとどまらず大学入試でのペーパーテストでもこうした能力を評価できるような問題の工夫がなされれば、彼らは地理に対してより一層興味や関心を示すに違いない。彼らの興味・関心を地理教育が取り込むことによって、地理教育の裾野も広がる。これによってGISは地理教育においてさらに大きな効果をもたらすこととなろう。
    【文献】
    伊藤悟 2004.教育現場におけるGIS 活用の課題と方策.日本地理学会2004 年秋季大会シンポジウム「教育現場におけるGIS 利用の課題と方策」発表資料
    伊藤悟 2006.小中高の授業でGISをどう使うか.日本地理学会2006 年春季大会シンポジウム「小中高の授業でGISをどう使うか」発表資料
    小林岳人 2003.地理教育における表計算ソフトを利用したGIS 的学習教材の開発と実践.地理情報システム学会講演論文集12:189-192.(開発したGIS的学習教材の詳細は以下のサイトを参照http://homepage2.nifty.com/taketo-kobayashi/)
    村山祐司 2003.学校教育におけるGIS 利用の可能性を探る.日本地理学会2003 年春季大会シンポジウム「学校教育におけるGIS 利用の可能性を探る」発表資料
  • 湯田 ミノリ
    セッションID: 102
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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     フィンランドでは2005年より小中高において新カリキュラムがスタートした.そのカリキュラムでは,高等学校において,大変特徴的な変化が見られる.それは,地理(maantiede)の授業「地域調査(Aluetutkimus)」において,教員,生徒ともに地理情報システム(以下GIS)を必ず使わなければならなくなったという点である.この科目は,専門科目(syventävä kurssi)であり,選択科目ではあるものの,どの高校においても開設しなくてはいけない科目である.言い換えれば,すべての生徒たちにGISを使って学ぶ機会が与えられているのである.
     GISが高等学校でカリキュラムに組み込まれるようになった背景には,教科としての地理の位置づけと小学校低学年から行われている徹底した地図教育がある.
     フィンランドの学校教育において,地理は生物,科学,物理と同じ自然科学の分野に位置づけられている.中でも,生物と地理は同じカテゴリとされ,教員養成の場でも,互いに主専攻,副専攻としなければならないほど,密接な関わりを持つ.地理の位置づけは,初等中等教育におけるカリキュラムにも大きく影響している.
     森と湖に囲まれたフィンランドにおいては,身近な環境としての自然環境を理解することから科学分野の学習が始まる.小学校1年から4年まで学ぶ「環境・自然科学(ympäristö- ja luonnontieto)」という教科では,身の回りの自然環境を題材に,科学的な知識を得ていくとともに,地図を読み,使う学習を行う.
     小学校1年生から,空間認識を養うため,街の鳥瞰図に触れ,立体図形の認識が登場する.地図は,小学校2年生で登場し,普段使っている部屋の地図化,そして近隣から地球規模までさまざまな縮尺の地図に触れる.そして3年生では,実際の地形図の読み方,コンパスの使い方を学ぶ.そしてその地図と周辺地域を同一視できるようになる.低学年からあらゆる縮尺の地図とともに学習をしてきた児童たちは,その後,学年があがるに従い,地理が地理という独立した教科に派生していいき,学習の範囲が自分の住む州,国,北欧,ヨーロッパと広がり,人口移動や地域的な特徴や差異へと移っていっても,そのなかで自分たちの地域がどこに位置づけられ,それがどのように他と関連しているのかを理解していく.これらの一連の地図を読み解く学習,そして,すべての位置には情報があるという,GISの基礎的な考え方を学んだ上で,高等学校で,ソフトウエアの操作を授業に取り入れている.
     フィンランドの高等学校でGISを導入する理由は,生徒たちの空間的思考を涵養する,コンピュータの技術的知識を身につける,身の回りの問題を題材にした教授法の実施といった,世界的な地理教育の発展の傾向もあるが,フィンランドが教科横断的なテーマを多く扱っていることも大きな要因としている.
     そして,カリキュラム以外の部分でも,他のヨーロッパの国とも連携してGIS教育プロジェクトを行っていること,大学,そして現役の教員に対するGIS教育の充実などにより,GISを使った授業ができる環境を整えている.
  • 日原 高志
    セッションID: 103
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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     実感的な環境教育の教材開発のために,夏季の日中に都内アメダス観測点の最高気温が最多頻度で出現するアメダス練馬観測点から約5kmの距離にある都立石神井公園三宝寺池周辺でクールアイランド現象の観測を行った.自転車による気温・湿度の移動観測を図1に示す1周約13 kmのルートで2006年8月31日の8:30,15:00,20:00に実施し、補正後の気温の偏差を解析に用いた(図2).終日にわたり,三宝寺池周辺には低温域が,バス通り沿いや駅前通りに高温域が存在した.気温の較差は20:00が最大だった.
     高等教育機関のFDの一貫として求められているActive learning を念頭に置き,観測結果から4つの作業学習教材を開発し,必修選択科目「自然地理 I 」(1単位)で教材化し,授業実践を行った(表1).学生の感想から判断すると,効果的な環境教育が実践できたと考えられる.
  • 地理教育とインド農業の実際
    荒木 一視
    セッションID: 104
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1.問題の所在
     デカン高原・綿花栽培(・レグール土)という半ば方程式のような認識が長年にわたって学校教育の場に存在してきたのではないか。あるいはガンジス川下流地域の米作と上流地域の小麦作という図式に関しても同様である。例えば,1970年代から80年代にかけての高校地理教科書や地理用語事典では「デカン高原は世界的綿作地帯」「デカン高原で同国の綿花の大半を生産する」といった記述が認められる。しかし,こうしたインドの農業に対する認識は,決して正確なものとはいえない。近年高等学校の教科書などでは,地誌的な記載が減ってきたためインドの農業自体に割かれるページ数そのものが少ないこともあるが,なお,地図帳を含めた多くの教科書でこうした記載が認められる。本報告ではこうした誤解を生じかねない認識の背景を検討したい。これは決して記載内容の正確さを議論しようとするものではない。限定された時間とスペースの中では全く正確な記述などできるものではないし,必要に応じて情報が取捨選択されるのはやむをえないことである。むしろ,提起したいことはなぜこのように正確ではない記述が採用され,それが長期にわたって再生産され続けてきたのかということである。
    2.インド農業の現状
     デカン高原は決してインドにおける綿花栽培の突出した地域ではない。独立以来インドの綿花栽培はグジャラート州,パンジャーブ州及びデカン高原という3つの地域によって担われてきたというのが正確である。デカン高原はあたかもインド最大の綿花栽培地域のように教えられてきたが,州別の綿花生産量では1970年代から,80年代にかけてはグジャラート州が,80年代以降はパンジャーブ州が首位を担ってきた。デカン高原に位置するマハーラーシュトラ州が州別の生産量で首位になるのは1990年代半ば以降である(皮肉にもそれは日本の教科書からデカン高原の記述が少なくなる時期と重なる)。また,デカン高原の綿花栽培の特徴としてはその生産性の低さが挙げられる。2002年のマハーラーシュトラ州のそれは158kg/haでパンジャーブ州の410kg/haを大きく下回っている。
     また,多くの地図帳を含めた教科書で,ガンジス川下流域での米作と上流域での小麦作をインドの農業の地域区分の骨格のように示しているが,中・上流に位置するウッタルプラデシュ州やパンジャーブ州の米作が貧弱というわけではない。無論のこと両州は小麦の州別生産量では群を抜くトップ2であるが,同時に米の生産量でも2位(ウッタツプラデシュ州),4位(パンジャーブ州)であり,従来は米作の盛んな地域とされてきたビハール州やオリッサ州の生産量を凌駕している。
    3.どのような趣旨のもとに教えられてきたのか
     それではどのような趣旨のもとで,この決して正確とはいえない情報が長年にわたって教え続けられてきたのだろうか。第1に考えられるのは「地域の環境とそれに応じた農業」という文脈が強調されたということである。すなわち,土壌や降水量などの環境条件と栽培作物を関連させ,自然と人間活動の関わりを教えるという文脈から,デカン高原の綿花やガンジス川上流と下流の農業の違いを典型例として例示したという仮説である。第2には経済(農業)開発という文脈の強調である。従来,生産性が低く雑穀類の生産が主であったデカン高原で,商品作物の綿花が導入されることで,同地域の経済や農業の発展が促されたという点を積極的に評価する事例としてもちいられたという見方である。第3には土地利用を優先した農業観の存在である。「世界地理」(石田龍次郎ほか編,1959)では,主要作目別の土地利用比率からインドの農業の姿を描き出している。当時デカン高原では生産量は十分に向上しないものの作付面積では他に比べる品目が存在しなかった。一方,パンジャーブ州などでは,綿花生産量も大きかったが,小麦の作付面積の広さが強調された。こうした理解がそのまま,教科書に反映されたものと考えることも可能である。
     今日インドの農業の状況は私たちの世代が教えられた状況とは大きく変わりつつある。その際,漫然と従前の知識を伝えるのではなく,どのような趣旨のもとでそれを教えるのか,今求められている趣旨は何かを十分に検討する必要がある。
  • 山口 幸男
    セッションID: 105
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    「自然と人間との関係」というテーマは、地理教育・地理学習の最も重要な目標であり内容の1つである。戦前には環境決定論(自然決定論)的な考え方がみられたが、戦後においては環境決定論の非科学性が批判されるとともに、環境可能論(可能論)が中心的・主流的な考え方となった。環境決定論を代表する地理学者はラッツェルであり、環境可能論を代表するのがブラーシュといわれている。そのため、「環境決定論=ラッツェル=悪」、「環境可能論=ブラーシュ=善」という図式が地理教育界において強く浸透した。環境決定論批判、ラッツェル批判を一貫して主張したのは飯塚浩二で、飯塚の著作を通じて環境決定論批判、ラッツェル批判が地理学・地理教育界に広まっていった。したがって、多くの地理教師のラッツェル理解は飯塚の論じたラッツェルの理解であって、ラッツェル自身の著作に基づくものではない。そのような中、最近、由比濱(2006)によって、ラッツェルの主著『人類地理学』(第一巻1882、第二巻1891、古今書院)の訳書が刊行され、ラッツェル地理学の正確な姿を論じる基盤が整った。一方、ブラーシュの『人文地理学原理』(1922)は既に飯塚によって翻訳されている(1940,岩波文庫)。こうして、ラッツェルとブラーシュという近代地理学史上の2巨人の主著の訳書が出揃い、地理教師各自が自らの眼で両著を考察することができるようになった。
  • 多田 元信
    セッションID: 301
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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     現在わが国では,市町村合併が各地で行われており,その規模から「平成の大合併」と呼ばれている。
     合併を行う地域の状況は多種多様であり,各合併市町村によって合併後の行政課題は異なる。この観点から,まず合併市町村の2000年の人口・面積・財政力指数と,1965年から2000年までの人口増減率の統計データを用い,近畿地方で1999年4月1日から2006年3月31日の間に合併を行った51市町をクラスタ分析によっての類型化した。分析の結果,4類型を得ることができた。第1類型は,「周辺,人口・面積中小規模,人口増減,財政不良地域」,第2類型は,「周辺,人口小規模,面積中規模,人口減,財政難地域」,第3類型は,「周辺,人口中小規模,面積大規模,人口増減,財政不良地域」,第4類型は,「中心,人口・面積大中規模,人口増,財政良好地域」である(第1図)。
     この各類型の行政課題について考察するため,近畿地方の各合併市町村について合併後の新たな庁舎方式を特定した。市町村役場の本庁は,本庁部局の庁舎配置の分散の度合いによって本庁集中型と本庁分散型に,一方支所は,支所部局の機能と職員の配置の大小によって総合支所型と普通支所型に分類できる。この各2種の本庁方式と支所方式の組み合わせにより,庁舎方式は「本庁集中・総合支所方式」,「本庁集中・普通支所方式」,「本庁分散・総合支所方式」,「本庁分散・普通支所方式」の四つに分類できる。そして,各類型とも庁舎方式の比率についてある程度の傾向が見受けられる。第1類型は本庁集中・普通支所方式の比率が他類型より高く,第2類型は本庁集中・総合支所方式と本庁分散・普通支所方式が高い。また第3類型は本庁集中・総合支所方式の比率が高く,第4類型は本庁集中・普通支所方式が高い。
     さて,各類型において,合併後の新庁舎方式に関する行政課題について考察する。まず,第1類型は面積が中小規模なので,本庁集中・普通支所方式であったとしても,新自治体の周辺部に住む住民の窓口行政サービスの利便性低下は比較的小さい。またこの庁舎方式は,行政運営や財政面で比較的効率的である。第1類型は行政課題の深刻さは小さいが,財政不良地域であるので財政効率化の面に課題がある。
     第2類型は面積が中規模なので,本庁集中・総合支所方式の場合は,周辺部に住む住民の窓口行政サービスの利便性低下は比較的小さい。一方,本庁分散・普通支所方式の場合は,利便性が低下する。また,総合支所型や本庁分散型が多いことは,行政運営や財政の効率化の面で課題が残る。
     第3類型は面積が大規模なので,総合支所方式であることは,周辺部に住む住民の窓口行政サービスの利便性低下は比較的小さいが,本庁集中方式が多いという面では,逆に利便性が低下する。また,総合支所方式は行政運営や財政の効率化の面で課題が残る。第2・3類型は,窓口行政サービスの利便性維持・向上と行政運営,財政の効率化の課題がある。
     第4類型は面積が大中規模なので,本庁集中・普通支所方式であることは,周辺部に住む住民の窓口行政サービスの利便性が低下する。しかし,この方式は行政運営や財政的面で比較的効率的である。第4類型は,周辺部に住む住民の窓口行政サービスの利便性維持・向上に課題がある。
  • えりも町,三戸町の包括委託を事例として
    佐藤 正志
    セッションID: 302
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    I .はじめに
     現在の日本においては,公部門の財政の縮小を狙いとした行財政改革が国・地方自治体ともに推進されている.これらの施策はイギリスのNPM(New Public Management)と呼ばれる,行政組織へ民間の経営手法を導入する施策を取り入れたものである.
     日本における行財政改革の流れの中で,公共サービスの分野ではNPMの概念から発生した「公民連携(Public-Private Partnerships)」という概念が2000年以降生まれる.公民連携の概念においては,従来から行われてきた行政組織や民間企業のみならず,NPOや住民団体といった非営利部門によるサービスの供給が望まれる.また,費用の削減(経済性)やサービスの拡大(効率性)といった側面から,利用者の満足度の向上(効果)が評価の対象となる.手法についても,従来から行われてきた業務委託や民営化のみならず,PFIなどの新しい方式を含むものである.導入にあたっては,複数の方式の中から最適な手法を選択できる審査体系の構築及び情報公開,公民間での責任所在の明確化や数値目標の設定といった,事前のリスク配分を明確にすることといった点が望まれている.
     PPPは新しい概念であるが,公共サービスのあり方を巡る新たな方針であり,今後国のみならず地方自治体においても導入が進むものと考えられる.本報告では,地方自治体においてPPPの手法がどのように導入されているのか,その先進事例から概観を行っていく.その上で,日本におけるPPPの導入に対する今後の可能性を考察していく.対象として,従来の業務委託を発展させる形で,一つの事業者に複数の自治体業務を委託する「包括委託」方式を取り入れた,北海道えりも町(2004年4月)および青森県三戸町(2005年4月)を取り上げる.

    II .えりも町と三戸町での導入の実態
     包括委託の実施の背景として,両町とも財政の悪化が進んでいたことが挙げられる.両町とも自主財源の比率が低く,地方交付税の交付額が削減が開始されたことに伴い,行財政改革の必要性が生じていた.加えて,人件費や雇用のあり方などの面で臨時職員や嘱託職員,個人委託主といった非正規職員のあり方が町では問題になっていた.これらの問題の解決のため,民間委託が画策される.
     両町とも,当初は個別の業務のみを委託する方針であったが,スケールメリットや人材の融通が可能になるという点から,包括委託を採用している.委託事業者は地元事業者を選定することが当初考えられていたが,地元での事業者の不在や,転籍する職員の雇用の問題から,営業を行っていた東京の事業者との間で随意契約を取り,委託を行っている.
     委託後の業務の実施状況は,委託前と比較してほぼ維持されている.これは,町が依然としてサービスの内容について決定権限を有し続けていることが強く働いているためである.両町とも,一部の業務については,委託後にサービス内容が変更されているが,町が独自に内容の変更をおこなったものである.反面,受託事業者は業務実施を担っているにとどまっている.しかし,サービスの実施に際しては,事業者が業務チェック体制を独自に構築するなどして,業務の対応に当たっている.
     町と事業者の関係については,日常業務における情報の共有や業務改善の要請など密な関係が構築されている.加えて,三戸町においては,観光分野で町と委託事業者が協働してイベント企画を行い始めている.一方,委託事業者は町内の業者との間で一部業務の再委託や備品の購入を進めるなど,町内との関係の構築を図っている.町内からの雇用も積極的に行っており,現在のところ業務内容については良好な関係が築かれている.
     しかし,委託料については,当初町が見込んだ人件費の減額には至っていない.これは,臨時職員等の給与水準がそのまま,委託料に転換されているためである.

    III .日本におけるPPPの可能性
     えりも町,三戸町の事例から考察すると,PPP手法の導入については行政が中心的な役割を担っており,委託後もサービスに対して強い権限を有している.民間事業者や非営利法人の不足する地方自治体においては,PPP手法の導入に当たっては,行政がサービスに対しては中心的な役割を担うことが要請されると考えられる.
  • 川崎市を事例として
    久木元 美琴
    セッションID: 303
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1. 研究の背景と目的
     近年,働く女性の増加や子どもの安全に対する意識の高まりから,学童保育が重要性を増している.また,親の就労によらない「全児童対策事業」によって学童保育を代替させようとする大都市自治体の動きも注目されている.学童保育は,1998年まで政策的な位置づけがなかったため,整備状況やサービス内容には地域的バラエティが大きく,地理学的手法を導入する意義が大きい.地理学では,由井(2006)が地方圏における学童保育研究に先鞭をつけたが,大都市圏について十分な蓄積があるとはいえない.
     大都市圏の中でも郊外は,既婚女性の就業やライフスタイルに特殊な背景を持つ場所である.そこで本発表では,大都市圏郊外という場所に注目し,物理的な意味での地域と,そこに住む既婚女性の就業やライフスタイルとを関連付けながら,学童保育の変化の地域的背景を明らかにする.
     具体的には,川崎市で1963年から2002年まで実施されてきた学童保育事業を対象とする.各種行政資料や関係者へのインタビューから,制度的変遷及び保育内容や利用者意識の変化を明らかにし,その背景を川崎市の地域変容と関連付けながら考察する.

    2. 全国的な学童保育の歴史と概要
     学童保育が行政施策として開始されたのは1960年代以降で,東京や大阪などの大都市自治体を中心に整備が進んだ.2003年現在,学童保育のある市区町村は全国で72%だが,中でも市部や東京23区での整備率が高い.

    3. 地域変容が及ぼした学童保育への影響
     1963年に開始された川崎市の学童保育事業は,「かぎっ子」対策として開始された.施設は,当時大量に流入していた地方出身者のリクリエーション施設が利用され,行政主導によって実施された.当時の施設は工場の多く分布した臨海部を中心に整備され,利用者層は比較的低所得の工員が中心であった.彼らの学童保育への需要は切実ではあったが,保育内容には無頓着であった.
     しかし1970年代から80年代にかけて,川崎市では全市的な工業の後退と入れ替わるように内陸部での住宅開発が進められた.またこの時期には全国的に主婦のパート化やボランティア参加などの「兼業主婦」化が起きており,川崎市内陸部に流入した主婦層や学童保育利用者にも,一定の割合でパート主婦が現れるようになった.
     主婦の就労によって学童保育需要は急増し,行政による整備の遅れを補うために,自主共同保育の運営や経済的相互扶助を行う「父母会」が発足し,地域の学童保育システムを補完した.また,保護者同士のコミュニケーションを円滑にする装置として,多くの保護者参加型の行事が導入された.父母会の活動や行事は,経済的・時間的に比較的余裕のあるパート主婦によって支えられた.
     1990年代後半以降,子どもの放課後をめぐる全国的な論調では,就業によらない育児支援と安全性が重視され始めた.さらにこの時期の川崎市では,既婚女性の就業率上昇や従業地の遠隔化によって学童保育需要が高まり,待機児童数が急増した.しかし,市当局にとって,従来の学童保育の質を維持しながら規模を拡大するのは困難であった.そこで,就業によらない利用と安全を担保できる全児童対策事業が導入された.
     以上のように,川崎市の学童保育の変容は,内陸部の開発によって流入・増加したパート主婦によって支えられた.それによって起きた学童保育の質の向上は,結果的に,親の就労によらない全児童対策事業の導入という制度的変化を招くことになったのである.

    文献
    由井義通2006.放課後児童クラブの地域展開 ――井原市における学童保育の新しい試み――.日本都市学会年報39:74-80.
  • 茨城県つくば市を事例として
    原野 未来将
    セッションID: 304
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    I  はじめに
     住環境の内容として,WHO(世界保健機関)において人間の基本的な生活要求として提示された4理念にもとづく,安全性,保健性,利便性,快適性がある.近年の住宅の水準向上に伴い住環境に関する要件は多様化しつつあり,中でも地域としての利便性の高さは最も人々の要求が集まる項目となってきている.住環境における利便性,すなわち生活利便性について,施設への近接性(アクセシビリティ)の重要性が認識されるようになり,地理学においてもアクセシビリティの概念を適用した生活利便性に関する研究が行われている.しかし,これら生活利便性に関する研究において居住者満足度の内部構造を考慮したものは少なく,生活利便性評価の結果に恣意性が反映されている可能性がある.そこで,本研究では,茨城県つくば市を対象に,居住者満足度の内部構造を考慮した生活利便性評価モデルを構築し,生活利便性の空間特性とその規定要因を明らかにすることを目的とする.
    II  研究方法
     つくば市中心部の居住者に対して行ったアンケート調査(サンプル数207,回収率10.4%)により,9つの施設(スーパーマーケット,デパート,金融機関,医療施設,公園,運動施設,駅,市役所,公民館)と3つの移動手段(自動車,自転車,徒歩)の組み合わせ,計27個の生活利便性評価基準に対する満足度と,総合的な生活利便性満足度を把握する.そのデータを基に,総合満足度を非説明変数,各評価基準の満足度を説明変数にとり,重回帰分析を行い,総合満足度の内部構造を明らかにする.次に、各評価基準の満足度とアクセシビリティの関係性から各満足度の規定要因を把握し,アクセシビリティを用いた生活利便性評価モデルを構築する.そして,導出したモデルから得られる生活利便性評価値をGISを用いて表示し,生活利便性の空間特性を明らかにする.
    III  生活利便性の空間特性と規定要因
     今回取り上げた27個の評価基準のうち,スーパーマーケット(徒歩),デパート(自動車,自転車),医療施設(自動車),公園(自転車),駅(自転車,徒歩),市役所(自動車),公民館(自転車)が生活利便性の満足度に影響していることが明らかになった.また,各基準の満足度は最寄り施設までの所要時間に強く関係していることが明らかになった.
  • 奥井 正俊
    セッションID: 305
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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     乗用車保有率の地域差に関する問題についてはグローバル、ナショナルまたはローカルの各空間スケールでの研究が行われているが、本発表は、ローカルスケールのレベルにおける時間縦断的な事例研究である。目的は二つある。第1、乗用車保有率の地域差パターンを明らかにすることである。第2、乗用車保有率の地域差を決定する要因をつきとめることである。栃木県の全49市町村を集計単位として、1970年から2000年までの31年にわたるパネルデータを集計し、これを統計的に分析した結果について報告する。
  • 島根県石見地域及び広島県芸北地域を事例として
    河原 悠太, 川久保 篤志
    セッションID: 306
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
    会議録・要旨集 フリー

    I はじめに
     わが国では1950年代以降の急速なモータリゼーションの進展とともに、国家の一大政策として高速道路建設が全国的に進められてきた。しかし近年、道路特定財源の見直しが議論され、地方の高速道路建設の是非が問われるようになった。そして経済効率を重視のもと道路不要論が盛んに主張されるようになり、高速道路が以前とは違った形で注目されるようになってきている。
     これまでの高速道路を扱った研究を振り返ってみると、沿線地域に対するインパクトに関する研究においては、その対象は工業や商業、観光が中心となっている。例えば、藤目(1991)では中国自動車道の完成が岡山県津山地域の工業発展にどのような影響をもたらすかが考察され、中西(1979)では九州自動車道開通が福岡・熊本両県の商圏に与えた影響が実証的に検証されている。
     そこで本研究では、地方と都市部との経済格差し中山間地域における過疎化が深刻な問題となっている今日、高速道路がそのような地域の産業にどのような影響を与え、また、それが従来の研究で取り上げられることの少なかった人口増減にどう影響を及ぼすのかを、インターチェンジからの距離を考慮に入れて検討した。

    II 研究対象地域
     本研究で対象地域とした島根県石見地域及び広島県芸北地域は、多くの町村が中国山地の山間に位置する典型的な中山間地域であり、特に石見地方は全国でも有数の過疎地域である。当地域では、1983年に中国自動車道、1991年には中国横断自動車道千代田JCT~浜田IC間(浜田自動車道)が開通し本格的な高速道路時代に入った。全体として産業の規模が小さく、工業出荷額・商品販売額ともにほとんどの町村が全国平均を下回り、65歳以上の人口の割合が30%を超えるような地域である。

    III 高速道路開通後の地域の変化
     当地域では市部を除けば、広島県吉田町・向原町では芸北地域の中心として以前より産業の集積が見られたが、中国自動車道の開通以降インターチェンジが建設され、また人口規模も比較的大きかった千代田町においては、工業団地の造成もあり、工業の発展がみられた。しかし、津和野町など人口規模が当地域で上位の町村でも高速道路からの距離が遠くなると産業の発展はみられなかった。また、高速道路から近距離であっても人口が少なければ同様の結果となっている。
     以上の点と高速道路開通直後の10年間の人口増減とを重ね合わせて考察すると、中国自動車道沿線地域ではインターチェンジに近く人口規模も大きい町では産業の発展がみられ、その近隣の町村を含めて人口減少に歯止めがかかったが、インターチェンジ周辺の町村でも人口が少ないところでは産業の発展がみられず人口は減少し続け手いることが明らかになった。またインターチェンジから遠くなるほど産業の発展は難しくなり、人口が少ない町ほど人口減少が大きくなる傾向も見受けられた。

    参考文献
    藤目節夫 1997. 『交通変革と地域システム』古今書院
    財団法人高速道路調査会 2002.『道路経済学論集』
  • 畠山 輝雄
    セッションID: 307
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1.はじめに
     平成17年国勢調査では、住民の調査拒否に伴う調査員の大量辞退、調査票の紛失、偽調査員による調査票の回収など、さまざまな問題がマスコミで報道された。これらの報道や個人情報保護法の施行に伴うプライバシー意識の高まりなどにより、調査票の未回収率が高くなった。
     総務省によると、全国における調査票の未回収率は、4.4%(平成12年は1.7%)であり、都道府県別では東京都が13.3%と最も高いように、大都市部を中心に調査票を回収できなかった割合が高い。このため、悉皆調査としての平成17年国勢調査の精度は低いといわざるを得ない。それゆえ、国勢調査を使用して地域差を分析し、地域特性を明らかにすることがこれまで多く行われてきた地理学において、統計の精度が低く、また地域によって回収率が大きく異なっていることは、地域分析の手法の再考が必要な事態となっている。

    2.調査票の未回収率が高かった要因
     調査票の未回収率が高くなった要因は、調査員が世帯を訪問しても接触できない(不在、調査拒否、居留守など)、世帯が調査票を提出したいときに提出できないなど、現行の調査員による調査票の直接配布・回収の方法に限界がきているといえる。また、個人情報保護法は、国勢調査には適用されないにもかかわらず、法律を楯に調査拒否をするなど、国勢調査への国民の理解が低いことも原因となっている。
     調査票の未回収率が高いのは、大都市部における若者の単身者層が多く居住している地域である。報告者が首都圏の大学生224人を対象に実施した国勢調査の認知度に関するアンケート調査によると、国勢調査の実施間隔49.1%、最近の実施年47.3%、国勢調査の義務性45.1%、回答拒否・虚偽申告による罰則12.1%、調査結果の活用方法(8種類の平均)48.8%などいずれも認知度が過半数にいたっておらず、大学生の国勢調査への理解度が低い実態が明らかとなった。

    3.国勢調査に関する政府の対応
     平成17年国勢調査において、調査票の未回収率が高かったことを受け、総務省は2006年1月に「国勢調査の実施に関する有識者懇談会」(座長:竹内啓東京大学名誉教授)を設置し、原因や今後の対策について議論した。そこでは、調査票の配布・回収方法の見直し(郵送、インターネットなど)や国民の理解および協力の確保(広報の展開、マスコミ活用、中長期的な教育)などが提言された。その後、この懇談会による報告を受け、2006年11月に「平成22年国勢調査の企画に関する検討会」(座長:堀部政男中央大学教授)が設置され、次回の国勢調査の実施へ向けて、現在議論をしているところである。
     これらの会議における議論は、これまでのところ配布・回収方法などの方法論が主となっている。国勢調査への国民の理解については、議論はされているものの、具体的な対策はまだ出されていない。

    4.おわりに
     国勢調査の未回収率が高かった要因には、若者の調査への理解度の低さがあげられるが、国として調査の理解度の上昇に対する具体的な対策はまだ考えられていないようである。調査への国民の理解が得られないまま、郵送やインターネットによる配布・回収をすることになれば、さらに回収率が低くなることは確実である。国がマスコミ等を利用し、調査に関する理解度を得ようとしても限界はある。また、中長期的に小中高校などにおいて教育をすることは意義があるといえるが、次回の調査時には間に合わない。
     そこで、国は社会学、行政学、統計学などの国勢調査を活用する学界(会)への依頼を通して、大学における教育を促す必要がある。地理学界(会)としても大学における講義を通して、学生への国勢調査への理解度を上げることが、平成22年国勢調査の回収率を上げる一助となると同時に、地域分析の有効な一指標として国勢調査を位置づけられよう。
     また、平成17年の国勢調査については、使用時に回収率に応じた補正が必要であると考えられる。しかし、総務省は都道府県単位での未回収率しか公表していないため、最低でも市区町村単位における一律の未回収率の公表が望まれる。
  • 大関 泰宏
    セッションID: 308
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
    会議録・要旨集 フリー

    I .はじめに
     東欧革命から4年後の1993年,いわゆる「ビロード離婚」によってチェコと分離独立したスロバキア共和国は,資本主義経済への移行に伴うさまざまな改革と平行して,独立国家に必要な諸制度の整備を急速に進めてきた。各種制度設計の基礎となる統計調査に関しても,スロバキア人の手による最初の人口センサスが2001年に実施された。
     本報告が言及しようとするスロバキア人口アトラス(Mládek et al. 2006)は,その2001年センサスの結果を中心に新旧の各種統計データを援用して編纂された168頁,444枚の地図と168個のグラフからなる地図帳で,2006年10月からCD版,紙地図,モノグラフの順に出版されたものである。スロバキア教育省は2002年から研究・開発の国家プロジェクト11分野を進めており,アトラスの作成はその一翼を担うものとして国の財政的・制度的な支援を受けている。
     編纂の中核を担ったのはコメニウス大学理学部人文・人口地理学科のスタッフで,人口アトラスには統計を単に地図化するという以上のスロバキア地理学の研究成果が随所にふんだんに盛り込まれている。
    II .人口アトラスの概要
     全7章からなるアトラスの内容構成は以下の通りである。
    1.人口の推移と分布(人口増減,人口分布,人口密度,人口ポテンシャル)
    2.人口の自然増減(婚姻,離婚,出生,中絶,死亡,自然増加)
    3.人口の空間的移動(居住移動,通勤移動)
    4.人口構造(性と年齢,社会・経済的構造,民族,宗教,教育)
    5.居住(住居,住宅,世帯)
    6.総合としての人口(人口増減,平均余命,健康,生活の質)
    7.人口予測(人口増減,出生率,死亡率,年齢,高齢化,従属人口,国際比較)
     構成上の大きな特徴は,人口学と人口地理学,双方の視点がバランスよく組み合わされている点にある。人口学が重視する事象,たとえば出生では,出生数,粗出生率,標準化出生率,総出生率,合計特殊出生率,標準化総出生率,総再生産率,純再生産率について多数の主題図とグラフが作成されている。他方,地理学が重視する視点,たとえば人口の分布や移動,社会・経済・文化的属性に関する指標も数多く採用されている。また,主題図は都市内から国家間のレベルまで空間スケールや地域単位を変えて描かれている。
    III .人口アトラスで見る社会変動の事例
     人工妊娠中絶数の推移によれば,スロバキアでは1988年まで中絶数は急増してきたが,その後は一転して減少し続けている。これは直接的には1986年の法改正によって妊娠12週までの中絶が事実上自由化されたことによるが,その背景には社会主義時代末期の社会通念の変化,自由な性行動,および確かな避妊法の欠如があるといわれている(Kobayashi et al. 2006)。
     より近年では,都市の人口移動に大きな変化がみられた。1995年を境にして,人口5,000未満の町村で純移動減から増加へ,逆にそれ以上の市町では増加から減少へ転換する傾向が明瞭である。首都であるブラチスラバと周辺市町との純移動の関係が同様に転換したのもこの時期である。資本主義経済への転換期に人口移動もまたcentralizationからdecentralization(suburbanization)へと大きく舵を切っている。
    IV .人口地理学の重要性
     スロバキアの人口アトラスは,人口事象を地理的に考察することの重要性を雄弁に物語っている。アトラスには数多くの地域的な相関関係が示されており,そこから導かれる仮説としての因果関係をより確かなものとしていくことが今後の課題である。
  • 1920年前後の愛知県の市郡別人口を用いて
    鈴木 允
    セッションID: 309
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    I はじめに
     日本の総人口は2006年,ついに減少に転じたが,それまでの増加基調は,幕末から始まって続いてきたものである。こうした人口の増加と停滞の波は,多産多死→多産少死→少産少死へと移行するという,人口転換の所産として一般に捉えられてきた。日本の場合には,出生率が上昇することで幕末に人口増加が始まり,1920年代以降,出生率・死亡率の低下によって人口が大幅に増加したことが分かっている。しかし,人口転換の開始時期やプロセスに関しては様々な議論があり,より詳細な検討の余地が残されている。とくに,都市と農村の人口学的特徴に違いがあることを踏まえると,都市化の進展が人口転換に与えた影響がどのようなものであったかが,重要な論点となると考えられる。
     こうした議論を難しくしている大きな要因の1つは,人口統計の不備である。第1回国勢調査の実施は1920年であるが,それ以前の人口統計は拙稿(2004)で述べたように,多くの問題を孕んでいるため利用が難しく,国勢調査以降の分析が中心となってきた。しかし,国勢調査以前の戸口調査人口を分析した小嶋(2001)による,郡部の1910年代における出生力低下が人口転換の端緒ではないかとの指摘は,1920年以前の人口動態の検討や,都市部と農村部とを分けた検討の意義を鮮明にしている。
     そこで本研究では,1910年から1930年までの愛知県の市郡別人口動態を検討し,人口転換の開始時期とその地域差の考察を試みることとした。
    分析にあたっては,1920年以前の人口統計については,毎年の戸口調査による現住人口に,拙稿で用いたのと同様の修正を行って用いた。また,1920年以降は5年毎の国勢調査の結果を用いた。
     以下に,分析結果の概要と,予察的な考察を述べる。

    II 出生率・死亡率の推移
     1915年頃までは,市部・郡部とも出生率はかなり高い状態で,死亡率は多少の波はあるが年率20‰程度で安定していたため,人口の自然増加状態が続いていた。
     1915年以降,出生率は市部・郡部を問わず明確な低下傾向にあり,1919→1920年で各市郡の出生率が上昇しているものの,それ以外に特定の年次に極端な変化を示したりはしていない。市部と郡部との比較では,郡部の出生率が高く,市部が低い傾向が明瞭である。一方死亡率は,1916年から1920年にかけて大幅に上昇している。なお,この上昇には,1918年のスペイン風邪流行が大きく影響を及ぼしている。また死亡率の地域差は,都市の方が若干低めではあるが,明確な地域差は見られない。
     なお,資料的な問題として,1920年は国勢調査の結果を受けて,人口データなどに若干調整が加えられている可能性が否定できないことも付記しておく。
     1920年以降の出生率と死亡率の推移については,とくに1910年代からの動向との連続性を意識してまとめると,次のような結論となるであろう。
    1.1910年代までは緩やかな上昇傾向をたどってきた出生率は,1910年代に入って頭打ちとなり,1918年頃の一時的な落ち込み,1920年頃に回復という過程を経て,1920年代からは低下を始めた。2.出生率の低下は,とくに,高出生率の郡部から始まり,その後全体で低下傾向となった。3.死亡率は,1910年代半ばまで緩やかな漸減傾向にあったが,1918年に突然上昇し,1920年にもかなり高い水準を保っていた。これが1920年以降再び低下し,1930年頃までに1910年頃の水準まで回復した。

    III 人口転換の時期とその地域的差異
     1916年頃からの出生率の低下は,1920年以降の変化も併せて考えると,スペイン風邪の影響を受けた一時的なものと考えられる。とすれば,人口転換自体は1920年代から始まったと見る方が自然ではないだろうか。また,市部の出生率の方が低い傾向は1930年以前では明確であるので,都市人口比率の拡大が,全体の出生率を低下させる原因となり得たことも,の2点からである。
     粗出生率・粗死亡率のデータしか検討していない本研究の知見からはこれ以上のことは言えないが,本稿で述べてきたような方向性の検討を進めていきたいと考えている。

    文献
    小嶋美代子 2004.『明治・大正期の神奈川県―人口構造と変動を中心に―』.麗澤大学出版会.
    鈴木 允 2004. 明治・大正期の東海三県における市郡別人口動態と都市化―戸口調査人口統計の分析から―. 人文地理55-5: 22-42.
  • 伊藤 慎悟
    セッションID: 310
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1.はじめに
     大都市郊外地域では、居住者の年齢構成に偏りがみられ、居住者の加齢による急激な高齢化がすでに指摘されている(厚生省2000)。
     また、郊外地域における居住者の年齢構成や高齢化の過程で、住宅地ごとに差異が生じており、従来の研究ではその要因として住宅地の開発時期、住宅種別といったものが挙げられてきた。とくに住宅種別による高齢化の比較は香川(2001;06)をはじめ、十分な研究成果が上げられ、そのなかで戸建住宅は入居当初から居住者の年齢が比較的高く、定住化による加齢が進みやすいといわれている。
     本研究では、このような既存の研究成果を踏まえ、神奈川県の人口急増期である1960年代後半に、最も多く供給された民間の戸建(持ち家)住宅のみを取りあげ、年齢構成や高齢化の過程で差異がみられるかどうかを議論することとした。

    2.研究対象地域
     本研究は、1960年代を中心に人口急増を経験し、大量の住宅供給を行った神奈川県を対象にした。
     分析対象地区の選定にあたっては、『住宅団地立地調査結果報告書 平成14年』をもとに、このなかで80区画を超える民間開発主体による戸建住宅団地を68地区選定した。
     開発年次は、30年以上が経過しているもので、上記資料における開発着工年が1966年から68年、完成年度が1967年から70年と記載されている住宅団地を対象としている。

    3.資料
     対象地区の人口動態を時系列で見るうえで、国勢調査の最小分析単位である国勢調査区(基本単位区)別集計が必要であり、ここで用いた(1975、85、2000年)。本研究では、この調査区を団地の範囲と対応させ、かつ以降の調査区範囲の設定変更に際しても、比較検討可能な団地のみを対象として取り上げており、ミクロスケールでの時系列分析が可能である。
     また、人口以外の要素に関しては、昭和50年、55年国勢調査の調査区別集計から、産業別人口構成、職業別人口構成、最終学歴、通勤・通学地、居住面積に関する指標を設定した。

    4.1975年における年齢構成の差異
     本発表では、対象として取りあげた戸建住宅全体の高齢化の特徴を示したうえで、これらが入居当初から同じような年齢構成をしているのかを考察し、示す予定である。
     現時点で明らかになっていることとして、同等性のχ2検定より、1975年の各地区の年齢構成は同じでないことが判明したことである。本研究では、そのような結果を踏まえ、同時期、同一種の住宅団地を、5歳階級別によって四つの地区群に類型化し(ウォード法クラスター分析による)、各地区群の特徴について考察を加えた。
     その結果、年齢構成によって区分した各地区群は、地域的差異や居住者・居住地にも差異がみられた。一般的に、戸建持ち家住宅は、公営アパートといった賃貸住宅に比べ、入居当初の年齢が高く、社会的地位の高い世帯主が購入するものといわれているが、そのなかでも居住者の社会的地位に差異があることが判明した。

    5.1985・2000年における高齢化状況
     ここでは、1975年に区分した4地区群が、1985年・2000年の時点でどの程度高齢化が進んでいるか、地区群の差異は存在するかについて考察した。
     1985年までは、当初より特化していた年齢層が大きく変わることなく加齢するという傾向が見出された。これは、伊藤(2006)で検証した住宅種別による高齢化の議論とは異なる結果となった。
     2000年は、特に第2(子)世代の転出が顕著で、第1(親)世代の偏りばかりが強調される年齢構成となったが、高齢化の進展で各地区群の明瞭な差はみられなかった。今回取りあげた戸建住宅団地は、1975年にみられた年齢構成の差異が大きく変化することなく2000年に至ったと解釈できる。

    文献
    伊藤慎悟2006.横浜市における住宅団地の人口高齢化と年齢構成の変遷.地理学評論79:97-110.
    香川貴志2001.ニュータウンの高齢化―シルバータウン化する千里ニュータウン―.吉越昭久編『人間活動と環境変化』古今書院:139-154.
    香川貴志2006.人口減少と大都市社会―千里ニュータウンの公営住宅にみる人口減少と高齢化.統計57:2-9.
    厚生省2000.『厚生白書 平成12年版』ぎょうせい.
  • 春原 麻子
    セッションID: 311
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    問題設定
     向都離村現象の発端から半世紀、縁辺地域集落において過疎問題が深刻化する一方で、近年「田舎暮らし」への関心が高まっている。縁辺地域における「生活の質」を積極的に評価する動きは、過疎問題の緩和に資するだろうか。厳しい過疎に直面する縁辺地域集落でありながら、継続的に移住を惹きつけている和歌山県那智勝浦町色川地区における調査に基づき考察する。
    調査地区の移住者の特徴
     当地区への移住者は2006年12月現在で58世帯149人にのぼり、地区住民の3割を占める。30代~40代前半に子連れで移住し、古民家を土地ごと購入した世帯が多い。就業機会は限られているため、不安定な収入源の組み合わせにより生計のつじつまを合わせ、効率化の難しい棚田で手作業・有機栽培による自給的な農業を営むのが典型的である。
    調査地区における移住蓄積過程
     1977年、過疎が顕在化し始めた当地区に、対抗文化や全共闘に影響を受けた若い世帯が、有機農業を志して入植した。1980年代を通じ、近代社会に疑問を抱く若い単身者や、食の安全性に関心を持つ子連れ世帯が、当地区で農業研修を受けた。その一部が、研修中に地元住民との信頼関係を築き、住居や土地の紹介を受けて定住に至った。
     1990年代には公的な定住促進施策が進み、リタイア層や有機農業に関心を示さない層も現れるなど移住者が増加・多様化した。しかし依然として、移住希望者が農業研修を受けるなかで住民と信頼関係を築き、物件が浮かび上がるのを待つという受入体制であり、古民家持家・自給的農業といった移住者の特徴は引き継がれた。
     一方2002年以降、緊急雇用対策の一環として県の方針で進められた「緑の雇用事業」による移住者は、当地区独自の文脈からは外れている。合同説明会で森林組合に採用された都市の失業者が、年度始めに町営住宅に入居し、フルタイムで林業に従事するもので、彼らの多くは農業には関心を示さず、地区の行事に参加せず、雇用年限が過ぎれば地区を去る。これまでの移住者像とは根本的に異なるため、当地区では違和感をもって受け止められている。
    「個人の文脈」の位置付け
     縁辺地域集落への移住の端緒を拓いたのは全共闘世代だが、その後の移住者はそれより若く、現在50代前半にあたる1950年代前半頃出生のコーホートに集中している。幼少期を高度成長期の大都市圏で過ごし、急速な開発を目の当たりにした彼らは、学生運動挫折後の大学に入学し、安定成長のなか就職し、食の安全性への関心が高まるなか子育てをし、若手のうちにバブル経済を、働き盛りの時期にその崩壊を体験した。不況のなか「田舎暮らし」がブームになり、定住促進施策が盛んになった頃、彼らはまだ十分に若かった。ライフコースと時代背景とがあいまって、彼らは人生のそれぞれの段階で移住という選択肢をとりやすかった。
     一方ベビーブーム以前の世代は、「田舎暮らし」ブーム時には社会的地位を築いていた。時代とライフコースとが合わず、人生の途中での移住という選択をとりづらかった彼らが「田舎暮らし」を実行するには、子の独立や定年退職を待つ必要があった。近年、団塊世代の定年後の「田舎暮らし」が関心を集めているが、その背景には単に彼らのボリュームが大きいことばかりでなく、より若い世代と異なり定年後まで「田舎暮らし」を待たねばならなかった事情がある。
    「地域の文脈」の位置付け
     縁辺地域集落では、一見して空いている家や土地も、貸借や売買が起こりにくいとされる。しかし当地区の場合は、あまりに条件不利地であるため、比較的物件が動いている。地元住民の後継ぎが帰ってくる見込みはなく、居住の継続が困難となった高齢者は、先祖代々の墓もろとも子の元へ転出する。その際、経費捻出のためにも家や土地を手離すのである。採算性ある農業が成立しえない土地だからこそ、農地取得も比較的容易である。
      就業機会が限られているとはいえ、配偶者も含めて雑多な収入機会を組み合わせれば、生計を成り立たせることは可能である。機械化の不可能な細かい棚田で手作業による自給的農業を営むのも、一見非効率であるが、家計支出を抑える戦略といえる。職業にアイデンティティを求めず、農作業に価値を見出すならば、自給的農業に時間を割き、片手間で現金を少々稼いで生計を立てるという選択にも一定の合理的がある。
     今後こうしたライフスタイルに価値を見出す人が増えれば、なまじ条件のよい平地や都市近郊の農村よりも、むしろこれまで条件不利とされてきた縁辺地域が移住者を惹きつける可能性も考えられる。
  • 全国高等学校総合体育大会(インターハイ)山口県予選を例として
    久高 賢市
    セッションID: 312
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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     高校進学率は全国平均で97.6%(2005年度)と5年連続過去最高記録を更新するなかで、少子化に伴う修学適齢人口の減少には歯止めがかからない。これは、従来高校へ進学しなかった低学力層を取り込みながら学力上位層のニーズにも応え、少子化にともなう生徒減少に対応しなければならないという高校の二極分化の拡大を意味している。そこで、<1>教育行政や<2>学校体制、<3>教師、<4>高校生は、それぞれ高校の二極分化に向け主体的に対応していくことになる。つまり、教育行政にとっては、<1>「入試をはじめとする修学制度」や<2>「学校規模や学校配置の再編」に対応することであろう。学校体制にとっては、「特色ある学校づくり」を通して学校の存続に努めることであろう。教師個々にとっては、<1>「学習意欲を高める指導の工夫と改善」や<2>「多様化する高校生に対する指導と援助」であろう。高校生個々にとっては、「生徒集団への適応や自己実現」を通して具現化するであろう。また、それぞれは個別に完結せず、<1>「教育行政と学校体制」、<2>「学校体制と教師」、<3>「教師と高校生」間で関係しながらそれが醸成し、それぞれの関係を超えて<1>「教育行政と教師」、<2>「教育行政と高校生」、<3>「学校と高校生」が相互に作用しあう関係性は更新されよう。
     一方で、学校体制や個々の教師にとっては教育行政と高校生の要求する多様性に即座に対応するには限界があり、上述の対応への不適応が生じ、学校間や教師間、高校生間の断片化が進行することにもなりうる。それぞれの対応と不適応は、学校や地域社会、国土といった様々な空間規模に展開し、地理空間に可視的にも不可視的にも反映されよう。本研究では、学校空間の内外で教育活動の一環として展開する体育系部活動を取り上げ、それぞれが少子化にどのように対応し、どのような不適応が生じているのか、その様態を可能な限り解明したい。
     地理学的研究として高校生の体育系部活動に着目した理由は、活動主体である高校生を研究する視点に立つと、<1>「組織的かつ継続的に活動する場となっている」こと、<2>「ライフコースから見て大部分の人がほぼスポーツ活動を終焉させる場になっていると思われる」こと、<3>「卒業資格などのように制度に縛られず、程度の差こそあれ自由意志が反映されている」ことによる。また、活動を支援する教育行政を研究する視点に立つと、<1>「行政施策方針の変化や財政の縮小化などが反映されている」と考えられることである。学校を研究する視点に立つと「学校の地理的特性が反映されている」ことである。
     これらを研究することから、体育系部活動における文化的にも身体的にも様々な競技特性が多様に反映され、それらが空間上に展開され地理的に把握されることが期待できる。小中学校の部活動や大学のサークル活動、さらに文化・芸術系部活動については、それぞれ研究意義は認められるであろうが別稿に譲りたい。
     全国高等学校総合体育大会(インターハイ)県予選に着目した理由については、全国的組織として各都道府県、各競技を管轄し組織的に運営されていることから、全国、各都道府県、各学校など様々な空間規模で捉えられることによる。各競技が上部組織によって管轄されることから、全国対各都道府県連盟、各競技間のヒエラルヒーなどといった関係性が見出され、競技の盛衰といった歴史性や地域性が見出されるであろう。また、様々な競技種目がほぼ同時に展開され、大部分の競技において最も大きな大会となり、参加者数、参加種目数が最大であることから、共時性や資料の統一性が確保されることも期待できよう。
       全国高等学校野球連盟や全日本吹奏楽連盟など、別組織との比較分析によって全国高等学校体育連盟を相対化させることが可能だが、それらに対する検討は別稿に譲り改めて発表の機会を得たい。全国高等学校総合体育大会(インターハイ)の展開を研究対象とすることから、それ以外の大会資料は分析、検討しないことになるが、それらについては改めて発表の場を得たい。また、上述の研究目的において本研究が展開されることから、高校生のスポーツ系部活動の全貌を明らかにすることではないことを申し添えたい。
  • 山本 佳世子
    セッションID: 313
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
    会議録・要旨集 フリー
    1995年1月に発生した阪神・淡路大震災以降、GIS(地理情報システム;Geographic Information Systems)の有用性が社会的に広く認識されるようになった。今後は、各種の情報は位置情報と結びつくことにより飛躍的に価値が増大し、有用性が高まると考えられている。 本研究は、このような社会的状況を踏まえ、電子国土事業と統合型GIS事業の2つの側面から、地方自治体におけるGISの利用動向の特性について把握することを目的とする。本研究の成果により、電子国土事業では行政情報だけではなく、地域の様々な分野の情報を発信していることと、統合型GIS事業では情報発信よりもむしろ行政内部の業務に関するものを主目的としていることが明らかになった。
  • 宇都宮 陽二朗
    セッションID: 314
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
    会議録・要旨集 フリー
    英国BETTS社製地球儀の球面上情報量を評価した。本研究は、既報の米国製地球儀及び日本製地球儀の評価手法及び基準を、BETTS製地球儀球面上の地理情報量の評価に適用したものである。
  • 後藤 智哉, 長谷川 均, 松本 健
    セッションID: 315
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
    会議録・要旨集 フリー

    1、はじめに
     遺跡の発掘前に行なうべき作業のなかに、可能であれば遺跡の地形図を入手することがあげられる。遺跡内を対象とした地形図であれば、1/20~1/50程度の縮尺の図をトータルステーション等で作成すればよいが、遺跡の立地条件調査などで広範囲を把握するには縮尺2万5千分1地図を利用することが欠かせない。日本のように地形図が整備され簡単に入手可能な場合や、ヨルダン王国のような所定の手続きをとることで最新の地形図が購入可能な場合は、それを利用することができる。
     しかし、イラク共和国では、イラク考古局職員であっても最新の地形図を入手することは困難であるという。また、2003年4月以降イラク国内では治安の悪化により、各地の遺跡で破壊・略奪行為が発生し現在も継続しているため、早急に遺跡分布地図を作成して考古局のパトロールに活用することが求められている。
     そこで、2006年1月に宇宙航空研究開発機構(JAXA)が打ち上げたALOS(だいち)のパンクロマチック立体視センサ(PRISM)データを用い、ヨルダンのウムカイス遺跡と、イラク文化遺産の保護に役立てるようキシュおよびバビロン遺跡を対象に、縮尺2万5千分1の遺跡ベースマップ用地図を作成した。

    2、方法と結果
     PRISMの標準処理データを入手し、直下視画像から2.5m地上分解能の画像、前方視および後方視画像から地上分解能10mのDSMを抽出し等高線を描いた。両者をGISにて重ね、凡例を追加することにより遺跡用2万5千分1地図を作成した。
     ウムカイス遺跡では、後処理GPSデータを参照GCPとして利用し、PRISMデータの位置精度を向上させて作成した地図と、GCPを使用しないPRISMから作成したデータとを比較した。その結果は、多少の位置のずれは見られたが、現地調査が困難なイラク用地図を作成するという観点からは、ジオレファレンスされた標準処理データのみから作成することで十分といえた。そこで標準処理データだけを使用してキシュおよびバビロンの地図を作成した。
     作成した地図のレイヤーとして、ウムカイス遺跡地図では現地調査と既存地形図から凡例を追加し、キシュおよびバビロン遺跡地図へは、イラク考古局職員の協力を得て凡例を追加した。

    3、おわりに
     文化遺産の危機的状況にあるイラクにおいて、その保護に活用するため、早急に遺跡ベースマップやデータベースの整備は急務といえる。国士舘大学では、イラク古代文化研究所、地理学教室を中心にその準備に取り掛かっている。
     これまではQuickBirdやSPOT、FORMOSAT画像とSRTMやASTERから高さ情報を抽出し、イラクでの遺跡用地図の整備を行っていた。今回ALOSのデータを利用することにより、低価格で広範囲にわたって高さ情報が抽出して遺跡ベースマップの作成が行えることがわかった。
     今後は、対象をイラク全土に広げるとともに、イラク考古局と協力して、遺跡データベースの完成度を高めていきたい。
  • GISを利用した定量的な解析
    浅田 晴久, 松本 淳, 林 舟, 小口 高
    セッションID: 316
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1.はじめに
       ネパールはインド共和国と中国・チベット自治区の間に位置する王国であり、その国土の最大の特徴は、標高60mのタライ平原から標高8848mのエベレスト山に至る、南北方向の大きな標高差である。この標高差がネパールの自然(地形・水系・気候・植生・土壌など.)および社会(民族・生活様式・産業・開発など.)の多様性を生み出している。
     ネパールヒマラヤの土地利用・生活様式の変化に関するこれまでの研究では、ヒマラヤ・中間山地・タライ平原といった、大局的な地域区分を用いたものが多く、標高による自然・社会環境の変化を詳細に調べた研究は少ない。近年、GIS技術の発達とデジタルデータの整備により、標高と他要素の関係を定量的に求めることが可能になった。
     そこで本研究では、地形図からデジタル化した居住地・土地利用・地形データと高解像度DEMをGISを用いて解析し、ネパールヒマラヤにおける居住・土地利用と標高・地形との関係を明らかにする。

    2.対象地域とデータ
       対象地域はネパール東部の東経86.25 ~ 87.00度、北緯27.25 ~ 28.11度の範囲である(図1)。南の標高500m以下の地域から中国・チベット国境にあるエベレスト山の標高8848mまでを含み、標高差は8000m以上に及ぶ。
     本研究では、His Ministry’s Government of Nepal, Survey Department発行の1:50000地形図9枚分を、北海道地図株式会社の協力でデジタル化したものを使用した。さらに、抽出された等高線データから、約55.0m(2秒)グリッドのDEMを作成し、解析に使用した。

    3.標高ごとの居住地と地形との関係
     対象地域の居住地は標高400m ~ 5200mの範囲に分布している(図2)。標高1000m ~ 2500mに全体の80%以上が集中し、標高3000m以上の居住地は全体の2%である。傾斜角・集水面積・傾斜方位と居住地分布との関係を標高500mごとに調べたところ、標高3500m以下では居住地は相対的に急傾斜な尾根部にあり、標高3500m以上では緩傾斜な谷部に位置することが分かった。また斜面方位については、標高3000m以下の居住地は北側斜面に多く立地するが、標高3000m以上では南側斜面に多いことが分かった。

    4.考察
     ネパールヒマラヤでは、高度による植生帯の変化に応じて、生活様式が異なる民族の住み分けがなされている(川喜田1992、土屋1997)。標高による居住地環境の変化は、生活様式の違いを反映しているものと思われる。
     標高500m ~ 3500mまでは居住地も耕地も急傾斜地にあり、段畑の耕作に適している。雨季の降雨を避けるため、雨陰になる北側斜面が居住地として好まれると考えられる。一方、標高3500m以上では傾斜20度以下の緩やかな土地に居住地と耕地がともに立地し、家畜の放牧に適していると考えられる。ここでは、草地を利用するためにも、日当たりの良い南側斜面が特に好まれている。
     また、標高3000m付近に居住地数の極小値が存在すること(図2)は、標高3500m以下の土地とそれ以上の土地では暮らしている民族が異なり、両者がかなり明確に住み分けていることを示唆している。
  • 白石 喜春
    セッションID: 401
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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     日本における地方中心都市では人口停滞・減少傾向にありながら、拡大型の都市整備によって市街地が低密に広がる拡大分散型の都市形成が進行しており、都市の求心力が急速に低下している。従来のような総活動量の増加を図る拡大型の都市整備は、都市活動そのものを停滞させ、更なる衰退を招く恐れがあることから、一刻も早い中心地機能の離心化現象についての実態把握とその要因を明らかにする必要があり、その離心化について何らかの対応を施す必要があると思われる。そこで、本研究では離心化について議論があまり行われてこなかった業務機能を対象に、産業分類別業務管理機能の立地動向を把握することで、地方中心都市における業務機能の離心化現象の実体を明らかにすることを目的とした。
     四国4県都において調査を行った結果、松山市は事業所の離心傾向が最も少なく、高松市では事業所の郊外化が最も著しい結果となった。そこで、高松市核心地区を南北に走る中央通り沿道(分析対象路線)に立地する事業所を対象に、同一の分析を行った。その結果、金融・保険業を除く全ての事業所において郊外移転が著しく認められ、とりわけ製造業においては郊外移転に加えて高松市からの事業所の撤退が多くみられた。それに対して分析対象路線に立地する事業所の入居先はほとんど対最高路線価50%以上の路線近辺からの入居であり、業務管理機能の離心化は着実に進行している。
  • 鈴木 孝典, 沼田 尚也, 橋本 雄一
    セッションID: 402
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
    会議録・要旨集 フリー

    1.はじめに
       大都市では1960年代の高度成長期における急激な人口の拡大とともに,郊外においても戸建住宅に加えマンションの建設が増加した.しかし,バブル崩壊後の地価の下落などを受けて,その立地傾向は郊外から再び都心部へと戻りつつある.大都市では都心の人口回復が生じており,その受け皿として都心周辺ではマンションの建設が活発に行われている.
     地理学におけるマンション研究においては,変化するマンションの立地を都市内部で広範囲に捉えた研究は少ない.また,立地するマンションの特性と土地利用の変化というマンションの立地変化に関わる重要な観点についてはこれまで別々に行われており,両観点を持って総合的な研究を行う必要がある.そこで本研究では,札幌市全域を対象として分譲マンションの立地変化をマンション特性および土地利用の変化の観点から分析を行う.
    2.研究方法 
     本研究は札幌市を対象地域とする.研究方法の概略は以下のとおりである.
     まず,1965年から2005年までの分譲マンションを住所から札幌市統計区別に整理し,5年単位でその立地の変遷を概観する.次に,過去10年間において立地が多かった統計区の物件につき,その価格や階数といった特性を示す.さらに,マンションが立地することによる土地利用変化についての分析を札幌市全域を対象に行う.最後に,これらの結果を踏まえ,近年の札幌市における分譲マンションの立地とそれに伴う都市内部の変容プロセスについて総合的な考察を行う.
     本研究におけるマンションのデータは,住宅流通研究所発行の「北海道住宅年鑑(2002,2004,2005年)」を使用した.
    3.結果 
     分析の結果,札幌市における分譲マンションの立地変化とマンションの特性および土地利用の変化について以下のことが明らかとなった.
     まず,分譲マンションの立地については,高度成長期における人口の急増とともに都心から郊外へと地下鉄沿線を中心に拡大していったが,1990年代後半以降は再び都心およびその周辺にマンションが戻りつつあることが明らかになった.特に,2000年代に入ると,より都心に近い地域へと立地していた.
     次に,マンションの特性に関しては,全体的に低価格化・高層化が進んでいることが分かった.ただし,高地価帯である円山地域では,他の地域に比べて高価格・低層水準となる物件が,都心に非常に近い地域では高価格・高層水準となる物件が多かった.
     土地利用の変化ついては,円山地域において住宅からの転換が,1990年代後半,2000年以降ともに盛んに行われている一方で,都心付近においては2000年以降になってから駐車場や会社・工場からの転換が多く行われるようになっていた(図1).また,郊外地域では1990年代後半まで空き地や田畑からの転換が行われていたが,それ以降は一部の地下鉄駅周辺を除いてマンションの立地は減少していた.
     以上のように本研究では,札幌市都心部で住居機能に関する土地利用の高度化がはかられて,都心の人口回復が生じていた.また,土地取得に多額の資金を必要とする地区では,高級志向の物件が立地するというように,マンション特性と土地利用変化との関連性も明らかとなった.これらのことから本研究は,分譲マンションの立地を通して都市の変容プロセスの一端を解明したと考えられる.
  • 中澤 高志, 川口 太郎, 佐藤 英人
    セッションID: 403
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
    会議録・要旨集 フリー

    1.はじめに
     資本主義の下では,住宅もまた一つの商品である.しかし多くの居住者にとって,苦心の末に手に入れたマイホームは,住み続けるうちに単なる消費財以上の存在となる.したがって多くの居住者は,多少の不具合はあっても,増築や補修を施しながら同じ住宅に住み続けることが普通である.
     建築から長い年月が経過し,住宅の老朽化が目立ってくると,最終的には改築や転居といった根本的な対処が必要になる.しかし誰もがこうした対処を実行に移せるわけではない.長年居住した住宅への思いを断ち切り,改築や転居を決意した後には,高額な商品という住宅の性質が再び前面に出てきて,必要な資金を調達できるかどうかが問われるからである.
     こうした局面では,居住に関する子供世代の行動も,親世代の動向に大きな影響を与える.仮に結婚した子供に親の住宅を引き継ぐ意思があるのであれば,二世帯住宅に建て替えて同居するという選択肢が浮上する.しかし30年前に開発された郊外住宅地のコンセプトは,たとえそこで育ったとはいえ,子供世代のニーズに合致しない場合が多い.一方経済的に自立することが難しい子供が同居している場合には,改築や転居の必要性を痛感していたとしても,身動きがとりづらいであろう.
     単体としての住宅およびその居住者である世帯のライフサイクルの晩期に現れるこうした問題は,住宅の集合体である住宅地ではある時期に集中的に発生し,問題をより大きくする.周知のとおり,日本では高度経済成長を支える労働力として流入した人口の受け皿として,大都市圏郊外に数多くの住宅地が開発された.それらの住宅地は,今まさに世代交代の時期を迎えており,上記のような問題が顕在化してきている.
     報告者らは,入居からおおむね30年以上が経過した住宅地において,住宅を購入した郊外第一世代と子供世代である郊外第二世代の動向に関する研究を行っている.一連の研究は,実証的な調査に基づき,世代交代期を迎えた郊外住宅地がどのような形で持続可能なのか(あるいは持続可能性はないのかを考察するとともに,郊外住宅地の変化が大都市圏全体の構造変容とどのように関連付けられるのかを明らかにすることを目的にしている.
    2.調査概要
     本報告は千葉県四街道市の隣接する二つの住宅地において,2006年11月に実施したアンケート調査の分析結果を中心としている.アンケート調査は,分譲当時に住宅を購入した郊外第一世代を回答者とした.調査票は各住宅地に1,200通ずつポスティングで配布し,郵送で回収した.旭ヶ丘グリーンタウンからは150通,東武みそらニュータウンからは130通を回収した.
     旭ヶ丘グリーンタウンの事業主は藤田観光 (株) であり,1969年にすべての工事が完了している.総面積は50.4haで,2005年の住民基本台帳によれば世帯数は1,602世帯である.東武みそらニュータウンは新日本観光開発 (株) によって1975年に分譲が開始され,1978年に造成が完了している.総面積は64.7ha,世帯数は1,678世帯である.いずれの住宅地も最寄り駅のJR四街道駅からバスで15分程度の距離にあり,四街道から東京までは,朝の通勤時間帯であればJRで1時間程度の所要時間である.
    3.分析
     両住宅地の住民層は似通っているので,ここでは合算した数値を示す.世帯主の平均年齢は63.6歳であり,60代後半が最多年齢層である.世帯主の63.6%は大卒以上の学歴を持ち,40歳の時点で従業員数1000人以上の企業に勤務していた者が53.3%,公務員であった者が10.4%である.また,東京大都市圏内に勤務地があった者の過半数は,東京都区部に職場があった.現住居に入居したときの年齢は39.9歳で,多くは30代後半から40代前半でこの住宅を購入している.彼らの72.5%は現住地に愛着を持っていると答えている.ただし,住み続けを積極的に希望するのは50.7%であり,27.8%は住み続けざるを得ないという消極的な選択肢を選んでいる.現住居の将来については,わからないとした者が最も多かった(29.3%)が,ほぼ同率の28.9%は子供が相続して住むだろうと答えた.これは,子供が相続した後で売却されるだろう(25.7%)を上回る回答率である.
     一方,既婚子の居住地は千葉県から東京都区部一帯に広がっており,2割程度は東京大都市圏外に居住している.265人の既婚子のうち,四街道市内に居住しているのは21人,親と同居しているのはわずか5人に過ぎない.発表当日は,親子の居住関係を含め,より詳細な分析結果を示したい.
  • 長沼 佐枝, 荒井 良雄, 江崎 雄治
    セッションID: 404
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
    会議録・要旨集 フリー

    1はじめに
     急速に進む少子・高齢化を背景に,大都市においては人口の減少と高齢化が進むことが確実視されている.人口が減少すれば住宅が余剰になるだけでなく,高齢化や老朽化の進んだ住宅地が出現し,住環境の悪化から持続が困難な住宅地が出現することも危惧される.ところが,札幌・仙台・広島・福岡といった地方中核都市の中には,この状況下にあっても人口が増え,成長を続けるものがある.こういった都市は現時点において高齢化が進んでいないこともあり,どのような空間的な広がりを持って高齢化が進むのか,また高齢化が進むとみられる住宅地の現状はどうなのかといったことはほとんど把握されていない.そこで本研究では福岡市を対象に,高齢化の進行に関する将来予想をおこなった後に,高齢化が進むとみられる住宅地の現状を明らかにすることで,住宅地の持続性について考察をおこなう.
    2分析方法
     GISを用いて地域メッシュごとに,2000年と2015年の老年人口比率を計算し,福岡市における高齢化の現状と進行を予想する.2015年の老年人口比率は,コーホート変化率法を用いた将来人口推計により算出した.ここでは統計情報研究開発センターによるものと同様の仮定,1995~2000年の男女・年齢別コーホート変化率が以後も一定であるとの仮定をおいた.また,個々の住宅地を基本的な対象範囲とするため,比較的個別の住宅地を判別できる,地域メッシュ統計等の小地域統計を用いた分析をおこなう.その上で,今後高齢化が著しく進むと予想された住宅地を選択し,住民を対象とするアンケート調査を実施した.調査内容は世帯主の個人属性や第二世代の離家の状況などである.詳細調査地区は,福岡県福岡市南区柏原・東区東月隈・早良区野芥/重留・那珂川町王塚台である.該当地区の全世帯(3725)に調査票を配布し,郵送による回収をおこなった.回収数は608,回収率は16.3%である。
    3調査結果の概要
     2000年時点では,都心部にある既成の市街地では高齢化が進んでいるものの,福岡市全体としては,老年人口比率が低い地区が多く高齢化はさほど進んでいない.しかし,2015年になると,鉄道路線沿いや都心地区の高齢化の進行が比較的緩やかなのに対して,郊外地域,特に1970-1980年に造成された縁辺部の住宅地に老年人口比率が高い地区が広がっている.このことから,福岡市では縁辺部に高齢化が進む地区が現れると予想される.この結果を踏まえて行ったアンケート調査から,高齢化が進むとみられる住宅地の入居者は,特定の年代層に偏る傾向がみられた.また,彼らの子供世代である第二世代は結婚・就業・進学などを契機として,一度は離家する傾向が確認された.こういった住宅地において住宅地の機能が維持できるか否かは,地区の人口が再生産されるかどうかによるところが大きい.したがって現時点で新たな住民がさほど転入していない地区では,離家した第二世代が地区内に戻ってくるかどうかが問題となる.そこで,離家したのち家を購入した第二世代の居住地を調べたところ,彼らの多くは第一世代の近隣には住宅を購入していなかった.この点からみると,住宅地としての持続が困難になる地区が縁辺部に現れる可能性が否めない.
    4その他
     本研究は,CSIS・第一住宅建設協会・シンフォニカ統計GIS研究助成からの支援を受けている.
  • 北海道室蘭市を事例として
    山田 佳奈子
    セッションID: 405
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
    会議録・要旨集 フリー

    1.はじめに
     近年、都市の高齢化が急速に進んでいることから,高齢者研究の分野では都市における生活空間に焦点を当てたものが蓄積されている。そこで問題となっているのは、増加する高齢者に対しての生活環境の整備である。自家用車を手放し、徒歩での移動も困難になる高齢者は、食料品店や医療施設への近接性が生活環境において特に重要となる。しかし,道路の傾斜や積雪寒冷地における冬季の路面凍結などの地理的制約は、高齢者の移動を困難にしている。また、すべての高齢者に生活の利便性を向上させるためのサービスを提供するのは容易ではない。そこで、高齢者の生活環境を詳細に調査し、効率の良い高齢者政策を立てることが急務となる。
     そこで本報告は、北海道室蘭市を事例として、積雪寒冷地における高齢者の生活環境を明らかにする。室蘭市は積雪寒冷地であり、傾斜地が多いことから、行動の地理的制約が大きいと考えられる。そのため、まず高齢者の生活環境の概況を把握する。次に、2000年と2005年の転居データから高齢者の居住地移動を分析し,それによる高齢者の生活環境の変化について検討する。さらに本研究は,室蘭市の高齢者の居住環境改善のための取り組みについて考察する。ここでは、特に室蘭市における高齢者の都心居住奨励政策に注目する。として先進的な取り組みを計画している北海道室蘭市を対象とし、積雪寒冷地における高齢者の生活環境と居住地移動を明らかにする。最後に、これらの結果を統合して高齢者の生活環境と居住地移動に関する考察を行う。

    2.高齢者の生活環境
     居住地域において、傾斜角が5度以上である地域が図1の■で示した部分である。この地域に位置する統計調査区域の高齢者率は母恋地区など比較的高いところが多く、このことから多くの高齢者が傾斜の大きい地域に居住しているといえるだろう。そのような地域に居住する高齢者は、買い物施設や病院へのアクセスが困難になっている。   
     特に日常的に必要な食料品については、商店街の不振等により近くで購入することが難しく、遠く離れた大型店まで行かなければならず、高齢者に長距離移動を強いている。

    3.高齢者の居住地移動
      図1にそれぞれ、2000年・2005年における高齢者の転居状況を示した。これによると、2000年は白鳥台や高平、八丁平など郊外への移動が目立つ。しかし2005年にはそれらの郊外化の動きは減少し、中心市街地である中島地区周辺への移動が目立ってきている。このことから、高齢者が生活の利便性を求めてまちなかへ居住地を移す傾向にあることがわかる。

    4.室蘭市の政策-「まちなか居住」の推進-
     室蘭市では高齢者政策として、「まちなか居住」の促進を計画している。これは、高齢者を生活環境の整った都心部へ移動させることにより、生活の利便性を確保しようとするものである。その先進的な事例として、民間が建設した母恋地区の高齢者住宅があり、30世帯程度が入居している。この住宅の近隣には大型スーパーや病院があり,徒歩行動による生活環境の向上がみられる。

    5. おわりに
     室蘭市では傾斜地に高齢者の居住が集中しており、買い物や病院へのアクセスを困難にしている。しかし近年、当市では政策として高齢者の都心居住を奨励しており、その移動によって高齢者は転居先で日常品販売店や医療施設への近接性を高めている。これらの転居世帯について、転居前と転居後の生活環境を比較し、居住地移動が与える影響をより詳細に分析することが今後必要である。
  • 東京都墨田区を事例に
    深澤 栄太
    セッションID: 406
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
    会議録・要旨集 フリー

    1.研究の目的
     東京都においても,高齢者の動向は無視できない現状にあり,今後の地域社会の動向を決定しうる大きな要因ともなっている.そのうえでも,東京区部におけるインナーエリア地区の人口高齢化の把握は必要性が高い.
     既存研究では,インナーエリア地区に存在する住宅更新の困難性についての問題や,その結果として生じる人口高齢化について論じられている.そこで,本研究では,既存研究によって得られた知見を,他の地域に適用した後,対象地域における幅員4m未満の道路の分布と,住宅更新が実施されていない住宅の分布から,人口高齢化の現状を把握することを目的とした.その際の研究の視点として,既存研究では,十分な議論がされてこなかった,地域の市街地形成過程に着目した.地域の市街地形成過程に着目することは,地域の住宅更新の困難性をより総合的にみることになり,さらに,インナーエリア地区における住宅更新の困難性と人口高齢化との関係の議論を深める点でも,一定の意義があると考える.

    2.調査方法および対象地域の選定
     まず,対象地域の市街地形成過程については,旧版地形図と文献,住民からの聞き取り調査などをもとに記述を試みた.次に,対象地域における幅員4m未満の道路,いわゆる細街路の把握については,主に2004年の住宅地図から分析を行い,一部,現地調査で補った.また,住宅更新の状況については,1973年,1984年,1994年,2004年の住宅地図から比較,分析を行った.その際,建物の形状と世帯名が変わらない建物を,更新されていない住宅と判断し,本研究では未更新住宅とした.これらをもとに,対象地域における細街路と未更新住宅の分布を示した.さらに,高齢者世帯が形成されている現状を確認するために,住宅更新を実施していない世帯と,住宅更新を実施した世帯への聞取り調査を行い,事例調査を試みた.  研究対象地域としては,墨田区京島2・3丁目と,それに隣接する八広2・3丁目を選定し,詳細な事例分析および比較を行った.

    3.研究結果の概要
     対象地域において,老年人口比率が高い京島2・3丁目,八広3丁目では,細街路と未更新住宅の分布が,地区の全域に及んでいる.これは,関東大震災や第二次世界大戦による戦災を免れ,区画整理事業区域外として,短期の間に宅地化が進行したことによる.このような地区では,住宅更新は難しく,第1世代のみの残る世帯が形成されやすい.さらに,現状の狭小な居住面積を考慮すると,転出した第2世代が,同地区に再び居住する可能性は低いと考えられ,地区内における人口高齢化は,当面さらに進行するものと考えられる.
     その一方で,対象地域において,老年人口比率が低い八広2丁目では,細街路や未更新住宅の分布に偏りがみられ,その割合の少ない地区がある.これは,宅地化の進行が周囲と比べて遅れたことによって生じた.このような地区では,周囲と比べて住宅更新が実施しやすく,第2世代や第3世代との同居が比較的容易となっている.
  • 岩間 信之, 田中 耕市, 佐々木 緑, 駒木 伸比古, 斎藤 幸生
    セッションID: 407
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1. 背景
     本報告は,日本の地方都市におけるフードデザート(Food Deserts : FDs)問題の実情を明らかにすることを目的とする.FDsとは,生鮮食料品が購入困難なダウンタウンにおける一部のエリアを意味する(Whitehead, 1998).スーパーストアの郊外進出が顕在化したイギリスでは,1970~90年代半ばにinner-city / suburban estateに立地していた中小食料品店やショッピングセンターが相次いで廃業した.その結果,経済的理由などから郊外のスーパーストアへの移動が困難なダウンタウンの貧困層は,都心に残存する雑貨店での買物を強いられている.このような店舗は商品の値段が高く,野菜やフルーツなどの生鮮品の品揃えが極端に悪い.そのため,貧困層における栄養事情が悪化し,ガンなどの疾患の発生率が増加している.Wrigley, et al (2003)は,FDs の解決に向けた議論の中で,地理学からのアプローチの重要性を指摘している.

    2. 研究の目的と枠組み
     FDsは,社会的排除(Social exclusion)の一角をなす社会問題である.FDsの背景には,社会格差の拡大や,教育,雇用機会,公衆衛生の不平等,地域コミュニティの崩壊など,多くの問題が内在する.FDsに関する諸問題の中でも,人口の高齢化と中心商店街の空洞化の進む現在の日本では,「高齢者世帯」への「健康な食料の供給」が喫緊の研究課題といえる.昨年末には,高齢者の栄養事情が全国的に悪化しているとの報告もなされている(全国老人クラブ連合会).
     本研究の目的は,FDsがもっとも顕在化している地方都市を事例に,実態の解明と問題解決に向けた議論を進めることにある.研究対象地域は茨城県水戸市である.本研究では,海外におけるFDs の研究動向を整理したうえで, 都心居住高齢者への聞き取り・アンケート調査,GISを援用したFDsエリアの確定,日本の地方都市におけるFDsの定義化,を実施する.その後,問題解決に向けた議論を進める.今回は,2006年7月~8月にかけて実施したアンケートの集計結果を中心に報告する.

      3.都心居住高齢者を取り巻く生活環境の実態
     2005年度国勢調査によると,水戸市全体の高齢者率は18.6%,中心部では25.4%である.アンケート調査では,中心部に居住する70~80歳代の高齢者約150人から有効回答を得ることができた.集計の結果,生鮮野菜の摂取量や購入金額は全国平均を大きく下回ることが明らかとなった.高齢者世帯の大半は自家用車を所有しておらず,週に平均2~3回,長距離を徒歩で買い物に出かけている.片道40分以上の徒歩移動やタクシーの利用,駅ビルやドラッグストアでの食材購入,民間事業所による買い物ヘルパーサービスの利用なども目立つ.その一方で,行政が進める配食サービスは利用者が予想外に少ない.また,自宅から店までの物理的距離は近いが,各種交通障壁のために迂回せざるを得ないケースもみられる.現行の高齢者福祉事業には,いくつかの問題があることが浮き彫りになった.

    主要文献
    荒木一視,高橋 誠,後藤拓也,池田真志,岩間信之ほか.2007.食料の地理学における理論的潮流-日本に関する展望-.E-journal GEO. (受理済み)
    岩間信之ほか2006.地方都市におけるフードデザート問題の拡大.日本地理学会2006年度秋季学術大会予稿集.
    駒木伸比古ほか2006.日本におけるフードデザート問題の進展. CSISDAYS2006 研究アブストラクト・カタログ.
    田中耕市2001.個人属性別にみたアクセシビリティに基づく生活利便性評価.地理学評論74:264-286.
    SASAKI, M., IWAMA, N., KOMAKI, N., and TANAKA, K. 2006. Japanese Food Deserts Issues. Twenty-Sixth Annual ESRI International User Conference, Map Gallery.
    Whitehead, M. 1998. Food deserts: what’s in a name? Hearth Education Journal 57: 189-190.
    Wrigley, N., Warm, D. and Margetts, B. 2003. Deprivation, diet and food-retail access: finding from the Leeds ‘food deserts’ study. Environment and Planning A 35: 151-188.
  • 赤石 浩美
    セッションID: 408
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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     花と緑のまちづくりは、北海道恵庭市や長野県小布施町、兵庫県神戸市などで、オープンガーデン活動も合わせて行われており、花と緑のまちづくりをしていく上で重要な役割を担っている。
     本研究では、花と緑のまちづくり事業を通して、新たなコミュニティが形成されつつある埼玉県深谷市を事例に、オープンガーデン活動がまちづくりにどのような役割を果たし、どのようなコミュニティのネットワークが形成しつつあるかを明らかにすることを目的とする。オープンガーデン鑑賞者の属性、訪問目的、行動の特徴を明らかにするためのアンケートと、オープンガーデンのオーナーの属性、参加動機、「花仲間」内でのネットワークの形成状況を明らかにするための「花仲間」会員を対象とするアンケートを行った。また、「花仲間」に実際に所属し、会員と活動を共にする中で、聞き取りなどの調査を行った。
     オープンガーデンの鑑賞者のほとんどが50歳以上の主婦であり、平均51坪の庭を有する戸建持ち家に居住していること。発地は、埼玉県内であること。訪問の理由としては、自らの庭造りの参考にするためで、同伴者は、家族という回答が多いこと。鑑賞者の訪問が多かったのは、短時間に徒歩で移動が可能な地区のオープンガーデンに集中していることなどがわかった。
     「花仲間」の会員は50~60歳代の女性が中心で、6年以上のガーデニング暦を有し、平均62坪の庭を所有する戸建持ち家の居住者がほとんどであること。会員のほとんどの家庭で、ガーデニングに対し家族特に、配偶者の協力があること。オープンガーデン活動に参加するようになってから、家族の協力や会話が増加したとの回答も多かった。「花仲間」の会員としてオープンガーデン活動を行うことで、近隣住民や鑑賞者、「花仲間」会員との新たな交流が生まれ、そのことに満足していることなどがわかった。また、行政は、「花仲間」に対し金銭的な支援を除き、オープンガーデンブックの編集やオープンガーデン開催時の広報活動などの後方支援を行うなど、「花仲間」との関わりを持っている。
     さらに、「花仲間」には、リーダーが存在し、そのリーダーが中心となって新規会員の勧誘や、ボランティア活動を牽引していることも確認できた。また、「花仲間」は、趣味を通じて集まる選択縁に分類できること。会員同士が、日常生活においても交流を持っていることがわかった。
     ガーデニングという共通の趣味を持つ市民が連携し、オープンガーデン活動により、その楽しさを外部へと発信する。それに影響を受けた近隣住民がガーデニングに興味を持ち、オープンガーデン活動が広がっていくというような緩やかな普及が結果的として街の美化につながるという意味では、オープンガーデン活動が、深谷市の花と緑のまちづくりにおける効果的な広報活動としての役割も期待できよう。
  • 山下 博樹, 堤 純, 伊藤 悟
    セッションID: 409
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1.はじめに
     報告者らは,これまで「持続可能な住みよい都市」のあり方としてのLivable Cityに注目し,その評価が高いバンクーバーとメルボルンの都市圏整備政策の特徴や郊外市街地の現状などについて報告してきた(Yamashita et al., 2006など)。他方で私たちは,これらの都市がイギリスを旧宗主国とするいわゆる新大陸に位置することから,ヨーロッパ大陸などの長い歴史の中で形成されてきた都市でのリバブル・シティの取り組みがどのような特徴をもつのか,ということに関心をもった。
     本報告で取り上げるノリッジ市は,EUが支援する「Liveable City Project」の中心的役割を果たしながら,自市のリバブル・シティにむけての取り組みを推進し,活力ある中心市街地の再生とそれを中心とした交通システムの形成に成功している。本報告では,リバブル・シティ・プロジェクトの概要およびノリッジ市におけるリバブル・シティにむけた取り組みとその現状について報告することを目的としている。

    2.EU支援の“リバブル・シティ・プロジェクト”
     リバブル・シティ・プロジェクトは,EU域内の均衡ある発展を目的とした北海プロジェクトのひとつに位置づけられ,ノリッジ市に事務局をもち,北海に隣接するリンカーン市(英国),トロンヘイム市(ノルウェー),オーゼンセ市(デンマーク),ヘント市(ベルギー),エムデン市(ドイツ)をパートナーとしている。リバブル・シティ・プロジェクトは,2004~07年の4年間で1千万ユーロの事業規模をもち,そのうち50%をEUのヨーロッパ地域開発基金から支援を受けている。このプロジェクトの目的は,ヨーロッパの歴史的な都市の中心部をその歴史遺産の保全と,住民の生活や就業,都市中心部としてのレジャー・各種サービス機能,あるいはアクセスのよい都市環境などとのバランスをとりながら,公共空間として改善することにある。とりわけその特徴は,人々の生活や活動の拠点となる多くの建物を取り囲む道路を現在の単なる交通のためだけの空間としてではなく,路上でさまざまな交流や活動が行われたかつての公共の空間としての機能を取り戻すことをめざしている。そのための手法としては,より広いスペースを作り出すことによって,単に交通の用途に限らない,人々が憩える場所を作り出すことに主眼がおかれている。

    3.ノリッジ市の概要
     ノリッジ市は人口12.2万人(2001年センサス),ロンドン北東郊のノーフォーク州(人口79.7万人)の州都である。ノーフォーク州は英国全体の中でも比較的高齢化の進展した州のひとつであるが,ノリッジ市は20歳台の人口が最も多く,特徴的な人口構成を有している。ノリッジ市は,現在ではイングランド地方東部では最大の都市であるが,かつては数世紀にわたってイングランド第2の都市であった歴史都市でもある。ノリッジ市の中心部には,古くからの城と大聖堂,それらを取り巻く多くの教会が立地する一方,ショッピングセンターをふくむ商店街やマーケットなどが比較的広範囲に展開し,ノリッジ市内外からの集客で賑わいを創出している。また,ノリッジ市は,1967年に英国で最初の歩行者専用道路を導入したことでも知られている。

    4.ノリッジ市のリバブル・シティへの取り組み
     ノリッジ市の中心市街地では1980~90年代にかけて,1)自動車通行量の増加による交通事故の増加,2)工場跡地や古い立体駐車場の荒廃,3)老朽化したマーケットなどの問題が顕在化していた。1)については,中心市街地内の事故防止のための道路整備と駐車料金を政策的に高く設定する一方,利便性の高いパーク・アンド・ライドを整備した。その結果,自動車の流入が減り交通事故も減ったが,街への訪問者は増えた。2)に対して,再開発事業により2005年にオーストラリア資本のショッピングセンターが開発され,魅力的な空間として再生された。3)についてもマーケットや市役所周辺の整備と道路の歩行者専用化を進め,多くの人々が回遊する空間となった。このほか,歴史都市としての特性を街の魅力として活かした多くの取り組みを行っている。
     こうした取り組みの成果として,平日でも買い物や観光に多くの人が訪れる活力ある中心市街地が再生され,2006年には英国で最も買い物満足度の高い都市として評価されるようになった。

    *本研究をおこなうにあたり,平成18~20年度科学研究費補助金(基盤研究(C))「我が国におけるリバブル・シティ形成のための市街地再整備に関する地理学的研究」(研究代表者 山下博樹)の一部を使用した。

    文献
    Yamashita H., Fujii T., Itoh S.. The development of diverse suburban activity centres in Melbourne, Australia. Applied GIS 2006; 2(2): 9.1–9.26. DOI:10.2104/ag060009
     
  • 米蘭,且末,輪台地区などを例として
    相馬 秀廣, 出田 和久, 小方 登, 伊藤 敏雄, 于 志勇, 覃 大海
    セッションID: 410
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1.はじめに
     遺跡化したオアシス集落では,生活は基本的には農業で支えられていたはずである.しかし,それに関わる農耕地や灌漑水路などの実態についてはほとんど研究が行われていない.演者らは,中国西北部のタリム盆地および周辺地域を対象として,高解像度のCorona衛星写真判読により,都市遺跡とともに灌漑水路跡などを抽出し,併せて現地調査を実施して,その解明に努めてきた.発表では,Corona衛星写真に加えて緯度・経度情報のあるGoogle Earth画像も利用して,タリム盆地南東部の米蘭遺跡,且末南西遺跡(ライラリク遺跡付近),および同盆地北部中央付近の輪台遺跡群を例に,抽出された灌漑水路跡,立地条件との関わりからみた放棄後の沙漠化の実態などについて報告する.
    2.調査結果と若干の考察
     1).米蘭遺跡は,北流する米蘭河の開析扇状地末端,礫沙漠から泥砂漠にかけて立地する.遺跡利用期の3-4世紀,8-9世紀には,米蘭河は遺跡範囲の約20km下流側で,東流中のチェルチェン河に扇状地性三角州として合流していた.Corona衛星写真では,三段階の階層構造を持った盛土型灌漑水路跡が明瞭で,二次灌漑水路は放射状に分流し,最大5km以上に達する.遺跡放棄後の沙漠化との関係では,紅柳包が大まかには遺跡の北側(下流側)ほど密に分布し,灌漑水路跡上にも多く発達している.しかし,バルハン型など移動砂丘の発達は,遺跡の範囲では顕著ではない.
     2).且末南西遺跡は,米蘭西南西約200km,北流するチェルチェン河西岸の開析扇状地に立地する.同河は,遺跡下流側に大きな現オアシスを形成した後,東北東へ転向する.遺跡では,チェルチェン河にほぼ平行した2-3列の長さ8kmを超える盛土型主灌漑水路跡が明瞭である.主灌漑水路から両側に間隔100m-500mほどで短い盛土型水路が派生し,さらに盛土型水路が派生した部分もある.現地では主灌漑水路跡の土手は推定耕地跡から比高3mを超え,付近の土器片などから漢代から利用の可能性が高い.放棄後の沙漠化との関係では,小規模な列状砂丘やバルハン型砂丘が広く分布し,水路跡が確認できない部分もある.
     3).輪台オアシスは,タリム盆地北縁中央部コルラとクチャの間,南流する迪那河の開析扇状地に立地する.迪那河は,50kmほど下流側で扇状地性三角州としてタリム河へ合流する.輪台遺跡群は現オアシス中心部から南へ約20kmに位置し,漢代から唐代にかけての遺跡が多い.柯尤克沁故城(漢代)付近は,水路との比高が1m未満で,塩類が多く析出し,紅柳包は分布するものの比高1mを超えるものはごく少ない.現地では,直線的な平面形状から人工水路と判断されるものはいずれも掘込み型である.故城西側には深さ20cm,幅1mほどの人工水路跡が存在し,付近には,耕地跡と推定される,塩類が析出した20m四方ほどの若干盛り上がった部分が断続的に分布していた.
     4).以上述べたことから,今回取り上げた,シルクロード繁栄時代である漢代から唐代の遺跡付近では,いずれも,灌漑水路跡が残存し,放棄後は立地環境(可能蒸発量,卓越風向・砂供給源との位置関係,地形条件他)に対応した沙漠化が発生したことなどが判明した.

     本研究は,科学研究費補助金基盤研究(A)(2)「中国タリム盆地におけるシルクロード時代の遺跡の立地条件からみた類型化-衛星写真Coronaの活用を通してー」(代表者:相馬秀廣)による研究成果の一部である.
  • 南パンタナール・エストラーダパルケにおけるエコツーリズムの発展
    仁平 尊明, コジマ アナ, 吉田 圭一郎
    セッションID: 411
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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     熱帯湿原特有の豊かな動植物相を有することで知られるブラジル・パンタナールでは,1990年代からエコツーリズムが盛んになり,とくに欧米から多くの観光客が訪れるようになった.エコツーリズムのブームにともなって,ファゼンダの観光化や大規模なホテルの建設が進行し,生態系へのインパクトや住民生活の変化などの地域問題が顕在化した.本研究では,南パンタナールのエストラーダパルケ(パンタナール公園道路)を対象として,宿泊施設の立地展開に注目することから,パンタナールにおけるエコツーリズム発展の課題を考察する.調査を実施した時期は,2003年8月,2004年8月,2005年3月,2005年8月,2006年8月であり,調査の内容は,宿泊施設の経営者や管理者への聞き取りである.
     研究対象地域 南パンタナール(マトグロッソドスル州)のエストラーダパルケは,北パンタナール(マトグロッソ州)のトランスパンタネイラと並んで,ブラジル・パンタナールにおいて観光開発が最も進んでいる地域の一つである.エストラーダパルケは,ボリビアとの国境にある大都市・コルンバの南から湿原に入る未舗装の道路である(Fig.1).パラグアイ川の渡河点であるポルトダマンガからクルバドレイキまでは東西に走り,クルバドレイキから連邦道路262号線沿いのブラーコダスピラーニャスまでは南北に走る.総延長は120kmであり,ミランダ川,アボーブラル川,ネグロ川などの主要河川とその支流の上には87の木橋が架かる.
     宿泊施設の分布 トランスパンタネイラ沿いとその近隣には,19の宿泊施設が立地する(Fig. 1).そのうち,スポーツフィッシング客を主な対象とする釣り宿は6軒(サンタカタリーナ,パッソドロントラ,タダシ,パルティクラ,カバーナドロントラ,ソネトゥール),エコツアーを提供する設備が整った大規模なホテルと民宿が3軒(パルケホテル,パンタナールパークホテル,クルピーラ),既存のファゼンダが観光化したエコロッジが5軒(ベーラビスタ,アララアズール,サンタクララ,シャランエス,リオベルメーリョ),キャンプ場または素泊まりの安い部屋を提供する民宿が3軒(エキスペディションズ,ボアソルテ,ナトゥレーザ),そのほかに,ホテルに付随した観光ファゼンダ(サンジョアオン)と大学の研修所(UFMS)がある.
     宿泊施設の開業年 1960年代と1980年代に開業した宿泊施設は,5軒が釣り宿であり,そのほか,民宿,研修所,キャンプ場が1軒づつある.1990年代に開業した宿泊施設は,ホテルが2軒,釣り宿が1軒,エコロッジが1軒である.2000年以降に開業した宿泊施設は,ファゼンダが4軒,キャンプ場などが2軒,ホテルの付随施設が1軒である.このように,エストラーダパルケの宿泊施設は,1980年代以前には大河川沿いの釣り宿,1990年代には大河川沿いの大規模なホテル,2000年以降には河川から離れたファゼンダとキャンプ場の開業に特色がある.
     エコツーリズム発展の課題 世界遺産にも登録されたパンタナールは,観光地として有名になり,観光によるバブル経済を引き起こしている.1990年代後半に宿泊施設を開業した経営者は,1haあたりの土地を230~300レアルで購入した.2001年に開業した宿泊施設の土地購入価格は,350~400レアル/haであり,2003年になると730レアル/haまで上昇した.近年では,東部海岸の大都市や外国出身の地主が増加している.また,観光客が家族から個人の若者になったことも問題である.彼らの多くは,ボリビア,ブラジル西部,パラグアイ,アルゼンチンと移動するムッシレイロ(バックパッカー)である.
    [本研究は,平成16・17・18年度科学研究費補助金「ブラジル・パンタナールにおける熱帯湿原の包括的環境保全戦略」(基盤研究B(2) 課題番号16401023 代表: 丸山浩明)の補助を受けた.]
  • 中辻 享
    セッションID: 412
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
    会議録・要旨集 フリー

     ラオス人民民主共和国(以下、ラオスと略称)では現在、農村から都市への移動よりも農村内部の移動、特に、高地から低地への移動が最も重要な人口移動である。山がちなラオスでは、現在でも徒歩でしかたどり着けないような高地の村落が多い。そのような高地村落の住民が、盆地や河川沿いの低地に移住し、既存村落に合流したり、新たに村落を形成したりする例が近年非常に多くなっているのである。
     これにはラオス政府の農村開発政策が深くかかわっている。ラオス政府は各郡の低地を中心に、重点的農村開発地区(focal site)を指定し、この地区を中心に主に国際機関の援助による、インフラ整備、農業技術普及、教育、医療など、総合的な農村開発プロジェクトを導入する方針を採っている。この地区では既存の低地村落のほか、周辺の高地村落の住民をも移転・集住させ、彼/彼女らも開発の対象とすることが目指されている。このように、ラオス政府の農村開発政策は低地中心であり、高地に開発をもたらすのではなく、むしろ高地住民を開発の場に近づけることで、開発の効果を彼/彼女らに行き渡らせようとするものであり、それが、ラオス農村で高地から低地への人口移動が激化している大きな要因である。
     一方、高地住民の最も重要な生計手段である焼畑稲作に関しては、政府は森林保護の観点から近年その抑制策を強めている。また、彼/彼女らの最大の現金収入源であったケシ栽培に関しては厳しい根絶策が取られている。焼畑やケシ栽培の代替農業として政府が奨励するのは水田稲作や常畑での換金作物栽培である。これらはいずれも低地でしか不可能か、あるいは低地のほうが有利な農業活動である。このような政策も高地での生活を困難にさせ、高地住民の低地への移住を促す要因となっている。
     発表者がこれまで調査を継続してきたルアンパバーン県シェンヌン郡カン川流域地区においても、1990年代以降はカン川沿いの低地の村落を中心に農村開発が進められてきた。具体的には、既存の幹線道路の拡幅、医療施設や共同水道の建設、小中学校の新設と改築、電気の配電など、さまざまな開発事業が主に国際機関の援助により実施されてきた。さらに、政府や国際機関の奨励もあって、ハトムギなど換金作物の栽培も進み、低地村落では現在、現金収入の重要性も高い。このような開発を行うと同時に、政府はカン川の両岸にそびえる山地中腹にあった高地村落に低地への移転を働きかけ、現在、この地区の高地村落のほとんどが低地に移転した。そのため、この地区の幹線道路沿いの村落の人口は1997年から2005年の8年間で1.5倍もの急増を見たのである。
     それでは、高地から低地への移住によって、人々の生活は以前よりもよくなったのであろうか。本発表は、このことを低地に移住した世帯と高地村落にとどまった世帯の生計活動と土地利用を比較することで明らかにしたい。その上で、政府の農村開発政策や焼畑抑制政策の意義と問題点を考察したい。
     調査対象村落はカン川流域地区のフアイペーン村とフアイカン村である。フアイペーン村はこの地域に古くからある高地村落(標高830m)であるが、2000年ごろから人口流出が激しくなり、現在人口は半減している。一方、フアイカン村は幹線道路沿いの低地村落(標高350m)であり、住民の多くはフアイペーン村の離村者で占められ、やはり2000年ごろから人口が増大している。発表では、両村落の土地利用やコメ収支、生計活動の内容などを比較したい。
  • ポーランドのカルパチア地域では
    中だい 由佳里
    セッションID: 413
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1.研究目的
     ヨーロッパ統合の歩みは、1920年代の「パン・ヨーロッパ」構想やブリアンのヨーロッパ統合構想に端を発し、1958年には欧州経済共同体(ECC)へと発展していった。その後の拡大により2006年末には加盟国は25カ国となり,アメリカの経済力と対抗できる経済圏を確立しつつある。一方,民族や移民問題など既加盟国と新規加盟国間で、また国家内部でも階層化や地域格差など様々な軋轢が生じている。このような中で,急速な経済成長を迫られている新規加盟国の中にあり,かつ条件不利地域に位置する山村集落ではどのような選択が可能であろうか。
     2005年に拡大EUの正式加盟国となったポーランドは、既加盟国の基準である31項目の加盟基準を満たさなければならない。特に30%近くが第一次産業従事者であるポーランドでは, 2005年まではSAPARDにより,以後はCAPによる補助金が投入され,今後の農牧業の質の向上は大きな課題である。2006年度から地域への配布が始まった補助金は,どのように地域で活用されていくのか。ポーランドの山村集落カルパチア地域を取り上げ検証する。
    2.調査地の概要
     調査地であるポーランドのカルパチア地域の山村集落バランツォーバ(Barańcowa)は,冷涼な気候にあり狭小な農牧業を主な生業とし,森林の副産物を利用する複合的な生業により生活維持を行っている。行政や商業の中心から遠いという地理的に負の要因により,経済支援は遅れがちでありインフラ整備は緩慢にしか進行していない。公的な供給は電気のみである。国内外への出稼ぎが顕著ではあるが,現在においても基本的には血縁という家族を中心として生活維持のため自給自足的な生活を継続させている。
    3.研究方法
     2001~2005年の聞き取り調査及びアンケート調査結果と,2006年8月に行った個別の全戸アンケート調査と参与観察とを比較し,EU加盟直後の変化の分析と考察を行う。
    4.調査結果
    1)拡大EU,ポーランドによるインフラ整備
     EU加盟条件を満たすために各種法やインフラの整備を急速にかつ強力に推し進めてきたポーランドの2005年加盟は,国民の意識の集中を図ることはできたが,大多数を占める零細な個人農業経営の拡充を図ろうとする農業対策は軋轢を生んでいる。マウォポルスカ州の州都であるクラコフでも,バスターミナルが整備され,市内を避けるバイパスから高速道路への進入が著しく短縮され,農村部の道路の質も向上した。一方,民間での変化は着実に進行している。農村部でも,定期市に替わって小さな店舗が並ぶようになり,国営のバス路線と競合して私営のミニバスが均一料金で定期運行されるようになった。
    2)山村集落バランツォーバの選択
     2006年度よりEUからの農家へ助成金の直接支払いが開始された。希望者のみの配布であるが,25世帯のうち9世帯が初年度の助成金を受け取った。来年度以降に観光への意向を示している世帯や,牧草地から農地への転換を図ろうとしている世帯もあったが,大多数の世帯は来年の農業経営も今年同様の規模で行うと回答している。しかも,来年度に集落外(海外を含む)に働きに出る家族を持っている世帯は,5世帯に上る。
    5.結論
     ポーランドでは農牧業への直接的援助は始まったばかりであるため,当面は生活費の補填要素が強いと予想されるが,今後は補助金の使途について各農家に対して選択肢を示唆する方法もあろう。景観保全地域であれば変化より現状維持を優先する必要があり,農牧業の拡大を目的とする地域と区別する必要がある。地域ごとの将来像の確定に伴った補助金の活用が直近の課題である。現状では,公的な方針の策定が後手に回っているように見受けられる。
     ポーランドに限らず,新規拡大EU加盟国の選択は壮大なヨーロッパ共同体形成の過程である。実験的要素も否めないため,今後も試行錯誤を続けながら変化していくことが期待される。未来への調査の継続が重要な研究分野である。
  • 清水 沙耶香
    セッションID: 414
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
    会議録・要旨集 フリー

     本研究では,都市における空間とエスニシティの変遷を時系列的に見ることによって,エスニシティの認識と都市空間編成の関係を明らかにし,都市におけるエスニシティの肯定的な認識の可能性を考察する.多民族が存在する都市であるカナダのトロントにおける,イタリア系移民コミュニティに焦点を当てる.
     トロントにおけるイタリア系移民のエスニック・アイデンティティ形成の第一段階は,1970年代以前である.一般的に教育水準が低く,受け入れ社会とは異なる言語,宗教,慣習,外見の相違,ステレオタイプ等が影響して,イタリア系移民は,トロント社会から可視的マイノリティとして認識された.その受入社会からの差別的位置づけに反発する形で形成されたアイデンティティを,否定的アイデンティティとし,強い内部連帯からその内向的性質を考察する.
     その一つの指標として持ち家率を考察する.移民にとって持ち家の実現とは,移民先社会からの防御壁の獲得を意味し,非常に重要である(Robert 2003).つまり持ち家率の高さは,アイデンティティの内向性を示す一つの指標といえる.1996年センサスによるとイタリア系移民の持ち家率は95%と突出して高く,その他の経済的要因,歴史的要因を考慮しても,彼らの高さはアイデンティティの内向性は明らかである.
     ところが1970年代からの,ヨーロッパ系移民の減少と第三世界諸国からの移民の大量流入を受けて,可視的マイノリティの位置付けがアジア・アフリカ系へ移行し,イタリア系の差別的認識は相対的に希薄化した.同時に,同エスニック集団流入の急減と,既存移民の郊外化の影響により,それまでイタリア系を主要対象に成立していたイタリア系エスニック・ビジネス経営者は,その生存戦略のために非イタリア系への新たな市場獲得を模索し始めた.
     これらの影響からイタリア系の内向的アイデンティティは肯定的アイデンティティへと変化し、それは都市再生につながる可能性を帯びた.トロントに3ヶ所存在していたイタリア系コミュニティの一つが,1985年に「リトル・イタリー(Little Italy)」と名称付けられ,一つの空間が明示された.それがイタリア系エスニック・アイデンティティ形成の第二段階の契機となる.郊外イタリア系人口の呼び寄せが名称付けの当初の目的であったが,イタリア的雰囲気を求めて訪れる非イタリア系の増加により,そこは観光地的な空間へと変化した.さらに,その空間に商業的潜在力を見出したディベロッパーなどの外部者の存在と,ストリートサインやカフェなどエスニック空間が創出されることによって,そのエスニック的要素は強化されていく.また,ジェントリフィケーションにおける差別化手段としての芸術的要素が利用されることと同様に,エスニシティもその都市空間の差別化手段としての潜在的可能性を持っている.つまり,差別的存在として扱われていたイタリア系コミュニティが新たに場所性を有し,さらにニッチ市場としての商業的潜在力が認識されたことによって,受け入れ社会から肯定的に認識されるようになった.そのことにより,イタリア的要素の肯定的認識を背景とした,外向的アイデンティティが形成された.
     さらにアイデンティティ形成の第三段階として,新たなアクターによって作られたアイデンティティへの変化が見られる.1970年代以降のイタリア系人口の郊外化の流れは継続し,現在リトル・イタリー内部はポルトガル系人口がイタリア系人口を上回る.しかし,その空間は外部から「イタリア人街」として認識され,イタリア的要素を生かしたさらなる地域発展を目指してBIA(Business Improvement Area)への参入や,それを介した他エスニック・コミュニティとの連携強化が進む.それは多民族都市として地区を超えた都市レベルでのニッチ的地位の確立をもたらすと予想されるが.その一方で本来のエスニシティの喪失が懸念される.
     本論の結論として以下のことを考察する.今後の世界ではさらなる国際的な人口流動の活発化が予想され,都市のエスニシティの多様性はますます顕著になっていくだろう.その中で,ニッチ的要素の確立による都市の再生や商業的価値創出の一手段にエスニシティは位置づけられるといえる.そのことから,都市再生におけるエスニック的要素の肯定的認識の可能性が見出せる.
  • シンガポールで働く日本人未婚女性
    木下 礼子
    セッションID: 415
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1、はじめに
     1990年代半ば以降の不況で、就職難から海外に職を求める高学歴日本人女性が増加した。一方で企業はコストのかかる現地駐在員を抑制し、現地採用の日本人雇用で代替する動きを見せた。このような企業側・求職者側双方の利益が一致して、現地採用の日本人雇用者が増加している。最初にブームとなったのは返還前に中国の窓口となった香港である。その後、東南アジアの地域本社機能の集積地としてシンガポールに注目が集まった。現在、シンガポールには3000人くらいの現地採用の日本人女性が雇用されているという。彼女たちの多くは、20代後半~30代前半、大卒、未婚で、日系の人材紹介会社を介して職を見つけ、シンガポールにやってきた。
    2、研究方法と目的
     シンガポールで働く現地採用の日本人女性オフィスワーカーに対してインタビュー調査を行い、そこで語られた内容を基に分析する。現地調査は2006年3月と8月に行った。人材紹介会社やジェトロなどの紹介、知人を通じて協力者を募り、未婚女性と、シンガポール人と結婚して比較的長く滞在している女性とにインタビューを行った。また人材紹介会社と彼女たちを雇用する日系企業への聞き取りも同時に行った。なぜシンガポールで働くことにしたのか、ここでの就業に満足しているのか、これからどうするつもりなのか等、彼女たちの海外で働くという行動はライフコースの中でどう位置づけられているのかを明らかにしたい。
     なお本研究の背景となる東南アジアへの日系企業の進出状況、海外就職情報誌の分析および人材紹介会社の役割については、2006年秋の本学会ですでに発表されたので、本発表では彼女たちの就業意識に焦点を当てる。
    3、シンガポールで働く日本人女性の就業意識
    1)望んでいたものは「海外で働く」という体験
     ゆくゆくはこうなりたいので、その一つのステップとして、海外で働いているという明確な位置づけをしている人はいなかった。むしろ現実逃避をうかがわせるケースの方が多かった。いずれこのような体験はできなくなるから、未婚で若いうちに一度はやっておきたかったと考えている。
     したがって彼女たちが、一様に戸惑いの表情を見せたのは、今後の見通しを尋ねたときであった。彼女たちの答えをまとめると、「とりあえず、しばらくはシンガポールで働いて、その後はまだわからない。」ということになる。
    2)求められていたものは「日本的であること」
     女性に抑圧的な日本の職場に見切りをつけて、留学で身につけた英語を生かしたいと、シンガポールで働き始めたはずであった。しかし日系企業が彼女たちに求めていたものは、ローカルスタッフには代替できないとされる日本的な企業文化と、それに基づく日本語の使用であった。日本企業の伝統的女性一般職が名称を変えて海外で温存されている感すらあった。
    4、今後の課題
     シンガポールでの就業の後、日本に帰国した女性も多い。Thangが期待しているように、彼女たちは「日本の生活に外国の考え方や新しい可能性を持ち込む」ことができたのであろうか?それとも切り捨てているのだろうか。あるいは日本の企業に適応できずに再度海外へ出ようとしているのか。今後、日本に帰国した女性たちの追跡調査を行って、この点を明らかにしたい。
    注:「セカンドライン」とは、高価であるために購買層が限られている高級ブランドが、その知名度を生かし、もとのブランドの感性やステータスを保ちながら、若い人向けに低価格で買いやすい、ワンランク下のブランドや商品群のことをいう。
    文献
    Thang,L.L.,MacLachlan,E.and Goba,M. 2002.
    Expatriates on the margins: a study of Japanese women working in Singapore. Geoforum 33, 539-551
    小笠原祐子 1998.『OLたちのレジスタンス』中公新書
  • 遠藤 幸子
    セッションID: 416
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
    会議録・要旨集 フリー
     ドイツではそれぞれの州が独自の法をもっており、特に各都市の多様な再開発の理念や計画策定に際しては、地方自治体にその責任が委ねられている。今回の発表では、その多様性に焦点を絞り、いくつかの大都市を事例として取り上げ、再開発の現況を概観するとともに、その理念について解釈を加えることを目的とする。
  • 方 大年
    セッションID: 417
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
    会議録・要旨集 フリー

    I 研究の目的
     都市の中で異民族が占拠する社会空間については、従来多くの研究がなされてきた(杉浦.1996,山下.1979など)。本研究では、都市の中に形成された異民族の町について、従来取り上げられることが少なかった異民族の商業地区の形成と行政による町づくりとの関係を明らかにするものである。
     本研究は、長春市のコリアタウン(商業中心地の一つである桂林路商業地区)を取り上げ、その形成過程について大きな役割を担っている中国政府との関わりから考察することを目的とする。
    II 研究方法
     中国、長春市政府の都市政策と関連付けながら、コリアタウンの形成過程を考察する。
    III 結果
    1.コリアタウンの形成過程
      I 期(1980年代末期~1991年):改革開放以降、長春市の都市化が進み都市改造の中で、当時としては長春市最大の室内市場と吉林省最初のキャバレーが桂林路に立地した。
      II 期(1992年~2003年):中韓国交正常化以来、長春市における韓国人留学生が増加し、留学生達が桂林路で小さな専門店を開き学費を稼いでいた。→自然的発生
      III 期(2004年~現在):長春市政府が計画的に桂林路商業地区を大きく発展させた時期である。2004年10月28日に桂林路を‘長春韓国商業街’として発展させ、さらに、2006年には桂林路の一角に韓国人街を作り上げた。→計画的発生
    2.長春市政府(朝陽区区役所)の都市政策
     1) 長春市の都市政策の背景
      中韓国交正常化、韓国人留学生の増加、長春市の外資投入政策、都市個性の創造
     2)具体的な政策
      道路整備、夜間の電飾のインフラ整備などへの資本投入
      ソフト面としては消費の誘導、宣伝やアピール、優遇政策などの長春韓国商業街のサービス全般を担う
     3)経過
      韓国人経営の店の集積が長春市政府の期待ほどではなかった。
  • 中島 直子
    セッションID: 418
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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     英国の社会改良家オクタヴィア・ヒルはオープン・スペース運動の中心人物である.同運動は1880年代から1890年代にかけて全盛期となる.ヒルは同運動を発展させるために,関係者と協力し,コモンズ保存協会・カール協会・首都圏公共公園協会・コモンズ保存協会ケント・サリー委員会・ナショナルトラストなどオープン・スペース運動を行う複数の組織の充実や創設に関与する.ヒルは同運動を,労働者階級を対象とする住宅改良運動を行う仲間たちと共に始めるが,イングランド教会の牧師,博愛主義者,芸術家,高位聖職者,労働者層らも協力した.シティ,教区会,地域委員会区,首都圏建設局など地方自治体の議員,ならびに上下両院の国会議員ともヒルは交渉があった.オープン・スペースを都市内外に保護する活動を全英に周知させ,同運動を発展させるには,国会での同問題の発議・審議,さらに法案の制定など国会議員との連携が必要であったからである.
     1850年代~1880年代にかけてヒルが友人に宛て書いた書簡を中心資料として,彼女と議員と社交の拡がりを示す.ヒルはシャフツベリー,ケイシャトルワース,ショールフェーブル,クロス,ホランド,ブライス,オコナーらの国会議員との交渉があった. 上記議員の所属は上下両院,与野党,自由・保守両党と様々であるが,彼らは各々の立場と得意とする諸分野とから社会改良を実現させようとするリベラルな議員であった.なかには福音主義者やアイルランド自治論者も含まれた.
     今回の発表では,ヒルや議員の著した論文ならびに国会議事録を資料に加え,彼女と国会議員との交渉の内容と拡がりを検証する.19世紀後半の英国で,オープン・スペース運動が,どのような議員の関心と支持を得ていたのか.ヒルはどのように巧みに活動し,同運動を強化,発展させることに成功したのか明らかにする.
  • 陳 瑛洵
    セッションID: 419
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
    会議録・要旨集 フリー

     18世紀来、中国貴州の山岳地帯における少数民族であるミャオ族は、東南部清水江流域で杉樹を栽培していた。このように計画的に育成された山林を「人工林」と称する。「人工林」は13世紀から芽生え、明清時期に繁盛してきた。ミャオ族は恵まれた天然環境の中、造林→保護→伐採→運送→販売という生産システムを自然的に生成され、林産物取引を通じて漢人の経済活動に参与した。漢民族との接触が拡大の中、一部の少数民族は漢民族の通貨経済システムに参与した。中には衝撃を受けて、土地を失った人が少なくなかった。結局、林業は錦屏県のミャオ族にとって、生計維持だけではなく、漢人からの影響を遮断できる後ろ盾のような存在であった。
     本稿はこれらの内部契約文書を分析することによって、少数民族であるミャオ族は漢民族を中心とする貨幣経済活動に参与する過程を明らかにし、また、どのように林業の生産・販売システムを通じて自分の地域社会の経済能力を作り上げるかを解明するものである。
     独自の生活形態特色を持つ少数民族は、とりわけ貨幣経済活動に関しては、文字の記録がないため、地方史や金融史に軽視されている。貴州の山林契約文書で辺境の山岳地帯の経済行為を山林的さらに金融的視点から分析することによって、軽視されている少数民族と漢民族との融合過程を補足することができる。
  • 小島 泰雄
    セッションID: 420
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1.場鎮調査
     中国の農民が語る個人史について、その生活空間に着目すると、豊かな重層性を持ってきたことが浮かび上がってくる。重層的に展開する生活空間を、定住・農耕空間、市場・親族空間、労働・権力空間、生存・認知空間という4つのスケールに統合する試みを、私は行ったことがある(小島 2001)。
     既往の研究群と照らし合わせると、この整理は、通文化的に農村一般に認められる側面を有すると同時に、中国農村独自の空間編成を示す側面を持っていることがわかる。とくに市場圏が持つ重要性については、地理学のみならず、中国農村を対象とした人類学・歴史学において、つとに語られてきたものでもある。
     市場圏はその基底において機能的に編成された空間であり、中心に市場町を有している。四川農村においては市場町は“場鎮”(Changzhen)と称される。このローカルな語彙は、市場町の機能的な要素である定期市を示す“場”と景観的な要素である街区を示す“鎮”が組み合わされたものである。
     本報告は、近3年間、中国内陸の四川農村において、断続的に行ってきたフィールド調査に基づいて、この市場圏を再考することを目的とする。フィールド調査の重点が市場町におかれたことから、以下、場鎮調査と呼ぶこととする。

    2.多面的な場鎮像
     場鎮調査においては2種類のアプローチが採用された。一つは場鎮における聞き取り調査や景観観察であり、もう一つは1980年代に編纂された《郷鎮志》を利用した歴史地理学的接近である。
     結論を提示する段階には至っていないが、場鎮調査を進める中で次第に焦点を結んでいった場鎮像は、予想していたものよりも多面的であった(小島 2006)。
     まず経済については、局地的取引の中心として場鎮が担ってきた経済機能は、市場経済の深化に直面しても、定期市という従来の方式をかたくなに守っている。その多くは10日に3回の九斎市というリズムを農民の生活にもたらしている。
     政治については、民国期以降、すなわち20世紀に入って進められた基層空間の国家への取り込みの中で、場鎮の政治機能は一貫して強化されてきた。とくに人民共和国期の行政機能の肥大化によって、政治的機能が場鎮の発展を規定する主要な要素になっていることは、場鎮理解のためにはより注目されるべきであろう。
     社会については、散居を主たる居住形態とする四川農民にとって、場鎮が結衆の原点となってきたことが指摘される。民国期に自生的な結社として農民間でひろく組織された“袍哥”が、場鎮と不可分の存在であったことはその象徴と言えよう。
     さらに文化について、言語や度量衡をめぐってしばしば語られる市場圏の固有性をもたらすのは、情報の結節点としての場鎮の機能と考えられる。それは定期市ごとに賑わう多くの茶館として視角化されるものである。

    3.生活空間論における市場圏
     水津(1980)の提示する生活空間論は、多くの含意をもち、その理解は多元的でありうるが、ここでは2つの貢献に着目する。それは、空間と社会の相互作用を対象としたことと、重層的な空間構成から基礎地域を抽出したことである。
     前者については、空間の実在を前提としている点で論争を呼ぶものであるが、空間が社会を創り出すという理路そのものは、地理学的想像力を喚起してやまない。場鎮調査によって明らかとなった場鎮の多面性は、市場圏が農民にとって不可欠の社会空間となってゆく過程を示唆している。
     四川農民の生活空間において市場圏は確かに特別であるが、あくまで重層性の中に定位されるべきものでもある。それは村落を基礎地域として抽出することに違和感を差し挟まない日本的バイアスの存在を気づかせる。中国農村研究において、かつて村落共同体の存否が議論されたことや、市場圏社会論が代替的に扱われてきたことも、同様の日本的バイアスに結びついていると言えよう。
  • ドルノド県の事例
    高原 浩子
    セッションID: 421
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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     本発表は、市場経済化以降のモンゴル国内において、人々の暮らしを支える日用消費物資がどのように流通しているのかを明らかにしようとする研究の一環として、地方の村落地域における物資流通を取り上げるものである。本研究においてはモンゴル国内の物資流通について、首都、地方都市、地方都市周辺村落、地方の村落地域、国境地域のそれぞれについて調査を進めているが、今回は地方の村落地域を対象として物資流通を追い、そこに現れる地域的関係性の端緒を探ることを試みた。このテーマへの取り組みから、人口密度が低く首都や地方都市からも相当の距離があるモンゴルの地方の村落地域では、その物資流通に関してどのような特徴や傾向がみられるのかということを明らかにしたい。
     2006年8月、モンゴルの東部、中国、ロシアの両国との国境を有するドルノド県 (Dornod Aimag) において、地方都市および村落地域での物資流通に関するフィールドワークを行った。この県の中心地であるチョイバルサン (Choibalsan) は人口約7万3千人(2005年)の町で、首都ウランバートルから北東へ陸路で約660kmに位置する。この調査ではチョイバルサンに加え、県内の2村落においても調査を行い、対象地における流通について情報収集を試みた。地方集落の事例として取り上げるのは、チョイバルサンから北西へ陸路で約190kmのところに位置するバヤン・オール村(Bayan –Uul Sum) およびチョイバルサンから北西へ約120km、バヤン・オール村との間に位置するツァガーン・オボー村 (Tsagaan Ovoo Sum) の2村落である。この2村落の商業施設を訪ね、商業者に対して、商品である日用消費物資について、主にその仕入れについて対面式のアンケートおよび聞き取り調査を行った。
     この2村落において調査を行ったところ、以下のようなことがわかった。まず、バヤン・オールでは約20店舗の商業施設が存在し、そのうち市場は1ヶ所、他は食品店・雑貨店であった。バヤン・オールへ運び込まれる物資の流通ルートとして県の中心地であるチョイバルサンの卸売業者からの仕入れがある。その頻度は1ヶ月に平均2、3回で食品類、小雑貨類が仕入れられる。またチョイバルサンでの仕入れと並んで首都ウランバートルの市場の卸売業者からの仕入れが行われている。この頻度は1ヶ月に1回程度と少ないが、広く選択されている仕入先であることが確認できた。そのほかに雑貨の仕入れにおいては1ヶ月あるいは2ヶ月に1回の頻度で中国内蒙古自治区のエレンホトでの仕入れが行われている。ツァガーン・オボーの商業施設においてもほとんどの回答でチョイバルサンとウランバートルの両方での仕入れが挙げられ、雑貨類の仕入れについては中国のエレンホトや満州里へ赴いていることがわかった。
     これらの結果から、中国とロシアとの国境を有するドルノド県のこれらの地域において、雑貨に限っては中国からの仕入れがあるものの、ロシアからの仕入れは見られず、食品類は県の中心地やウランバートルから仕入れられる傾向にあることがわかった。また県の中心地を経由せずにウランバートルへ直接至る道路を利用しての仕入れも行われており、県の中心地と村落地域との商業的結びつきに加えて、首都と村落地域とのダイレクトな関係性の存在を示唆する結果となった。
  • 大井 雅士
    セッションID: 422
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1.はじめに
     1980年代以降,郊外への大型店の進出やスーパーマーケット,コンビニエンスストア(以下CSV)の発展など,小売業では非常に大きな変化が見られ,それは都市における商業の空間構造にも影響を及ぼしている.本研究では,小売業の中でも,特に酒類小売業を対象として検討を行っている.
     酒類小売業を研究対象としたのには以下のような理由がある.従来の酒類小売業は酒税法による制度的に保護された商圏を有し,外販を経営の核としている店舗が多いために地域コミュニティを構成する要素の一つでもあった.そのため,酒類小売業における立地パターンの変化は周辺地域の変化と関連して浮かび上がってくると考えられる.さらに,酒類小売業の変化には,酒税法の規制緩和が大きく関係している.特に2001年,2003年に行われた規制緩和は実質上,他の業態の自由な参入を許すものであり,これによって酒類小売業は現在大きな変化を見ることのできる業態であるといえる.本研究では酒類小売業の立地パターンの変化を把握するとともに,店舗の経営の実態や変化を捉え,立地パターンの形成要因を明らかにすることを目的とする.
    2.研究方法
     研究方法は主に以下の2点に分けられる.
     1)NTTタウンページ,住宅地図を用いて1985年から2005年までの酒類小売業者の立地パターンの変化を捉える.
     2)立地パターンの分析で明らかになったことを基に店舗への聞き取り調査を行い,規制緩和や周辺地域との関連性について考察する.
    3.結果
     立地パターンの分析と聞き取り調査の結果,明らかになったことは大きく分けて以下の2点である.
     1)1995年までは新規に出店する店舗は郊外において多く見られるようになり,逆に廃業する店舗は中心市街地に多い.この要因としては,郊外への住宅団地の造成やディスカウントストアの進出が大きな影響を与えたと考えられる.郊外の住宅団地の造成に伴う形で新規出店する店舗が見られるのとは対照的に,中心市街地の空洞化と郊外におけるディスカウントストアの出店は中心市街地において周辺地域を商圏としていた店舗に深刻なダメージを与えた.
     2)1995年から2005年にかけては,酒類をメインに取り扱う店舗の新規参入は非常に少なくなり,廃業する店舗が徐々に郊外にも広がっていくという変化が起こった.これには,酒税法の規制緩和によって,酒類販売免許の取得が容易になり,様々な業態を持つ店舗の参入が可能となったことが大きな要因として挙げられる.特に,利便性の高いコンビニエンスストアや,多くの商品を取り扱うスーパーマーケットの参入は中心市街地だけでなく,郊外の住宅団地における住民の消費者行動にも大きな変化を及ぼした.その結果,住宅団地周辺を主な商圏としていた店舗の経営が困難なものとなった.
  • 池田 真志
    セッションID: 423
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1.研究の背景と目的
     1990年代半ば以降,日本の外食産業において,有機・特別栽培野菜の利用が広まった(小田 2004).また,2000年以降,食の安心・安全にかかわる様々な問題が発生し,いわゆる「顔が見える」野菜の流通が広まった(池田 2005).そして,2005年には農林水産省によって『外食における原産地表示に関するガイドライン』が策定され,外食企業にも原材料の原産地表示が求められ始めた.このような環境変化の中で,外食企業は契約栽培や農業参入によって川上への影響力を強め,生産・流通システムを再編成していると考えられる.
     そこで本発表では,外食チェーンによる契約栽培や農業参入が進んだ要因を検討し,外食チェーンによって形成された新たな生産・流通システムの特徴とそれを成立させる仕組みを明らかにする.さらに,こうした企業行動が産地にいかなる影響を与えるのかを検討したい.そのために,2005年12月から2006年10月にかけて,全国の外食企業と契約栽培に取り組む産地に対してアンケートと聞取りによる調査を実施した.

    2.外食企業による野菜調達の概要と契約栽培・農業参入
     まずアンケート調査の結果から,外食企業による野菜調達の概要を整理する.調達先の比率で調達方法の分類を試みると,規模の小さい企業ほど卸売市場からの仕入れに依存している傾向がみられる.他方で,100店舗以上の外食チェーンでは,卸売市場や専門流通業者だけに依存せずに,農協や生産法人なども含めた多様な取引先から分散的に仕入れている企業が多い.また,契約栽培を導入している企業は18.9%であり,特に2000年以降に導入した企業が多い.しかし,農業に参入している企業は4%と少ない.
     外食チェーンによる契約栽培・農業参入が進んだ要因としては,外食市場の飽和,競争環境の変化,有機野菜ブーム,価値観の変化,それに伴う品質の追求などが挙げられるが,それらに加えて,外食チェーンは品質や価格の不安定性,コールドチェーンの不確立,リードタイムの長さなどの既存の生産・流通システムにおける問題を克服するために契約栽培や農業参入に乗り出したことが指摘できる.

    3.生産・流通システムにおけるリスク調整
     外食チェーンは,事前にメニューボードで商品(料理)とその価格を提示し,それは容易に変更することができないという業態特性を持つことに加えて,メニューの欠品を避けるため,仕入れる野菜の規格や数量の遵守に対して厳格な調達システムが形成されており,産地と外食チェーンとの間で数量のミスマッチと規格のミスマッチが生じている.数量のミスマッチに関しては,外食チェーンが他の取引先からの仕入れや調理加工の工夫によってリスクを調整している.他方,規格のミスマッチは,産地側が,外食チェーンに出荷できない規格のものをスーパーや宅配業者などの複数の業態と取引することによって,つまり規格ごとに出荷先を持つことで調整している.事例とした外食チェーンは,規格のミスマッチが生じる品目は契約栽培で調達するが,調理加工によって規格のミスマッチを回避できる品目は自社農場で生産している.さらに,従来の中間流通の機能を産地と外食チェーンで二極分担していることが明らかとなった.こうした生産・流通システムは,卸売市場や加工業者からの調達とは一線を画す新たなシステムであるといえる.

    文献
    池田真志 2005.青果物流通の変容と「個別化」の進展―スーパーによる青果物調達を事例に―.経済地理学年報51:17-33.
    小田勝己 2004.『外食産業の経営展開と食材調達』農林統計協会.
  • 外枦保 大介
    セッションID: 424
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
    会議録・要旨集 フリー

    1.はじめに
     東京都大田区や大阪府東大阪市など中小企業がフレキシブルな取引関係を構築する「都市型産業集積」や,地場産業が卓越し地方圏に顕著に見られる「産地」のように,多数の中小企業が集積し形成されている産業集積が存在する一方で,特定の大企業に依存する地域もある.その代表例は,企業城下町である.
     特定の大企業に依存する地域を個別に分析した研究は,数多く蓄積されているが,全国的な分析を行った研究は少ない.本発表では,いくつかの時期において,全国の市区町村から特定の大企業に依存する地域を抽出し,その変化を検証することにした.なお,本発表で対象とする大企業は,製造業に限る.

    2.方法
     特定の大企業に依存する地域を統計的に把握することは非常に困難である.そのため,ここでは,全国的な分析が可能な中核企業の従業者数に注目した.「中核企業の事業所従業者数が1,000人以上」かつ「当該市区町村の総従業者数に占める割合が1割以上」という2つの条件に従って抽出を試みた.
     また,今回の分析では,過去から現在にかけて特定の大企業に依存する地域がどのように変化してきたかをみるために,1960年,1981年,2001年の3時点において抽出を試みた.この3時点を設定した理由としては,既存研究を踏まえると,戦時中までに産業集積が形成されていた地域と,戦後新たに産業集積の形成が見られた地域とは明確に異なり,また,産業構造の転換点となった石油危機は,産業集積に大きな変化をもたらしているものと考えられるためである.
     中核企業の従業者数のデータソースとして,日本経済新聞社『会社年鑑』を用いた.『会社年鑑』は,有価証券報告書のデータを元に,日本国内の証券取引所に上場されているすべての企業の事業内容,業績,売上構成等,企業の動向を把握する一通りの情報が掲載されている.そのうち,「設備の状況」には,企業が保有する各設備(工場)の従業者数,土地面積・簿価,機械装置の金額,投下資本額が記載されている.このデータを用いれば,過去の状況を把握することが可能であるし,全国の動向を把握することができる.なお,企業,または年によって,「設備の状況」は,工場単位あるいは地域(市区町村)単位等表記にばらつきがあるので,単一の工場で1,000人の従業者がいなくても,同一市区町村内で複数の工場がありそれらの工場の総従業者数が1,000人を超えている場合も分析の対象に加えた.『会社年鑑』に記載されている日本の上場企業(工業)約800~1,500社 の中で,従業者1,000人以上の工場をリストアップしたところ,各年500~600前後の大規模工場が抽出された.

    3.結果と考察
     1960年と1981年を比較すると,減少が目立つ業種は「繊維」である.また,同様に,化学工業も3分の1にまで減少している.一方で,電気機器,輸送用機械は増加している.都道府県別にみると,大阪府の減少が目立つ.1960年から1981年にかけて,増加した地域は,北関東および愛知県である.前者は,自動車・電気機器の工場が進出・増強され,後者は,輸送用機械,特に自動車メーカーおよび関連企業の立地が見られた.
     1981年と2001年を比較すると,鉄鋼や化学,ゴム製品といった装置型・素材産業は減少している.造船は完全に消滅し,輸送用機械全体も減少している.都道府県別に見ると,愛知県をはじめとする東海地方が最も多く,ついで北関東(茨城県,栃木県)が続く.電気機器メーカーの進出・増強によって,奈良県に新たな特定の大企業に依存する地域が抽出されるようになった.
     1960年,1981年,2001年の3時点の変化をみると,特定の大企業に依存する地域の性格が大きく変化していることが確認できる.1960年には,核となる大企業とその下請仕事に従事する多数の中小企業によって成り立つ「企業城下町」が多く含まれていたが,1981年,2001年と時を経るに従って,コンビナートや分工場経済の地域が多数見られるようになっている.
  • 部品サプライヤーの立地に着目して
    チョー チョーミェン
    セッションID: 425
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    Introduction
    The Japanese automobile industry resembles a pyramid shape; with the automobile manufacturers at the apex supported from below by almost 10,000 parts manufacturers. Automobile manufacturers manufacture certain parts such as engines and car bodies themselves, while the remainders are manufactured by first, second, and third-tier parts suppliers or Keiretsu suppliers.
    However, Mazda's Keiretsu suppliers and of cooperative makers are much smaller than those of Toyota and Nissan. Therefore, Mazda has been strongly requesting its Keiretsu and cooperative makers to enter into merger or capital tie-ups among themselves.

    Mazda business strategy
    Mazda also has some long term vision or strategy for their sustainable development like other auto makers (Toyota, Honda). In case of Mazda's Business Strategy has three parts, 1) is Millennium plan (2000~2004). 2) Mazda momentum (2004~2006) and 3) Long-term vision (2006~). That was the first plan for Mazda.
    Mazda Business strategy is the most basic strategic plan for the long-term vision. (1) Enhance Mazda's brand power (Brand), (2) Strengthen products and technologies (Product&Tech), (3) Pursue efficiency based on global competitiveness (Supply), (4) Cultivate a global workforce through higher ideals (People).
    To gain this goal, Mazda made such kinds of efforts; (a) Procurement strategy to local and global (LCCs, ABC, MDI etc),(b) Making cooperation groups among parts suppliers,(c) Production system (module),(d) production of new models;

    Global optimum procurement characteristics
    A vehicle is made up of some 20,000 components, 70 % of which are supplied by sources outside the company. This clearly shows that the reduction in purchasing costs is directly connected to the earnings of Mazda. The auto maker is promoting a global and optimum procurement scheme, in which parts which satisfy its requirements in terms of quality, cost, and delivery time, are bought from anywhere in the world.
    Mazda itself emphasizes that, with the market becoming increasingly borderless, parts suppliers can't stay in business if they focus only on the market in Hiroshima, or even the domestic market for that matter. Because of the changes to global optimum procurement system, Mazda had many world wide affiliate companies and many other domestic part suppliers from Kantou, and Kansai regions.
    Basically, Mazda has three types of parts suppliers, the first one is the local suppliers (based at Hiroshima prefecture), the second one is domestic suppliers (Japan) and the last is global suppliers. Most of the components are divided by share percentage among those components suppliers from Mazda. Some parts suppliers can get variety of parts order, with low or high percentage or some can get small amount of order with low variety at every year. Are there any other significance factors? Why and what is the reason? Based upon mentioned above I aimed to analysis the correlation between the global optimum procurement system and the difference location of the suppliers and their components which will return to affect the three different types of parts suppliers to face with the fluctuation of parts order from Mazda and long run collaboration with Mazda.
  • Cases from Tokyo-Yokohama and Osaka-Kobe
    SCHLUNZE Rolf D., PLATTNER Michael
    セッションID: 426
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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     Schlunze (2004) showed that the geographical approximation to Tokyo is important to implement European management practices. Plattner showed that locational preferences vary with urban hierachy (Plattner 2005). Research on foreign firms in Japan indicated that the integration of analyses on the work and life of foreign managers is necessary to explain fully the corporate behavior of foreign firms. We observed the interconnectedness of these issues and became more encouraged to shift the focus onto the behavioral aspects of managerial decision making. To our knowledge, systematic work on the locational adjustment and preferences of foreign managers in Japan is still sparse. However, former approaches focused on environmental determinants affecting international managers' decision making, whereas nowadays managers are rather seen as "change agents" because increasing competition between firms set them on emergency routes (Thrift 2000). Here, a new framework is introduced to evaluate the locational behaviour of foreign managers.
     The research purpose is to explain how the locational behavior of foreign firms is influenced by the individual characteristics of foreign managers, such as life-style and locational preferences. How does the globalization process affect the acculturation of foreign managers and therefore locational decision making in global cities?
     An analytical framework was developed that incorporates characteristics of the performance of foreign managers. On the one hand, the individual working and life style impacts the creation of synergy effects. Individual locational preferences of foreign managers directly affect the quality of locational decisions of foreign firms. Using a framework to evaluate a) the life-style and b) the locational preferences by conjoint-analysis, we conducted structured interviews with more than 30 managers.
     The metropolitan area Tokyo-Yokohama received most headquarters of foreign firms and therefore has got the highest concentration of foreign expatriated managers. In comparison, the internationalization process of the Osaka-Kobe area did not advance that much. The relative high concentration of Asian firms and the reluctance of Western firms to locate their headquarters in Osaka or Kobe can be interpreted as a more regional orientation or as a left behind within the internationalization process. This is also reflected by the spatial behavior of foreign managers. The mobile elite increasingly concentrate in Tokyo-Yokohama. They do not depend on social and cultural interaction with Japanese as much as the foreign managers working in the Osaka-Kobe area. Meanwhile in Tokyo the ‘mobile elite’ of foreign expatriates can rely on the support of international experienced Japanese, foreign managers operating in the Osaka-Kobe area need to have more skills for operating in the local Japanese/Asian business environment and therefore need to undertake more acculturation efforts. Here, the hybrid manager type, who is trained in Japan, speaks fluent Japanese and often even married to a Japanese national, tends to be more effective in the local business environment. The results from the interview survey led us assume that indeed locational decisions of foreign firms depend on the foreign managers’ ability to create synergy effects internal as well as external to the organizational framework of the firm and to learn about the local business environment.
     We can conclude the more a business environment advances in the internationalization process, the less the foreign managers do need to make an effort to adjust to the local culture. Global managers do operate best in the global city! In locations with a lower degree of internationalization foreign managers are expected to create synergy effects with a more localized approach.
  • 澤 宗則, 南埜 猛
    セッションID: 427
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    研究の目的
     経済のグローバル化のもと先進国へと越境するインド移民社会はどのような新たな社会を創り出そうとしているのだろうか。本研究は、移民労働者の受け入れの是非についての議論(あるいは外国人労働者、社会統合におけるコストに関する議論)などの先進国における他者としてのエスニシティ研究ではない。移民(ここでは在日インド人)がエスニックな状況に置かれる中で、どのように自分たちの場所を作りあげてきているのかに焦点をあてて考察するものである。その主たる論点は、次の2点である。
     1.越境した移民達は、先進国で自分たちの生活空間でありかつアイデンティティの再生産の装置である「場所」をどのように作りあげてきているのか?そしてそれは、越境することにより彼らの社会やアイデンティティのあり方にどのような変化をもたらしてきたのか?アイデンティティの再生産の装置として本発表では、新しく創設されたインド人学校を取り上げる。
     2.東京のインド人社会はきわめて新しい移民社会であり、その際に、インターネットは新しい定住地を形成する上で、新たな役目を果たしている。それは、従来の対面接触を前提としたコミュニティ形成とどのような違いをもたらしているのか?

    在日インド人の動向―インド人IT技術者の流動
     1990年以降、東京都ならびにその周辺での在留インド人の顕著な増加がみられた。在留インド人の増加は,1990年代半ばから進展したIT革命に関連した技術者需要の増加と深く関わっているといえる。また近年では家族滞在の数も増加し,女性ならびに子どもの数が増えている。

    東京におけるインド人コミュニティとインド人学校の成立
     東京都のインド人は,特に江戸川区で増加が著しく,集住地区(西葛西)が形成されている。インド人コミュニティは,これまで母語(出身州)や宗教(ジャイナ教など)ごとに成立していたが,近年ではインターネットを通じて,ナショナリティに基盤を置くコミュニティや居住地域(江戸川区)を単位とするコミュニティが成立するようになっている。また子どもの増加に従い,2004年に初めてのインド人学校(江東区)が設置され、 06年には2番目のインド人学校が江戸川区に設立された。さらに08年に3番目のインド人学校が横浜市(緑区)に設立される予定である。これらの学校は、インド中央政府の学校教育基準に則したものであり、IT技術者の子どもがインドの私立学校やアメリカのインド人学校にもスムーズに編入できる基準を満たしている。これがIT技術者のグローバルな流動性を担保する重要な条件となっている。また、インドの私立学校と同様英語が公用語(English Medium)であり、各母語での教育は行わない。本国から離れた地でインド国民としてのナショナル・アイデンティティの養成装置としての機能が着目される。横浜市によるインド人学校の誘致は、インドの資本(IT企業)を横浜市に誘致する基盤整備のため行われ、外資獲得をめぐる都市間競争における横浜市の都市戦略の一環である。
  • 半澤 誠司
    セッションID: 428
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    I.はじめに
     文化産業の定義は,必ずしも厳密ではない上に,産業分類の枠組みに当てはまらないものも多く,公的統計資料から文化産業の動態を把握することには困難が伴う.この事情は諸外国でも同様であるが,一定の研究蓄積がある.そこでは,いわゆるコンテンツ産業に対応するものに限らず,製造業や観光などのサービス業も含めて文化産業と捉える見方が一般的であり,広範な全体動向把握が進んでいる.そして,都市への集中と雇用成長への寄与が明らかにされている.統計制度の違いなど種々の制約があるとはいえ,比較研究の視点からいえば,諸外国の研究に対応するものが日本に存在しないのは問題である.
     本発表では,地理的視点を踏まえつつ,既存統計を用いて,日本における広義の文化産業の成長推移把握を試みる.なお,製造業,サービス業,コンテンツ産業の3分野に文化産業を分類する.
    II.文化産業の市場規模
     余暇市場規模を用いて,文化産業の市場規模を確認すると,1995年度をピークに,絶対値も国民総支出に占める割合も減少に転じており(90兆5千億円,18.6%→2004年度81兆3千億円,16.1%),日本の文化産業関連支出は減少傾向にある.また,ギャンブル関連の支出が日本の余暇市場に占める割合が際立って高く(2004年度44.3%),なおかつパチンコ支出の割合が増加傾向を示す(同36.3%).一方,文化産業の中でも芸術やコンテンツに近い分野である,趣味・創作分野とゲーム関連支出は,最盛期よりも減少しているものの,一時期の底は脱し,全体に占める割合はむしろ上昇している(1995年度12兆8千億円,14.1%→2004年度12兆7千億円,15.6%).
     日本では,可処分所得の多くがギャンブル支出に回されており,必ずしも文化的活動への支出が高くない上に,成長傾向とまではいえない.ところが,メディアコンテンツ関係に限定した市場規模は近年堅調に推移しており,対象産業や推計方法の違いもあるにせよ,製造業やサービス業に近い文化産業分野とは異なる傾向を示す.
    III.文化産業の雇用者数
     文化産業における雇用者数の各県別対全国シェアをみると,東京都が全産業における雇用者数シェアを大幅に超える数値を示しており(2001年度全産業14.3%,文化産業18.8%),東京都への集積傾向は文化産業により顕著である.しかも,一時期は集積が緩和されたにもかかわらず,再集中が確認できる.
     文化産業の中でもコンテンツ産業の集積傾向は,製造業やサービス業よりも際立っている(2001年度に東京都が占める割合,製造業17.2%,サービス業14.2%,コンテンツ産業47.2%).特に,近年はコンテンツ産業以外の文化産業の雇用者数は減少しているのに対して(2001年度/1996年度伸び率,製造業-26.9%,サービス業-9.1%),コンテンツ産業のそれは大幅に増加している(同25.2%).
    IV.おわりに
     諸外国の研究にみられるように,文化産業が成長基調にあるとは一概にはいえない.しかし,他の文化産業よりも都市に引き付けられる性質を持つコンテンツ産業だけは堅調に成長している.文化産業の中でも最も創造性を必要とするコンテンツ産業にとって,都市の持つ創造性が有効に働いていると考えられる.
  • 新名 阿津子
    セッションID: 429
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1.本報告の背景
     日本における事業所サービス業の立地は,東京一極集中を示している.この東京一極集中を引き起こす要因を明らかにするために,東京都港区における経営コンサルタント企業の立地特性とその要因を検討した新名(2006)では,東京都心への立地は交通の利便性,顧客への近接性,ニーズに合致する不動産の存在などの「都心性」と,企業設立主体との近接性が立地要因して働いており,その展開は都心内部で完結していることから,結果として東京一極集中パターンを示していると結論付け,東京都心以外の地域への分散化の可能性は低いと指摘している.
     このように東京都心からの分散化の可能性が低い経営コンサルタント業が,地方においてどのように成り立っているのかを明らかにする必要がある.さらには,経営コンサルティングサービスがどの地域から供給されているのか,それは同一地域内からなのか,近隣地域からなのか,東京をはじめとした大都市圏からなのか,つまり,経営コンサルティングサービスの供給地を明らかにする必要がある.

    2.本報告の目的
     本報告では甲府地域を事例に,需要者,供給者,仲介者の関係に着目して,経営コンサルティングサービスの供給地と,地域内におけるサービスの需給特性を明らかにすることを目的とする.

    3.調査対象
     本報告が対象とするのは,サービス需要者である中小企業,サービス供給者である「専門家」,供給者と需要者を仲介する「中小企業支援組織」である.特に,供給者と仲介者については,商工指導団体(甲府商工会議所・(財)やまなし産業支援機構)と,そこに「専門家」として登録している企業・個人を対象とした.
     調査対象選定に当たって,経営コンサルタント業などの特定業種ではなく,商工指導団体とそこに登録する専門家に着目するのは,日本の地方都市ではこれらが果たす役割が非常に重要であると考えられるためである.

    4.調査概要
     本調査では甲府盆地における経営コンサルティングサービスの需給特性について実態を把握するため,まず商工指導団体に対して中小企業支援についてのインタビューおよびデータ収集を行った.専門家集団については,その分布を確認できるデータを商工指導団体から入手し,さらに,専門家集団の立地特性,立地要因,取引関係,キャリアパス,資格取得状況を明らかにする目的のもとでインタビューおよびアンケート調査を行った.

    【参考文献】
    新名阿津子 2006.東京都港区における経営コンサルタント企業の立地特性とその要因,地理学評論79:423-434.
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