抄録
●はじめに
1871(明治4)年,太政官布告により,政府は国内の神社に社格を付与した.1945年までに,内地には208の官国幣社が成立しており,その約半数が社格を変更させた.この点から,近代の神社の社格は非固定的なものであったことがわかる.多数の官国幣社で社格の変更がなされたにもかかわらず,これらが発行した神社史の多くは,その背景や方法を曖昧に記述するにとどまり,この点を詳細に把握することは困難となっている.だが,一部の神社史には,各神社の神職や氏子が府・県令(知事)を仲介役とし,教部省(内務省)に社格昇格を出願し,これを果たしていたことが記されている.神社側の請願は全て承認された訳ではなく,要望通りに昇格できなかった神社もある.このような神社では,政府に対する請願を幾度も繰り返す傾向にあった.
本研究の目的は,非固定的な性質をもつ近代の神社の社格が,氏子地区にいかなる影響を及ぼしたかを,国幣中社大物忌神社(山形県飽海郡)の社格昇格活動に注目し,当時の文書の分析を通して解明することにある.
●大物忌神社の社格昇格活動
1871年に国幣中社となった大物忌神社は,秋田・山形の県境に位置する鳥海山(2,236m)を「大物忌神」とみなし,祀る神社である.同社は鳥海山山頂部の本殿とふたつの里宮(吹浦口ノ宮・蕨岡口ノ宮)で構成される.元来,同神は鳥海山山麓に居住する鳥海修験集団により祀られてきたが,1871年以降は,国家が派遣した官吏待遇の宮司と修験世帯出身の神職が運営する大物忌神社がこれを担った.現地調査から,明治初期・中期に同社の神職や氏子が社格昇格活動を行っていたことがわかった.
(1)明治初期:大物忌神社による最初の社格昇格活動は1873(明治6)年に確認される.これは,同社の神職が教部省に,吹浦口ノ宮境内内の「月山神社」を官国幣社に指定するよう願い出たものであった.同口ノ宮では,鳥海山の神を祀る「大物忌神社」と月山の神を祀る「月山神社」の2座を同格の神社として祀ってきたが,当時,後者には社格が与えられていなかった.この請願は,1874(同7)年に吹浦口ノ宮と同様に月山を祀る「田川郡の月山神社」が国幣中社に昇格したことにより棄却され,同口ノ宮の月山神社は「国幣中社大物忌神社摂社」となる.翌年,大物忌神社の神職は「飽海郡の月山神社」が古い歴史をもつ式内社であることを根拠とし,これを「田川郡の月山神社」と同様に官国幣社に列するよう酒田県に求めるが,これも棄却される.
(2)明治中期:それ以降も,大物忌神社の神職は山形県に対して社格昇格の請願を継続しており,その氏子は政府からの吉報を心待ちにしていた.だが,1884(明治17)年に昇格を果たしたのは大物忌神社ではなく,「田川郡の月山神社」であった.「田川郡の月山神社」の官幣中社昇格に刺激を受けた鳥海山崇敬者は,署名活動を展開し,大物忌神社の神職に対してその社格を「官幣大社」まで高めるよう強く迫る.この署名活動には,鳥海山山麓の住民-すなわち秋田県由利郡と山形県飽海郡の氏子総代と鳥海修験集団の代表者-が参加した.鳥海山山麓の住民が大物忌神社に最高位の社格「官幣大社」を望んだ理由として,(a)彼らが鳥海山からの流水を利用して生活を営んできたために,鳥海山が「最も重要で身近な神」であったこと,(b)国史の記述が大物忌神社の威信を回復し,最大限に高め得る根拠になると鳥海山崇敬者が認識していたこと,(c)彼らが,最高位の社格が鳥海山の参拝者数を増加させ,山麓周辺地域に経済的効果をもたらす要素になると捉えていたことなどが挙げられる.彼らの「世論」を受け,大物忌神社の宮司ら神職は,1885(明治18)年秋期に東京へ出張し,同地在住の政府の要人に社格昇格の打診を試みる.だが,要人との面会の約束を取り付けること自体が困難であり,この請願活動は結実しなかった.
●結論
近代の神社の社格が氏子地区に与えた影響として次の3点を挙げることができる.(1)「昇格可能な社格」は,これをもつ神社とその氏子地区内において,規模の大小はあるものの,その昇格のための請願活動を幾度も発生させる要因となった.(2)「より上位の社格」は参拝者数を増大させ,神社を中核とする氏子地区に経済的効果をもたらすという「期待感」を氏子間に抱かせるものであった.また,これは「より低い社格」をもつ神社の氏子の間に「嫉妬心」を抱かせる要素ともなった.(3)「社格」は,神職や氏子に神社と主祭神の由来を再確認させる機会を与え,これは彼らに特定の神社や氏子地区に属するという自覚を著しく高めさせる効果をもたらすものとなった.