抄録
1.はじめに
奥尻島は、北海道の南西の海上に位置する周囲84km、面積143km2の島である。人口は、3,803人(平成16年3月末)、水産・観光が基幹産業である。島は、1993年北海道南西沖地震で壊滅的な被害を受けたが、その10年前の1983年日本海中部地震で津波被害を受けている。2度の津波被害からの奥尻島の復興について述べる。
2.災害の10年(1983~1993年)
(1)1983年日本海中部地震
地震発生は5月26日正午頃。地震の約20分後に島南端部の漁業集落青苗地区に津波が来襲し、住家全半壊21棟、死者1名の被害となった。復旧対策は、高台への避難路の設置及び海岸部の防潮堤の嵩上げが行われた。
(2)1993年北海道南西沖地震
地震発生は7月12日22時17分頃。奥尻町は震度6相当で、約5分後に津波の第一波が来襲した。青苗地区では、さらに火災が発生(189棟焼失)し、地区の約8割が被災した。島全体の死者行方不明者は、198人(人口の4.2%)、全半壊530世帯(29.4%)、被害総額は、665億円であった。
3.災害復興の5年(1994年~1998年)
被災地は、進行する過疎、急峻な地形などの厳しい地域条件をかかえていることから、復興基本方針は、「安全なまちづくり」、「豊かなまちづくり」、「快適なまちづくり」とされた。復興計画は、北海道庁の支援によって、漁業者の定住意向を重視した案が翌年4月に策定された。復興事業は、「防災集団移転促進事業」(青苗地区)、「漁業集落環境整備事業」(青苗、稲穂)、「まちづくり集落整備事業」(初松前)のほか延べ13kmに及ぶ「防潮堤」が建設された。復興事業は、1994年9月から1997年3月まで実施された。
復興事業に加えて、義援金を原資とする総額130億円の復興基金支援事業(1994~98年度)により、住民の自立、農林水産業・商工業、防災関連、まちづくり関連、住民運動等の復興支援事業が行われた。これら事業の終了した1998年3月に復興宣言がなされた。
4.災害復興の10年(1999年~2003年)
町は、2001年に第4期奥尻町発展計画を策定し、まちづくりの目標を「島らしさを生かす」、「暮らしの豊かさをつくる」、「ふるさとへの誇りと愛着を育む」としている。災害から10年後の2003年の現地調査及び役場ヒアリング結果から奥尻島の現状を次のとおりである。
1)すまい、まち
居住地の再編整備で、集落の様相は一変した。青苗地区では、高台の住宅は全体の3分の2あり、災害以前と逆転している。造成地の住宅には、物置、菜園・花壇などがつくられて、従前のような暮らしが見られる。災害前から人口減少は見られたが、災害復興支援事業による住宅再建対策は、町民の定住を図る大きな一因になったと捉えられている。
2)産業
基幹産業である水産業は、ウニの回復に4-5年かかったが、アワビ種苗育成センターが2000年に業務開始して、震災前の漁獲高の3分の2程度に回復しつつある。
観光客の入り込み数は震災前の年間6万人には及ばないが、5万人にまで回復している。災害復興事業によって水産、観光の基盤整備が進み、その後の生活、産業基盤はほぼ整ったとされる。
3)防災意識
防災行政無線及び高台への避難路が整備され、青苗漁港には作業場であると共に一次避難場所となる人工地盤が造られた。安全対策が講じられる一方で、防災意識の薄れが危惧されている。
5.災害から10年を越えて
2004年インド洋大津波の後、奥尻島の復興体験は世界的にも注目を浴びた。また、2005年7月12日に小学校では被災体験者の話を聞く学習が行われ、同年10月に日本建築学会との共催で親子参加による津波防災体験学習が行われるなど、被災体験や復興体験を次世代、他地域へ継承していく取り組みが多く見られる。
地震津波災害によって、多くのものが失われ、新しいものが多くつくられた。災害から10余年を経て、生活文化を継承していく取り組みが注目される。