日本地理学会発表要旨集
2007年度日本地理学会春季学術大会
セッションID: 410
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中国タリム盆地の耕地遺跡とそこに残された沙漠化
米蘭,且末,輪台地区などを例として
*相馬 秀廣出田 和久小方 登伊藤 敏雄于 志勇覃 大海
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抄録

1.はじめに
 遺跡化したオアシス集落では,生活は基本的には農業で支えられていたはずである.しかし,それに関わる農耕地や灌漑水路などの実態についてはほとんど研究が行われていない.演者らは,中国西北部のタリム盆地および周辺地域を対象として,高解像度のCorona衛星写真判読により,都市遺跡とともに灌漑水路跡などを抽出し,併せて現地調査を実施して,その解明に努めてきた.発表では,Corona衛星写真に加えて緯度・経度情報のあるGoogle Earth画像も利用して,タリム盆地南東部の米蘭遺跡,且末南西遺跡(ライラリク遺跡付近),および同盆地北部中央付近の輪台遺跡群を例に,抽出された灌漑水路跡,立地条件との関わりからみた放棄後の沙漠化の実態などについて報告する.
2.調査結果と若干の考察
 1).米蘭遺跡は,北流する米蘭河の開析扇状地末端,礫沙漠から泥砂漠にかけて立地する.遺跡利用期の3-4世紀,8-9世紀には,米蘭河は遺跡範囲の約20km下流側で,東流中のチェルチェン河に扇状地性三角州として合流していた.Corona衛星写真では,三段階の階層構造を持った盛土型灌漑水路跡が明瞭で,二次灌漑水路は放射状に分流し,最大5km以上に達する.遺跡放棄後の沙漠化との関係では,紅柳包が大まかには遺跡の北側(下流側)ほど密に分布し,灌漑水路跡上にも多く発達している.しかし,バルハン型など移動砂丘の発達は,遺跡の範囲では顕著ではない.
 2).且末南西遺跡は,米蘭西南西約200km,北流するチェルチェン河西岸の開析扇状地に立地する.同河は,遺跡下流側に大きな現オアシスを形成した後,東北東へ転向する.遺跡では,チェルチェン河にほぼ平行した2-3列の長さ8kmを超える盛土型主灌漑水路跡が明瞭である.主灌漑水路から両側に間隔100m-500mほどで短い盛土型水路が派生し,さらに盛土型水路が派生した部分もある.現地では主灌漑水路跡の土手は推定耕地跡から比高3mを超え,付近の土器片などから漢代から利用の可能性が高い.放棄後の沙漠化との関係では,小規模な列状砂丘やバルハン型砂丘が広く分布し,水路跡が確認できない部分もある.
 3).輪台オアシスは,タリム盆地北縁中央部コルラとクチャの間,南流する迪那河の開析扇状地に立地する.迪那河は,50kmほど下流側で扇状地性三角州としてタリム河へ合流する.輪台遺跡群は現オアシス中心部から南へ約20kmに位置し,漢代から唐代にかけての遺跡が多い.柯尤克沁故城(漢代)付近は,水路との比高が1m未満で,塩類が多く析出し,紅柳包は分布するものの比高1mを超えるものはごく少ない.現地では,直線的な平面形状から人工水路と判断されるものはいずれも掘込み型である.故城西側には深さ20cm,幅1mほどの人工水路跡が存在し,付近には,耕地跡と推定される,塩類が析出した20m四方ほどの若干盛り上がった部分が断続的に分布していた.
 4).以上述べたことから,今回取り上げた,シルクロード繁栄時代である漢代から唐代の遺跡付近では,いずれも,灌漑水路跡が残存し,放棄後は立地環境(可能蒸発量,卓越風向・砂供給源との位置関係,地形条件他)に対応した沙漠化が発生したことなどが判明した.

 本研究は,科学研究費補助金基盤研究(A)(2)「中国タリム盆地におけるシルクロード時代の遺跡の立地条件からみた類型化-衛星写真Coronaの活用を通してー」(代表者:相馬秀廣)による研究成果の一部である.
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© 2007 公益社団法人 日本地理学会
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