日本地理学会発表要旨集
2008年度日本地理学会秋季学術大会・2008年度東北地理学会秋季学術大会
セッションID: P730
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地籍図による近代西表島東北部における出作り趨勢の復元
*藤井 紘司
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抄録

 近代という言説空間は、特殊な生業形態をして前近代的な生活様式の残存としてとらえるきらいがあった。狩猟採集に依拠する山の民などの描かれ方は、その最たるものである。本発表では、これらの前近代の痕跡として定位されてきた生業伝承の事例、いわゆる「海を越える出作り」をとりあげる。
 琉球弧のもっとも南に位置する八重山諸島では、「低い島」から「高い島」へ耕作地を求めて通耕してきた歴史がある。従来、この海を越える営みは、旧慣租税制度である人頭税〔1637~1902〕によるものとされてきた。人頭税とは、首里王府が八重山諸島などの先島諸島に課してきた租税制度であり、納税の対象は、米や粟などであった。そのため、水稲耕作のできない「低い島」では、やむをえずマラリアの猖獗する「高い島」へと通耕してきたという歴史解釈が成り立ってきた。これらの歴史解釈を支えてきた叙述には、我如古樂一郎の「八重山島風土病調査書」(明治25年発行)、笹森儀助の『南嶋探検』(明治27年発行)などの明治期の調査記録があげられる。これら文献は後に頻繁に引用され、その出作り像は歴史解釈のなかに固定化されてきた。その結果、人頭税廃止以降の出作りは旧慣時代の暮らしを遡及的に想起させるものとして語られ、とくに注目をあびることなく看過されてきた。しかし、沖縄の本土復帰前後に消滅したこの海を越える出作りは、旧慣制度の撤廃を分岐点に、ただただ衰退の過程にあったのだろうか。
 これらの研究背景を踏まえ、本研究は、1903(明治36)年の新税法施行以降、つまり近代期における海を越える出作りの変遷、その消長をあきらかにすることを目的とした。研究に際して、地租改正後も出作りを続けていた「低い島」、そして、明治30年代の行政文書「喜宝院蒐集館文書」を有する沖縄県八重山郡竹富島をおもな調査対象地としている。出作り先となる「高い島 (西表島)」への通耕経験を跡付ける資料としては、竹富町役場の所有する地籍図と土地台帳を用いた。地籍図とは、租税徴収の根拠となる土地台帳の付図である。また、土地台帳は「地目」、「反別反」、「登記年月日」、「所有質取主氏名」などを記した帳簿である。これらの資料を活用し、一筆ごとに土地の所有権者住所を大字によって分類し、地籍図に色分けをした。これを1903(明治36)年時を基点として1926(大正15)年時、1955(昭和30)年時と比較している。以上のように各水稲耕作地の所有権の側面からその変遷をとらえ、また、喜宝院蒐集館文書の分析、および聞き書きによる民俗学的調査をおこなった。
 これらの調査によって、出作りの興隆期は近代期にあったことを明らかにした。これらの現象は、A) “技術的な進歩” a-1) 海を往来する船舶の変化(刳舟から大型帆船、焼玉船へ)、a-2) 大正年間における蓬莱種の導入、B) “新税法の施行” b-1) 換金作物としての米、b-2) 地価に対する課税、また、C) “西表島東部村落の衰退”などを背景としている。技術、制度、地域構造の変容のなか放擲された耕作地を出作り地へと組み替えることにより、明治年間以降著しく増加の傾向にあった竹富島の過剰人口は吸収されていったのである。従来、海を越える出作りは、先島諸島の負ってきた苦渋の歴史(人頭税史)の一部として記憶化されてきた。そのため、近代期における出作りは、歴史的な痕跡としてとらえられてきた。しかし、本研究結果は、その歴史的な不連続性を示唆している。これにより、あらためて近代における出作りは、旧慣税制による残滓としてではなく、出作りの形式を活用した適応形態としてとらえることができる。「高い島」と「低い島」を結ぶその海上の道はいかなる道であったか。本研究は出作り像に関する先行的言説に一石を投ずるものである。

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