日本地理学会発表要旨集
2008年度日本地理学会秋季学術大会・2008年度東北地理学会秋季学術大会
セッションID: S304
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消えるラオスの焼畑
*横山 智
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抄録

■はじめに
 その土地に適した技術、そして休閑期間を保てば、焼畑は森林破壊を引き起こすことはなく、持続的に営むことができる農法である。しかしながら、伝統的な焼畑は、次々と姿を消し、商品作物を栽培する常畑、プランテーションや植林地などに変化している。本研究では、東南アジア大陸部のなかで、現在でも主食のコメを自給する伝統的な焼畑が見られるラオス北部を事例に、消えゆく焼畑の要因を探ってみたい。

■焼畑陸稲作の減少
 ラオス北部の焼畑での陸稲収穫面積は、1980年の19万haから2006年には半分以下の8万4,000haに減少した(図1)。その一方で、水稲と畑作物の収穫面積が増加している。山地が多いラオス北部では、新たな水田を造成できるような場所は限られるため、水稲の収穫面積の拡大は、盆地部での灌漑施設整備による面積拡大によるものである。したがって、山地部における焼畑減少は、新たな水田造成によって、水田水稲作へと移行したものではなく、焼畑から常畑での畑作に土地利用が転換したと考えるべきである。
 畑作は2003年以降、大きな伸びを示し、その勢いは右肩上がりで続いている(図1)。この時期に導入された作物は、中国輸出向けのハイブリッド種のトウモロコシである。多くのトウモロコシ畑は、かつて焼畑が行なわれていた比較的緩い斜面の土地であった。また、図1では示していないが、ラオス北部で焼畑が実施されていた山地部では、近年になってパラゴムノキ植林も急増している。2006年の北部の作付面積は約1万6,000haあまりであるが、2010年までに約12万haへと拡大する見通しである。

■経済と政策
 焼畑が消えていく要因は、決して生態学的に焼畑が維持できなくなったからではない。中国による飼料作物の需要増加や自動車普及にともなうゴムの生産増加といった経済的要因によるところが大きい。
 しかし、経済的な要因だけで、焼畑が消滅したのではなく、その背景には、1990年代中盤以降から実施された政府の土地政策、すなわち森林区分や土地森林分配といった事業があった。またゴム園の場合、ラオス政府が企業にコンセッションを与えて大規模な経営を誘因したことも原因である。これまで、村を単位に慣習的な土地利用を実践してきたラオスの山地部では、村の境界を定め、さらに境界内を森林と農地に区分し、そして農地は各世帯に分配する事業が全国で実施され、事実上、村を単位に焼畑を実施することが困難になった。これは、「焼畑安定化」(焼畑面積をこれ以上拡大させないという意味で政府が使用する用語)を目的に立案された政策であり、その実施には、ODAや国際NGOなど、海外の支援機関も大きく絡んでいる。
 実際、中国国境と接する地域では、土地が分配された直後にピーマンのような園芸作物の契約栽培が多くの村に導入され、パラゴムノキのみならず、土地という資源を求めた中国の進出が続いている。

■焼畑の価値
 筆者のこれまでの調査では、焼畑を営む村では、焼畑耕地から二次林に至るまでの植生遷移の各段階において、その生態環境から採取できる有用植物を利用していた。焼畑の実施によって生活が支えられていたと言っても過言ではない(図2)。商品作物やパラゴムノキの導入によって、当面の現金収入は保証されるが、伝統的な植物利用の習慣は無くなり、焼畑を営んでいた環境から採取していた植物も消える。現金収入による生活改善のほうが大切なのであろうか。
 焼畑を実施する住民にとって、資源とは「農産物や有用植物」のことを意味しているが、政府や中国にとって、資源とは商品となり現金を産む「土地そのもの」であり、焼畑によって得られる地上の植生はあまり気にかけられない。消えゆく焼畑をめぐっての議論は、資源の捉え方をめぐる政治生態学的な視点からのアプローチが有効であろう。

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