抄録
国家の傘の下にない一夫多妻の生業社会では、人々はどのようなプロセスをへて大人になり、男性あるいは女性はいつ頃結婚し、一生に何人の子供を持ち、何歳でどのような原因で生涯を閉じるのだろうか?また、そうした社会は国家への包摂をへて、あるいは定住化によって、どのようにそのライフコースを変容させるのだろうか?そもそも、ある社会のライフコースと出生力とは、どのような関係を持つのだろうか?
報告者は上のような疑問を持ち、2002年から、エチオピアの西南部低地熱帯林にすむ焼畑民マジャンギルのライフヒストリーの収集による人口動態の復元の試みを開始した。この報告では、それらの結果のうち、社会変容の前後における出生力変化の問題に焦点をあて、あわせてその要因について考察を加える。
エチオピアはヨーロッパによる植民統治を経験していないという点で、サハラ以南アフリカでも特異な歴史を持つ。1970年代半ばまでエチオピア高地を拠点に領土を支配した帝政エチオピアは、低地の少数民族に対したびたび徴税などの試みをしたものの、ほとんど実効はなく、低地の諸民族は互いに交易や紛争などを繰り返しながら自律的な社会を保ってきた。ところが社会主義革命政権の樹立の後、1970年代末からマジャンギルにも国家による定住化政策の力がおよび、行政村を形成するに至って、この段階で初めて名実ともに国家の傘下に入った。
ライフヒストリーの収集は、1910年代以降に生まれた成人男女を対象に、ロングインタビューによって、親族関係や移住の歴史とともに、結婚・離婚・出産の経験とその時期を聞き取ることを中心に行った。情報の抜け落ちをチェックするため、夫婦や兄弟も必ず別個にインタビューを行うことを原則とした。また、マジャンギルは自分の年齢を数える習慣がなかったため、複数の同郷の人々への聞き取りによって相対年齢を明らかにした後、西暦のわかっている出来事とリンクさせることで出生年の推定を行った。そして、出生力を世代別に分類して比較し、定住化の前後での変化をみた。
その結果、まず定住化前のマジャンギル社会では、TFR(合計特殊出生率)が4に満たず、いわゆる伝統社会のなかではきわめて出生力の低い少産社会であったことがわかった。また、定住化の影響を受けていない世代と受けた世代では、初産年齢や20代・30代の出生率いずれにおいても有意な差を示し、定住化後に出生力が上昇していることがわかった。国家の傘の下にないマジャンギル社会がなぜ低出生力であったのか、そして定住化後に出生力が上昇したのはなぜか。報告ではさらに出産間隔や離婚率、結婚観、夫婦の性をめぐる規制、さらにはライフコースとその変容など、出生力の変化に影響を与えた可能性のあるいくつかの要因を検討しつつ考察する。