日本地理学会発表要旨集
2010年度日本地理学会秋季学術大会
選択された号の論文の195件中1~50を表示しています
  • 沖縄本島中南部の米軍基地跡地
    大平 晃久
    セッションID: 101
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
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     記憶やコメモレイションに対する関心が高まるなかで,負の記憶,そして負の記憶の場所も考察の対象となっている.米軍基地やその跡地がそのような場所であることはおそらく論をまたないであろう.一方,近年の沖縄では,コザや北谷(アメリカンビレッジ)のように,アメリカに対する肯定的な表象も目立っている.
     このような問題意識から,米軍基地やその跡地が集中する沖縄本島中南部で基地跡地における記念碑の建立状況を調査した.文献資料や聞き取り,現地調査によって現時点で確認できたものを示したのが表1である.
     表1からは米軍基地跡地の記念碑について,ひとまず次の3点を示したい.

     1,基地跡地であることを明示する記念碑は区画整理完工など基地からの復旧を記念した記念碑に限られる
     2,基地跡地であることを明示しないが「平和」や「非核」など一般的な内容を表現した記念碑も散見される
     3,基地跡地に建設された市庁舎など公共施設そのものが記念碑として位置付けられている例もある

     さて,上記1~3からここで指摘したいのは,米軍基地跡地が「勝利」の文脈で記念されているということである.歴史的事実としての基地の存在や基地による被害(だけ)を示すのではなく,それらを奪還したこと(3),区画整理を実施したこと(1)が記念されている.これは負の記憶のありようとして興味深い.
     『記念碑の語るアメリカ』において負の記憶のうち暴力や悲劇とその場所について考察したフットは,そうした記憶の場所の変容を聖別,選別,復旧,抹消の4パターンに分けて論じている.米軍基地跡地は復旧,抹消それ自体が記念されるという点でフットの分類からはみ出す特殊な事例であることが指摘できよう.
     あわせて,基地跡地がなぜ「勝利」の文脈で記念されるか,予察的に述べるならば,基地の記憶そのものは忌まわしい,記念に値しないものとみられているためであるといえる.米軍住宅地であった那覇新都心と小禄金城地区において歴史に配慮したまちづくりが行われたにもかかわらず米軍基地が完全に捨象されていることにそれは明瞭である.あるいはアメリカ時代全体について同じことがいえるかもしれない.
     最後に,米軍基地跡地の記念の新たな可能性を示すものとして,キャンプ瑞慶覧返還に伴う跡地利用計画を指摘しておきたい.この跡地利用計画では,ごく一部とはいえ米軍住宅地の街路や雰囲気の維持・継承がうたわれている.返還自体が現時点では暗礁に乗り上げているものの,基地跡地の(フットの用語では)明確な選別の事例といえ,コザや北谷に続く肯定的な記念の事例となるかどうか注目される.
  • 加茂 浩靖
    セッションID: 102
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
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     沖縄県の地域的特徴の一つは雇用機会の乏しさであり,2008年における女性の完全失業率は全国のほぼ2倍に相当する6.2_%_を示す。それゆえ,近年における老人介護サービス業での労働力需要の増加は,この地域の女性の就業と生活の変化を探るうえで注目される。働く女性の増加にともない仕事と家事・育児という二重の役割を遂行する女性が増え,家庭内性別分業や子育て支援等の検討すべき課題が生じていると考えられるからである。本研究の目的は,介護サービス業における雇用増加に着目し,実態調査の結果にもとづいて沖縄県における女性の就業と生活の状況を把握することである。
     研究資料を得るため,本研究では那覇市に立地する介護サービス事業所での聞き取り調査,その女性従業者に対するアンケート調査を実施した。アンケート調査では223人から回答を得た。
     高齢化の進展や介護保険制度の導入にしたがい,沖縄県では介護サービス事業所の立地,女性従業者の雇用が増加した。事業所・企業統計調査によると,2001年~2006年の期間に,老人福祉・介護事業の事業所が214から522へと増加し,その女性従業者が4,776人から8,704人へと3,928人(82_%_)も増加した。
     介護サービス業における労働力需要の増大は,女性の社会進出を促進するとともに,家計収入の増加をもたらした。「就業によって変化したことは何か」という質問に対し,社会参加の充実感と回答した者が38_%_,経済的なゆとりと回答した者が31_%_である。その一方で,就業によって生じる悩み等の諸問題が発生していることにも注意を要する。同じ質問に対する回答として,時間的なゆとりの減少が32_%_,人間関係の悩みが増えたが30_%_に及ぶ。
     既婚女性が就業する上での大きな課題は仕事と家事の両立である。沖縄県では老人福祉・介護事業従業者の72_%_を女性が占めるものの,女性雇用に配慮した福利厚生を行う事業所は多くない。この原因は,資金不足や求人に対する応募が比較的多いこと等である。自家用車通勤が多い地域であるため,駐車場を用意する事業所は多い。しかしながら,託児施設の設置など育児支援を行う事業所はわずかであった。保育の必要な子を持つ回答者26人をみると,勤務中に子供を預ける相手として認可保育所が19人,無認可保育所が7人,祖父母が0人と,全てが外部の保育サービスを利用していた。
     また,家庭内での役割分担も女性が就業する上で重要な課題である。夫がいる回答者104人のなかで,夫が全く家事をしないと回答した者は30人(29_%_),この30人を含め夫の家事分担が20_%_以下の回答者は80人である。さらに,親と同居する親族世帯の回答者であっても,18人中15人が家事の50_%_以上を自身が負担していて,家事の大部分を担いながら就業している実態がみて取れる。
     以上,雇用機会が相対的に少ない沖縄県では,介護サービス業において労働力需要が増大し,女性に雇用や収入の機会の拡大をもたらした。その一方で,仕事と生活における二重の責務の増加に直面する女性が存在することも看過できない。雇用機会が拡大する中で,この地域に解決が求められる課題の1つは,働く女性を取りまく状況の改善といえる。
  • 久保 倫子, 由井 義通, 若林 芳樹, 久木元 美琴
    セッションID: 103
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
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    1.研究課題
     離婚は住宅問題と深く結びついており(Mulder, 2006),離婚を機に賃貸住宅や生家への転居を余儀なくされる傾向がある(Feijten and van Ham, 2010)。また,基本的な生活水準を維持するための負担が大きくなることや, 子の養育に関わる時間・資金的負担が親権者に偏りがちであるなどの多様な生活問題が浮上する(Del Boca, 2003)。世帯の多様化や不安定さが顕著になっている昨今,ひとり親世帯の生活空間および諸問題を分析しその課題を検討することは社会的意義が大きい。本研究は、ひとり親世帯の生活問題を就業,子育て,住宅という視点から分析する。なお,ひとり親世帯は,母子・父子世帯および寡婦を指すが,出現率の高い母子世帯を主として扱う。 本研究は,ひとり親世帯の就業と生活,保育に関する状況を明らかにすることを目的とし,「ひとり親世帯実態調査報告書」の経年的分析と,沖縄県および那覇市の母子寡婦福祉会の協力を得て,ひとり親世帯の生活に関するアンケートおよびインタビュー調査を行った。

    2.沖縄県におけるひとり親世帯の生活と諸問題
     「平成20年度 沖縄県ひとり親世帯実態調査報告書(沖縄県)」によると,母子世帯の約20%は未就学児を抱え,約80%は養育費を得ておらず,約9%は収入がなく,約36%が5~10万円/月で生活をしていた。2005年国勢調査によると,ひとり親世帯(核家族世帯-{夫婦のみ・夫婦+子世帯})は民営借家地区に多く分布し(図),必ずしも離婚後に実家で同居するとは限らない。両親の保育サポートに頼れない,保育園への入園ができず求職活動に不利になるなどの保育問題に直面する女性も確認された。また,資格取得の機会を持たずに母子世帯となった女性は,就業機会を得にくい状況に陥っていた。 本研究は科研費補助金(基盤研究(B))「労働力の女性化がもたらす女性の就業と生活への影響に関する研究」(課題番号20300295,研究代表者:由井義通)の一部を使用した

    3.参考文献
    Del Boca, D. 2003. Mothers, fathers and children after divorce: The role of institutions. Journal of Population Economics, 16:399-422. Feijten, P., and van Ham, M. 2010. The impact of splitting up and divorce on housing careers in the UK. Housing Studies, 25:483-507. Mulder, C.H. 2006. Population and housing. Demographic Research, 15:401-412.
  • 由井 義通, 久保 倫子, 久木元 美琴, 若林 芳樹
    セッションID: 104
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
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    1.研究の背景
    学童保育は1997年に児童福祉法によって法制化され,共働き世帯などの小学校低学年児童を対象に小学校の授業の終了後に児童厚生施設等の施設を利用して適切な遊び及び生活の場を与えて,その健全な育成を図る「放課後児童健全育成事業」として実施されている。学童保育の名称は地域により多様で,放課後児童クラブ,学童クラブ,児童クラブ等の名称がある。
    全国学童保育連絡協議会(http://www2s.biglobe.ne.jp/~Gakudou/)によると,既婚女性の就業継続や経済状況の停滞などによる共働き世帯の増加、あるいは離婚の増加による母子世帯の増加に伴い,学童保育の役割は重要になっており,2010年5月1日現在の学童保育の実施状況調査結果をみると,学童保育数は1万9744か所数に(3年間では3076か所増)なり,全国で80万人以上の児童が利用している。特に学童保育利用者は小学校低学年児童が多く,全国では1年生の約25%が利用している。共働き女性やひとり親世帯の母親が多い沖縄県は学童保育への依存度が高く,小学校数を基準とした学童保育設置率は107.1%で全国8位である。

    2.研究の目的と方法
    本研究は5歳児になると午前中保育のみの幼稚園に行き,午後からの未就学児の保育に問題を抱える,いわゆる「5歳児保育問題」を抱える沖縄県那覇市と浦添市を対象として,学童保育の状況を母親の就業との関係や地域的な保育状況・地域展開から明らかにし,保育をめぐる地域的課題の解明を目的とする。両市に登録された学童クラブへの聞き取り調査と,指導員の協力を得て学童保育利用者の就業・保育に関するアンケートおよびインタビュー調査を実施した。

    3.那覇市と浦添市における学童保育の開設場所
     全国では学童保育の開設場所は,小学校の敷地内(空き教室の利用等)が約50%を占めるが,那覇市と浦添市では開設場所に違いがみられ,那覇市では44児童クラブのうち小学校の敷地内が12ヶ所,民間施設内が11ヶ所,幼稚園内が8ヶ所,保育所内が6ヶ所,児童館などの公的施設内が6ヶ所であった。一方,浦添市では22の学童クラブのうち民間施設が14ヶ所,公的施設内が7ヶ所,小学校敷地内が1ヶ所であった。
  • 久木元 美琴, 若林 芳樹
    セッションID: 105
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
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    1. 研究の背景
    1990年代以降,子育て支援整備はわが国における喫緊の政策課題となっている.なかでも1997年に法制化された学童保育は,子の就学以降の共働きを可能にするサービスとして必要性が増大している.一方,学童保育整備は法制化まで長く市区町村に任され,供給・運営体制は自治体によって多様である.
    保育サービスの供給体制の地域差をもたらす要因の一つに,地域の政治的文脈がある.Pinch(1987)は保育サービス供給の地域差を支持政党の違いから説明したが,実際の供給に至る過程には,支持政党のみでは説明できない諸条件が働く.特に,日本の保育サービスのように,民間参入が未成熟で公的補助が不可欠なサービスでは,中央政府の政策や首長の判断,当該地域の保育所設置運動等が,供給体制に影響を与える.しかし,管見の限り,保育サービスの供給体制を「場所の政治」やロカリティを含めて分析した研究は見当たらない.
    2. 目的と方法
     本研究は,学童保育の供給体制を,地域における政治的プロセスから明らかにしようとするものである.具体的には,沖縄県浦添市を対象とする.浦添市では,学童保育は保護者会運営であり,実施場所として民間賃貸アパート・民間施設内が多い(22か所中14か所).民間施設の賃料補助やひとり親世帯への保育料補助が,市単独事業として行われている.さらに2000年代以降には,新設される児童センター内への移設が進んでいる.こうした供給体制の背景を,関係アクターへの聞き取り,行政資料及び浦添市学童保育連絡協議会(以下,浦添連協)の定例会議資料や記念誌,浦添市議会会議録から分析した.
    3. 浦添市における学童保育の政治過程
     浦添市では,1970年代後半以降,那覇都市圏の外延化にともなう人口増の結果,学童保育需要が顕在化した.1980年代,共働きの母親同士により共同運営の学童保育が開始され,情報交換や対市交渉の団体となる浦添連協が発足し,革新系政党を中心とした運動が展開された.結果,当時の厚生労働省による補助金が適用されたが,保育場所は民家・アパートなどの民間施設であり,家賃等は保育料で負担する必要があった.
     1990年代に入ると,浦添市の学童保育では,離島出身の保護者が運動において中心的な役割を担うようになる.浦添市には宮古島出身者が多く居住しており,学童保育の保護者として運営に携わると同時に,郷友会等のつながりから親睦やネットワークを強めたためである.この時期に市への運動方針は協調的なものへと変化した.2000年代,浦添連協では宮古島出身の父親が会長に就任すると同時に同郷の市議会議員が当選し,学童保育に関する発言を市議会で行うようになった.
     他方で,1990年代以降,浦添市の財政環境は変化した.95年に日米間の「沖縄県における施設及び区域に関する特別委員会(SACO)」が設置され,米軍基地(キャンプキンザー)を抱える浦添市では,児童センター等の公的施設建設へのSACO予算投入が決定された.子育て支援に積極的な首長選出と相まって,浦添市では児童センター建設が推進されることになった.
     浦添市と浦添連協の歩み寄りが決定的になったのは,2000年代初頭における市独自の学童保育事業の失敗であった.市は当初,連協への対応に消極的で,婦人会主催による学童保育事業を開始した.しかし児童数が増えず,2年あまりで事業は中止された.これ以降,市と浦添連協の定例会の開始,学童保育への家賃補助やひとり親世帯への保育料補助が実現したほか,児童センター内に学童保育を設置する計画が進められている.
     以上のように,浦添市では,待機児童問題,離島出身者のネットワークによる運動展開といったローカルな背景と,国による学童保育補助や法制化,SACO合意等のマクロな制度環境が絡み合いながら,学童保育供給体制に影響を及ぼしていた.
    【文献】
    Pinch, S. 1987. The changing geography of preschool services in England between 1977 and 1983, Environment and Planning C: Government and Policy, 5: 469-480.

    [付記]本研究は科研費補助金(基盤研究(B))「労働力の女性化がもたらす女性の就業と生活への影響に関する研究」(課題番号20300295,研究代 表者:由井義通)の一部を使用した.
  • 若林 芳樹, 久木元 美琴, 由井 義通, 久保 倫子
    セッションID: 106
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
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    1.研究の背景と目的
       沖縄県は,大都市圏外では例外的に多くの保育所待機児童を抱えているが,その背景には高い出生率や共働き世帯の多さ以外に,いわゆる「5歳児保育問題」がある.これは,子どもが5歳になると公立小学校に併設された幼稚園で過ごすという米国統治時代から続く慣習に由来し,現在でも5歳児の幼稚園就園率は8割を超える.その結果,母親が就業する家庭の園児の多くは,降園後の居場所の確保という問題に直面するが,小学校低学年の児童も同様の問題を抱えている.沖縄では,こうした児童の受け皿の一部を認可外保育所や学童保育が担ってきた.本研究では,このうち学童保育に焦点を当てながら,その利用者の保育サービス利用実態を通して,保育体制の課題を明らかにする.

    2.研究の方法
     対象地域は,那覇市に隣接するベッドタウンで,子育て世帯の流入によって保育施設が慢性的に不足している浦添市である.まず,浦添市役所保育課と浦添市学童保育連絡協議会から市内の学童保育の概況について資料収集を行った.その上で,市内18カ所の学童クラブを通して,2010年1月~2月に利用者の母親を対象として調査票を配布し回収した.276人から得た回答のうち,不完全な回答を除いた244人分を分析に使用した.また,アンケート回答者の中から協力者を募り,応募した10人に対して2010年2月と5月にインタビュー調査を実施した.

    3.浦添市における保育サービスの利用実態
    1) 学童クラブ利用者の特性
     学童クラブを利用する母親の年齢は30代と40代が大半で,76%の世帯が2人以上の子どもをもち,未就学児の兄弟姉妹がいる世帯も42%ある.母親の職業については,予想に反してホワイトカラー職に就く割合が72%と高く,正規雇用率も48%に達する.これは,他県に比べて相対的に高い学童保育料を負担するには安定した家計が前提となることを示唆している.
     その一方で,母子世帯が18%を占め,うち約1/4が祖父母と同居している.もともと沖縄では他県に比べてひとり親世帯の割合が高いが,これは浦添市がひとり親世帯に対して学童保育の保育料を半額補助していることが関係していると考えられる.
     この他,通勤に自動車を利用する割合が87%にのぼることも特徴的である.これは,公共交通機関の利便性の悪さを反映しており,仕事と保育利用を両立するには自家用車利用が不可欠なことを意味している.
    2)保育サービスの利用
     学童保育以外の利用先については,習い事・塾が22%を占め,これらが小学生の放課後の居場所として保育に代わる役割を担っていることがわかる.そのほか,同居ないしは近隣の親族に預ける家庭も21%ある.とくに親が地元出身の場合,祖父母から送迎や保育の支援を受ける家庭が少なくないことは,インタビューでも確認された.
     仕事と保育の両立に際して多くの家庭で直面するのが送迎の問題であるが,それを克服するには,近隣の親族などに頼る以外に,延長保育を利用する方法がある.市内の学童保育でも19時まで延長保育を行っているところが多く,29%の回答者がそれを利用している.家族類型別にみると,母子家庭の利用率が高く,41%に達する.また,母親の年齢が若く,未就学児をもつ世帯での利用率が高い.ただし,総じて利用頻度は多くなく,月1~2回や緊急時のみの利用が大半である.
     保育サービスの選択理由を尋ねると,「家からの近さ」を挙げる人が92%と最も多い.それに次いで多いのが「評判」(58%)で,「保育理念」(36%)を挙げる人も少なくなく,保育の質も重視されている.この他に多いのが,「保育時間」(40%),「保育料」(35%)で,「兄弟姉妹で預けられること」を挙げる人も23%にのぼる.

    4.5歳児保育問題に対する意識
     沖縄県の保育体制を特徴付ける,前述の5歳児保育問題について,回答者の意識を自由回答によって尋ねたところ,肯定的意見,否定的意見,中間的意見(肯定と否定の両方),の3タイプの回答に分類された.肯定的意見の多くは,小学校との継続性や友達づくりなどの利点を挙げていた.これに対し,否定的意見では幼稚園降園後の保育をめぐる問題が多く指摘され,保育所や学童クラブとの二重保育や,幼稚園の預かり保育では弁当を用意する必要があることなどが挙げられた.全体の意見分布では,否定的意見が48%を占めるものの,肯定的意見も20%程度存在する.これら3つの意見を回答者の属性別に比較すると,年齢の若い母親や未就学児を抱える世帯で否定的意見が比較的多かったことから,世代や保育ニーズによって5歳児問題に対する認識は異なるといえる.
  • 沖縄県南部の都市的地域と農村的地域の調査をもとに
    山内 昌和, 江崎 雄治, 西岡 八郎, 小池 司朗, 菅 桂太
    セッションID: 107
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
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    課題
     沖縄県の出生率は、少なくとも沖縄県が日本に復帰して以降、都道府県別にみればもっとも高い値を示す。2009年のTFRは全国の1.37に対し、沖縄県は1.79であった。
     沖縄県の高い出生率の背景に夫婦の出生力の高さがあることは知られているが(例えば西岡・山内2005)、さらに踏み込んだ検討はほとんどなされていない。こうした中で、Nishioka(1994)は、1979年に沖縄県南部地域で行われた調査データをもとに、沖縄県の夫婦の出生力が高いのは家系継承者として父系の長男に固執するという家族形成規範があることを実証した。同研究は沖縄県にみられる出生行動とその要因を指摘した重要な研究といえる。しかし、近年の沖縄県の出生率が低下傾向にあることを踏まえるならば、現代の沖縄県の出生率の高さを沖縄県特有の家族形成規範で説明できるのかどうか慎重であるべきだろう。
     以上を踏まえ、本研究では沖縄県南部の都市的な地域と農村的な地域で調査を実施し、その結果に基づいて、近年の沖縄県における夫婦出生力の高さの要因について検討する。
    方法
     出生行動を把握するための独自のアンケート調査を実施し、その結果を分析する。アンケート調査は調査員の配布・回収による自計式とし、20~69歳の結婚経験のある女性を対象とするものである。調査Aは沖縄県南部のA町の複数の字の全世帯(調査時点で1,838)を対象として2008年10月下旬から11月中旬に、調査Bは沖縄県那覇市のB地区の全世帯(調査時点で2,130)を対象として2009年10月下旬から11月中旬にそれぞれ実施した。
    結果
     調査では地区内の全世帯に協力を依頼し、協力を得られた場合は20~69歳の結婚経験のある女性の有無を尋ね、該当者がいる場合、調査票を配布し、回答を依頼した。A調査では配布数1,127に対し有効回収数は946(83.9%)、B調査では配布数1,050に対し有効回収数は818(77.9%)であった。
     分析対象とした調査票は、有効票のうち、Nishioka(1994)との比較可能性を考慮し、夫婦とも初婚であり、調査時点で有配偶であること、子どもの数とその性別構成が明らかであること、さらに複産・乳児死亡を含まないという条件を満たすものとした。サンプル数はA調査が706、B調査が636である。分析の結果は以下の通りである。
     (1)45~49歳時点の既往出生児数と理想子ども数の平均をみると、いずれも全国より高く、両者には正の相関がみられた。また、1979年時点では既往出生児数が理想子ども数を上回っていたが(Nishioka1994)、A調査やB調査では既往出生児数が理想子ども数を下回っていた。
     (2)かつてみられた強固な男児選好は弱まっていたが、夫ないし妻が位牌を継承した(或いは予定のある)ケースでは男児選好が強く、多産の傾向がみられた。また、都市的地域を対象としたB調査では農村的地域を対照としたA調査に比べ男児選好は弱く、子ども数も少なかった。
     (3)1979年の調査では、子どもが女児のみの場合には全員が4人目や5人目の子を生んでいたが(Nishioka1994)、A調査やB調査ではそうした傾向は弱まっており、理想子ども数の影響が強くなっていた。
     以上から、沖縄県の夫婦出生力に与える家族形成規範の影響は弱まりつつあるが依然として効力をもつこと、家族形成規範が夫婦出生力に与える影響は沖縄県内でも地域差があること、近年は家族形成規範よりも理想子ども数の影響が強まっていることが明らかになった。近年の沖縄県の夫婦出生力の高さは、家族形成規範の影響が弱まる中で理想子ども数が多いために生じているといえよう。
  • 北島 晴美, 太田 節子
    セッションID: 108
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
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    1.はじめに
     発表者らは、青森県の二次医療圏別死亡率の地域差について標準化死亡比(SMR)により検討し、青森県の二次医療圏別三大死因のSMRのうち、悪性新生物(男性)のSMRには、1985年から2005年まで類似した地域差がみられることを確認した(北島・太田,2010)。
     本発表では、後期高齢者一人当たり医療費が全国で最も低い(2008,2009年度)新潟県について、SMRにより新潟県内の二次医療圏別死亡率にどのような地域差が見られるのかを検討する。
     2005年の新潟県の平均寿命は、男性78.75歳(都道府県別で23位)、女性86.27歳(9位)であり、男性は全国平均に近く、女性は全国平均よりも高い。

    2.研究方法
     使用したデータは、「昭和60年人口動態保健所別統計」(厚生省)、昭和63年~平成4年、平成5年~平成9年、平成10年~平成14年、平成15年~平成19年の、「人口動態保健所・市区町村別統計」(厚生省、厚生労働省)の二次医療圏別・性別の、全死因と三大死因のSMRである。SMRは5年間の死亡統計から算出されているが、それぞれの統計期間の中心西暦年で呼称する。すなわち1985、1990、1995、2000、2005年を使用する。
     青森県の場合と同様に、死亡数からSMRの95%信頼区間を算出し、新潟県のSMRと13地域(2000年まで)で構成される二次医療圏別SMRを比較した。
     新潟県SMRの95%信頼区間下限値よりも二次医療圏SMR95%信頼区間上限値が低い場合、「新潟県平均以下」、新潟県SMRの95%信頼区間上限値よりも二次医療圏SMR95%信頼区間下限値が高い場合、「新潟県平均以上」とみなした。
     いわゆる平成の大合併以降、新潟県の二次医療圏は、合併後の市町村域を反映するように、13から7に再編された。2005年については、二次医療圏別ではなく13保健所別SMRを用いた。ただし2005年の13保健所の管轄域は、2000年までの二次医療圏と同一ではないため、1985~2000年までの地域差を経年的に比較することとし、2005年の保健所別SMRは参考資料とした。

    3.SMRの地域差
     1985~2000年の二次医療圏別SMRのうち悪性新生物(男性)について、「新潟県平均以下」、「新潟県平均以上」となるものを表1に、信頼区間から判定した2000年のSMRの地域差を図1に示す。
     悪性新生物(男性)では、1985~2000年まで小出、六日町、佐渡(いずれも2000年までの二次医療圏名)において、「新潟県平均以下」である。
     同様に、1985~2000年までSMRが同じ傾向を示すのは、脳血管疾患(男性、女性)の、新潟(2000年までの二次医療圏名)「新潟県平均以下」と、上越「新潟県平均以上」である。

    北島晴美・太田節子(2010):青森県における二次医療圏別標準化死亡比の地域差,日本地理学会発表要旨集,No.77,202.
  • 林 泰正, 石田 雄大, 田中 博久, 山元 貴継
    セッションID: 109
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
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    調査の背景と目的
     今回対象とした伊勢市は、(伊勢)神宮で知られる.この(伊勢)神宮は、天照大神が祀られ、参拝客も訪れる門前町として発展してきた「おはらい町」も隣接している「内宮」と,豊受大神を祀った「外宮」とで構成されている.そして伝統的に、まず「外宮」を参拝し、次に「内宮」を参拝することが求められてきた.また伊勢市は,(伊勢)神宮のほか、多くの神社群、二見浦や朝熊ヶ岳、博物館・資料館なども整備され、一見すると観光資源に恵まれた都市であるように映る.しかし一方で、この伊勢市の東側には、鳥羽市や志摩市といった観光都市がある.しかも、これら鳥羽・伊勢市に向かう道路は限られており、ほとんどの車は、伊勢市を経由してこれらの都市に向かう形となる.  そこで本報告では、こうした歴史的経緯や複雑な位置関係の中で、伊勢市を訪れていると思われる観光バスが、実際にはどのように伊勢市内外をめぐっているのかを明らかにすることを目指した現地調査の結果を紹介していく.

    調査および分析の方法
     調査は2009年6月28日の終日行った.そして、伊勢市の各地点において、それらの地点を通過したのべ555台の観光バスのナンバープレート情報や通過時間帯などを記録した.この記録を整理し、かつ相互参照することで、192台の観光バスの伊勢市内外での動きを分析することを目指した.
     例えば、「外宮」前道路上、「内宮」行き道路の両地点で同じナンバープレートの観光バスが記録されれば、その観光バスは「外宮」「内宮」両者を訪れたと考えられる.また例えば、「内宮」行き道路と、「伊勢志摩スカイライン」などと接続する浦田交差点東および二見浦東側の二見トンネル西といった鳥羽・志摩市方面に向かう代表的な道路上との両者で記録された観光バスは、(伊勢)神宮を訪れた後、鳥羽・志摩市方面に向かったと分析される.なお、観光バス乗務員を対象としたアンケート調査も、補足的に実施した.

    観光バスツアーの動き
     具体的に動きを把握することができた192台の観光バスのうち、実に127台が「内宮」を訪れていた.しかし、この127台のうち「外宮」も訪れた観光バスは、わずか32台に過ぎなかった.また、「内宮」を訪れた観光バスのうち、54台もの観光バスが、調査時間内に「内宮」以外のどの地点でも記録されなかった.
    また、調査結果をもとに、各地点間での観光バスの行き来と、その台数とをみると、伊勢市内外をめぐる観光バスは明らかに「内宮」を中心として動いており、「内宮」を訪れた後に鳥羽・志摩市方面へ、あるいは鳥羽・志摩市方面から「内宮」へとルートを選んでいることが明らかとなった.一方で、「外宮」と鳥羽・志摩市方面との行き来は皆無であった.
     さらに、浦田交差点東と二見トンネル西とを経由する観光バスの行き来については、午前は伊勢市内方面が、夕方以降は鳥羽・志摩市方面が相対的に多い傾向がみられた.また早朝には、浦田交差点東よりも二見トンネル西をより多くの観光バスが通過するなど、同様に伊勢市内方面に向かう道路でも、通過したバスの台数が大きく異なる時間帯がみられた.
     これらの結果からは、伊勢市内外をめぐる観光バスの伊勢観光に対する考え方を垣間見ることができる.すなわち、「外宮」で記録されずに「内宮」で記録された95台の観光バスは、「外宮」を素通りした可能性が高いと考えられる.さらに、「内宮」でしか記録されなかった54台の観光バスに至っては、当日「内宮」のみを訪れた後に伊勢市内を去ってしまった可能性を指摘できる.アンケート調査においても、乗務員からですら「内宮以外の観光地を知らない」といった声が聞かれ、伊勢市をめぐる観光バスにおいて「内宮」以外の観光地が注目されてないことが明らかとなった.
     また、浦田交差点東および二見トンネル西を通過した観光バスの台数について、午前中は伊勢方面が、夕方以降鳥羽・志摩市方面が多いことから、伊勢市を観光しながら、宿泊地としては鳥羽市・志摩市方面が選択されている可能性も推測された.早朝の二見浦には、日の出を拝むツアーによるにぎわいもあるが、いずれにせよ以上の結果からは、観光バスにとって伊勢市が「内宮」周囲のみをめぐる日帰り観光地、あるいは鳥羽・志摩市に向かう途中での通過観光地としてしか位置づけられていない可能性が指摘された.アンケート調査においても、「伊勢市内に観光バスを停められる駐車場を持った旅館が無い」という声も聞かれた.伊勢市内に多くの観光客が滞留し、伊勢市自体が宿泊を伴った観光バスの行き先となるために、伊勢市内における宿泊施設整備などが求められよう.
  • 大規模アンケート調査による分析から
    佐藤 英人, 清水 千弘
    セッションID: 110
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
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    1.はじめに
     本発表の目的は、2000年以降の東京大都市圏における持家取得者による住居移動を分析することである。これまでの住居移動研究では、調査手法の限界やデータの不整備などにより、着地に焦点を定めた分析が多い。住居移動の着地となる新興住宅地を研究対象として住居移動のメカニズムを分析する既往研究はその好例と言えよう。しかし、ある期間にある空間内で発生する住居移動の全体像を俯瞰するためには、着地が固定される従来の研究のみでは十分とは言えない。そこで本研究では、持家取得を行った家主もしくは契約主を対象とした大規模アンケートの結果を用いて住居移動の発着地を同時にとらえ、近年の持家取得の特徴を住居移動の視点から分析する。

    2.データ
     本発表では(株)リクルート住宅カンパニーが2000年8月以降、継続的に実施している「マイホーム購入者アンケート」のデータを用いた。アンケート調査の対象者は、2000年8月から2010年3月までに首都圏(東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県、茨城県の県南)に新居を購入し、売買契約もしくは工事請負契約を締結した20歳以上の買主もしくは契約主である。短期転売や賃貸目的の購入者を除く109,573名が分析対象者となる。なお、調査期間内に複数回新居を購入した場合は、初回購入分のみ分析対象となる。

    3.結果
     住宅取得年齢が60歳以上の住居移動(対象者数は2,456名であり分析対象者全体の2.2%に相当)に注目し、彼らの前住地と現住地を比較すると、まず居住形態では「自己所有の一戸建住宅」から「新築マンション」へ転居した割合が最も高く、60歳以上の住居移動全体の29.8%(733名)を占めている。既往研究によれば、高齢者の住居移動は子どもの離化による家族人員の減少や加齢の伴う身体的な弱化等を契機としており、戸建住宅から老夫婦のみでも管理のしやすい集合住宅への転居が盛んであるという指摘に符合する。ただし、高齢者の住居移動は空間的に限られた範囲内で実施されていることがわかる。つぎに、前住地と現住地の緯度経度情報から移動距離を計測してみると、5km未満の短距離移動の割合が、全体の53.4%(1,282名)を占めており、郊外から都心へ向かう都心回帰のような長距離移動はごく少数にとどまる(図1)。このように高齢者の住居移動は住み慣れた土地での住み替えであり、たとえば、最寄駅からバス便を利用しなければならない利便性の低い戸建住宅から、最寄駅から至近の集合住宅へ移り住み、高齢者としての住環境を改善させる狙いがあると推察される。
  • 国府田 諭
    セッションID: 111
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
    会議録・要旨集 フリー
    日本では,2007年10月の地域公共交通の活性化及び再生に関する法律が施行され,各地の市区町村で「地域公共交通総合連携計画」の策定が進んでいる.そこでは「公共交通空白(不便)地域」の存在が課題とされたり,その解消が政策目標とされる場合が多く見られる.しかし公共交通空白地域を数値で定義した事例は少数であり,同地域の現状を定量的に分析した事例はごく少数である.本研究は,2010年春季大会での発表に引き続き,公共交通の利用しやすさ・しにくさを定量化する「日本版PTAL指標」を用いた分析例である.今回は奈良県奈良市を対象に,既存の比較的多く見られる公共交通空白地域の定義による定量化と,ロンドン市交通局による定量化の両方を行ない,結果を比較検討した.
  • 山形県長井市を事例にして
    山田 浩久
    セッションID: 112
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
    会議録・要旨集 フリー
    本研究では,山形県の長井市を事例にして,土地所有関係に起因する地方都市特有の問題点を明らかにする。本研究で使用した主なデータは,土地台帳(地籍簿)の閲覧調査と商業店舗経営者に対するインタビュー調査の結果である。土地台帳の記載項目のうち分析データとして利用したのは,地目,当初の所有者,現在の所有者,所有権移転の形態とその年次,現時点での面積,であり,それらから現存する各地番の土地に対して,当初の所有者から現在の所有者に至るまでの経緯を明らかにした。土地所有権の移転形態に関しては,「売買」,「相続・贈与」,「寄付」ごとに整理した。なお,土地台帳に記載された情報は個人情報であるため,本研究においても個々の地番が特定できないよう公表の仕方を制限している。
     最上川に並行して南北に展開する長井市の市街地には5つの商店街が存在する。本研究では,これらの商店街が含まれる字ごとに土地台帳の情報を集計した。人口3万弱の市街地に形成されている商店街であり,いずれも休業中の店舗が目立つ厳しい状況にあるが,大規模な改変を経験してこなかっただけに,商店街にはそれぞれの歴史的背景に基づく土地所有関係が観察される。ここでは以下に2例を示す。
    A商店街とその周辺地区:A商店街は,創業の起源を近世期にもつ老舗が数件営業を続けているものの,景観的に最も衰退が著しい。同地区においては,少数の地主による大土地所有が戦前期まで認められ,戦後,「相続・贈与」によって細分化されたことが確認された。血縁的関係に基づいて所有されている土地は,非血縁者に売買されにくく,土地利用転換の自由度が低い。とくに,同地区には寺社所有地を起源とする土地が多く存在し,大規模な土地利用転換に至らない要因の一つになっていると考えられる。
    B商店街とその周辺地区:B商店街は長井市の中心的な商店街であり,1980年代後半に出店した県外資本の大規模小売店に隣接している。同地区内の土地は比較的狭小で,売買による所有権移転が他の移転形態よりも卓越する。建物登記に関する調査は行っていないが,個々の店舗が小さく店舗密度が高いことが商店街の活性を高めていたと推測される。また,土地の形状は近世期以前に引かれた間口4間の短冊状区画が残存し,前面に店舗,奥に住居を配する職住一致の形態が多く見られる。
     B商店街においては,街路の幅員拡張が計画されている。同事業にはB商店街を長井市の中心商業地区として再整備する内容が盛り込まれており,再開発的な色彩が濃い。B商店街には35の商業施設が立地しているものの,うち10件(28.6%)が廃業あるいは休業中であり,街路整備による活性化が期待されている。B商店街の組合に加盟(全28店舗)する23店舗の経営者にインタビュー調査を行ったところ,すべての経営者が隣接する大規模小売店の集客力に期待しており,肯定的な回答を行った。ただし,経営者の56.5%が60歳以上の年齢であり,後継者が確定しているのは3店舗にすぎきない。幅員拡幅による商店街の再生を楽観視する経営者がいる一方で,事業の開始を機に廃業を考えている経営者も存在する。さらに,事業の開始時期に前後して,隣接する大型小売店の借地契約が満了を迎える。この大型小売店は郊外地区に出店した他社の大型小売店によって営業実績を低下させており,より広い土地を安価で提供されない限り,撤退せざるをえないという趣旨の意向を示している。このような状況の中で,休廃業店舗の土地を整理することができれば,大規模小売店が要求する土地を用意することが可能であり,大規模小売店の存続を前提にした土地所有の見直しを希望する意見も上がっている。
     地方中小都市の商業地区においては血縁的関係に基づく土地所有が残存しており,大規模な土地利用改変の障害になっている。しかし,その一方で,相続や贈与,あるいは近隣住民との売買によって市外居住の土地所有者が少ないという特徴が,従来のコミュニティを存続させる要因になっていることも事実である。
  • 井の頭恩賜公園を事例として
    杉本 興運
    セッションID: 201
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
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    研究の背景と目的
    従来からの伝統的な地理学では、景観を地域の意で捉え、その変容過程を分析する研究が数多く重ねられてきた。一方、建築学や造園学などは客体としての景観に焦点を当て、インフラの計画や整備へ応用しようと努めてきた(人文主義地理学でいうところの景観は景域とされている)。後者に関しては、環境の美的価値を始めとするアメニティ重視の潮流を背景に、計量心理学的アプローチで景観を評価する景観工学において発展している。
    上記の流れをふまえつつも、本稿では行動科学としての景観研究に焦点を当てる。それは、景観の価値は人間行動と環境の相互作用により生じるという立場であり、現地における人間の環境知覚を主眼においた景観認識・評価研究といえる。このことは、観光地や行楽地のようにゲストとしての利用主体が訪れることを前提とした地域において、環境の資源性を評価する上で特に重要なことである。海外では国立公園を主な対象として、観光、レジャー、レクリエーションといった分野でも研究が進められてきた。
    具体的には、観光地の来訪者に対し、一連の観光行動の中で特定のテーマに沿って風景写真を撮影してもらい、その傾向を分析するという方法がとられている。これはVEP(Visitor Employed Photography)と呼ばれている。観光行動としての写真撮影はグローバルスタンダードであるため、評価者の自然な振る舞いによってデータが集められるという利点がある。また、評価対象を画像のデータとして集められ、それらを定量的に分析することが可能である。日本では、主に都市工学や造園学の分野で、写真投影法という名で研究が蓄積されてきた。
    しかし、従来の研究ではどのような対象が評価されているかといったことに深く言及しているものの、地域の地理特性や資源の空間分布という視点を欠いている。観光利用という側面から地域固有の資源性を評価するためには、評価対象の詳細な空間分布や地域の社会・文化的背景なども総合して分析しなければならない。よって本稿では、ある特定のミクロスケールな余暇空間において、景観概念を鍵とし、その資源の空間構造を明らかにする。
    対象地と調査方法
    本研究では都立井の頭恩賜公園の井の頭池エリアで調査を行った。この地域は、武蔵野の三大湧水地の1つであるという自然条件を基盤として、弁財天などの歴史的な建造物や、露店、アート、パフォーマンスなどの若者文化を内包した行楽地としての顔をもっている。
    次に調査方法であるが、20から50代の男女12名にGPS、デジタルカメラ、対象地の地図を携帯させ、良い印象の風景や対象を自由に撮影してもらった。調査後、補足資料として簡易なアンケートをとった。そして、得られた写真を種類別(人間活動、動物、植物、管理物、構造物、園路(またはビスタ)景、水景、広場景、その他)に分類し、GIS上で分析を行った。なお、周遊の仕方によって評価対象が異なる可能性があるため、2通りのコースをあらかじめ定めた。地図にはそれぞれ1つのコースが記してあり、被験者はそれに沿って池を周遊した。また、個人の撮影行動の中で、約8割以上が同じ対象物または構図で撮影された写真が連続している場合、始めに撮影されている写真以外は分析から外した。調査日は2010年6月28日(日曜日)である。
    分析結果
    写真が最も集中して撮影されていたのは、「井の頭池中央の橋上」であった。そこでは、「水景」を中心として、ボート、動物、ビスタ、人など、多様な対象が評価されていた。このことは、遠くまで開けた水辺景観の資源性の高さと、閉鎖的な園路から開放的な橋上への空間の移り変わりが、周遊する観光者の感動を強く生起しているためと考えられる。
    次に撮影の集中度が高かったのが、「お茶の水」と呼ばれる湧水(分類では井戸状「構造物」)である。付近の看板が情報提供の役割を果たし、観光者の興味を惹き付けている。
    また、際立って特徴的なのが「人間活動」の撮影地点であり、井の頭池北東の園路一帯に多く分布していた。ここでは、アートやパフォーマンスの様子を撮影したものが多く、アンケートの結果でもこのような人間の文化活動を好印象にとらえている傾向にあった。
  • 泉 留維, 平野 悠一郎
    セッションID: 202
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
    会議録・要旨集 フリー
    研究の概要
     近年、日本各地のフットパス事業は、旧来、村落共同体の通行や生活の場として用いられてきた「里道(りどう)」等を、域外からの観光客を含めた散策路として再整備する形で主に展開している。フットパスを訪れた外部の人間は、地域の暮らしや生業の中で生まれた道を歩くことで、自然の美観と同時に人間生活を含めた原風景を体感することができるため、エコ・ガイドを伴う原生自然環境のウォッチングや、マス・ツーリズムによる名所巡りとは異なる趣向をもつものとなる。また、地域の居住者にとっても、訪れる外部者との交流を通じて、自らの暮らしや地域の魅力の再発見に繋がり得る。これらの結果として、内外からの地域おこしを促すことが期待されている。
     本研究では、幾つかの事例(北海道根室市・白老町・黒松内町、山形県長井市、長野県小布施町、山梨県甲州市、神奈川県鎌倉市)の分析を通して、こうしたフットパス事業が、どのような社会的文脈において発展し、またどのような問題を抱えているかを明らかにする。
    研究内容
     これまでの各地のフットパス事業においては、「2つの軸」(フットパス周囲の地権者の数、地方自治体の積極性)と「4つのアクター」(自治体、NPO&ボランティア、地権者、利用者)が織りなす関係構造が、その発展過程や問題発生を説明するカギとなっている。
     第1の軸である「地権者の数」は、土地の私的所有権の存在と、その占有性の強弱と言い換えても良い。フットパスの整備にあたっては、私有地が少しでもある場合、通過地の所有者はもちろんのこと、周囲の地権者の同意が求められるため、この数が多ければ多い程、事業者による調整が困難となる。また、土地占有権の意識が強いとさらに困難となる。この点については、関連地権者の少ない北海道の事例と、本州の事例が好対照を描いている。
     第2の軸である「地方自治体の積極性」は、営利に直結する訳ではないフットパス事業の展開にあたって、補助金や事務局の設置といった運営面に大きく作用する要因となる。また、上記の地権者との調整や、他の地域おこし活動との連携といった面においても、重要となってくる。その反面、縦割り行政の弊害や、事業としての小回りの効かなさ等、幾つかの問題点の発生も促すことになる。
     筆者らの調査では、こうした地方自治体が積極的に関与する事例と、そうでない事例が見られた。後者の場合、フットパス事業を主導しているのは、当地の地域おこしを目指すNPO等の非政府・ボランティア団体である。このタイプの事業主体には、域外にあって知見提供する人々と、当地の居住者・地権者双方が含まれており、行政とは距離を保ちつつ、それぞれの理念に基づいた事業を進めている。一方、フットパスの利用者は、行政やNPO&ボランティアの主催するイベントへの参加を通じて、歩く楽しみを享受している。しかし、利用者の増加は、事業者・地権者との交流のみならず、事業者側の理念にそぐわない行為や、地権者のプライバシーの喪失といった矛盾を抱えることにもなっている。
  • カタルーニャ景観観測院の取り組みを中心に
    齊藤 由香
    セッションID: 203
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
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    ヨーロッパ景観条約の理念
     2000年10月,ヨーロッパの景観に関する初の国際条約として締結されたヨーロッパ景観条約(The European Landscape Convention)は,従来の景観政策のあり方に大きな転換をもたらすものであった。すなわち,景勝地や文化遺産など一部の傑出した景観を限定的に保護するのではなく,ヨーロッパの国土全体の景観保全を目的とすること,自然景観/文化景観,都市景観/農村景観といった区別をすることなく,景観を一定のまとまりをもった領域として一元的にとらえること,そして景観を単に保護するだけではなく,国土計画の観点から開発・整備することが,その基本理念として掲げられている。
    本報告では,こうしたヨーロッパ景観条約の理念をいち早く取り入れたスペイン・カタルーニャ自治州を事例に,その景観政策に関する先駆的な取り組みについて,景観観測院による景観目録作成の試みに注目して明らかにする。

    カタルーニャ自治州の景観政策
     カタルーニャ自治州は,景観に関する国の施策に先駆けて,2005年6月「景観保護・管理・整備法(Llei de protecció, gestió i ordenació del paisatge)」を制定し,独自の景観政策を推進している。ヨーロッパ景観条約の理念を継承する同法は,カタルーニャの全領域を対象とし,美しい景観に限らず,平凡な景観,ありふれた景観,荒廃した景観など,あらゆるタイプの景観の整備を図るものである。そして,景観に関する施策を地域計画や都市計画などに反映させていくことが,同法の主たる目的であり,そのための手法として考案されたのが景観目録(Catàlegs de paisatge)である。景観目録の作成は,カタルーニャ自治州の景観行政の顧問機関として設置された景観観測院(Observatori del Paisatge)に委ねられている。

    景観目録の作成
     景観目録とは,特定の価値をもった景観のみを収めたカタログではない。これは,カタルーニャ全土に展開する多様な景観を把握し,地域計画の視点からこれを保全・整備するための基礎資料である。その作成にあたっては,カタルーニャの国土をくまなく網羅するため,州域が135の景観単位に分割され,これを基本単位として景観の現状分析や評価が行われている。さらに,景観単位ごとに「景観の質に関する目標」が策定され,最終的にはこれが景観要綱として地域計画に組み込まれることになる。景観単位の領域は行政区分とは一致せず(下図参照),地形,気候などの自然的要素や土地利用等によって定義されている。景観単位の画定基準やその手法については,本報告のなかで紹介する。
  • 白柳 かさね
    セッションID: 204
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
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    研究目的
     動物が地域資源としての役割を果たしている地域から、人と動物の地域的な共存の在り方を模索する。

    研究対象地
     宮城県石巻市に属する田代島は、島の人口94人に対し、野良猫が約100匹生息するといわれる、野良猫の多い島である。さらに、島には猫を大漁の神様として祭った「猫神社」があったり、犬を上陸させてはならないというルールがあったりすることで、「猫を大切にする島」とされている。各メディアでは、田代島に「猫の島」「猫の楽園」などのキャッチコピーを付け、「数多くの猫が幸せに暮らす島」というイメージを伝えている。また、メディアへの露出をきっかけに、近年多くの観光客が田代島を訪れている。そのため、田代島は野良猫が地域資源・観光資源となって集客効果を挙げている稀有な事例であるといえる。

    田代島の観光発展
     田代島の属する石巻市は、漫画家石ノ森章太郎のゆかりの地であることから、市によってマンガを生かした地域づくりがされている。その一環として、田代島ではマンガアイランド構想のもとに漫画に関する施設が作られ観光資源とされてきた。また、地域活性化を目指すNPOによって、漫画や自然といった観光資源に加えて、猫の島という要素もホームページやパンフレットに掲載されていたが、猫を観光のメインとするものではなかった。ところが、島に移住した民宿経営者のブログで、島の生活の様子とともに島に暮らす猫達の様子が伝えられた影響で、猫を目当てに訪れる客が増えたという。その後メディアに取り上げられることによって、観光客数が大幅に増加した。

    観光客の実態
     2010年5月の連休に観光客に対して実施したアンケートによると、87%の観光客が猫を目的に来島していた。さらに、そのうちの94%は今回が初めての来島であり、今の段階では安定的に観光客を獲得しているとはいえない。来島のきっかけとしては、57%の観光客がメディアをきっかけとして田代島を知っており、中でも特にテレビの影響力が大きい。次いで、人から聞いて知った(口コミ)という人が25%を占めている。
     しかし田代島には観光客が飲食できる店舗がなく、土産物の品数も限られていることから、観光客が消費行動をとる機会が極端に少なくなっている。そのため観光客による島への経済的効果はなく、島の利益を生まないと同時に観光客の消費欲をも満たせていない。

    田代島観光の持続性
     田代島に猫を目当てに訪れる観光客のほとんどが初の来島であることから、現時点ではまだ、田代島の存在自体が認識され始めている段階である。また、メディアによる集客への影響が大きいことから、今後メディアへの露出が減少した場合、来島者数の減少が予想される。一方で、口コミが集客効果の一部分を担っていることから、メディアの露出が減少しても、既に来島経験のある観光客によってある程度の情報発信が行われる可能性があり、猫ブーム最盛期後も、以前よりは多くの来島者が維持されると考える。そのため、観光客向けのハード面の強化について、今後検討する意義がある。
  • 鳥取県を事例に
    和田 崇
    セッションID: 205
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
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     日本の観光は近年,物見遊山,団体客,発地型,一過性,通過型などを特徴とする形態から,体験・交流,個人客・小グループ,着地型,持続性,滞在型などを特徴とする形態へと変化してきた。これらの新しい観光は,「見る」「食べる」といった従来からの目的に加え,「体験する」「学ぶ」「癒す」「追体験する」という目的も顕在化している。このうち,「追体験する」ことを主目的とする旅行形態として,小説や映画,テレビ番組,歌,漫画,アニメなど,メディアを介して記録・伝送・鑑賞される映像や画像,音楽,文章などのコンテンツに関わる場所を訪ねるコンテンツ・ツーリズムが盛んになりつつある。本発表では,コンテンツ・ツーリズムの一つとしてアニメキャラクターを活用した観光をとりあげ,鳥取県境港市と同北栄町を事例に,自治体や地元企業,市民・NPOなどの関係機関が観光地づくりにどのように関わっているかという点を中心に報告する。すなわち,2つの事例について,アニメキャラクターを活用した観光まちづくりの実態を報告するものである。  アニメキャラクターを活用した観光まちづくりは,コンテンツの種類および地域との関わりという2つの視点から,いくつかのパターンに分類できる。コンテンツの種類からみると,アニメは商業系アニメ,芸術系アニメ,自生系アニメの3つに分類できる。また,地域との関わりからみると,題材型,ゆかり型,機会型の3つに分類できる。  鳥取県境港市は,漫画家・水木しげる氏が育った地であることに着目して,水木氏の代表作品である「ゲゲゲの鬼太郎」を活用した観光まちづくりを推進している。1992年から商店街(水木しげるロード)に「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する妖怪などのブロンズ像を設置したほか,鬼太郎列車の運行(1993年~),水木しげる記念館の運営(2003年~),各種イベントの実施などにより,水木しげるロードへの入込客数は1994年の約28万人から2008年には約172万人へと大幅に増加した。取組みの中心的役割を果たしたのは,当初は境港市役所であった。その後,商店街にブロンズ像が設置され,集客効果が実感できるようになると,鬼太郎音頭保存会(1996年),水木しげるロード振興会(1998年)など市民活動団体が組織されたほか,境港市観光協会や境港商工会議所も妖怪そっくりコンテストや境港妖怪検定,妖怪川柳コンテストなどユニークなイベントを主催した。また,水木作品(漫画およびその原画)の著作権を保有する水木プロダクションが,水木氏ゆかりの境港市のまちづくりに協力的であったことも,市内の各主体による取組みを後押しした。例えば,水木プロダクションはブロンズ像や記念館展示物のキュレイションを担当したほか,市内事業者が関連グッズを開発する際の著作権使用料を減免するなどした。  鳥取県北栄町は,「名探偵コナン」の原作者・青山剛昌氏が同町出身であることに着目し,1999年から「名探偵コナンに会える町」づくりを推進している。具体的に,1999年にJR由良駅と国道9号を結ぶ県道を「コナン通り」と命名し,7体のブロンズ像を設置したほか,2007年に青山氏の作品や仕事ぶりなどを紹介する「青山剛昌ふるさと館」を整備した。同記念館の入館者数は年間約64,000人(2008年)である。北栄町の取組みは,旧大栄町商工会が提案した「コナンの里」構想をきっかけに,旧大栄町役場が地域振興券に名探偵コナンをデザインしたことに始まる。その後も旧大栄町(2005年から北栄町)が名探偵コナンを冠したイベントを開催したり,観光プロモーションを展開したりした。活動が進展するに従い,町民の活動に対する認知度と参加意欲が高まり,2000年にはコナングッズを販売する「コナン探偵社」が町民有志によって設立された。北栄町では,町役場が漫画の著作権者である小学館プロダクションとの交渉を担当している。小学館プロダクションは,作品のイメージ保持と適切な著作権管理の観点から,著作物使用協議を慎重に行うほか,ふるさと館での展示方法や接客方法について北栄町役場に対してきめ細かく指導している。しかし,こうした慎重な協議ときめ細かな指導は,北栄町にとって時間的・精神的な負担,迅速な観光プロモーションへの障害となっている面があることも否めない。
  • 北田 晃司
    セッションID: 206
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
    会議録・要旨集 フリー
     国際観光は国内観光とは異なり、言語・歴史・社会・文化などの背景の異なる主体相互の接触という側面も持っている。また、外国人観光客自体が極めて多様性に富んだ存在であることを忘れてはならない。本研究においては、わが国の都道府県の中でも、特に経済に占める観光産業の比重の大きな県である沖縄県を取り上げ、同県における観光の国際化の現状と課題について、より訪問する外国人観光客に近い立場から検討する。沖縄県を訪問する外国人観光客はSARSの影響を受けた2003年前後に一時的に大きく減少し、その後は持ち直しつつあるものの、わが国を訪問する外国人観光客にとっての目的地としての重要性は、各都道府県の外国人観光客訪問率などから見た場合、確実に低下している。  続いて、外国人観光客による沖縄観光について、韓国人観光客および台湾人観光客を例に比較検討を行った。ここでは韓国および台湾の大手旅行会社が主催する沖縄県への団体ツアーについて、主に訪問観光地や食事内容の検討を行った。その結果、韓国人観光客の訪問率の高い観光地は那覇市周辺のみならず沖縄本島の南部や北部にも多く分布するのに対し、台湾人観光客は主に那覇市とその周辺にある大型小売店や、沖縄と台湾や中国大陸との文化的交流を示す観光地の訪問率が高い。また、台湾の団体ツアーにおいては韓国の団体ツアーよりも沖縄の伝統料理が提供される回数がはるかに多い。  さらに両者の海外旅行における沖縄県の位置づけにも少なからぬ相違が見られる。韓国人観光客の場合、沖縄県への訪問数が増加したのはここ数年であり、沖縄の知名度はまだかなり低い。これに対して台湾は沖縄からの距離が韓国よりもはるかに近く、また長年にわたる歴史的・文化的交流が存在するために、沖縄の知名度は韓国よりもはるかに高いが、台湾において海外旅行が一般化し、台湾とは自然条件や歴史的・社会的条件が大きく異なる場所を訪問することが海外旅行の大きな魅力となったことで、沖縄への旅行が台湾人観光客にとって国内旅行とほとんど変わらない意味しか持たなくなったことは否定できない。とはいえ、台湾において2人の女性作家による沖縄・九州方面への旅行記がベストセラーになったこともあり、一方では台湾から沖縄への個人旅行者が増加する傾向も見られる。  以上のように、同じ外国人観光客でもその国籍により、たとえ同じ場所に対してでも、その評価や訪問先などには大きな相違が見られることが明らかになった。このような多様な外国人観光客を今後も引き付けるためには、沖縄県が海外からの観光客、特に今後増加することが予想される個人旅行者にとってより魅力にあふれた場所であることが不可欠であることは言を待たない。そのための課題としては、公共交通機関、特に個人旅行者が自由に見学時間を設定できる観光バス路線の創設や沖縄の伝統的な食文化を体験できる博物館の設置などが最も重要であると考えられる。  国際観光は、たしかに短期間に多くの経済的利益を得ることは極めて困難ではあるが、外国人観光客という異質の視点を通して自らの場所を見つめ直し、より魅力のある観光地として成長していく機会を得る手段としての価値は十分に認識されてもよいと思われる。外国人観光客にまで彼らの多様性を無視し、使用金額の上昇を絶対視した対策に終始することは将来、観光産業そのものの衰退にもつながりかねない危険性を有している。
  • 東京都板橋区高島平団地の事例
    岩間 信之, 浅川 達人, 田中 耕市, 佐々木 緑, 駒木 伸比古, 池田 真志, 熊谷 修
    セッションID: 207
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
    会議録・要旨集 フリー
    1.研究の背景
    本報告の目的は,高齢化の進む大都市郊外の住宅団地を事例に,高齢者の栄養問題と地域コミュニティとの関係を,地理学,社会学および栄養学の視点から分析することにある.
    数キロ離れたスーパーまでカートを引きながらトボトボと歩くお年寄りたちの後ろ姿.最近,こうした映像を使いながら買い物弱者,買い物難民を取り上げるマスコミが増えている.買い物弱者や買い物難民とは,中心商店街の空洞化などにより最寄りの買い物先を失い,長距離移動をせざるを得なくなったお年寄りたちを意味する造語である.2010年5月14日には,経済産業省の審議会「地域生活インフラを支える流通のあり方研究会」が調査をまとめ,買い物弱者は全国で推定600万人に達すると報告した.日本における買い物弱者,買い物難民報道は,フードデザート(食の砂漠:Food Deserts,FDsと略記)問題の一側面を意味するものである.
    2.フードデザート問題
    そもそもFDsとは,都市構造の変化の中で生じる,食をはじめとした社会インフラの空白地帯を意味する.FDs問題は,こうした地域に集住する社会的弱者の生活環境悪化問題であり,社会的排除問題の一部と位置づけられる.少子高齢化と中心商店街の空洞化がすすむ今日の日本では,街なかに住むお年寄りの買い物先の消失が問題視されている.これまで,発表者グループも,地方都市や過疎山村を事例に高齢者の買い物環境と健康問題(低栄養問題)の調査を進めてきた.しかし本来,FDs問題は社会的排除問題を内包する複雑な問題であり,その被害や発生要因は多種多様である.高齢者の足を生鮮食料品店から遠のかせる要因は,物理的距離の拡大だけではない.近年,都市社会学や栄養学の分野では,貧困の拡大やコミュニティからの孤立などが,健康食生活への興味関心の低下,すなわち高次生活機能「知的能動性」の加齢低下を促し,低栄養問題を拡大させるという可能性が指摘されている.なかでもコミュニティからの孤立の影響は大きい.FDs問題を解明するには,単に買い物弱者,買い物難民の視点だけではなく,社会的排除問題を念頭に置いた包括的な視点から問題を捉える必要がある.
    3.研究対象地域
    研究対象地域は,東京都板橋区高島平団地である.同団地は板橋区の北西部,高島平2~3丁目に位置する総戸数10,170世帯,人口20,022,高齢化率32.9%(2009年10月1日現在)の大規模団地である.首都圏における宅地不足の解消と良好な居住環境の確保を目的に,1967年から72年にかけて日本住宅公団(現UR都市機構)によって開発された.開発当時人口3万を上回った高島平団地には,16階建ての高層集合住宅が林立し,商店街や病院,区役所出張所,銀行,小中学校および高等学校,図書館,警察署,消防署などの生活関連施設も併設された.しかし,現在では団地住民の子供世代の外部転出や人口の高齢化が顕在化している.また,高齢者のひきこもりや孤独死問題も深刻である.同団地は,いち早く超高齢化社会に突入した「日本の縮図」として注目されている.
    今回の発表では,2010年3月に実施したアンケート調査,および同年7月~8月に実施した聞き取り調査をもとに,同団地に居住する高齢者世帯の買い物状況や栄養事情(食品摂取の多様性)と,コミュニティ活動(社会活動指標など)との関係を報告する.
    主要文献
    熊谷修ほか.2003. 地域在宅高齢者における食品摂取の多様性と高次生活機能低下の関連.日本公衆衛生雑誌50.1117-1124.
    Linda, F. A. and Thomas, D.D., 'Retail stores in poor urban neighborhoods', The journal of consumer affairs, 31-1, 1997, pp. 139-164.
    Wrigley, N., Warm, D. and Margetts, B., 'Deprivation, diet, and food-retail access: findings from the Leeds ‘food deserts’ study', Environment and Planning A, 35-1, 2003, pp. 151-188.
  • 新井 智一
    セッションID: 208
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
    会議録・要旨集 フリー
     1.研究の目的
     近年,ごみ処理場の老朽化に伴う建て替えとその場所をめぐる問題が各地で生じている.本研究は,東京都小金井市における新ごみ処理場建設場所の決定過程を検討し,建設場所の決定要因について考察する.
     2.二枚橋処理場の閉鎖と新処理場建設問題
     東京都小金井市・調布市・府中市は1957年に,「二枚橋衛生組合」を設立し,3市の縁辺部にまたがる二枚橋処理場で一般廃棄物を焼却処理してきた.1980年代以降,処理場の老朽化が問題となり,組合は2006年度限りで処理場を閉鎖することを決定した.他市と共同処理について協議を進めてきた2市と対照的に,小金井市は財政再建や武蔵小金井駅南口再開発事業などの政治的課題の処理に追われ,ごみ問題を議論してこなかった.
     小金井市は国分寺市に対し,ごみの共同処理と,小金井市が市内に新処理場を建設することを打診し,2006年に合意した.小金井市は二枚橋処理場跡地と,ジャノメミシン工場跡地を新ごみ処理場建設候補地とし,市民検討委員会による議論や市民説明会を経て,二枚橋処理場跡地を新ごみ処理場建設場所と決定した.
     3.2候補地の問題点
     二枚橋処理場は野川流域の低地に所在し,北側には国分寺崖線が走る.加えて,南東部に所在する調布飛行場の滑走路延長上に位置するため,煙突の高さは約60mに制限されていた.そのため,煙突から排出される煙や悪臭が,崖線上の小金井市東町1丁目・5丁目付近に被害を及ぼしてきたとされる.
     一方,ジャノメミシン工場跡地は,小金井市が市役所新庁舎の建設を見込んで取得した市有地である.小金井市の中心に位置し,北側をJR中央本線に接し,南側には小金井第一小学校や小金井市立図書館,西側にはマンションがある.
     4.新処理場建設場所の決定要因
     二枚橋処理場周辺地区の住民は,50年にわたり環境的不公正を受けてきたとされるものの,新処理場建設にあたり,「受苦圏」が変化することはなかった.市長選挙・市会選挙の投票率や,市民説明会の参加者・質問者数を分析すると,新処理場建設候補地周辺の2地区を除き,この問題をめぐる小金井市民の関心は高くなかった.また,市民検討委員会の議論を検討すると,小金井市の行政は,処理方法をめぐる議論を新処理場建設場所決定後に先送りすることによって,ジャノメ跡地に建設することを避けようとする意図があったと推測できる.
     一方,二枚橋処理場周辺地区の住民も,公害についての独自調査や,他地区・他市へのアピールをおろそかにしてきた.これに対し,ジャノメ跡地周辺地区の住民は市民検討委員会において,同跡地での開発が地下水に影響を与える可能性があるとする,市の地下水保全会議の見解を指摘した.このことは,市民検討委員会においてジャノメ跡地の評価を下げた大きな要因となった.新処理場建設問題をめぐる市民の無関心と,2候補地周辺住民による対応の違いが,二枚橋処理場跡地に新処理場を建設することとなった大きな要因であると考えられるのである.
  • 昭和戦前期における東京の百貨店業との比較において
    末田 智樹
    セッションID: 209
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
    会議録・要旨集 フリー
     本報告では、昭和初期から昭和戦前期にかけての大阪におけるターミナルデパートの成立と、それによる商業空間の発展について解明することを目的とする。1990年代以降の明治後期から昭和初期にかけた日本の百貨店史に関する学術的研究を簡単にみておくと、社会文化史的視角からの研究として流行・催し物の変遷、広告やディスプレイ、服飾、デザイン・建築などと、商業・流通論的視角からの研究として取扱商品の拡大過程や部門管理制など、大別して2つの側面を明らかにした研究が多数を占めてきた。しかしながら、語るまでもなく百貨店は企業の形態として経営を展開してきたにもかかわらず、従前に企業経営の史的視点である経営史、経済史、商業史、企業者史、歴史・経済地理学からの研究はほとんどみられなかった。なぜならば、それは研究分野の大きな枠組みで言うところの経済史・経営史的な観点からの百貨店史研究が、過去に積極的に進められてこなかったためである。すなわち、日本の近代化および資本主義化過程の研究は、明治期から昭和戦時期までの工業部門を主とした産業資本(財閥)の成立・発展過程に重点が置かれ、それにともなって生成した近代的商業資本の本質的研究の進展は不十分であったからである。そのうえ従来、昭和戦前期までにおける百貨店と言えば、三越を筆頭に松坂屋上野店、白木屋、松屋、?島屋東京店などの東京を中心とした呉服系百貨店が前面に押し出され、本報告の主題であるターミナルデパートに関して大きく論じられることはなかった。されど、百貨店の店舗立地を礎とした昭和戦前期までの都市商業空間の発展にとって、昭和初期に創始されたターミナルデパートは欠かせない役割を果たしていた。そこで、具体的には昭和戦前期における大阪のターミナルデパートの成立過程について浮き彫りにすることで、この時期までにターミナルデパートを成立させた要因とは何であったのか。そして、ターミナルデパートよりも先行して営業活動していた大阪の呉服系百貨店の成立状況に関しては、東京の百貨店業と比較してどうであったのか。加えてターミナルデパートの登場が、現代に繋がる大阪の都市商業空間の原型を完成させていたのかについてもつまびらかにしたい。昭和戦前期までの全国におけるターミナルデパート化の状況では、小林率いる阪急百貨店が昭和4年に設立されて以降、阪急沿線のターミナルデパートから大阪市内北部のデパートへ、さらに大阪市全体の大百貨店へと変貌し、大阪・東京の私鉄会社による百貨店経営や全国の新興百貨店の勃興へ大きな刺激を与えた。しかも、ターミナルデパートである阪急百貨店、東横百貨店、岩田屋の3社提携連立構想も考えていた小林の果たした役割はすこぶる大きかった。阪急百貨店と?島屋の現前以降、大阪では大鉄百貨店、大軌百貨店、阪神百貨店が参入し、一方同じ大都市の東京では京浜デパートや東横百貨店の成立へと広がり、明治後期以来の呉服系百貨店とは異なったターミナルデパートという百貨店スタイルが大いに波及し、福岡市の岩田屋や岡山市の天満屋など地方百貨店のターミナルデパート化にも多大なる影響を与えた。そのことは昭和戦前期までの日本における百貨店業による大都市商業空間が、呉服系百貨店も含めて東京よりも大阪の方が、最終的には発展をみせていたことを意味しよう。既述のような昭和戦前期までの大阪を中核としたターミナルデパートの成立が、現下の私鉄ターミナルデパートの百貨店業界における売上高では上位を占める重き存在価値や、全国のJR型のターミナルデパートなど百貨店業界での勝ち組を導き出し、戦後期以降今日までの日本における独特の百貨店業態発展の肝心な要となっていたのであった。
  • 広告制作会社の経営者とクリエイターの視点を通じて
    古川 智史
    セッションID: 210
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
     近年,クリエイティブ産業への関心が高まっている.広告産業はクリエイティブ産業の1つとして位置付けられ,海外では多くの研究が蓄積されている.しかし,日本では,広告産業の市場規模が世界第3位であるにも関わらず,地理学での研究蓄積はあまり進んでいないと言わざるを得ない.加えて,広告産業では他のクリエイティブ産業と同様のメカニズムで企業の立地が決定されるのか等,検討の余地がある.
     以上の問題意識から,本研究は東京都区部に立地する広告制作会社を対象とし,企業の経営者とクリエイターの視点を通して,広告制作会社の立地要因および立地に対する評価を明らかにし,広告産業の都心集中を検討することを目的とする.
     調査対象地域は,東京都区部である.後述するように,東京の市場規模は他の道府県を圧倒しており,広告関連会社が集中している.調査は,社団法人日本広告制作協会東京地区の会員企業82社にアンケート票を配布し,26社(31.7%)から有効回答を得た.同時に,各社に対して,クリエイターを対象としたアンケート票を5部ずつ計410人分配布し,88人(21.5%)から有効回答を得た.
    2.広告産業の現状
     日本の広告産業は,日本の対GDP比で約1%を占めると言われ,日本の経済成長とともに市場規模が拡大してきた.2009年の日本の総広告費は,2008年に起きた世界不況の影響で5兆9,222億円(前年比88.5%)と大幅に減少し(電通,『日本の広告費』),広告産業の「構造不況」という言葉も聞かれるようになった.
     近年では,大手広告会社が系列の制作会社を設立する内制化という動きや,インターネット広告の台頭などメディアの多様化,4マス媒体の衰退など,広告産業全体の構造が変化してきている.
     対象地域である東京都区部には4,046社(対全国比33.9%)が立地し,63,234人(同42.2%)が従事している(総務省,『平成18年事業所・企業統計』).また,経済産業省『平成20 年特定サービス産業実態調査報告書』によれば,東京都の市場規模は5兆3,498億円(同60.4%)と圧倒的なシェアを誇る.
    3.分析の概要
     アンケート調査によれば,調査対象企業は,1960年代~80年代に設立された企業が多い.企業規模は,資本金1,000万円以上3,000万円未満,年商1億円以上10億円未満の企業が約半数を占める.
     企業の立地選択要因をみてみると,交通の利便性,場所のイメージに次いで,広告主との近接性が挙げられた.実際,対象企業の取引範囲は23区内でほぼ完結する.これは,広告制作において,「企画・コンセプトの共有」,「相手の意識・姿勢を読み取る」必要性から,対面接触をベースとしたコミュニケーションが重視されるためである.対象企業の中には,主要受注先に週に20~30回訪問するケースも見られた.
     対象企業が立地する地域(区レベル)への評価では,区ごとに若干異なるものの,交通の利便性,場所のイメージなどが上位に挙げられた.一方で,他企業とのパートナー関係の構築や,ライバル企業の動向の把握に関する項目は相対的に低い評価がなされていた.
     クリエイターの地域に対する評価は,区ごとに大きく異なる.同業者との関係性の構築や切磋琢磨など,同業者間ネットワークに関する評価に関しては,中央区で高い評価がなされたが,千代田区と港区では低い評価が比較的多かった.
     本発表では,立地地域に対する評価も含め広告産業の都心への集中について,ヒアリング調査結果を踏まえ検討する.
  • 福井 一喜
    セッションID: 211
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
    会議録・要旨集 フリー
    1 広告活動における新聞広告を規定する要因
    <趨勢>
    新聞広告はさまざまな広告媒体の中で長期にわたって重要な地位を占めてきた。しかし,現在では新聞広告はもはや広告活動の中心ではなく,かつてはテレビ広告、近年ではインターネット広告などが次第に重要性を増している。その背景には,文字情報から画像・音声・映像情報への情報媒体の多様化,社会経済の成熟化にともなう生活者のライフスタイルの変化,広告媒体ごとの棲み分けと機能分担などの要因がある。

    <仮説>
    こうした状況の変化を踏まえると,新聞広告は他の広告媒体に対して比較劣位の立場に追い込まれてきた。新聞広告は高度経済成長期における大量消費を前提とした,画一的な情報発信の手段として優位性を発揮してきたからだ。
    そこで,新聞広告における広告活動は,情報を受容する社会集団と地域を明確化してターゲットを絞りこむことで,よりいっそうの効率化が図れるのではないかという仮説を立てた。本研究では,その実態分析を通して仮説の成否について検証を試みた。

    2 検証(新聞広告の趨勢)
    <検証の方法>
    調査対象は次の3つである。
    1.全国紙の代表例として「読売新聞」(東京本社版)
    2.地方紙の代表例として「徳島新聞」
    3.全国紙地域面の代表として「読売新聞地域面」(東京版地域面)
    広告内容の変化傾向を観るために,全国紙と地域面については1989年から5年ごとに,地方紙については2009年下半期を調査対象とした。調査方法としては,それぞれの新聞紙面について,1.広告面積を算定し,2.広告主の業種別比率をそれぞれ比較した。

    <調査結果>
    本調査によって明らかになったのは,以下の諸点である。
    (1)業種別
    全国紙においては,新聞社やそのグループ企業による広告や,通信販売、旅行会社の広告が増加傾向をみせたのに対して,自動車や不動産,コンピューター,インターネットなどの広告が減少傾向をみせた。地方紙や地域面においても,全国紙に類似した業種割合を見せる部分があった。しかし,農協や地元のホテル,展示会や家電量販店,さらには美容室などのように,全国紙よりも地域に密着する性格の業種も多かった。
    (2)新聞別
    全国紙においては,1.広告媒体としての地位・価値が低下している 2.高齢者や低所得者向けの広告が多い ということが明らかになった。地方紙・地域面においては,1.広告に投下した資本を短期に回収する広告が多い 2.広告主の多くが地元の事業者 3.消費者の購買行動に直結する広告が多い 4.阿波踊りと大きくコラボレーションした広告展開が行われていた ということが明らかになった。
    (3)総合して
    地方紙や地域面においては,広告主から求められていることとして 1.広告に投下した資本の短期回収 2.広告効果が目に見えて分かること があるとわかった。さらに,広告主が想定している広告対象は,新聞ごとに細分化していることがわかった。今後の地方紙・地域面の広告は,画一的な情報の大量発信から,細分化した広告対象の属性にあわせて情報を配信するターゲティングへ転換することで,再生を図ることができる。


    3結果(これからの新聞広告の方向性) 地方紙や地域面においては,地理的ターゲティングによって広告活動を効率化できるという仮説が成り立つことを実証できた。
    今後の地方紙や地域面においては 1.一般消費者向けに 2.具体的な商品情報を掲載し 3.投下資本を短期で回収する セールス・プロモーション的な広告媒体としての価値を成長させるべきである。これにより地域的ターゲティングを有効に機能させ,地方紙や地域面でより効率的な広告活動を実現できるだろう。
    一方で全国紙の前途は非常に厳しいものになることが改めて予想できる。今後はパブリック・リレーションズ的な広告媒体としての価値をどこまで構築できるかが問題となるだろう。
  • 諏訪圏工業メッセを事例として
    與倉 豊
    セッションID: 212
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
    会議録・要旨集 フリー
    _I_ はじめに
     近年,産業集積内における見本市,勉強会,研究会などへの参加が,企業・組織の知識創造における重要なチャネルとして注目されている.既存研究では短期的な出張や,専門的会議,イベントなどでの暫定的な対面接触によって,定常的クラスターと同等の知識・情報を獲得できると指摘する.見本市やコンファレンスなどのような,1つの目的の下で非日常的に主体が集合する経済的現象は,暫定的クラスターと表現されている.
     本研究では地方開催型の最大規模の見本市として注目を集めている長野県の「諏訪圏工業メッセ」を事例として,出展企業の見本市参加の目的や,新規の企業・組織間関係の構築状況について検討した.

    _II_ 分析対象地域
    本研究で対象とする長野県諏訪広域市町村圏(以降,諏訪地域と略す)は岡谷市,諏訪市,茅野市,下諏訪町,富士見町,原村の3市2町1村から成る.諏訪地域の製造業は機械系工業が中心であり,特に精密機械におけるエレクトロニクス化の進展によって,近年は電気機械器具(電子部品・デバイスおよび情報通信機械器具)へと中心的業種が変化している.事業所・企業統計調査によると,1981年から2006年までに製造業全体の事業所数・従業員数の規模は3割減となっている.

    _III_ 諏訪圏工業メッセ
     2002年10月に諏訪地域の4商工会議所,2商工会が中心となって,高度技術が集積した「SUWA」ブランドを構築し,諏訪地域を総合的に全国へ発信することを目標とした諏訪圏工業メッセが開催された.初回の出展企業数は174社,延べ来場者数は12,000人であったが,毎年開催ごとに参加規模は拡大傾向にあり,2009年には252の企業・団体が出展し,延べ来場者数はおよそ24,000人で,初回の水準から倍増している(日刊工業新聞 2003年5月13日付; 信濃毎日新聞 2009年10月18日付).

    _IV_ 出展企業の分析
    2009年度諏訪圏工業メッセの出展社リストとNPO諏訪圏ものづくり推進機構が運営するウェブサイト「諏訪圏企業ガイド」などを基に,出展企業・団体の所在地,資本金,従業員数,創業年を調査した.
    諏訪圏工業メッセでは出展企業が(1)加工技術,(2)機械・完成品,(3)産学・研究,(4)ソリューションなどのテーマ分野別に分けられている.図1は2009年度のテーマ分野別の出展企業・団体の地理的分布の割合を示している.諏訪地域の企業が出展の中心であり,長野県以外の企業・団体の出展は全体の6%を占めるに過ぎない.一方,大学や工業高等学校,公設試験研究機関などが含まれる「産学・研究」では,計22の団体・部署が19ブースを設置しているが,諏訪地域内からの出展割合よりも諏訪地域外からの出展割合の方が大きい.山梨大学や芝浦工業大学,中部大学など県外の大学などが出展しており,諏訪地域の加工技術を求めて来訪したバイヤーとの広域的な産学連携の構築がなされうる.
     当日の発表では,諏訪圏工業メッセの実行委員会のメンバーが中心となり設立されたNPO法人による産産・産学連携に関する活動内容や,出展企業の新規取引の達成状況などについて,聞き取り調査と資料分析結果を基に説明する.
  • 静岡県磐田市「ふくの市」の事例
    後藤 卓
    セッションID: 213
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
    会議録・要旨集 フリー
    食の安心・安全志向が一層強まるなか、農産物直売所は地域住民に対し、新鮮・安価で安心できる商品の提供を行っている。そのような状況で、JAはさまざまな形態の直売所を展開している。本研究は農産物直売所を通じて消費者と生産者の交流に基づく地域活性化とその持続性について、静岡県磐田市JA直売所「ふくの市」を事例に検証する。
  • 飯塚 遼
    セッションID: 214
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
    会議録・要旨集 フリー
    近年、食の安全や、土と植物に触れる喜びに対する都市住民の関心の高まりを背景として、市民農園や摘み取り農園などのレクリエーション農業が著しく発展している。そこで、本研究は、レクリエーション農業が都市住民によってどのように利用され、それがどのような影響を地域に与えているのかを東京都練馬区を事例にして明らかにし、都市農業の持続性を検討する。
  • 中川 恵理子
    セッションID: 215
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
    会議録・要旨集 フリー
    1.研究の背景・意義
     近年、食料品・農産物流通の国境を越えた広域化や流通経路の多様化が進んでいる。また、外食産業、加工産業の拡大と大規模量販店の拡大が食料品の生産と流通を消費側から規定する力を持ちつつあるといわれている。
     こうした状況の中で、地理学の分野でも食料の生産、流通、消費を包括的にとらえようとするフードシステム研究が増加している。これらの研究には、流通ルートの変容が地域間価格差を変容させるという指摘が散見される。しかし、その分析内容は、個別の地域や企業に注目したものが多く、時系列的な数量データを用いて価格差の程度や空間パターンを定量的に検討した研究はほとんど存在しない。
     そこで、本研究では、特にはくさいの卸売市場間流通と地域間の価格分布に注目し、1966年から2007年までのマクロな変化を追ったうえで、近年のはくさいの地域間価格差を規定する要因を検討した。はくさいに注目する理由として、生鮮はくさいの自給率がほぼ100%であり、輸入品の影響がほとんどないこと、産地の集中度が他の指定野菜14品目の中でも特に高く 、産地から消費地までの距離を算出しやすいことが挙げられる。

    2.研究の目的と方法
     本研究の目的は、卸売価格と小売価格の空間パターンの時系列的変化とその規定要因を検討することである。そのために、まず、1966年から2009年までの47都道府県の県庁所在地における小売価格の年平均小売価格と、全国89の卸売市場における年平均卸売価格の地理的分布を描き、その特徴と変遷を考察した。また、価格の変動係数の時系列的変化とその要因を検討した。

    3.現段階における分析結果
     1966年から2009年にかけて、小売価格の地域間格差は年次間の変動がみられるものの、おおまかに、価格が平準化される年、西高東低の様相を表す年とその逆になる年の3種類に分類される。
    累年データの変動係数をみると、はくさいの地域間価格差は、緩やかに平準化されてきている。ただし、沖縄が日本へ返還された1973年直後と、1980年代初頭に急激に変動係数の値が上昇した時点が存在する。
     卸売数量と卸売価格の関係には、卸売数量の多い市場ほど全国平均価格 に近い価格での取引が多いという傾向がみられる。特に、突出して取扱規模が大きい東京の市場では平均価格に極めて近い値で取引が行われている。これは、規模の大きな市場がプライスリーダーシップを発揮している可能性を示唆している。
     本発表では、さらに、このような小売または卸売価格の空間パターンが生まれる要因の特定を試みたい。具体的には、需給変動、転送ネットワークと価格の分布の関係を検討する。
  • JAいわて中央の取り組み
    大竹 伸郎
    セッションID: 216
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
    会議録・要旨集 フリー
    _I_.はじめに
     2007年度から導入された「品目横断的経営安定対策」により,交付金の対象となる認定農業者や経営体に対して面積要件が課せられることとなった.これを受けて,2006から2007年度には集落営農の設立件数が大幅に増大している.これまで地域営農の設立による効果については,農学や農業経済学を中心に研究がなされている.地域営農の効果としては,労働力の補完や担い手農家の育成,耕作放棄地発生の抑制,ブロックローテーションによる効率的な転作の実現や分散錯圃の解消,農業機械の効率的利用,農村機能の維持による土地・水・環境等の保全機能の発揮などがあげられている。しかしながら、地域営農の取り組み内容にはこれらの効果をすべて発揮しているものもあれば,集団転作のみにとどまっているものも少なくない. 特に2007年以降、設立件数が急増している東北地方や九州地方には,「枝番管理型」とよばれる経理の一元化への対応に重点をおいている組織が多いという特徴がある(角田2009).本報告ではこうした問題を受けて,今後,地域営農組織をより有効なものとして活用し,持続可能な水田稲作農業の実現につなげるための一つの方法として,JAによる地域農業再生への取り組みを検証する.

    _II_.研究対象地域の概要と本報告の内容
     本研究の対象であるJAいわて中央の管轄地域である盛岡市・矢巾町・紫波町は,北上盆地の北部地域に位置している.なかでも紫波町は,市町村別のモチ米栽培面積が全国一位であり,岩手県の中心的な稲作地域となっている.同地域内においても,2007年の「品目横断的経営安定対策」への対応を契機として,8つの地域営農組織が設立されている.そのなかには水田面積が500ha以上という日本最大規模の経営体も2つ存在している.本報告では,この大規模経営体の一つであるM営農組合を取り上げ,同組合による担い手問題や土地利用調整などへの対応を考察する.さらにM営農組合の中心的な担い手組織の営農状況や多角化戦略の分析を行うとともに,JAいわて中央が取り組む「花束事業」やモチ米の契約栽培化の推進など地域農業再編にJAが果たす役割を報告する.
  • 東広島市西条町福成寺を事例として
    神田 竜也
    セッションID: 217
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
    会議録・要旨集 フリー
     福成寺集落の水田放牧地(7.6ha)は、集落協定対象地および法人への利用権設定地であった。法人では放牧による農地管理を主たる目的とするため、水田(水稲作付)は個人管理である。法人所有の繁殖成牛7頭は、集落の東西2牧区を中心に放牧されている。水田放牧の推進力としては、会長や飼養管理担当の働きかけが重要であった。法人では、放牧に関する集会を月1回開催し、これは集落の会合と連動して実施されている。放牧を中心にすえた農地管理の共同実施は、従来の集落営農とは異なり、人口の少ない地域でも対応可能であることを示唆している。本事例において集落維持には、池や道路管理に参加する非居住者の存在が大きく、あわせて放牧による農地管理も同様の状況である。したがって、放牧は地域自治の範囲まで及んだ取り組みといえる。一方、新規参入による集落型放牧では、放牧開始初期の収入が不安定となるので、いかに資金調達できるかが重要となる。また、実施主体がのちに資金を稼ぐ見通しをおかないと、存続はいたって困難となるだろう。飼養管理においては、現在の担当者に替わる人員の確保がのぞまれる。従来では、肉用牛放牧がイノシシの獣害防止に役立つとの報告がみられるが、本事例では必ずしもそうではないことが明らかとなった。現時点では仮説の域を脱していないが、周囲の土地の荒廃状況や生息状況なども関連していると考えられる。以上の問題はあるものの、棚田荒廃後の保全管理、とくに団地化した耕作放棄地の面的な管理に対して放牧が有効であるといえる。今後は、中山間地域における粗放管理と集約的な管理との土地利用の組み合わせを考えていく必要があろう。
  • 植本 琴美
    セッションID: 218
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
    会議録・要旨集 フリー
    本研究では、地域の木質バイオマス資源を地域の基幹産業である施設園芸に活用することで、エネルギーの自立、地域産業の活性化、地域の森林環境の保全を図ることを経営目標とした地域経営システムの構築を目指している。本事業で目指す地域経営システムは、木質バイオマス事業に対する農家および山林所有者の振る舞いによって、成り立っている。よって、木質ペレットボイラーを導入するかどうかの需要側の判断モデルと森林資源を木質ペレットの原料として供給してくれるかどうかの供給者側の協力モデルの意識モデルを組み合わせることによって、地域経営システムの全体像は構成されている。本稿では、木質ペレットの原料の供給源である森林の現状を把握し、森林資源を燃料として利活用することに対する山林所有者の意識構造モデルを構築した。
  • 伊賀 聖屋
    セッションID: 219
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
    会議録・要旨集 フリー
    日本では,食のグローバル化・工業化を背景として,小規模な食品企業による良質食品市場の形成が進展してきた.しかし一方で,大規模な食品企業を軸とした良質食品の生産・流通も近年活発化してきている.そのような大規模企業主導のオルタナティヴな食料供給ネットワーク(以下,大規模AFN)では,「特定産地との原料農産物の契約栽培」や「消費者への直接販売」などが展開されており,一見しただけでは,小規模企業を核とするAFN(以下,小規模AFN)との差異が不明瞭である.ここでの両者の差異は,単なるネットワークの規模の違いだけであろうか.おそらくそれは,「アクターの行為の社会的・領域的埋め込みの度合い」や「アクター間の取引における公正性」,「製品の質の評価基準」とも関連しているものと考えられる.すなわち,「ネットワークの社会的・空間的構造がアクターの行為に与える影響の強弱」や「取引におけるアクター間の権力関係の有無」,「質に占める商業的意味合いの強弱」によって両者の差異は規定されていると推察される.

    AFNをめぐる従来の研究では,特定の地理的空間に立脚した比較的小規模なAFNに主な関心が寄せられてきた.それゆえ,その競合相手ともいえる大規模AFNが具体的にどのような性格をもつものなのかについては十分検討されてこなかった.大規模な食品企業が良質食品市場に参入し,「食料の地理」がより一層曖昧な様相を呈している昨今にあっては,一見同様の良質食品を供給する大規模AFNと小規模AFNの社会的・空間的・経済的差異を査定し,AFNにおける「オルタナティヴは何なのか」を問う必要がある.

    そこで本研究では,大規模AFNにおけるオルタナティヴ性alternativenessのもつ意味を,「取引される製品の質」や「ネットワークの質」の観点から検討する.具体的には,1)良質食品を市場投入する大規模な食品企業が「良質」概念をいかに捉え,その実現に向けどのような原料生産・調達体系を構築しているのか,2)そこでの企業と原料生産者との連関には具体的にどのような個人的紐帯や権力関係が認められ,それらは各アクターの行為にどのような影響を及ぼすのか,3)大規模AFNにおける「製品/ネットワークの質」の特徴が,「小規模AFNにみられるそれ」(伊賀 2008)と具体的にどのように異なるのか,という諸点を明らかにする.
  • 初沢 敏生
    セッションID: 220
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
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     長野県原村では、かつて「ぼろ機織り」と呼ばれる裂織が地機で作られていた。しかし、戦後になると屑繭を使用した紬織物などが中心となり、裂織はあまり生産されなくなった。さらに1960年代頃からレタス栽培が盛んになるとその収入によって衣服を十分に購入することができるようになり、地機そのものも使用されなくなっている。裂織や地機は各家で技術等が伝承されてきたが、現在ではそれも途絶えている。
     これを復活させたのが、原村立八ヶ岳美術館である。1990年代末に裂織作家のN氏が原村で裂織に出会ったことがきっかけとなり、2002年、八ヶ岳美術館において裂織の作品展を開催した。N氏の作品は裂織を芸術的に昇華させたものであり、高い評価を得た。これを契機として八ヶ岳美術館は裂織や染織を対象とした企画展を継続的に開催、2005年には全国裂織展移動展を開催し、2006年以降は隔年で「あなたが選ぶ、信州の裂織展」を開催している。美術館は裂織の普及に大きな役割を果たしている。
     八ヶ岳美術館がこのような活動を始めた目的は、裂織に関する情報発信を行うことにある。原村においても裂織を体験しているのは高齢者の世代だけであり、その下の世代には伝えられていない。それで、特に子どもたちを対象として、裂織などを用いなければ生活できない時代があったことを伝えたいと考えている。そのため、イベントを行う際は必ず子ども教室を実施している。
     このような美術館の動きに対応して、N氏は2003年から原村で織機の体験指導を開始、また、同年、信州さきおりの会が組織され、長野県内を中心として展示会活動などを行っている。
     これにともない、原村では裂織を製作する高齢者が増加している。高齢者はかつて裂織を製作した経験があり、裂織の技術が残存していた。現在ではこのような製作者を中心に手織り保存会が形成されている。ただし、そこで製作されているのは必ずしも伝統的な裂織ばかりではない。近年は、裂織に工芸的な側面を求める動きが強まってきており、美大出身の指導者が指導して柄や絵を出すようになってきている。アートとしての裂織が求められるようになっていると言えよう。
     この背景として、裂織が商品として販売されるようになってきていることが指摘できる。原村では、2005年から裂織フェアを毎年開催している。これは信州さきおりの会が主催しているもので、保存会の村民が作成した裂織などを販売している。これは、公募展等に出品することのできない村民の発表の場としての役割も果たしている。このようなイベントの開催を通して、原村が裂織の拠点となっていることをPRできるようになった。行政も「田舎暮らし体験ツアー」の中に裂織体験を盛り込むなど、裂織は、地域の観光資源、文化資源としての役割も果たすようになってきている。
     原村における裂織は高度経済成長期までの経済構造の変化によって存立基盤を喪失し、伝承が途絶えた。しかし、2000年代以降、作家と美術館の活動によって裂織の新しい価値が明らかにされるとともに、新たな伝承基盤が形成された。また、新たな観光・文化資源として行政の支援も得られている。これが現在の原村における裂織の存立基盤を形成していると言えよう。
     一方、課題もある。前述のように、近年は創造的なアートとしての裂織へと変化しつつあり、そこからは地域性は見えにくい。また、各作家は独自に新しい作品を追求しているため、地域間の交流も行いにくい。本来、裂織は地域の歴史と風土に育まれてきたものであるが、現在の裂織はそれから遊離してしまっているのである。しかし新しい裂織も新たな地域アイデンティティの創造にも役立てることは可能であろう。このような視点も含めて振興を進めていくことが求められる。
  • 堤 純
    セッションID: 301
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
    会議録・要旨集 フリー
    はじめに
     本報告は,オーストラリアのメルボルン大都市圏(2006年の国勢調査時の人口は359万人)を対象として,交通手段別にみた通勤流動のパターンを考察することを通して大都市圏構造の一端を解明することを目的とする。
     使用するデータは,オーストラリア統計局(以下,ABS)の発行する2006年国勢調査データの公開サービス(有料)の一部機能である「テーブル・ビルダー」を利用して独自に作成したデータを用いた。これにより,大都市圏全域の小統計区であるCD(Collection District)を対象に,民族的な出自,宗教,所得,学歴等々家庭で使用する言語や所得,通勤に使用する交通手段等に関する詳細なデータが取得可能となった。また,単一属性のみならず,「通勤に自家用車を利用」かつ「週給2,000豪ドル以上の高所得者」というような2種類の属性をクロスさせたデータも,特定の大都市圏や都市,中統計区SLA(Statistical Local Area),CDといった任意の地区に対して入手可能である。

    結果の概要
     図1は,メルボルン大都市圏において最大の雇用をもつメルボルン都心(Melbourne (C) - Inner)SLAへの通勤者(148,033人)のうち約21%に相当する自家用車による通勤者(30,816人)の分布をCD別に表したものである。 また,図2は,同大都市圏において第二の雇用をもつKingston (C) – North SLA(約20km圏)への通勤者(60,527人)のうち約74.3%に相当する自家用車のみによる通勤者(44,982人)の分布をCD別に表したものである。 これらの結果,都心への通勤者は公共交通によるものが過半数を占める(Fujii et al. 2006)が,公共交通機関の充実した10km圏内の高所得地区を中心に自家用車による通勤がかなりみられること,また,20km郊外のKingston Northへの通勤は,公共交通機関の分布が粗である郊外間を自家用車により通勤するパターンがかなり広域にわたること等が確認できる。他の社会・経済的属性との関連については当日報告する。
  • 遠藤 幸子
    セッションID: 302
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
    会議録・要旨集 フリー
    ドイツの軍事都市における都市開発について、軍用地の転用ならびに新しい都市機能の創設という2つの異なる視点から考察した。
  • 菊池 慶之, 高岡 英生, 谷 和也, 林 述斌
    セッションID: 303
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
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    1.問題の所在
    「商品房」とは商品として販売するために開発された不動産であり,1978年の改革開放政策の開始とともに中国の不動産市場に登場したものである.なかでも民間分譲マンションである居住用「商品房」は,1998年の住宅制度改革以降,都市部における住宅の新規供給のほとんどを占めるようになった(菊池ほか2009).
    改革開放以前の中国においては,不動産は公有であり,国や「単位」と呼ばれる公営企業あるいは行政機関が住宅を建設し住民に提供していた.このような公有住宅は,家賃が極めて低く設定されていた反面,一人当たりの居室面積が狭少で,設備等の水準も劣ったものであった.
    近年の上海では,民間分譲マンションの供給の拡大とともに,一人当たりの居室面積は急速に拡大している.そこで本研究では,このような居住用「商品房」の展開とその居住者の特性の検討を通して,住宅ストックの質的転換のプロセスを明らかにするものである.
    2.上海市における居住用「商品房」の展開
    住宅ストックを床面積からみると,上海市における住宅ストックの約9割が,改革開放以後に供給された共同建住宅によって占められており,特に1998年以降は,8階建て以上の高層共同住宅が急増している.2008年末には高層共同住宅は上海の住宅ストックの34%を占めており,大部分は価格の高騰している民間分譲マンションと考えられる.
    また,地域的には郊外における高層共同住宅の拡大に特徴がある.都心における民間分譲マンションの供給は2007年ごろから減少し始めており,近年では量的な拡大よりも,高価格帯の民間分譲マンションの供給による高級住宅地の形成に移行しつつある.一方,郊外における住宅ストックは2004~08年の間に約1.7倍に拡大した.中でも増加率が最も大きかったのは8階建て以上の高層共同住宅である.
    3.居住用「商品房」の問題点
    戦後の日本においては,継続的な所得と地価の上昇を背景に,「借家→分譲マンション→戸建て」と,転居と転売を繰り返しながら住宅水準を向上させる「住宅すごろく」が観察されてきた.しかし,2008年の上海の平均的なマンション価格は,平均世帯年収の21.5倍にも達しており,1990年の日本の首都圏における年収倍率8.0倍に比べても住宅価格の高騰が著しい.また上海においては,華僑をはじめとする外国人の住宅投資が多いほか,月収3,000元以上の高所得者層のうち19%の人が2戸以上住宅を所有しているとの調査もあり,住宅ストックの高所得者層への偏在が進んでいる.
    また中国においては,住宅取得の困難な農村出身者である流動人口が都市人口の多くを占めること,所得格差が先進国の過去の状況に比較しても非常に大きいこと,賃貸住宅市場が未発達で居住用「商品房」とそれ以外の住宅に質的な格差があることなどの問題もある.
    4.まとめ
    以上の点から,上海における居住用「商品房」の展開は,本格的な開始からまだ10年程度に過ぎないが,供給量の急速な拡大によって住宅ストックの質的向上に結びついていることが読み取れる.ただし,価格高騰による異常な年収倍率の出現や,富裕層による投機的需要の可能性も示唆されており,居住用「商品房」購入者層の実態把握や,居住者の住宅購入プロセスと住宅の質的変化を検討する必要がある. 文献
    菊池慶之・?岡英生・谷和也・林述斌 2009.上海における住宅マーケット形成の背景と住宅ストックの特徴.不動産研究(日本不動産研究所)Vol51-4,p79-89.
    本研究の遂行に当たっては,(社)不動産流通経営協会 平成21年度研究助成を使用した.
  • 白坂  蕃, 張 貴 民, 池  俊介, 杜 國 慶
    セッションID: 304
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
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     チベット自治区と接する雲南省北西部(迪慶藏族自治州、総人口約30万人)には、約10万人の西藏族が居住している。その主な地域は迪慶藏族自治州徳欽県(人口約5.5万人)である。西藏族は標高3,500m前後に居住し、耕作限界に近いために農耕のみでは生活を維持できない。そこで夏季には森林限界をこえた4,500m以上の高地の草原まで牦牛(ヤク, Boss grunniens)の移牧をする。つまり、かれらの生業は「母村における農耕+高山へのヤクの移牧」という組み合わせである。その関係は相互補完的で、どちらが欠けても彼らの生活は成り立たない。彼らは、自然環境の特性に合わせて自然の一員として住むという、いわばbio-regionalismとでもいうべき考えのもとに、きわめて自然環境に適応した生活を営んでいる。  霧濃頂村は標高3,540mにあり、戸数21戸の自然村である。生産責任制は1979年に導入された。村民は「生産責任制導入以前のこの村は貧しい村だったが、現在ではなんとか普通の生活ができるようになった」という。    集落の周辺を取り巻く耕地では、主作物は青稞・春小麦・万菁(飼料用のカブ)に加えて、近年では冬青稞、冬小麦の栽培も若干みられる。ヤク(牦牛)やピエンの移牧は、例年6月中旬に村落からウシを1日で一気にプチン・ジャマートン(4,248m, テント村)まで移動し、ここに約90日滞在する。このテントサイトを「ラ・プウ」(ラはテントの生地;プウはテントの意)という。筆者の観察によれば、この辺りの森林限界はほぼ4,200mであり、彼らのsummer range(夏村;ジュグラまたはデュカ)はこれを超えており、その周辺はいわゆる草原(プン, Alpine pasture)になっている。テント生活のための薪の調達には、彼らは森林限界からあまり離れたくはないが、高地であればあるほどウシには質の良い草本が得られる。ウシは、8月には雪線(ほぼ4,700m)の直下まで上り詰める。ウシは自然交配である。  ウシは、テントを中心としてせいぜい半径5kmの範囲で採餌する。搾乳のために、牧童は朝夕毎回ウシを集める作業があるが、あまり困難な作業ではない。  夏のテントでは朝夕の二回、搾乳をする。搾乳後、バター(メエ)とチーズ(ティエ)をつくる。バターはそのまま1ヶ月保存できる。チーズは生のままでは保存できないので、テントの干棚の上で1日かけて「乾燥した燻製のチーズ(キャラまたはデム)」をつくる。  9月中旬にはテントをたたみ、ウシを村落近く(標高3,600m)にまでおろし、ここに数日滞在し、村落での青稞の収穫が終了してからウシを村内に入れことができる。ウシは冬季には舎飼いされ、村落周辺で草を食むが、飼料(乾燥した万菁というカブ菜)も与える。  バターやチーズは、消費者が直接生産者宅に購入に訪れることが多い。また数戸の生産者が共同して市場で販売することもある。市場は徳欽であることもあるし、親戚などがまとめて遠く麗江まで運搬して行くこともある。  筆者の聞き取りによれば、インフォーマントであるA氏(6人家族)の1993年の年間1,000元くらいであった。しかし2008年9月の聞き取りによれば、収入は毎年かわるが、2007年は11,000〜12,000元くらいだった。このなかには冬虫夏草の採集・販売5,000〜6,000元が含まれる(最近は値が安定している)。総収入に占めるバター・チーズの割合は、例年50%くらいである。A氏は、村落全21戸のなかでは「収入は多い方の部類だ」という。  徳欽地域で、3,000mを超える山間地に暮らす人びとを観察していると、家族レベルでも村落レベルでも牧畜と農耕とが不可分の生業として一体化されている。このような農耕と牧畜の絶妙のコンビネーションのうえに成り立つ生業を何と表現したらよいのか適当な専門用語が見いだせない。しかし一応、agro-transhumance complex という表現を与えておくことにする。日本語は「耕牧文化複合」としておく。■
  • 新平県南碱村を事例に
    張  貴民, 白坂 蕃, 池 俊介, 杜 国慶
    セッションID: 305
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
    会議録・要旨集 フリー
     中国には55の少数民族がある。雲南省には25の少数民族があり約1,416万人が暮らしている。本報告は雲南省新平彝族傣族自治県(以下新平県という)南碱自然村を事例として、現地調査の結果を中心に少数民族地域の生業の変化とその要因を分析する。
     新平県は省都昆明市の南西部にあり昆明市から176kmのところにある。哀牢山の東麓に位置し、元江(新平県内では戛洒江という)は北北西から南南西へと縦貫している。亜熱帯気候帯に属するが、県内の標高差(最高海抜3,165.9m、最低海抜420m)が3,586mに達して、標高差による気候の差異が顕著である。国土面積は4,223㎢で、人口は27万人(2005年) 。彝族・傣族・漢族・哈尼族など17の民族があり、少数民族は県総人口の70%を占めている。特に花腰傣(傣族の一部)は4.2万人があり、主に元江河谷の漠沙鎮・腰街鎮・戛洒鎮と水塘鎮に集中している 。
     現地調査を実施した南碱自然村は県庁所在地の桂山鎮から306省道で南西へ43kmのところ、元江の河谷に位置している。海抜480m、年間降水量900mm、最高気温42℃、最低気温15℃、年平均気温24℃、乾燥高温な気候である。傣族の自然村で、農家56戸、人口275人。南碱自然村は数百年の歴史があり、純粋な傣族の村である。独特な土掌房に暮らしている。村人は「傣卡」と自称するが、その独特な服装(とくに腰部の装飾)から「花腰傣」と呼ばれている 。
     耕地面積496ムー(水田212ムー、畑284ムー) 。主に水稲・サトウキビ・レイチ・野菜などを栽培している(役場で聞き取り)。1998年の統計によれば、南碱村は食糧の収穫量が182万kg、サトウキビの収穫量が1,020t、農業収入が56万元、1人当たりの収入が2,157元であった(王、2002)。
     農業生産請負制の導入初期、農民の収入を増やすため換金作物であるサトウキビの栽培範囲を山の斜面まで広げたため、植生が破壊され土壌侵食が目立った。また、上流の元江沿いに製糖工場・製紙工場・銅鉱山があるため、水が汚染され、地域開発の負の影響がでてきた。村は2000年から農業構造の調整を乗り出した。サトウキビの栽培面積を減らし、傾斜地では退耕還林を進めた。陸稲とその再生稲、そしてトウモロコシと晩稲との2毛作の導入を促した。また、村は2000年に130ムーの台湾青棗を導入して、翌年に20万元の利益が得られ、1戸当たり3,700元の収入もあった。2001年に150ムーの台湾青棗を新たに栽培し、2,676株のレイチも導入した(王、2002)。
     伝統的な作物から商品作物にシフトすることによって土地生産性と労働生産性を高める。南碱村の自然条件は熱帯果物と冬野菜の栽培に適している。レイチ・台湾青棗・マレー桃・蓮霧などの果物、そして約100ムーの冬野菜が実験的に栽培されている。村近くの広節山の麓に30ムーの池が作られ、魚やカモが養殖され、週末に近くの工場労働者が釣りに来る。
     豊かになりつつある南碱村の景観も街路の整備、伝統的民居である土掌房が新しいデザインの家屋に取って代わって変化している。
  • 境田 清隆, 咏 梅, 大月 義徳
    セッションID: 306
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
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    1. はじめに
    中国内蒙古の砂漠化は、日本に飛来する黄砂の増加などからも注目されてきたが、内蒙古の砂漠化と日本で観測される黄砂との間にはいくつもの媒介項が存在する。発表者らは2003年度から内蒙古の砂漠化を共同で研究してきたが、ここでは2007年から実施してきた砂塵暴の観測事例と、砂塵暴発生に関わる気候条件の考察結果について報告する。

    2. 方法
    中国内蒙古自治区武川県五福号村において、2007年から春季(4月上旬~6月中旬)に、自動撮影の定点カメラ(KADEC21-EYE2)を用いて砂塵暴発生状況を監視した。昼間1時間間隔で得られた画像により、約1km隔てた林地が砂塵で隠れた日時を砂塵暴発生時とした。またカメラから約2km離れた大豆鋪郷役場で気象観測を行い、当該期間における気温・降水量・気圧・風の時間値と比較した。さらに土壌の凍結・融解も重要な条件と考え、地温および土壌水分の測定も行なった。

    3. 砂塵暴の発生
     2007年の春季には典型的な砂塵暴が4日発生したが、2008年には2日、2009年は4日、2010年は2日発生した。
    発生時には付近で低気圧の通過が認められるが、風速は必ずしも大きくはない。また発生日の2~4日後に日本で黄砂が観測されることが多かった。

    4. 地温と土壌水分
     砂塵暴の発生には土壌水分も重要な要素である。冬季に凍結した土壌は3月末から4月末にかけて地表面から融解が進行し、その際、土壌水分の上昇が観測される。この時期が早まると、雨季の到来まで土壌水分の低下季(乾燥季)が長引くことになる。春季気温が異常に高かった2002年は、まさにその状態で砂塵暴が多発した可能性があり、この期間では2007年と2009年でその傾向が見られる。2008年は4月下旬から5月上旬にかけて降雪頻繁にあり、2010年も春季を通して低温であった。
    内蒙古において夏季の植生量は6-7月降水量と高い正相関があるが、4-5月の気温と負相関を呈することがあり、それは春季の砂塵暴の発生と無関係ではないと考えられる。冬季から春季にかけてこの地域の温暖化傾向は顕著であり、その面からも沙漠化への圧力は増大しているといえよう。(本研究は科研費基盤研究B代表者 大月義徳No.20401005を使用している。)
  • 大月 義徳, 西城 潔, 蘇徳 斯琴, 関根 良平, 佐々木 達
    セッションID: 307
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
    会議録・要旨集 フリー
    1. はじめに
     中国内蒙古自治区における土地条件劣化の一事例として、同自治区西部、黄河左岸、烏蘭布和沙漠東縁の沙地農地境界の土地条件変化および居住農牧民の土地利用・生計維持手段変化に関わる共同現地調査を行っている。本発表は、このうち沙地の前進移動を含む地形変化の実態について報告することを目的とする。調査対象地域は、烏海市街の西方約10 km、阿拉善左旗 巴彦木仁蘇木 巴彦喜桂集落付近に位置する。同集落付近では、防砂植林樹木が砂に埋没している状況が数箇所で認められ、沙地前縁の近年の移動が予想される。烏海における年平均気温は9.3℃、年平均降水量は162 mmとされている(内蒙古自治区地図制印院, 2006)。
    2. 沙地前縁の埋没河成段丘と完新世前期以降の沙地前進量
     集落背後の沙地前縁付近には4 km前後あるいはそれ以上の区間にわたり、沙地に埋没した河成段丘面・段丘崖が認められる。段丘堆積物はシルト主体の細粒砂~細粒シルトからなり(図)、周囲の風成砂丘砂(極めて淘汰良好な中粒砂主体)とは明瞭に異なり、また付近の黄河現河床堆積物と類似する岩相を有する。段丘堆積物最上部から、Radix aff. plicatula Benson, Gyraulus aff. albus (Müller) の淡水産貝化石2種が見出される(元東北大学総合学術博物館 島本昌憲博士の鑑定による)。段丘堆積物最上部の腐植層2層準、上記貝化石2種、合計4点の14C年代測定を実施し、7.2~8.6 ka(δ13C補正済)の年代が明らかになった。これらの値は、内蒙古地下水ヒ素汚染研究グループ(2007)によって河套平野北縁、最低位段丘堆積物から得られた年代値8,050±170 BPとおおむね一致する値といえる。
     本研究の調査地域において過去約8,000年間の沙地前進量は、段丘崖から現在の沙地前縁に至る約400 m.(北東方向)、また砂丘砂に埋没する河成段丘面の広がりの詳細は不明ではあるが、段丘面の埋没地点から現在の沙地前縁まで北東方向に1,500~2,800 m程度以上と推定される箇所がある。
    3. 近年の沙地前進速度および砂丘の地形変化
     巴彦喜桂は戸数約40の回族集落であり、主として農牧業を生業とする(関根ほか発表、当学会要旨)。住民への聞き取りによれば、3月末~6月にかけて砂嵐・飛砂が著しく、過去数十年にわたり集落背後の沙地が集落方に前進している実感を有する住民も少なくなく、放牧用草地が沙地に埋没したとの証言もみられた。現在、沙地に埋没する樹木は、1958年以降、ヤナギ類を主とする防砂植林によるものであること、また1980年代半ばの旧堤防設置直前までは、黄河の河川氾濫水が集落内、場合によっては集落背後の段丘崖に達していたとのことから、その後の沙地移動量を考慮すると、近年において1~10 m/yr程度の速度で北東方向への沙地前進が生じていた可能性もある。
     他方、調査対象地域など烏蘭布和沙漠東縁全体において、バルハン砂丘を含む砂丘の非対称な斜面形状から、北西風の卓越による砂丘形成が推定され、このことは調査地に比較的近く入手可能な吉蘭泰(阿拉善左旗)気象データにて、3~6月における強風(日最大10分風速10m/s以上の風)時の風向がNNW-WNWに集中することと一致する。これより本地域の沙地移動の主体は、この卓越風によるものと考えられるが、上述した沙地前進量・前進速度の方向とはほぼ直交する。また、2008年9月~2009年9月にかけて沙地が数m前進し、道路の埋没がみられる地点もみられる一方で、2009年9月現地調査と2004年10月の衛星画像によるものとで沙地前縁位置に大きな差異を見出し難い箇所も存在する。以上のように、沙地移動方向、真の沙地移動量、あるいは砂丘の体積変化量等のより明確な見積もりが、今後の課題のひとつと捉えられる。
  • 急拡大したヒマワリ栽培を中心に
    関根 良平, 佐々木 達, 蘇徳 斯琴, 大月 義徳, 西城 潔
    セッションID: 308
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
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     本報告では、中国内蒙古自治区においてより乾燥度の高い地域である、同自治区西部の烏蘭布和沙漠東縁かつ黄河沿岸にある沙地農地境界に位置する農村をとりあげる。本報告の目的は、黄河流域における灌漑農業の現状を確認しながら、世帯レベルでのヒマワリ栽培の経営状況を把握し、それを可能とした地域的な特徴や予測される問題点について検討することである。当地域における近年の沙地前進速度や沙地前進に伴う土地利用変化、ヒマワリ栽培への特化および居住民の生活環境変化については大月ほか(2009)においてその概要を検討したが、本報告では世帯レベルでの実証的データをもとにヒマワリ栽培の展開経営状況を把握し、それを可能とした地域的な特徴や予測される問題点について検討する。
     阿拉前左旗の巴彦喜桂(モンゴル語で「豊かな森林」という意味)集落は約40世帯からなり、回族・蒙古族・漢族で構成される。元々は蒙古族中心であり、1980年代までほとんどが羊を中心とした牧畜を営み、現在沙漠化している村の西部も草地として利用され、黄河河岸も同様に草地として利用してきたが、1980年代後半になると沙地前縁の移動に加え山羊の過放牧により西側の草地が消滅し、蒙古族は次々と移住し回族の住民が構成上増加した。農業生産については黄河の氾濫が頻繁にあり農地としての利用には不向きであったという。
     また、当集落でも周辺地域と同様1998年から農地/草地分割政策が実施、かつ草地(実態はほぼ沙漠化)についてはやや遅れて2006年から形式的に禁牧政策がとられ補助金が支給されるようになるが、1990年前半から徐々に各世帯でヒマワリ栽培が導入・展開していった。そして2003年に新たな堤防が建設される。このことは、農地分割によって各々の地所が確定したのに加え、新堤防の建設によりその集落側の農地が河川の氾濫という自然災害リスクを減じるとともに、黄河側の農地は氾濫がなければ収入に結びつく農地として位置づけられるという効果をもたらした。結果、各世帯は1990年代後半の牧畜業の崩壊という事態を、ヒマワリを導入した農業生産への転換によって対応したのである。
     世帯レベルにおける農業・牧畜の経営状況をみると、ヒマワリはこれまで報告者らが検討してきた酪農などに比べて高い収益性のある品目であり、沙地の前進によって放棄された住宅や塩害のみられる農地が散在する同じ集落内に、周辺地域内でトップクラスにある生活レベルの住民が居住するという、ある意味で特異な状況が現出している。ただし、この状況は持続的なものではないことは明らかである。これまで新堤防建設による洪水リスクの回避や、時を同じくして黄河の流量が減り、少なくともここ10年は大きく氾濫することがなかった(と住民は認識している)ことで、黄河河岸のヒマワリ栽培農地を継続的に確保し、あるいは拡大することが可能であったが、堤防周辺の農地(特に集落側)における収量が年々低下していること、これまでは化学肥料と農薬の投入量を増加することでそれに対応してきたこと、これからもそれを継続していかざるを得ないという悪循環、を住民自身も認識している一方で、それを解決しうる有効な方策を持ちえるわけではなく、化学肥料・農薬多投以外の何らかの対応をしているわけでもない。強いていえば、経営的な対応としてのさらなる規模拡大である。 また、現在は高収益をあげているヒマワリ栽培ではあるが、その販路は結局のところ「经纪人」と呼ばれるブローカー(仲買業者)に依存しているのが実態であり、所得形成・世帯維持戦略のヘゲモニーを彼ら住民が持ち合わせていない。
     このように、真の意味での「三農問題」の解決をめざすのであれば、それが経済的側面のみならず地域環境にとって持続可能であるのかどうかが問われていることをこの事例は物語っており、そのための適切な施策のあり方を考える必要がある。
  • 井戸 雄大
    セッションID: 309
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
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    南部アフリカのジンバブウェでは、植民地期に白人入植者が制定した人種差別的な法律によって、大規模なアフリカ人の土地収用が行われた。土地収用されたアフリカ人は、気候環境の厳しい地域を原住民保留地として指定され、そこに強制移住を強いられることとなった。このように人種に基づく土地所有形態が固定化され、アフリカ人は周縁化されていった。原住民保留地は、人口増加等によって深刻な土地不足が発生し、生活環境が著しく悪化している。独立後、収用された土地を取り戻すべく、政府は白人が所有している土地を買い取り、アフリカ人の土地無し層や独立戦争を戦った退役軍人に分配するという再入植計画を推進した。2006年までに、再入植計画によって、約20万世帯以上が土地を獲得したといわれている。再入植計画は、脱植民地化の重要な過程として認識され、獲得した土地をいかに管理するのかという点が注目されている(Moyo, 2006)。本研究の目的は、土地を得た人々の土地利用の実態を国家の政策の変遷という視点を加えて議論するものである。 再入植計画が実行されたシャンバ県ムフルジ再入植地M村の人々は、政府よって5haの農地、放牧地、家等生活に必要なインフラを与えられ、近隣のコミュナルランド(旧原住民保留地)や様々な地域から再入植を果たしている。彼らの保有する土地の実測調査や航空写真から、すべての世帯で、保有地を隣接する林内放牧地に拡大していることが明らかになった。さらに、保有地の利用状況は様々で、豊富な労働力を用いて土地を利用する世帯が存在する一方、世帯によっては保有面積の40%しか耕作していない例も見られた。各世帯が村内近隣の農業適地に保有地を拡大したために、林内放牧地の新たな開墾は、限界に達している。そこで、近年わずかに残された農業適地をめぐる争いが頻発してきている。この土地争いの調査から、利用する予定のない土地の囲い込みも行われていることが明らかになり、土地の囲い込みが頻発している。 さらに、この住民の保有地の拡大の方法は、2000年を境に大きく性質が変化しており、第2世代や生産拡大をもくろむ世帯が、村から遠方の林内放牧地に次々と農地を開墾するにとどまらず、新村が再入植地内の未利用地に建設されている。この新村には、近隣のコミュナルランドの土地無し層や再入植した世代の子孫が新たな生活を営んでいる。 新村建設や遠方の林内放牧地の開墾の背景には、国家の地域行政機構の再編によって、2000年より伝統的首長が地域の統治に公式に組み込まれたという背景が存在していた。この伝統的首長による土地管理が行われて以降、林内放牧地へのアクセスが緩和され、土地不足に苦しむコミュナルランド住民に対しても土地が平等に分配されたと考えられる。しかし、林内放牧地の減少は、今後の住民の生業活動に大きな影響を与えると考えられる。
  • 資源の私的利用と共的利用の接合に注目して
    藤岡 悠一郎
    セッションID: 310
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
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    1. はじめに
     アフリカの農村社会では、住民の都市部での就労機会の増加や生業の多様化が進むなかで、多額の現金収入を得る富裕者が現れるようになり、農村内部での経済格差が拡大する傾向がみられる。ナミビア北中部に暮らすオヴァンボ農牧民の社会においても、主生業として営まれてきた移牧をともなう半農半牧に従事する人が大多数を占めつつも、都市で就労する人が増加傾向にあり、就労の有無による経済格差が村内で顕著にみられる。このような格差は、1990年まで続く南アフリカによる植民地統治の頃から、アパルトヘイトのなかで構築されてきた契約労働システムにおける賃労働が行われる過程で次第に進行し、独立後のアパルトヘイトの撤廃とともに急速に拡大した。本発表では、経済格差が農牧民の自然資源利用をいかに変容させているのか検討する。特に、土地の囲い込みなどにともなう資源の私的利用と贈与や分配などを介した共的利用が、経済格差の拡大のなかでいかに接合しているのかを検討する。発表では、富裕世帯によって土地が柵で囲い込まれることで設置されている私設放牧地(キャトルポスト)における資源利用と村内に生育する樹木の利用に焦点をあてる。

    2. 方法
     ナミビア北中部に位置するU村に住み込み,30世帯を対象に聞き取り調査と参与観察を実施した.発表では,2004年9月~2005年4月,2007年1月~3月,2010年1月~2010年4月に実施した調査で得たデータをおもに用いる.

    3. 結果と考察
    (1) 1980年代後半から移牧の形態が変化し、雇用牧夫が通年滞在するキャトルポストがかつての乾季放牧地周辺に形成されるようになった。キャトルポストは単に家畜を滞在させる場所として利用されるだけでなく、本村周辺で採集できなくなった資源を獲得する場所として利用されていた。そこで得られる食用昆虫や野生動物、木材などの資源は村に持ち帰られ、主に私的利用が行われるが、一部はオヴァンボ社会の規範の下、他の世帯に贈与された。しかし、このような資源を利用できる世帯が富裕世帯に限られる傾向があり、キャトルポストで得られた資源は富裕世帯から非富裕世帯へと贈与される傾向がみられた。
    (2) U村では,1980年代後半から各世帯が自分の土地を柵で囲い込むようになり,土地とその土地に生育する樹木が私有化される傾向にある.その過程で,かつては伝統的な統治機構が有していた樹木の所有権が各世帯へと移行しつつあり、私的利用が強まりつつあった.こうした利用は柵が設置される前も存在したが、当時は共有の樹木が存在し、ゆるやかな規則のもとで共的利用がされていたが、村のほぼ全ての土地が柵で囲まれることで共有資源がなくなり、樹木の所有本数の世帯差が顕在化していた。しかし、私有化された資源は完全なる私的利用へと移行したわけではなく、樹木の部位によっては他世帯での利用が許容され、共的利用が続けられていた。
    (3) ウルシ科の在来樹木であるマルーラは、果実が醸造酒に加工される。この酒は数人の女性の共同労働によってつくられ、世帯を越えてそれが贈与されることで共的に利用されていた。その贈与は、(1)で述べた贈与と結び付けられて行われることがあり、特にキャトルポストをもたない非富裕世帯が積極的に贈与する傾向がみられた。すなわち、経済格差の拡大のなかで、土地の囲いこみによる資源の私的利用が進みつつあるが、同時に資源の共的利用が私的利用と接合して並存する状況が生じていた。
  • ~南部スーダン・ジュバを事例にして~
    大和田 美香
    セッションID: 311
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
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    1.はじめに
     開発途上国への支援のなかでも、人材の能力強化や生産性向上につながる教育分野への支援の重要性は大きい。特に職業訓練は就業や起業と直接の関連性が高く、労働市場のニーズに対応した人材の育成と供給の役割を果たすことが期待される。本研究では紛争国の復興・開発期における効果的な職業訓練とは何かを、事例地域である南部スーダンの労働市場の把握もふまえ、訓練生の要望と、雇用主の意見の聞き取りを行った上で考察する。

    2.南部スーダンにおける労働市場と職業訓練
     スーダン国では南部と北部の対立から第一次内戦(1954~1972年)、第二次内戦(1983~2005年)が起こり、2005年に南北包括和平合意が署名され平和が訪れた。現在、南部スーダンには自治権が認められている。労働人口のうち約8割を第三次産業、約2割を第一次産業が構成しており、第二次産業はわずかである(JICA, 2007)。インフラ整備が急務であることや、開発援助機関の本部の多くが所在することなどから今後復興・開発が進むうえで特に人材ニーズの高い業種は建設業、自動車整備業、ホテルサービス業であると考えられる。これらの業種の企業への聞き取り調査から、従業員の半数以上が外国人労働者であること、高い職位になるほど外国人労働者の割合が高くなること、人材の採用に関して英語の言語能力が重要であることが分かった。新たな国づくりが進められる中、技能労働の多くが外国人によって担われており、自国での技能を有する人材育成が必要である。また、紛争直後のため地域の住民が生計を向上させるための基礎的な技能訓練も求められている。 このような要請から南部スーダンで日本の独立行政法人 国際協力機構(JICA)による「基礎的技能・職業訓練強化プロジェクト(英語名Project for Improvement of Basic Skills and Vocational Training in Southern Sudan, SAVOT)」が実施中である。公的訓練実施機関と民間訓練実施機関の能力強化を行っている。訓練卒業生への追跡調査(SAVOT, 2008)と満足度調査の結果、卒業生の72%が訓練後就業しており、雇用に貢献していること、59%で収入が増加しており生計向上に寄与していることが分かった。一方54%が長期あるいは短期の契約ベースで働いており、不安定な就業であることも分かった。今後の改善のための要望について、訓練卒業生からは起業の支援、より高いレベルの訓練の実施などが挙げられ、雇用主からは訓練期間の延長、実践を重視したカリキュラムの編成を望む意見が多かった。また、プロジェクトでは除隊兵士の社会復帰のための訓練も行われた。

    3.おわりに
     これらの調査からプロジェクトでは、ジュバの雇用市場において、産業の現場で中核的な役割を担う部門従業員層と起業者層に人材を育成し送り出していることが分かった。また、南部スーダンにおける職業訓練の課題と提言として、(1)政策と資格制度が定められたうえで、(2)公的・民間訓練実施機関が人材の受け手である産業界との結び付きを強め市場のニーズに適したカリキュラム改訂をすること、(3)卒業生の起業支援体制を強化することが挙げられる。むすびに、紛争復興・開発期における職業訓練全般においては、復興期は必要な施設や機材を整備したり、指導員のやる気を引き出したり、運営スタッフの能力強化をしたりすることが特に重要である。また、開発期には訓練機関が自立するための収入創出活動の導入と指導員の質の向上が大切であることが指摘できる。
  • 池谷 和信
    セッションID: 312
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
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    1 はじめに
     現代の発展途上国において、定期市は地域経済の担い手として、人々の楽しみの場として、単なる経済的意義以上の重要な役割を果たしてきた。なかでも南アジアは、市の分布と特性、定期市商人の販売行動などから市の全体像が把握されており、一定の研究蓄積が認められる地域である(石原・溝口編2006)。しかし、定期市のなかで家畜市を対象にしたものは多くない。本報告では、バングラデシュ北部で行われている豚市をめぐる現地調査から、豚市の分布、豚の売買の実際、豚の流通過程を明らかにすることをねらいとする。なお、市で取引される豚に関しては、パプアニューギニアでの研究がみられる。
     一方、報告者は、これまでバングラデシュにおける豚の遊牧と餌資源とのかかわり方や、遊牧豚をめぐる管理技術など、主に生産面に関する研究を行ってきた(Ikeya et al. 2010)。今回は、家畜市をめぐる豚の動きに注目することから、豚の流通面に関する新たな事実を提示する。両者を通して、人・豚関係の全体像が明らかになるであろう。

    2 結果と考察
     2010年5月における2ヵ所の豚市での現地調査の結果、以下のような3点が明らかになった。
    1)分布・立地:バングラデシュの豚市は、マイメンシンディストリクトなどインドのメガラヤ地域に隣接する地域において数ヵ所が見出された。このうち、A市は毎週日曜日、B市は毎週土曜日に行われていたが、他の市はクリスマスを中心とする冬季に開催時期が限定されていた。また、A市は幹線道路沿いで行われ、B市は幹線道路から離れているが家畜の皮が売買される市に近接して行われた。
    2)豚の売買:2つの市は、午前7時ごろに始まり午後1時ごろに終了する。A市では4人の仲買人がそれぞれ別々の囲いに豚を入れて販売する。豚の総数は100~200頭を示す。B市では豚が1袋にそれぞれ2~3頭ずつ入れられ販売されるほかに、約50頭の豚が市から数十m離れて群れで置かれていた。豚の販売者はベンガル系ヒンドゥー教徒やキリスト教徒である一方で、A市での購入者は少数民族マンディ(ガロ)の人々が多かった。彼らは、自転車やオートバイなどで市にアクセスして、自宅で子豚を肥育してから結婚式などの儀式の際に豚を消費する(例:2009年1月の結婚式、16頭の豚利用)。
    3)豚の流通:報告者は、これまで豚の生産者が市場を介在せずに消費地ダッカに豚を運ぶ過程についてある程度の輪郭を把握していたが、今回は市をめぐる小規模流通が存在することがわかった。B市で取引された豚が、翌日、A市で売買され、A市で売れ残った豚は、市以外にも仲買人によって個人に販売されている。また、都市のなかには市で購入した豚を肥育して新たなビジネスを行う人々もいる。さらに、これらの市に供給される豚の大部分は、各地で遊牧している豚である。
     以上のようにバングラデシュの豚市は、豚の地域流通のために不可欠であると同時に、遊牧で生産された豚が少数民族の間に流通するための中間的な役割を担っている。報告では、定期市の介在の有無によって2つのタイプの豚の流通がみられるが、2つに分かれた要因について考察する。
  • -山地における人と環境の結びつきに関する考察-
    山口 哲由
    セッションID: 313
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
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    はじめに

     地理学や人類学において,山地での生業形態は標高に基づいて重層的に形成される多様な標高帯の利用という観点から理解されてきた。例えばヨーロッパアルプスでは,樹林限界を超えた高山草地で家畜を飼養し,標高が低い村落周辺で農耕を営むことで生業を多様化し,厳しい環境での生産基盤を安定させてきた。一方で,これまで辺境とされてきた山地も近年はグローバル経済などに組み込まれており,村落での生業形態も変化している。本研究では,現在の山地における生業形態の事例を示すとともに環境利用の変化を考察する。

    調査地と調査方法

     インド北西部のラダック地方は,ヒマラヤ山脈とカラコルム山脈に挟まれた地域であり,その中央部をインダス川が貫流している。発表者はインダス支流の渓谷に位置するドムカル村で現地調査をおこなった。人びとは標高3,000~4,000mの河岸に住居を構え,灌漑農業を軸としながら牧畜や交易を組み合わせた生業を営んできた。ドムカル村は標高の高い方から上村,中村,下村に分かれるが,特にドムカル上村を中心に職業や学歴,農耕や家畜飼養などに関する聞き取り調査をおこなった。

    ドムカル渓谷における農業生産の概要

     ドムカル渓谷は集落部分だけでも長さ10km以上に及び,上村と下村には1,000mの標高差がある。中村と下村ではソバ,エンドウマメ,ジャガイモなどの自給作物の他,レンズマメ,グリーンピースなどの商品作物が栽培されている。一方で,冷涼な上村で栽培可能な自給作物はオオムギだけになり,他にわずかな商品作物が生産できるのみである。ラダックの村落では,搾乳や犂耕,厩肥生産などを目的とした家畜飼養も重要な役割を担ってきた。ドムカル渓谷では,標高4,000m以上は放牧地となっており,現在は減少傾向にあるものの渓谷全体の家畜がここで放牧されている。上村は農耕に関しては不利な立地であるが,家畜飼養ではドムカル渓谷の環境利用のなかでも重要な意味を担ってきた。

    ドムカル上村の村外居住者の教育や就労の状況

     ラダックでは,集落での農耕や家畜飼養,それらを商品とした交易が生活を支えてきたが,そのあり方はすでに変化している。ドムカル上村には,戸籍上では82世帯552人が属しているが,実際にはその半数は村外居住者となっている(図1)。平均世帯人数は6.7人であるが,村外居住者を除いた場合には1世帯当たり3.4人となる。
     10代の村外居住者はほとんどが就学目的である。特に15歳以上になると村外居住の割合が75%に増加し,高校進学を機会としてドムカル村を離れる傾向がある。今の20代からは男女間の教育機会の偏りも解消されており,ほとんどがハイスクール以上に進学している。
    村外居住者の職業で最も多いのが軍人である。軍では毎月18,000Rs以上の給料を保証され,退役後の年金も充実している。ラダークは現在でも国境係争地であり,紛争も絶えないために,人びとの就職の大きな受け皿となっている。現在,店舗経営に従事しているものでも,軍の退職金を開店資金とした場合も多い。次に多いのが車のドライバーであり,夏季には旅行者のツアーなどで,観光オフシーズンには現地人の荷物運搬で働いており,一年間でおよそ100,000Rsの利益が得られるとされる。また,ツーリストガイドとして働いているものも多い。

    討論

     標高3,000m以上のラダックは農業生産に適していないことに加え,インド政府は低地のコムギやコメを安価で配給しており,生業としての農業の価値は著しく低下している。駐留軍に生鮮野菜などを販売する村落もあるが,多くの村落では農業が安定した現金収入源となることは難しい。人びとは村外での就職を希望しており,それが近年の高学歴志向に反映される。しかし,ラダックでの公務員や私企業への就職は厳しく,実際の就職先は軍隊や観光関連となっているのが現状である。
     かつてのラダックの人びとの生活は,狭くは流域単位でほぼ完結していたと考えられる。農耕と家畜飼養は相補的に結びつき渓谷全体で山地混合農業が成立するなかで,それぞれの集落は標高に応じた役割を担っていた。現在は村落自体が空洞化するなかで,農業が担う役割も低下し,家畜飼養も縮小傾向にある。このことは山地の標高差に基づく多様な自然環境の結び付きの低下を示しているが,同時に異なる標高帯に位置する集落間の社会的な結び付きにも影響を与えていると考えられる。
  • 東ネパール、ソルクンブー郡からの試論
    渡辺 和之
    セッションID: 314
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
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     本発表では、発表者がこれまで見聞した事例をもとに、ヒマラヤ交易が現在まで継続していることを考察する。特に畜産物の交易に注目し、その継続性を検討する。
     ヒマラヤ交易は1960年以前チベットとネパールの間で繰り広げられた交易である。ヒマラヤ山脈には所々通行可能な峠がある。これらの峠付近には家畜の隊商を率いて越える交易民がおり、おもにチベットの岩塩とネパールの穀物を中心に、家畜や羊毛や染料などを物々交易していた。こうした交易はインドから安価な塩がネパール国内に流入したこと、1959年のチベット動乱に伴う国境封鎖で衰退し、かつて交易民と呼ばれていた人々は、金融業や観光業へ移行した。また、カトマンズとラサを結ぶ道路の開通で物流の中心が自動車道路に移った。
     筆者が調査したソルクンブー郡でも、1960年以前、ナンパラ峠を越えてシェルパがチベットと交易していた。ただし、現在でも年に数度、隊商が行き来しているとの話を聞いたことがある。1990年代後半にも、ソル地方で交配したゾプキョ(ヤクと牛のオスの交配雑種)をクンブー地方に出荷し、トレッキングの荷役用にしていたが、その一部はさらにチベットへ転売された。また、ソル地方には、トプテンチュリンというチベット動乱を逃れてきた難民の僧院がある。1990年代後半、その付近に住むシェルパはシャクパと呼ばれるシチューを作る時、だしをとるのに羊の乾燥肉を使っていた。その羊肉はネパールの羊飼いが飼養するものではない。トプテンチュリンの僧院で買ってきたチベット産のものだった。僧院は独自の物流手段を持っていたのである。また、ソル地方には、チャルサというチベット難民のキャンプがあり、そこでチベット絨毯を作っていた。その材料となる羊毛がどこからどう運ばれてきたかは謎である。現在、カトマンズで作られるチベット絨毯の多くは、ニュージーランド産の羊毛を使用しているが、安価な絨毯にはチベットから自動車道路を越えてきた羊毛を使用している。ヒマラヤ越えの自動車道路が開通していない極西ネパールでも、1990年代に羊毛を交易していたとの報告がある(名和1997)。
     以上の話を統合すると、どうも畜産物という点ではヒマラヤ交易は各地で細々とではあるが継続している可能性がある。現在、ネパールでは自動車道路が各地で掘削が進んでいる。たとえば、ヒマラヤ交易の主街道であったアンナプルナ山麓のタコーラでは、ジョムソンまで自動車道路が開通した。チベット側は国境を越え、ムスタンまでトラックで入ることが可能とのことなので、人や隊商で輸送しなければならないのは、ジョムソンからムスタンまでの数十キロだけになった。今後、新たに開通した道路を畜産物がさらに行き来することにもなるのかもしれない。

    文献
    名和克郎1997ヒマラヤを越えて石井溥編『アジア読本ネパール』pp.94-101, 東京:河出書房新社。   
  • チェンマイ周辺を事例にして
    日野 正輝, 丹羽 孝仁
    セッションID: 315
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
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    1.研究の背景と目的
     東南アジアの都市化の様相は1980年代後半に大きく変化した(田坂,1998).小長谷(1997)は,その変化を過剰都市化から「FDI型新中間層都市」への移行と概念化した.McGee & Robinson(1995)は急速に膨張した首都圏域を指してMega Urban Regionと呼んだ.また,労働力移動に関しても,新規学卒者などのフォーマルセクターへの就業を内容とする人口流入が人口移動モデルのなかで大きく描かれてきた(松薗,1998).この傾向は,急増した外資系企業を含めた大都市のフォーマルセクターが求める人材は中等教育以上の学歴を持った若年層であって,農村部の既就業者でないことを示唆するものであった.
    本研究は,タイの都市化の構造変化に関する上記した状況認識から,タイ北部の中心都市チェンマイ周辺に立地する中高等教育機関を対象に新規学卒者の進路先調査を実施したものである.

    2.調査地域および調査対象の概要
    調査地域:チェンマイはタイ北部の中心都市である.2000年現在のチェンマイ郡の人口は238千人(2009年)である.同地域では卓越した規模を誇る.チェンマイの主要な都市機能は行政・教育,商業,観光業である.製造業の集積は小さい(遠藤,1991). 調査方法:チェンマイ周辺に立地する中高等教育機関として,中学・高校一体の中等教育機関3校,職業専門学校3校,大学5校を選び,訪問調査により入学者および新規卒業者の就職先等について聞取り調査を実施した.
     調査対象:中高校3校,職業教育学校3校(国立2校,私立1校),大学5校(国立4校,私立1校)

    3.調査結果
    _丸1_高校卒業生の大半が大学および職業専門学校への進学者であった.進学先は地元大学を強く指向している.
    _丸2_タイでは,普通教育とともに職業教育ははやくから実施され,現在も中卒段階で5年制の職業専門学校に進学する生徒が多い.専門学校への入学者は一部に全国から生徒を集める私立学校があるが,国立の専門学校の場合は自県内からの進学者がほとんどである.専門学校の後期課程修了者の半数が主に地元の大学に編入学している. _丸3_大学入試は基本的にはクォーター入試と一般入試からなる.前者は受験生を北部地域に限定して行われる.全入学者に占めるクォーター入試合格者の比率は大学によって異なる.卒業後の就業先地も,チェンマイ地域に就業する者が卓越する.ただし,大学評価の相対的に高いチェンマイ大学やメーチョ大学ではバンコク都市圏に就職する卒業生は相対的に多く,その点では部分的ではあるが卒業生をバンコク都市圏に送り出す働きをしていると言ってよい.外資系企業が立地する東部臨海地域にあるチョンブリ,ラヨン県にも就職している.

    4. 調査結果の含意
     バンコク大都市圏への人口集中に関連して,地方都市から進学目的による流入者が描かれてきたが,北タイの場合には,大学進学者の多くは地元の大学に進学し,バンコク都市圏に転出する比率は低い.大卒者の場合も,地元に留まる者が多かった点は,タイの若年人口の地域間移動を理解する上で留意しておく必要がある.加えて,現在タイは「産業構造の高度化に先行する高学歴社会の到来」の状況にあると言ってよい.そのためタイ社会にとっては今後高学歴者の雇用創出が課題になると同時に,低賃金労働部門での外国人労働力への依存が高まることが予想される.他方,日系企業を含めた外資企業においては,安価な若年労働力を大量に確保することは大都市圏のみならず地方においても困難になると予想される.

    参考文献
    遠藤 元(1991):北タイ,チェンマイ市の人口成長とその要因.経済地理学年報,37,201-224頁.
    小長谷一之(1997):アジア都市経済と都市構造.季刊経済研究,20,61-89頁.
    田坂敏雄編(1998):『アジアの大都市 1:バンコク』日本評論社,335頁.
    松薗祐子(1998):就業構造と住民生活.田坂敏雄編『アジアの大都市 1:バンコク』日本評論社,191-209頁.
    McGee, T. G. & Robinson, I. M. eds. (1995): The Mega Urban Regions of Southeast Asia, UBC Press.
  • 焼畑,村落領域,土地利用,ラオス
    中辻 享
    セッションID: 316
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
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     東南アジア大陸部北部の山岳地域では山腹斜面で焼畑を行い,陸稲を生産して暮らす焼畑民が現在も数多い.本研究はラオス人民民主共和国(以下,ラオスと略称)を事例とし,焼畑稲作の規模の村落差とそれが生じる要因を考察したい.
     ラオスでは近年,焼畑の継続が難しくなりつつある.これにはラオス政府がさまざまな焼畑抑制策に乗り出していることが大きい.ラオス政府は焼畑を森林破壊の元凶で,かつ遅れた農耕技術と捉えており,2010年までに消滅させることを目指しているのである.政府の焼畑抑制策としてまず挙げられるのが,高地村落の低地への移転事業である.これはアクセスの悪い高地村落の住民を幹線道路沿いの低地に集住させ,彼らの焼畑放棄を促そうとするものである.これにより,1980年代後半から多くの高地村落住民が低地に移住している.移住した住民には水田稲作や常畑での換金作物栽培など,集約的な農業への転換が目指される.
     こうして成立した低地の集住村ではさらに,土地・林野配分事業が実施される.この事業ではまず,これまで曖昧であった各村の境界が画定される.さらに,その境界の中で森林と農業用地が区分され,農業用地の部分から各世帯に数区画の土地が配分される.各世帯の耕作は配分地でしか認められない.このように,耕作地を限定することで,焼畑から常畑ヘの移行を促進しようとするものである.一方,森林は集落から離れた高地に設けられることが多く,村落の管理下で保護の徹底が図られる.
     これらの政策により,特に幹線道路沿いの村落では焼畑がやりにくくなっている.高地村落住民の移住で人口増加が激しく,焼畑用地が不足しているためである.休閑期間は短縮せざるを得ず,陸稲の連作もなされる.これは雑草増加や土壌劣化という問題を生んでいる.そのため,焼畑の労働生産性や土地生産性がガタ落ちになってしまっているのである.
     それなら,焼畑をやめて政府の奨励する水田経営や換金作物栽培を行えばよいかというと,それもそううまくはいかない.山がちなラオス北部では水田開発に適した土地は少なく,多くの焼畑民が水田稲作に参入することはもとより無理である.また,ラオス北部では流通網が未発達なこともあって,有力な換金作物が少ない.価格は低いか変動が激しく,収穫も不安定なことが多い.換金作物のみに依存して生計をたてることは焼畑民には今なお難しい.
     このような状況にあって,焼畑民はどのように焼畑を継続しているのであろうか.発表者はこれまで,ルアンパバーン県シェンヌン郡カン川流域の3村落でのミクロな調査からこれを明らかにしてきた.本発表ではさらに,この3村落を含むカン川流域の15村落での調査の結果をもとに,よりマクロな視点からこの問題を論じてみたい.具体的には,焼畑規模は村落によってどのように異なるか,それは主にどんな理由に規定されているか,焼畑のしやすさの村落差は村落間でどんな問題を生んでいるか,焼畑は対象地域の住民にとってどんな意義を持っているかという点を考察する.
  • 杉江 あい
    セッションID: 317
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
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     南アジアでは,定期市を中心とした伝統的流通形態が維持されている.市場は経済,流通機能を担うだけでなく,娯楽,社交,情報交換,医療,宗教,自治,行政,司法などの経済外活動も行われる場である.バングラデシュは全人口の約9割がムスリム,1割程度がヒンドゥー教徒であり,喜捨は善行,またときに義務として日常的に行われ,市場には「物乞い」も参集する.定期市における彼らの存在は,石原・溝口(2006),鹿野(1993)によって記されているが,立ち入った議論はなされていない.西川(1995)は,バングラデシュ農村の「物乞い」が集落ごとに設定された施しの曜日に従って行動することを明らかにしたが,定期市に参集する「物乞い」については詳しく論じなかった.
     ここでいう「物乞い」は,主に都市地理学や社会学が従来扱ってきた「浮浪者」という概念では捉えられない存在である.「浮浪者」,「ホームレス」といった概念は,都市,社会問題の枠組みで構築されてきた.こうした概念では捉えらない,特に宗教的観念に結びついた「物乞い」という存在を概念化してきたのは,主に民俗学,人類学である.ムスリムにとって「物乞い」への喜捨は一方的贈与ではなく,宗教的価値(来世における神からの報酬)と経済的価値という,異次元間の互酬的な交換であると理論上説明される.この理論に従えば,「物乞い」は商人と同様に,財,サービス提供の一部門を担う存在であるともいえるが,実質的には市場を通して経済的不均衡の平準化が行われているのである.本研究は,施しを得る場として,「物乞い」が地域の市場をいかに利用しているのかを,個々人の属性,および交通の便,移動手段に着目して明らかにした.
     本研究は,バングラデシュの首都ダッカから北西70kmほどに位置するタンガイル県の農村,およびその周辺を対象地域とする.調査期間は,2009年2月26日から3月4日,6月11日から7月4日,9月8日から9月27日である.村人へのインタビュー,および市場や村で直接接触することができた「物乞い」に対し,宗教,年齢,家族構成,およびインタビュー日を含む最近1週間のうちに行った「物乞い」場などに関するインタビューを行った.また,カジラッパラの住人の1人に,2009年の7月上旬から9月上旬の約2カ月間,住人宅に施しを求めて来た「物乞い」について記録してもらった.
     インタビューを行った「物乞い」の44人中28人までが主に視覚,身体障害を持つ.障害者をのぞく16人中12人が,寡婦や夫から扶養放棄された女性,あるいは障害を持ち,「物乞い」をしている夫を持つ女性である.カジラッパラの住人による記録では,住人宅に訪れた「物乞い」45人は全員徒歩で来ており,障害者は妻に連れられてきた視覚障害を持つ男性1人のみであった.
     彼らの1週間の「物乞い場」を見ると,市場に行く頻度の高い「物乞い」は,障害を持つ男性がほとんどであり,居住村から比較的近い市場に行く場合と,バスを利用して幹線道路,舗装道路沿い,またはその付近の市場に行く場合とに分けられる.障害を持つ男性の「物乞い」の間では,毎回ではないにしろ,無料でバスに乗れることが多く聞かれた.荷車や地縁血縁者による手助けによって移動する障害者,および障害を持たない者は,幹線道路,舗装道路に影響されにくく,居住村,舗装道路両方から離れ市場にも行っている.一方,集落に行く頻度の高い「物乞い」には障害を持たない女性が多い.彼女らは,居住村近くの狭い範囲内で家から家を渡り歩いて「物乞い」していた.

    文献
    石原 潤・溝口常俊 2006.『南アジアの定期市―カースト社会における伝統的流通システム』古今書院.
    鹿野勝彦 1993.市とカースト.季刊民族学17(1):28-39.
    西川麦子 1995.生業活動と一方的贈与をめぐる社会関係―バングラデシュ村落社会の文化人類学的研究.大阪大学大学院博士論文.
  • 一ノ瀬 俊明, 原田 一平, 豊田 知世
    セッションID: 401
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
    会議録・要旨集 フリー
    東京、大阪、ソウル、バンコク、台北、マニラ、ジャカルタというアジアの7大都市を対象に、20世紀における都市の拡大がもたらした都市の温暖化について数値シミュレーションをおこなった。本研究は、総合地球環境学研究所プロジェクト「都市の地下環境に残る人間活動の影響」(代表・谷口真人)の一部であり、当該プロジェクトでは、これら7大都市における20世紀3時点のデジタル土地被覆データセットを作成している。このデータセットを地表面境界条件として気象モデルに入力し、数値シミュレーションで得られる地表面温度の変化傾向は、過去の地表面温度を記録していると考えられる地下温度の鉛直プロファイル(Taniguchi et al., 2009)との比較材料として用いられる。数値シミュレーションに用いられた気象モデルの詳細はIchinose(2003)に同じである。計算対象としたのは最も暑くなる季節の典型的な快晴静穏日(バンコク・マニラは3月末、その他の都市は7月末)である。計算の空間解像度は2kmである。20世紀前半と2000年との比較では、これらの都市の都心は2時点とも都市となっており、いずれの都市においても約1℃の地上気温上昇が見られた。一方、20世紀中庸から2000年にかけて水田から都市への急激な変化を経験したバンコクの北の郊外(都心から見て風下)では、この期間に2~3℃の地上気温上昇が見られた。ソウル、東京、大阪、バンコク、ジャカルタでは、海風の進入により、高温域が日中風下(内陸側)にシフトしていく様子が計算されている。
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