日本地理学会発表要旨集
2011年度日本地理学会秋季学術大会
セッションID: S1104
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名古屋城下町の正方形街区のプランと施行範囲
*水田 義一溝口 常俊
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キーワード: 城下町, 正方形街区, GIS, 名古屋
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抄録
1 研究の目的近世初頭に、各地で建設された城下町では、町屋の整備がすすみ幾何学的な街路パターンの町並みが作られたことが知られている。矢守一彦は街路の整備の方法には江戸型(正方形街区)と京型(長方形街区)のあること報告し、正方形街区の建設時期と分布は極めて限られていることを指摘した。正方形街区が見られる城下町は10個所に限られ、城下町内部における正方形街区の配置は城郭の正面に位置している。城下町が発展して町が拡張された地区は長方形街区となり、正方形街区は見られない。また城下町の建設者をみると、豊臣秀吉、徳川家康あるいは両者と関係の深い城下町にのみ正方形街区がみられる町がある。当時の都であった京都の町並みを手本として導入された正方形街区であるが、町通りの維持が難しく、空間的なロスが大きかったために、城下町のプランに採用されなくなったが、報告者は城下町の計画的な建設プランの誕生の経過を知るための鍵が、このプランの解析をすることによって得られるのではないかと考えている。そこで正方形街区の作られた最後の城下町である、名古屋の街区プランを分析して、城下町プランの誕生の一こまを見よう。2 名古屋の正方形街区の特色正方形街区の原型となった京都は、四方の街区に面した町組が作られている。秀吉や家康は。城下町を建設にあたって、京都の街区が有していた2つの欠点を解消するための工夫を凝らしている。1)40丈四方の街区では、町屋の奥行きが60メートルに達し、結果的に街区の中央は空地となってしまう。2)城下町へ入る主街道は、町並みを形成し、道路は町通り(主要道)と筋(副次的な道)がつくられるが、それが出来ない。豊臣秀吉は、大坂では街区のサイズを3分の2の40間に縮小して、奥行20間の屋敷地をつくり、中央の空地をなくし、町通りと筋の構造を持つ町として、2つの欠点を解消した(図1)。徳川家康は江戸においては、方60間の正方形街区を採用した。町通りと副次的な道の区別はつけているが、街区中央の空地は残った(図2)。徳川家康は晩年に築いた、駿府(1606)、名古屋(1610)の城下町でも正方形街区のプランを採用している。水谷盛光は、町屋の史料と地籍図をもとに、名古屋では江戸の街区を改良した方50間の街区と屋敷割プランが名古屋に存在したことを提示した(図3)。3 GISによる街区の分析名古屋の正方形街区は、名古屋城二の丸の南に広がり、東西11区画、南北8区画をしめる町屋である。そのため、町を東西に横切る京町、傳馬町と、大手から熱田神宮に至る南北の御幸本町は大坂のような両側町の形態をとり、その他の街区は、数種類の屋敷割プランがみられる。屋敷割プランのタイプと空間的な配置の関係を報告したい。
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