日本地理学会発表要旨集
2011年度日本地理学会秋季学術大会
セッションID: 422
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諏訪之瀬島の土地機能回復過程に関する考察
*茗荷 傑
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抄録

茗荷(2008)では青ヶ島の事例から災害と土地機能の回復について考察した。今回取り上げる諏訪之瀬島では青ヶ島同様火山による噴火で集落が壊滅し、住民全員が島を脱出して後にその機能は回復されていくわけであるがその経過は大きく異なっている。同じ絶海の孤島に同様のイベントが発生したにも関わらずその後両島のたどった経過が異なるのはどういった理由によるものであろうか。諏訪瀬島は日本最後の秘境といわれる吐噶喇列島にあり、現在も活動を続ける火山島である。島は十島村に属し、村役場は自治体の中にないことでも有名である(鹿児島市にある)。伊豆諸島ではそれぞれの島が独立した自治体となっているが十島村は昔は10島がまとまってひとつの自治体を作っていた。村役場はもともと中ノ島に置かれていたのだが村会議会などのたびにそれぞれの島から中ノ島に集まるのは相当の不便を生じていたため、昭和31年中ノ島村役場を廃し、鹿児島に移転することになったのである。この島に注目したのはその数奇な運命のためである。文化10年(1813年)、島の中央にある御岳が大噴火を起こした。全島民は島を捨て、以降約70年の間無人島となったのであった。諏訪之瀬島の噴火で四~五百名いたと言われる住民は中ノ島の役所の指示で避難し、悪石島、中ノ島、平島、口之島に分散して移り住んだ。以後70年間無人島となるのだが脱出した住民は誰一人島へ戻ることがなかった。この点が50年間帰島の執念を燃やし続け、還住と称える全島民の帰還を果たした青ヶ島とは大いに事情が異なっている。噴火後70年を経てやってきたのは奄美大島に住む藤井富伝の率いる開拓者たちであった。明治28年、井上毅の薦めによって琉球地域の糖業振興のため、大島島司に就任した笹森儀助が十島村の巡視に訪れたときには、8人で始めた開拓村は36戸166人を数え、6反歩の開墾から始まった畑はサトウキビ八町歩余、サツマイモに至っては十八町歩の作付けを見るにいたった。笹森はこれを見て驚嘆し、賛辞を惜しまない。諏訪之瀬島は復活したのである。富伝の墓は旧集落近くの山中にあり、訪れるものもほとんどいない。それから100年余り、この島に起こった騒動と島を取り巻く事情に触れつつ、青ヶ島との違いを考察していく

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