日本地理学会発表要旨集
2011年度日本地理学会春季学術大会
セッションID: 504
会議情報

ヒルステーション・シムラにおける都市発展
*由井 義通
著者情報
会議録・要旨集 フリー

詳細
抄録
1. 研究の目的 ヒル・ステーションは,植民地政府が軍事拠点,兵士の休養・療養,子弟の教育などを目的として気候の冷涼な山岳地域に形成した植民都市と定義される。暑さによる疾病を治療するサナトリウムはヒル・ステーションに欠かせない要素であった。稲垣(2007)によると,ヒル・ステーションの淵源は軍事目的,地政学的重要性と深く関わっており,本研究で対象とするシムラもイギリス軍がインドとチベット・中国を結ぶ戦略ルート調査中に「発見」したことがきっかけで軍の駐屯地となり,戦略拠点や交易ルートの支配を目的としてその後の都市整備が行われた。 植民者たちは自らのバンガローを建てて,沿岸都市の酷暑と多湿からの一時的脱出を図る保養地,避暑地を形成するとともに,擬似的に西洋化された環境のもとで教育する学校がつくられた(稲垣 2007)。植民地時代にヒル・ステーションで始まったイギリス風に西洋化された学校教育は,独立後も現地だけではなくインド国内各地から富裕層の子弟を受け入れ,教育機能の中心性を持続させている。 母都市とのつながりの中で都市建設が行われたヒル・ステーションは,一種の消費都市として余暇空間,ヨーロッパ的生活文化の再生産の場であった。ヒル・ステーションは独立後には政治的役割を喪失しても大部分の都市が観光保養都市として生き残っている。急速な経済発展をみせているインドにおいて,新興の中産階級にも避暑行動がみられ,これまで富裕層に限定的であったヒル・ステーションへの避暑行動は大衆的なレジャー行動に変わりつつある。本研究の目的は,ヒル・ステーションの一つであるシムラの事例を通して、植民都市の変容と山岳部の都市開発の実態を明らかにすることである。 2. ヒル・ステーションの変容 シムラはヒマラヤ山脈北西部の標高2200mの山稜にあり,グルカ戦争後1819年にイギリスに併合され,1822年に最初にスコットランド人によって入植が始まった(Beck 1925, Kanwar 1999)。1864年以降には植民地政府の夏の首都(Summer capital),軍本部,パンジャブ州の州都となったが,その時代の都市開発はRidgeと呼ばれる尾根の平坦地にイギリス人が管理する街,その南側の急斜面にインド人の商業地区と住宅地区が形成され,空間的なセグリゲーションが明瞭であった。州分割後シムラはヒマチャル・プラデーシュ州の州都となり通年の政治的中心都市になった結果,2001年には州や自治体政府関係の公務員が全就業者の47%を占める政治都市となった。 3. 郊外への都市発展 シムラは市独自の開発機関を持っておらず,都市整備を担当する機関はヒマチャル・プラデーシュ州住宅都市開発公社(HIMUDA)である。都市計画のマスタープランはシムラ都市開発公社(Shimla Urban Planning Authority)と特別地域開発公社(Special Area Planning Authority)によるが,これらのローカルな主体は都市開発の担当機関ではなく,マスタープランのもとでHIMUDAがシムラの都市開発の実施主体となっている。シムラは州都として政治的中心地機能を強めていく中で,人口流入量が増加し,狭小な既存の市街地には収容できないくらい過密状態となった。そこでHIMUDAは周辺地域にSanjauli,New Shimlaなどのサテライトタウンを8ヶ所開発した。 政治的山岳地域での郊外発展は,地形的制約を大きく受けているため,開発可能地は緩斜面やわずかに平坦地が造成できる尾根などが開発された。これらの新規住宅開発は,シムラへの通勤・通学移動を発生させ,深刻な交通問題を招いている。
著者関連情報
© 2011 公益社団法人 日本地理学会
前の記事 次の記事
feedback
Top