日本地理学会発表要旨集
2011年度日本地理学会春季学術大会
セッションID: 602
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江戸時代の武州久保田村における定期市の展開と市場争論
*渡邉 英明
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抄録

 定期市は,市町間の距離や市日の調整を通じて時空間的システム(市場網)を形成する点に特徴があり,市場網の変遷の仕組は,定期市研究におけるひとつの論点といえる。市場網の変遷を考える際には,ある時点で衰滅に至った零細な定期市も含めて,位置づけを検討する必要がある。しかし,江戸時代の市場網に関して,それらの零細な定期市の動向把握は,史料的制約から困難を伴う場合が多い。これに関して,渡邉(2010)は,村明細帳の史料的価値に注目することで,これまで実態が不詳であった複数の定期市について手掛かりを得ることができた。しかし,『新編武蔵国風土記稿』で古市場と記録されながら,なお活動期間等が不詳となっている定期市も少なくない。 本研究で取り上げる久保田村は,横見郡内で唯一の市町であったが,渡邉(2010)では,その活動期間や市の実態について,明確な位置づけはできなかった。そのなかで, 2010年6月,久保田村の名主家に伝来した新井家文書が埼玉県立文書館で新公開され,定期市に関連する良質な近世史料も複数含まれることが明らかになった。本研究では,新井家文書の検討を通して,江戸時代の久保田村の定期市について,新たに得られた知見を報告したい。
 横見郡は,荒川右岸にあって用水に恵まれ,久保田村も米作を中心とした農村であった。久保田村では,中山道と松山町を東西に結ぶ街道が村の南端付近を通過し,その両側に町並が形成された.定期市が開催されたのも,この町並であった。近世中期以降の久保田村は4組から構成され,それぞれに村役人が置かれていた。久保田村の定期市の変遷について,新井家文書には,1697~1823年にかけての5時点における久保田村明細帳が残り,定期市の変遷過程がある程度把握できる。まず,1697年の久保田村明細帳では,3・8六斎市の開催と,薪・塩の取引が記録される。しかし,1733年には,六斎市は極月(12月)にわずかに立つのみであると記され,既に形骸化していたことが知られる。同様の記述は,1743年,1761年の久保田村明細帳でもみられ,従来の六斎市は,実質的には12月のみの大市と化していた。その後,1823年の久保田村明細帳では,12月の大市とともに7月の盆前市の開催も記録されている。久保田村では,1733年までに六斎市が大市へと変化し,当初は12月のみであった大市が,1820年頃には7月にも行われるに至っていたことが指摘できる。
 久保田村をめぐっては,1822年に松山町との間で市場争論が発生している。「市場一件留帳」(新井家文書399)は,本争論の発生からの一連の経過を詳細に記録し,当該期の定期市をめぐる状況を知る上でも貴重である。この時期,横見郡では,農間稼として綿織物生産が行われ,鴻巣宿で販売して収入を得ていた。そのなかで,1822年夏頃から,埼玉郡騎西町の商人・喜三郎が,旧来の3・8市日に久保田村の「市場庭」を借り,商売を始めたという。喜三郎は,生産者に綿を売付け,綿織物と糸を買付けた。そして,喜三郎以外にも3名程度が同様の取引を始めた。隣接市町である松山町は,久保田六斎市が繁栄しては松山町の商業に差し支えるとして,同年11月に差止を申し入れた。これに対し,久保田村は,既に市に出る商人も1~2名程度に減少し,小規模な取引も同年限りという見通しを示した。その上で,12月23・28日は旧来からの市で,盛大に行われるため,通常通りの開催を求めた。しかし,松山町は,大市開催も認められないとして,幕府評定所に出訴した。その後,評定所での審議中に内済(示談)が成立し,久保田村は盆暮の大市開催を継続する一方で,六斎市は差止となった。18世紀関東における市場争論の裁定内容をみると,古市場の由緒を有する市町は,所定の手続きを経ることで市の再興が認められる傾向にあった(渡邉2009)。久保田村内でも,市開催に直接関与する十郎右衛門組・和助組の村役人を中心に,六斎市の開催継続を求める動きがみられた。そのなかで,六斎市差止を受け入れ,内済した要因として,市に出る商人が「再興」から短期間で減少し,六斎市の維持が困難な状況に至っていたことが指摘できる。
文献
渡邉英明2009.江戸時代の関東における定期市の新設・再興とその実現過程―幕府政策の分析を中心に―.地理学評論82:46-58.
渡邉英明2010.村明細帳を用いた近世武蔵国における市場網の分析.人文地理62:154-171.

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© 2011 公益社団法人 日本地理学会
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