日本地理学会発表要旨集
2012年度日本地理学会秋季学術大会
セッションID: P042
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発表要旨
近世初期上方における名所と風景
中川喜雲『京童』・『京童跡追』を中心に
*長谷川 奨悟
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抄録

本研究は,近世・近代の京都および大坂(大阪)において刊行された名所地誌本に,「名所」として叙述される場所に対して,著者(編者)の名所をめぐる場所認識や場所イメージの生産(再生産)の様態について,人文地理学的な視座から検証するものである。本報告では,名所観について整理するとともに,近世的な名所案内記の初見であり,これ以降の名所地誌本に大きな影響を与えた,中川喜雲『京童』,および,その続編である『京童跡追』を事例として,本書の著者であり,知識人であった中川喜雲の名所観や,風景観について検証したい。〈BR〉「名所」がもつ本来の語意は,高橋(1966)によれば,和歌に詠まれた「歌枕」がその源流であり,古代末期から中世初頭において,広義としての歌枕から派生した,地名としての「ナドコロ」が本意とみなされていく。したがって,『因能歌枕』や,『大鏡』などにみられる名所とは,和歌において重要な役割を担うものであり,必ずしも実景を伴わない,知識としての場所認識であったとみることができよう。中世には, 鶴見(1940)や,小林(2000)らが指摘するように,名所や風景をめぐる場所認識は,中国の山水思想などの影響を受け,詠み人自身が実際の自然風景を体験し,その情緒を描写する試みる動きが顕著になっていく。この過程において,平澤(2000)は,15世紀末の『廻国雑記』にみえる名所観とは,「ナドコロ」から,「名にしおふ所」へと変容した可能性を指摘している。また,この段階では「名所」とは,一般民衆に向けて積極的に叙述される場所とはみなされず,道中記や名所案内記は制作されていない。〈BR〉 中世の自己完結型ともとれる名所観が,近世の行動文化の発展にともなって,名所案内記などにみられる名所へと変容していく過程に関して,古くは鶴見が簡潔に示唆している。鈴木(2001)は, 水江(1985)や,加藤(1991)の研究成果をふまえつつ,江戸の名所案内記の系譜を検証し,名所とは,常に変化し,常に創られ関心の対象であり,注目され,訪れる対象としての名所が成立していくことを指摘するが,これは,上杉(2004)が指摘するように,新興都市を対象とした議論であり,都市の歴史的・文化的背景が異なる上方における名所や,場所認識とは一致しない部分も多い。また,場所をめぐる概念について整理した,大城(1994)の成果を応用すれば,名所と見なされる場所もまた文化的構築物であるといえ,その地域の風土や伝統といった地域性が大きく関与するものといえるだろう。〈BR〉 上記の観点を考慮すれば,上方の名所観の検証するにあたり,近世の京,および,近世日本の名所案内記の初見である中川喜雲の名所観を検証する意義は大きいように思われる。〈BR〉 中川喜雲については,例えば,松田(1962),市古(1974,1993)ら近世文学の視座からの研究成果によって,既に明らかにされている部分が大きい。この人物は,丹波国桑田郡馬路村(現:京都府亀岡市)出身の医師であり,京都の文壇で活躍した俳諧師であり,名所案内記や談話集など多くの作品を残した近世初期における重要な作家の一人であるとされている。〈BR〉 『京童』は,1657(明暦4)年に刊行された名所案内記である。序文から,喜雲によって見いだされた88ヶ所の京名所を,京童が案内する形で解説され,近景での挿絵が挿入されている。また,場所の叙述の最後には,彼の俳諧や狂歌,彼が選んだ和歌や漢詩が付けられている。1667(寛文7)年には,続編である『京童跡追』が刊行された。序文によれば,草稿は万治2年には完成していたようであるが,喜雲が広島に移住したため未刊となっていたことがわかる。『跡追』に叙述される地域は,京都,大坂,奈良,広島となど広域にわたるため,本報告では,京都,大坂の部分に限定して,彼の名所観や風景観について分析を試みることとしたい。〈BR〉 この両書を始めとする彼の名所案内記は,近世的な名所観が形成されつつあった過渡期において,非常に重要な役割を担ったことはいうまでもないだろう。

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