抄録
報告の背景と目的 1771(明和8)年に現在の沖縄県一帯を襲った「八重山地震」では,とくに震源に近かった宮古・八重山諸島を中心として大津波が発生し,1万人近くの被害者が出た.また,同津波によって,両諸島のとくに南海岸では,多くの集落が水没し,壊滅的な被害を受けた.こうした「明和の大津波」被害の実態についての追究はこれまで,波によって陸地に打ち上げられた大石「津波石」の分布を見たり,当時の住民による記録を解析したりすることによって試みられてきた. その中で今回の報告では,とくに宮古諸島などを中心に,同地域において比較的よく残されている「土地整理事業」(1899~1902年)当時の土地台帳および地籍図の分析を紹介する.そして,これらの資料において,「明和の大津波」の浸水地区と非浸水地区でどのような違いが描かれているのか,また,浸水被害の影響により,同地域においてどのような集落構造が生み出されているのかを検討する.
土地台帳・地籍図でみた沖縄県内の各集落 「土地整理事業」時の土地台帳および地籍図からは,琉球王朝の支配のもとでこの地域一帯にみられるようになった集落景観を確認することができる.土地はあくまで共有であり,宅地や農耕地は一時的に配分されるものとする「地割制度」を前提に,一帯では1737年頃から広く,直交した街路網で構成された「格子状」や「井然型」と呼ばれる集落が形成されてきた.並行して,集落周囲は丘陵や樹林帯「抱護」で囲まれていることを理想とし,各地で丘陵の保全や,植林が進められた.「明和の大津波」は,こうした計画的な集落形成,あるいは既存集落の再構成のさなかに発生した.津波により宮古諸島の多良間島では,中心集落の東南側が大きく浸水したこともあって,当時の住民3,324名中362名の死者を出したとされる.そこで,「明和の大津波」からは約120年経過しているものの,「土地整理事業」当時の土地台帳・地籍図から,多良間島の中心集落のかつての状況を確認する.その結果,もともと集落の西(字仲筋)側が古くからの集落で,標高30m程度とはいえ丘陵の麓に発達してきたことと,集落の東(字塩川)側が18世紀の初めまでにこの地に移動してきた新規集落であったということも反映するかのような,街区形態の東西差が明らかとなる.西(字仲筋)側は街区の形が比較的不定型であり,かつ,街区の規模もまちまちで,街区内に道路に接しておらず建物が建てられていない畑作地などとなっている「閑地」が目立つ.一方で東(字塩川)側は街区の形が整っており,南北1筆×東西4~6筆で構成された「横一列型」街区が整然と並んでいる.また,集落を取り巻く「抱護」の林は,現在のそれよりも太い幅(16~20m)で,ほぼ切れ目なく存在していたことが明らかとなった. また,土地台帳をもとに土地所有についても確認すると,多良間島の中心集落では,数名レベルの例外を除くほとんどの居住者が集落内の宅地を1筆のみ所有しているという関係が明確であった.その上で,居住者がそれぞれ「抱護」の内側に1筆,「抱護」の外側にも1筆の畑作地を所有しているという組み合わせが多くみられた.とくに興味深いのは集落北西部にある丘陵地をめぐる土地所有関係で,集落を取り囲む「抱護」の延長線上となる山林は村有地(共有地)となっており,そこに点在する墓地が集落内居住者の所有になっているほかは,丘陵に近い(字仲筋側)居住者・遠い(字塩川側)居住者を問わず,丘陵地上の畑作地を所有していることがめずらしくなかった.集落内居住者の多くが,自身の宅地,「抱護」内外の畑作地,丘陵地上の畑作地の4筆を,セットで所有していた形となる. このような土地所有関係は,多良間島だけでなく,沖縄本島でもみられる可能性がある.数少ない地籍図等の現存地であるうるま市勝連町南風原でも,斜面上に形成された「格子状集落」の周囲に「抱護」があり,その内外に畑作地が展開している.それぞれの土地所有者を確認することで,多良間島と同様の土地所有関係を確認できることが期待される.
「明和の大津波」が各集落の構造に与えた影響 以上のような集落内における街区構成の地区内差,複雑な土地所有関係は,集落形成時期のずれと,王朝下での林政や「地割制度」の存在を前提として形作られたと考えられるが,詳細な分析からは,これらが「明和の大津波」のこん跡の一端ではないかとも想定された.すなわち,津波の浸水範囲では集落再建にあたり,「横一列型」の街区構成を徹底して適用できた可能性がある.また,多くの居住者によって所有されていた丘陵地上の畑作地は,津波時にも浸水しない農耕地の確保とともに,「高台避難」地ともなりうる.こうした可能性についても今後,考古学的検討などとも重ね合わせつつ分析を進めていきたい.