日本地理学会発表要旨集
2013年度日本地理学会春季学術大会
セッションID: 537
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発表要旨
荒川中流部の氾濫発生地点の変化からみた河床変動
*町田 尚久
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抄録
1.はじめに
 荒川中流域の熊谷扇状地は,古くから水害に見舞われてきた.水害をもたらす氾濫流の進行については,菊池(1987),石田ほか(2005)などが荒川中流域の実態をまとめ,石田ほか(2005)は栗田(1959)を基に,1700~1947年までの間に熊谷扇状地とその下流の低地の一部で発生した主要な氾濫流とその発生地点を整理した.一方で寛保2年洪水(西暦を付記する)にかかわる研究として丸山(1990a,b,c,d)は,千曲川流部の崩壊や洪水の実態を報告し,町田(2011)は荒川上流部の高水位をマスムーブメントによるダム化の影響と指摘した.これらの実態から寛保2年洪水の気象は,洪水だけでなく浅間山から秩父山地の一部で多数の崩壊を発生させ,河川への土砂供給も増大したと推察される.それ以後の河床の土砂は,寛保2年の崩壊堆積物が主な供給源なり,洪水のたびに河川に供給され,河床変動があったと考えられる.そこで本研究では,熊谷扇状地の氾濫発生地点の変化を河床変動による結果としてとらえ,近世以降の河床変動の実態を明らかにすることを試みた.
2.地域概況
 荒川は,甲武信ヶ岳(標高2475m)を源流として,上流部は秩父山地,中流部は扇状地区間と荒川低地の一部,下流部は荒川低地と東京低地に分けられる.中流部では,寄居から熊谷にかけて複数の扇状地を形成している.熊谷扇状地は,六堰頭首工付近を扇頂部,熊谷市久下付近を扇端部とし,その下流には低地が形成されている.六堰頭首工から吉見町上砂(現在:大芦橋下流付近)までを本研究の対象区間とした.
1574年に築堤が行われ頃は荒川本流は元荒川沿いを流下していたが,1627年に元荒川から入間川の支流の和田吉野川へと河道が付け替えられ,現在の原型となった.その後1900年以降は,河川改修事業の一環として築堤や河道の直線化が行われ,現在の河道となった.また砂利採取も積極的に行われるようになり,1947年のカスリーン台風以後,氾濫の発生がほぼみられなくなった.
3.氾濫地点の変化
 大洪水といわれる1742年,1859年,1910年,1947年の洪水は,町田(2010,2011)による寛保2年洪水の一連の研究と「明治四十三年埼玉県水害誌」(埼玉県1912)などから,ほぼ同規模であると示唆される.これらの洪水の解釈を基に氾濫発生地点の変化を見ると,1741年までは熊谷周辺と和田吉野川でみられる.それ以降の1742年,1743~1858年,1860~1909年には,熊谷扇状地の現熊谷市街地周辺で氾濫が発生する.しかし1859年と1910年は,1742年の場合よりも上流で氾濫が発生した.1783年や1824の洪水は大洪水としては認められないものの,1742年よりも上流側の扇頂部付近で氾濫した.このことから1742年以降,氾濫発生地点は遡上しており,堆積による河床上昇が疑われる.1859年の大洪水が扇状地全域とその下流側で氾濫した可能性が高い.1860年以降になると扇状地から下流部に向けての土砂供給が増えたと考えられ,氾濫発生地点が熊谷市街地周辺となった.1910年になると,1859年とほぼ同様の扇状地一帯で氾濫が発生し,再び土砂が供給されたと解釈できる.そして1911年以降は,再び氾濫発生地点が扇央部の下流側へと移動し,1947年の洪水では扇状地扇端部と低地部の境界付近で氾濫した.また1947年前後,河床は低下しており,氾濫発生地点の変化は人為の介入と自然的影響のために,河床が低下傾向となった可能性が高い.
4.崩壊の土砂供給とその後の河床変動
 1742年の洪水は,「武州榛沢郡中瀬村史料」(河田1971)などから,秩父山地から浅間山にかけて多数の崩壊をもたらしたことが分かる.その後大洪水時には記録が少ないことから,崩壊数が少ないと判断できる.しかし降雨のたびに寛保洪水時の土砂が渓床に移動し,渓床堆積物が河川への土砂供給源となった.土砂は洪水ごとに供給され,1859年と1910年の大雨の際の氾濫発生地点の変化には,土砂供給の影響があらわれたと考えられる.さらに扇状地に堆積した土砂は,洪水のたびに下流側に流下し,それによって氾濫が発生したと判断される.明治中期の河川台帳付図によると,明治期以前は比較的河道幅が広く,土砂供給の状況によって氾濫が発生しやすい環境であった可能性が高い.土砂は,崩壊,渓床堆積物,流下,そして下流側への供給というような経過をたどり,ある時点で生産された土砂は,常に安定的に供給されるのではなく,その後の降雨にあわせて,より下流へ土砂供給される.その結果,供給に合わせて河床変動が生じる.そして,1947年の洪水では現在の熊谷市街地周辺やその対岸で破堤せずに,さらに下流側に土砂が供給されたことで氾濫発生地点が変化した.また人為の影響と上流からの土砂供給の減少に伴って,河床低下が進んだと考えることができる.
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© 2013 公益社団法人 日本地理学会
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