日本地理学会発表要旨集
2013年度日本地理学会春季学術大会
セッションID: P035
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発表要旨
2011.3.11地震による福島県須賀川市の河岸段丘面上の地盤災害と中世城館の埋没濠遺構
*阿子島 功
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抄録
2011.3.11地震によって福島県中通り(阿武隈川沿岸)の内陸盆地では、丘陵地の谷埋め造成地の地すべりや沖積低地の地盤液状化が生じたが、さらに河岸段丘面上にある須賀川市(震度6強)の中心市街地でも建物被害が顕著であった。福島県中通り中央部の地盤災害が大局的には更新統「郡山湖成層」の分布域に一致するという指摘もある(小林2011JpGU)。須賀川中心市街地の震害は中世城館廃城の後に埋められた濠の位置に一致していたと考えられる例もあることを報告する。
[被害個所調査] 被災直後~数ケ月以内の調査報告・写真が多く公表されており現地比定ができる。2012年後半に現地で震災前の住宅地図と比較しながら被災個所の分布と微起伏を調査した。このとき中心市街地では更地、駐車場への転用、工事中の建物、道路の修復工事が目立ち、市役所やまちなかセンターなど大型建物の取り壊しが始まっていた。福島県中通りは震災の後の航空写真撮影やGoogleEarth画像の更新はされていない。
[中世末の二階堂氏時代の町割りの復元]  二階堂氏居城時代は、文安年間(1429~1449)築城より150年後の天正17(1589)年[伊達政宗の攻略によって落城]までであり、伊達・蒲生・上杉氏の支配を経て江戸時代初期に廃城となり宿場町として整備された。このとき二ノ丸を貫いて南北の街道が開かれた。須賀川町は近世を通じて奥羽地方の交通の結節点として大きな宿場町を形成していたが、そのために近世城下町地割をひきつぐ多くの都市とは異なって、城の遺構と城下町地割が明瞭ではない。
 二階堂氏居城時代の町割は江戸時代になって記憶で描かれた城下町地割の絵図[須賀川市博物館蔵。絵地図1]があり、さらに現地比定を行うにあたって江戸時代後期の文化年間(1805-1815)の精密な鳥瞰図[白河藩絵師白雲筆による「岩瀬郡須賀川耕地之図」。同博物館寄託展示。絵地図2]および明治時代末の1:50,000地形図[M41年。地図3]が参考になる。絵地図2には段丘崖や開析谷の表現がなされているので現地比定の参考になり、寺なども対照点となる。ただし後代の地図3には城下町特有の“鉤の手“のくいちがいがよく表現されているのに絵地図2には表現されていない。
 絵図1によれば二階堂氏居城は南北に細長い段丘面の中央を占め、城下町を含めてその西と東を段丘崖、その南と北を(浅い開析谷を利用した)堀切によって区画している。町屋は城の南に新町・本町、東に中町・道場町、北に北町がおかれた。江戸時代後期の絵図2には本丸の西側水濠(現在は道路)、二ノ丸の南西外縁の谷間の水田(現在は埋められて加治町公園)が描かれているが、二ノ丸東側の濠跡と二ノ丸の北側(搦手)の堀切の窪地(堀火掛の注記)はすでに埋められて読めない。
江戸時代の白河藩(儒官広瀬典著)白河風土記巻十二によれば、(1)(中)町ノ地、元ハ二階堂氏城郭ノ内ニシテ、町ハ東ノ方ヲ回リシトナリ、今ニ町家ノ西裏ニ古ノ土居ノ残リ、高サ二丈計リ、長サ百間計リ、・・・(2)(本町ト)中町ノ接セシ所ハ、古二階堂氏城郭ノ堀アトニテ、町屋トナセシトキ土石ナントヲ以テ填ケレドモ、容易ニ埋メラザリシ故ニ、桁ヲ亘シ、上ニ土ヲ置キ、今ノ街トハナセシトナリ、云々[須賀川市史3(近世)1980,p.181-188]。現在の中心市街の中町筋は二ノ丸城内を南北に貫いたのであるが、(2)は南側濠大手付近を指し、(1)は本町筋を北へ延長した(新しい)中町筋ではなく、もともとの中町筋の西側に土塁があったことを述べているのであろう。
[震害個所と埋没濠] 本丸跡の西側水濠(現在は道路)にそって路盤損傷、二ノ丸南西縁の濠跡(加治町公園)の両岸斜面で建物損壊、その南の延長の谷頭の浅く広い谷筋(加治町)の南岸で建物倒壊、谷中央で墓石倒壊が起きた。東側濠に沿う(と考えられる裏)通りに沿って建物損壊が起きている。しかし、二ノ丸城内にあたる現中心街(前述(1)の県道須賀川・二本松線沿い)でも多くの建物被害・路盤損壊が生じている理由の説明が残されている。
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