抄録
1.研究の目的
発表者らは,インド・デリーのムスリム地区ジャミア・ナガールにおいて婚礼用伝統衣服などを生産する繊維・縫製工場群に対する聞き取り調査を2013年に実施し,同工場群における生産構造と労働者特性について,2014年日本地理学会春季学術大会にて報告した(宇根・友澤 2014).調査結果から,繊維・縫製工場は直営の販売店を有しているものもあるが,主にはデリー市内の卸売業者やショールームから受注を引き受けるジョブ・ワーク型の取引が中心となっていることを明らかにした.この形態の取引は,卸売業者やショールームが主導権を握っている.衣料品は,商品連鎖(commodity chain)研究においては「買い手主導の連鎖(Buyer-driven Commodity Chains)」の代表的な事例の一つとされており(Gereffi 1999),発表者らの上記研究の場合もこれと同じことがいえる.このことを踏まえると,「買い手」側,つまり卸売り・小売業者の取引行動に着目することにより,婚礼用伝統衣服における生産・流通システムの特性の把握に迫ることができる.
そこで本報告の目的は,デリーにおける婚礼用伝統衣服卸売業者の商品取引の実態を明らかにし,婚礼用伝統衣服の流通・販売構造とその空間的特性を把握することとする.
宇根・友澤(2014)で取り上げた繊維・縫製工場の納品先は,デリー中心部のチャンドニー・チョウクやラージパット・ナガールなどのほか,輸出業者の集積するノイダ,グルガオンに立地している.これを踏まえ,2014年3月にチャンドニー・チョウク(18店)とラージパット・ナガール(9店)に立地する合計27店に対して聞き取り調査を実施した.
2.調査対象地域
デリー中心部のオールド・デリーは,19世紀以降に繊維・衣料品や銀・銅製品,紙製品,食料品や香辛料など様々な商品の卸売・小売商店が集積するようになり,インドにおける一大商業地域となった.現在,繊維・衣料品を扱う卸売・小売商店はラール・キラーの正面付近から西に伸びるチャンドニー・チョウク通りの両脇を中心に立地している.この地域の一角にあるキナリ・バザールには,糸や装飾品など中間製品を扱う商店も集積している.一方,ラージパット・ナガールは布・衣料品を中心とした商業地区であり,卸売ではなく小売店が主体である.
3.調査店舗の特性 調査店舗では,結婚式やパーティーなどで着用するサリー(ヒンドゥー教徒向け)やランガー(ムスリム教徒向け),西洋風ドレスを販売している.経営者は,ヒンドゥー教徒20店舗,ムスリム5店舗,シク教徒および不明が各1店舗である.ヒンドゥー教徒経営者はブラーミンなどの高カーストや,グプタ,アグラワルなどの商人カーストが卓越している.特定のカーストが支配的になっている構造は確認されなかった.出身地は宗教にかかわらず北インドが中心である.なかでも,ムスリム経営者は全員がウッタル・プラデーシュ州出身であった.
商品のデザインは,工場側が行う場合と店舗側が行う場合,そして両方の場合が確認された.工場側がデザインした商品の場合,工場側が店舗へ商品を売り込み,価格と取引数等を交渉して契約が決定される.調査店舗の商品仕入れ先は商品の種類によって異なっている.手縫いの高価格商品は,デリー首都圏やウッタル・プラデーシュ州の産地から購入し,機械織りの比較的低価格商品は化繊サリーの産地として有名なグジャラート州スーラトから購入する.ジャミア・ナガールの工場と取引を有する店舗はごくわずかであったが,そうした店舗の経営者はムスリムである.調査店舗の顧客は全インドおよび海外から来訪する小売業のバイヤー,一般消費者,輸出業者である.輸出業者の占める割合は低いが,欧米や中近東に在住する,移民を含む南アジア人向けに輸出されている.
【文献】 宇根義己・友澤和夫 2014. インドにおける「もう一つの工業化」―デリーのムスリム地区ジャミア・ナガールにおける繊維生産―.2014年日本地理学会春季学術大会発表要旨集.No.85: 139. Gereffi, Gary. 1999. International trade and industrial upgrading in the apparel commodity chain. Journal of International Economics, 48: 37‒70.