抄録
1.はじめに:渋川春海の製作した天球儀や地球儀・等については、O.Heeren(1873)、深澤(1910), 新見(1911)、藤田(1942)、秋岡 (1988)、海野(2005)など錚錚たる研究者の論文がある。それらの記事を素直に吟味した結果、渋川(安井)は伊勢神宮への天・地球儀一対の奉納の20年前に地球儀を製作していたと解釈せざるを得なくなったので、報告することとした。 2.渋川春海(安井算哲)による球儀類の製作について:表1によると球儀類は12 (図書作や京大地理蔵の天球儀を除くと10 )件存在する。内訳は天球儀7、地球儀3+α、渾天儀1となり、天文関係が地球儀の2倍に達する。年代を見ると、1670年の渾天儀から、1673,83年の天球儀,1690,92,95年の天・地球儀一対、97年の天球儀の製作で、初期に天文関係の渾天儀や天球儀が、後に天・地球儀一対などが製作されている。一見すると天文器機が先行するが、新見(1911)が紹介した「安井算哲の世界地図 (1670)」の評価如何で変わる。 3. 安井算哲の地球儀資料について:これは、「Mittheilungen der Deutschen Gesellschaft für Natur-und Völkerkunde Ostasiens」Heft 2 (Juli 1873)掲載のO. Heerenによる「Eine japanische Erdkugel」の付図 (写真1)で、その存在は秋岡の指摘以前は本邦に知られず、以後も評価は十分でない。 1)Die deutsche Gesellschaft für Natur-und Völkerkunde Ostasiensは日本を研究し、ド イツ語圏の国々へ紹介することを主目的に1873年、東京で独人を中心に設立された研究会である。 2).Mittheilungen der Deutschen Gesellschaft fur Natur-und Völkerkunde Ostasiensは、1873年創刊で2ヶ月毎に発行されていた。合本中表紙に「Für Europa/ im Allein-Verlag von Asher & Co/ Berlin W. Unter den Linden 5. / YOKOHAMA/ Buchdruckerei des “Écho du Japon.”」とあり、横浜の“Écho du Japon.”で印刷されたと知れる。 3)Heeren論文は、”Eine japanische Erdkugel.”「日本の一地球儀」で、球面上の自然、都邑、国・地方名や注記の発音をアルファヘ゛ット化し、一部は独訳されている。”EIN JAPANISCHER GLOBUS”はこの索引地図である。これはコ゛ア写真図4枚/1頁で、各南極圏にABCD、地理情報の先頭に数値を付与し、本文に対応させている。各文字は、外人の耳で聞いたspellingまたは独訳(例えば氷海は”Eismeer”)であり、単なるローマ字化ではない。但し、寛文庚戌を1670年と同定するなど、内容は正確に把握され訳されている。 4)それ以外の論文:①新見は深澤の論文に触発され、Heeren論文を知らず、Grassimuseumで発見し「歴史地理」口絵写真と解説(1911)に「安井算哲の世界地図」として投稿した。絹地4枚で、寸法は93cm、50cm。淡彩を施し、赤道線42cm、子午線83cmで、地名等のアラヒ゛ア数字は近年の記入ではないと述べた。以後、算哲自筆の世界図として定着したが、約40年前の著者の索引図そのものである。 秋岡は、算哲の天球儀や地球儀製作に言及して、この舟形図に一瞬疑問を呈したが①の先入観から、Heerenが独国内で記載したとみて、論を進めた。海野は他と同様、Heerenの論文名を確かめず、新見の「安井算哲の世界地図」から「地図=地球儀用舟形図」とみなした。更に「春海先生日記」の記述が事実なら地球儀製作の可能性ありと、オルタナティフ゛に記した。 4.まとめ:算哲(渋川春海)の1690年以前の地球儀の製作については、ほとんどの者は否定的である。これは、①新見の写真図が、衝撃的で学者達の思考を停止させ、②Heeren論文を正しく理解できず、③掲載誌やOAGを、独国内の研究組織等と速断したこと、④写真図を算哲直筆(?) とし、⑤少ない情報の為のコ゛アの吟味不足と迷妄による。しかし、上記の詳細吟味により、渋川春海(正確には安井算哲)が1670年に地球儀(亡失?) を製作したと解釈せざるを得ない。