日本地理学会発表要旨集
2016年度日本地理学会秋季学術大会
セッションID: 118
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発表要旨
佐賀城下町絵図にみる都市の空間構造とその変化
-HistoricalGISの利用を通じて-
*宮崎 良美出田 和久南出 眞助
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抄録

鍋島藩35.7万石の城下町佐賀は、城を中心に四周に武家地があり、北を通る長崎街道やそれより分岐する往還に面して町場が配された。さらに北に十間堀川と土居からなる外曲輪が築かれ、総郭型を構想した城下町であった。
佐賀城下町の建設は、天正12年(1584)肥前の戦国大名竜造寺隆信の死後、家老であった鍋島直茂が竜造寺氏の村中城を拡張、改修して佐賀城としたことに始まり、天正19年には、蠣久の地から六座町・伊勢屋町・中町・白山町が城下の北西に移された。慶長年間(1596~1615)に、外曲輪の普請及び家中屋敷や町小路の建設がなされ、同じ頃、白山町の東に呉服町・元町、紺屋町、材木町などが成立したらしい。その後、承応3年(1654)の『佐賀城廻之絵図』以後の城下町絵図には、大きな変化が見られないため、この頃までに城下町の形成がほぼ完了したとされている。
佐賀の城下町絵図には後世の写本も含めて、慶長、寛永、正保、慶安、承応、元文、安永、文化の各期のものが残されている。藩の体制が整えられた17世紀半ばまでのものが多く、また、寛永図を除き、武家地の屋敷割と藩士の名が記される。
城下町絵図は文化年間の絵図を最後とするが、その前後の時期に関する網羅的な地籍関係史料として、武家地や寺院等に限られるが、元文5年(1740)『城下大曲輪内屋敷帳』と明和8年(1771)『屋鋪御帳扣』の2時期の屋敷帳が残されている。これは小路や厨子とよばれる小地区ごとに屋敷地の規模と拝領者あるいは寺社名、沽券状の授受の年月や経緯を記載する。明和8年屋鋪帳には追記が繰り返され、所によっては明治初期までの変遷をたどることも可能である。これらの史料により、近世を通じて武家地の所々の変遷を詳細に知ることができる。一方、町人地では嘉永7年(1854)成立の竃帳が、城下のほぼすべてにあたる45町分について残されている。
城下町完成後の城下町の空間構造について、承応の『佐賀城廻之絵図』の分析から、城下町の北部から東部にかけては佐賀本藩の家臣が多く屋敷を構え、西部から南部は竜造寺氏系の家臣や支藩の藩士の割合が高かったとされている。竜造寺氏時代の城館に由来する重臣屋敷や寺院等とそれらをとりまく武家屋敷が西部から南部にみられ、天正期から慶長期にかけて新たに建設された武家地や町場は北部や東部に展開することとの関連性が指摘されている。
しかし、延宝年間(1673~1681)から享保の飢饉(1732年)の頃にかけて支藩の藩士等が佐賀を退居し知行地へ移住していき、また、19世紀半ばには藩校の改編等や跡地利用の一環として宅地造成など、藩政の画期と軌を一にした拝領者あるいは土地利用などの変化がみられる。ただし、近世全般を通じた城下町の空間構造の変容については、これまであまり明らかにされてこなかった
筆者等は佐賀城下町を対象として居住者や土地区画のGISデータベース化を進めているが、そのなかで明らかになった城下町の空間構造とそ変容について報告する。

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